海洋冒険小説の家

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(4)「うむ、この書物はニコライ・コぺル

     (4)

 「うむ、この書物はニコライ・コペルニチ(ニコラス・コペル二クス)の、うーむ、[回転と円の天文学の書六巻]と書いてあるな、エウロペの国によってラテン語の綴りがすこし違うのでな、すこし戸惑うが。天球や地球を意味する、<Mundi>(ムンディ)が入っていないのは少し変ではあるがの。全部で六巻あるようや。でかした。よくぞ手に入れてくれた」
 六兵衛が聞いた。
 「一体、これは何の書物です?」
 「うーむ、どう言えばわかるかな。そうや、これをみれば少しは分かりやすいやろ」
 向こうに置いてあった地球儀を持って来た。
 「これは見たことはあるわな。これはわしたち皆が住んでいる星なんや」
 「ええっ!、これ星なんですか?」
 次郎丸はつい叫んでしまった。
 「おう、威勢のいい声だな。若いの、名前は?」
 「明石屋の次郎丸です」
 「秀五郎殿の?」
 「ええ、そうです」
 助左衛門が答えた。
 「次郎丸、そうや、これは星なんや。エウロペでは地の球(たま)と言われておる。はっきり言えば、まあ地球やな。月も星や。お日さんもそうや。唐国では太陽とゆうておる。これも星や。宵の明星は星ゆうことは分かるな?」
 小見の公秀殿はみんなの顔を見渡して、
 「それでや、エウロペでは、昔から切支丹の教えでは、この地球の回りを太陽や、しん星(注1)、たいはく星(注2)、そしてけいこく星(ちゅう3)、さい星(注4)、ちん星(注5)が回っていると言ってきた。ところが、これらの星を観察していて、疑問が湧いて来た。本来、運動というものは円、まるのことや、この円を描くものやということが、すこしづつ分かってきてたのじゃが、ところが、たとえば、けいこく星を観察していると、変な運動をすることが分かった。それはある所から東向きに進んでlたのが、西向きに方向を変えるのじゃ。後戻りするのじゃ。それはなぜか。誰も分からんかった。
 このことを、発見したのは何もエウロペのもんだけやない。わが日本でも、今より四百年も前、永万(えいまん)二年五月(ユリウス暦1166年6月)以降二か月にわたって、けいこく星が失行(しっこう)した、即ち、逆行して光度を増したと観測記録を残したものがおる。その人こそ、安倍晴明(あべのせいめい)の子孫で後に陰陽頭(うらのかみ)・天文博士になった安倍泰親(あべのやすちか)殿じゃ。それで、エウロペでは、そういう運動をする星をさまよう星、惑う星と呼んだ。
 六兵衛殿はけいこく星についてなにかご存知か?」
 六兵衛は少し考えて、
 「けいこく出ズ、則(すなわち)兵有リ、けいこく入ル、則兵散ル、といって、けいこく星は古来、兵乱の兆しを示す星と言われてきたことは知っております」
 「そう、その通り。安倍泰親殿が参考にしたであろう<天文要録>には、[けいこく往クトコロ兵乱アリ]とあるので、上にはそのように奏上したやろな。まあ、それは迷信ではあるが。ただ、その時代は、かの平清盛公の力が大きくなり、翌年、即ち、仁安二年、これは永万二年八月に改元されて仁安元年になったのでな、その二年に、清盛公が太政大臣になった時であるから、あちこちで、兵乱があったであろうとは思う。
 それで、このけいこく星は星の色が赤いので火の神だとか、エウロペでは戦の神だとか言われてきた。それはともかくとして、これらの惑う星の謎を解き明かしたのが、偉大なる天文博士のコペルニチなんや。
 その、面倒な証明の計算や表がこの本にのっている。しかし、残念なことに、切支丹の旧教の方の羅馬(ローマ)の本山も、新教のルーテル派も、ともにコペルニチの学説を非難しておることじゃ。ただ、コペルニチの学説が、切支丹の神の天地を創造したと言われる世界の範囲で収まっておれば、まだ無事ではあろうが、この宇宙が、無限に広がるものであると誰かが言い、それが切支丹の神の手に余るものである、と連中が気付いたとき、危機が訪れるだろうな。そして、その書物を禁じてしまうじゃろ。切支丹の教えに反すると言ってな。宗教が政治(まつりごと)に口を出したり、学問に口を出せば、ろくなことはない」(注6)
                   (続く)

[注1=辰星(水星)、注2=太白星(金星)、注3=けい惑星(火星)、注4=歳星(木星)、注5=鎮星(土星)、注6=これより13年後、ローマで哲学者ジョルダノ・ブルノが、コペル二クスの地動説を発展させた「無限の宇宙と諸世界について」を発表したため逮捕され、異端として宗教裁判にかけられる。有罪判決を受け、8年後のグレゴリオ暦1600年2月17日に火刑に処せられた。このあと、1616年、ガリレオ・ガリレイの太陽の黒点観測の内容をめぐって論争が起き、月や惑星に人が住めるかどうかの、論争に発展して、その結果、このような論争を引き起こしたのは「コペル二クス的見解の当然の帰結」だとして、コペル二クスの著作は「訂正されるまでは禁止する」という法令が発布され、禁書となった。コペル二クスの死後73年後のことである。]



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