海洋冒険小説の家

海洋冒険小説の家

 (2)


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 陸揚げされた荷を南海屋の者たちが荷札を確かめ荷主へ荷を引き渡し、荷主の商人たちは荷札と荷をつきあわせて調べて、それぞれの納屋(倉庫)に荷を運び入れた。
 助左衛門は取引の立会い、納屋の借り入れ、いろいろな交渉に出て、てきぱきとまとめた。また、堺政所(さかいまんどころ)で、堺奉行の宮内卿法印(くないきょうほういん・松井友閑のこと)をたずね、土産物とともに航海の概略を文書で提出した。今回は黒旗の海賊衆との海戦もあり、詳しく書いた。今井宗久をはじめとする会合衆(えごうしゅう)、納屋衆(なやしゅう)など宿老たちへの挨拶、土産物の持参も欠かせなかった。友閑と宗久は留守だった。
 個人的に頼まれて購入したものもあり、たとえば魚屋(ととや)の千宗易(せんそうえき)、天王寺屋の津田宗及(つだそうぎゅう)たちには高麗の磁器・陶器に書画、書物などを頼まれていたので、購入してきたものを家まで運ばせた。友人宅の訪問での茶の湯のもてなしは、助左衛門にとってほっとする時間だった。
 また、この航海で亡くなった水夫や足軽兵士たちの遺族には遺品と手厚い見舞金が渡された。そして、それぞれの宗派にしたがって法要が営まれ、助左衛門は膨大な船の雑務をこなすため南海丸で寝泊りしていたのだった。
 荷揚げ終了後、南海丸を土佐・中村の下田港まで回航して、あちこち穴のあいた南海丸の修理、船底にびっしりついた貝殻を落としたり、塗装や艤装をしなければならない。南海丸には、次の航海で乗り組む予定の若干名の水夫が交代して乗り込んでいて、航海を終えた乗員は全員家に帰るか、堺で羽を伸ばすかしていた。見張りの足軽たちも新しく乗り込んだ者である。しかし、航海に出るときは七割位は、また前の連中が復帰してくる。稼ぎが他の船より良いのだ。一航海二十貫文(約二百万円)というのはかなり多い賃銭だし、手荷物として持ち込む葛篭(つづら)に入る範囲で商品も買ってこれる。それに、甲比丹の船はまず難破することがない、海賊衆と戦っても負けることがない、ということが船乗り仲間の間で大きな信頼を得ていた。

 船乗りの賃銭は、この時代、前払いが普通であった。運賃も借船料も前払いである。運賃は米に換算して、その三割相当が運賃だった。米千石を運べる船であれば、千石船と呼ばれ、運賃は三百石である。米一石(約百五十キロ)の相場は天正七年当時、五百文だから三百石であれば百五十貫文(約千五百万円)になる。だから、軽くかさばらないものほど安く、大きくかさのあるものは高くついた。木材など大きくかさばるものは高く、絹織物などの反物は安いことになる。水夫や船頭、足軽兵士の賃銭と食料は荷主が支払った。船の修理、武器、弾薬の補充は船主が持った。
 店(たな)における商売は助左衛門の堺での拠点、甲斐町にある南海屋の女主人(おんなあるじ)・瀧(たき)が取り仕切った。彼女は助左衛門の女房であり、また、資金を出している共同経営者でもあって、その猛烈な仕事ぶりはキャリアウーマンの魁(さきがけ)と言ってよく、助左衛門に勝るとも劣らなかった。毎日、南海屋に来る数十人の商人相手に、商品の見本や値段の書いてある帳簿を持って、納屋と店の間を何十回も往復し、粘り強く値段の交渉をして、商売を成功させていた。使用人たちはその迫力に押されるようによく働いた。
 南海屋の仕事は、商品の卸が主で、南海丸が運んできた商品を、ほぼ日本全国の商人にうりさばいた。小売の商売はお得意さんに限ってのみしただけで、店先に商品を並べることはしなかった。
                          (続く)


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