海洋冒険小説の家

海洋冒険小説の家

  (3)

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 助左衛門は庭の井戸端で歯を磨きながら、最近、堺に帰ってくると安堵感とともにある種の重苦しさを、いつも感じるのを思い出していた。今はもう、昔の本当に自由だった堺とは違うのだ。織田信長の支配下におかれている。それでも本願寺を包囲している信長軍の兵糧の荷揚げで堺はそれなりに活気はあった。毎日、かなりの数の舟に兵糧を積んで、川筋のあちこちにある信長の陣に届けている。また、九鬼水軍の根拠地にもなっていて、軍船が瀬戸内は播磨沖まで、紀州沖や土佐の沖まで遊弋(ゆうよく)して哨戒にあたり、帰港しては、水、食料や水夫、兵士を補充して、また出帆するという状況が続いている。堺の町には、堺政所の松井友閑とその配下の者がいるだけで、信長の兵はあまり見られなかった。けれど、奔放な自由は薄れてきていた。しかし、彼は今井宗久たちがどう言おうと、自分は自由に振舞おうと思っていた。堺は俺たちのすばらしい町、国なのだ。堺の町は過去五十年の間、六度の大火でそのたびに町並みが灰燼に帰した。しかし、いつも町衆の力で力強く復興してきた。だからこそ愛着心が強い。

 女主人・瀧のこと。助左衛門は長い航海の後、いつも、女房のようで、女房でないような、不安定な気分なのである。しかし、それは長い航海が引き起こすもので、なにかきっかけがあれば、また、元通りになることも分かっていた。昨日は七か月ぶりに二人で夕食をとったのだが、なんだかぎこちなくて、会話がはずまなかった。三十に近い歳なのに相変わらず美しく、大きな思慮深い眼、ふっくらとした頬が肌の白さの中で綺麗なピンク色をしていた。五尺四寸の体は女としては大きく、均整がとれて姿勢が良いのでなおさら背が高く見えた。
 夜、助左衛門が風呂に入っているとき、瀧が裸になって入ってきて一緒に湯につかった。そのふくよかな体を見、手で触れていっぺんに昨年の、出帆前の気分に戻って、その夜は愛しあったことなど、色々思い、思い出しながら、歯を磨いていると、河内の六兵衛が顔を洗いにやってきた。今は助左衛門の屋敷の一角に住んでいる。独身である。彼は助左衛門の無二の親友で、かつボディーガードなのだ。助左衛門たちのように大きな商いをする商人は、堺では雇い兵で店(たな)や蔵、屋敷、借りた納屋などを守っていた。助左衛門の屋敷では、足軽が二十人程が寝泊りしており、六兵衛はそのものたちの指揮もとっている。
 彼は助左衛門の顔を見、屈託のない顔で笑って言った。
 「なんや歯が黒いとおくげ(公家)さんのようやなァ」
 助左衛門は茄子(なす)の黒焼きの粉を歯につけて、黒文字の木の枝の先端を木槌でたたいてもろもろにした歯ブラシ(ふさようじ、房楊枝=片方が房になっており、もう一方は尖らせて爪楊枝になっている)で歯を磨いていたのだった。助左衛門は無視した。ここで自分も笑えば黒い汁が飛び散ってしまう。しかし、黒い歯の自分を想像すると、うっかり笑いそうになった。普通は歯を磨くときはなにも歯に付けないで磨くのだが、とにかく、茄子の黒焼きは歯のために良いのだし、房楊枝は楊(やなぎ)の枝より黒文字の枝の方を気に入っていて、十本ほど楊枝差しに放り込んでいた。なにしろ香りがよくて、磨いたあと気分が爽やかなのだ。しかし、黒文字の枝は楊の枝と比べて房が短く、歯ざわりはあまりよくない。六兵衛は楊の七寸ほどの奴を腰にさしていた。

 今日は打毬(だきゅう)の試合の前日でもある。南海丸が堺の港に着いたその日に明石屋の秀五郎や北野屋の阿智助、遊女屋の大二郎、油屋の仁助などが船に乗り込んできて、
 「ひっさしぶりやなあ、元気か。京の公家はんたち待ちかねとったでぇ。そや、打毬や打毬や毬杖(ぎっちょう)や。日ぃ勝手に決めてええやろ」
 というわけで、十一日になったわけである。秀五郎に手配や段取りをまかせると、あっという間に手際よくやってしまう才能があった。京の公家衆の信頼も厚い。まあ、それだけ公家衆に稼がせているわけではあるが。彼らは公家衆とともに南海丸に投資し、舶載された商品を堺の市場で売りさばき、儲けていた。公家衆の取り分は為替(かわし)にして、京に送られた。

 毬技場(きゅうぎじょう)は堺の町の南の濠の外側にあった。その毬技場は瀬戸内の港町のどこにでもあるものと同じように、観客席はゆるやかな傾斜の草地になっており、そこに座っておればフィールドのすべてが見渡せた。おそらくこの日は町衆たちが総出で見物に来るだろう。試合の段取りの仕上げは今日中にしておかねばならない。判者(はんじゃ、審判のこと)は三人、二人は公家の方から出し、一人は堺の町衆から出す。三人とも長老格の人たちで公正な判断の出来る信頼されている人たちである。
                       (続く)



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