バンコクへの道


オヤジはなぜタイでひとり暮らししてるのか




大学を卒業してから、ずっと同じ会社に勤めてました。オートメーションの設備を作ってる、業界では中堅クラスの会社です。そこで二十年以上もメカの設計をしてました。まあ、長く勤めていたせいか、気がつけば部門の責任者になっていて、二十人ぐらいの部下がいました。若いころは人並み以上に苦労したと思ってますけど、三十代半ばでマイホームも持ち、車も新車に買い換えたりして、そこそこ順調だと思ってました。そのまま定年を迎えたら、まあ幸せな人生といえるんでしょうね。でも何か心の中に物足りなさも感じていたんです。

高度成長期やバブルの時代には、順調な設備投資にささえられて、設備関係の会社は華やかでした。しかしバブル崩壊による不況が長引き、製造業の空洞化が顕著になるにつれ、会社の業績は坂道を転げるごとく悪くなっていきました。それでも経営者が信じられないほど無能だったので、対応策も何もあったもんじゃなく、ただリストラを繰り返すだけでした。このままでは会社がだめになるというのは、誰の目にも明らかだったんです。そして2001年の秋には、とうとう何も仕事がなくなり、銀行から借金して社員の給料を払うようになってしまいました。

自分では今までの半分のコストで作れる製品を設計したり、いろいろと模索しましたが、注文がなければ意味がありません。会社が完全にダメになる前に別の就職先を見つけたほうがいいのは明らかでしたが、同業で景気の良い話は聞かれませんでした。

会社にはシンガポールに駐在員事務所(現地法人)がありました。そこには消去法で選ばれた駐在員のN氏がいました。シンガポール事務所は全く売り上げがない状態が2年間も続いたため、N氏は日本に戻され、事務所自体も半年後に閉鎖となりました。そのN氏がシンガポール駐在時代に度々タイを訪れ、ある会社から日本人技術者を探して欲しいと頼まれていたのです。N氏は帰国してすぐに、会社には彼にできる仕事がない(何もできない)ため、別の会社に出向となりましたが、そのタイの会社とは連絡を続けていました。そしてN氏からタイに行ってみないかと誘われたのです。

タイ。出張で十回近く訪れたことがありました。一ヶ月ほど滞在したこともあり、どんな国かは有る程度はわかってました。熱帯の気候、スパイシーな料理、信心深く、笑顔を絶やさない人々の国。自分が訪れたことのある十ヶ国ぐらいのなかで、日本の次に好きな国でした。そこで働くことは、決してイヤではありませんでした。しかし自分には家族もいますし、住宅ローンもタップリと残っています。現実問題として、タイのレベルの給料では生活できないと思いました。ところが相手の会社に自分の希望する金額を伝えても、それで断りの連絡が来ることはありませんでした。一度タイを訪れて、話し合ってみようと決心しました。

2002年の3月、すでに会社を辞めていたN氏と、プーケットを経由するバンコク行きのTGに乗りました。会社には嘘をついて連続有給を貰いましたが、それは入社して初めてでした。仕事も無いので簡単に貰えました。そして、いま勤めている会社の社長と会ったのです。

社長はまだ三十代の中華系タイ人です。日本のある大学に留学していたということで、流暢な日本語を話しますし、物の考え方も日本人に近いように思いました。そして現在進行中のプロジェクトの内容に対して意見を聞かれました。試験というほどでもなかったと思いますが、それである程度、能力を測られたのだと思います。

そして社長は、希望するだけの給料と、バンコクで生活して働くために必要なもの全てを用意すると約束しました。住居・車・携帯電話…あなたは体ひとつで来てくれればいいと。帰り際、握手の力がとても強かったのを覚えています。条件は十分でした。あとは自分が跳べるかどうか。

訪れてから三週間後、社長に電子メールを送りました。いろんな問題は残っていますが決心しました。タイとあなたの会社に魅力を感じます。あなたの会社で働かせてください、と。

結局のところ、親兄弟や家族にもロクに相談もしませんでした。でもみんな理解してくれました。日本では働く場がなく、タイに自分を必要とする会社があるのです。これは行くしかありません。タイでひとり暮らしするのに、少しは憧れもありましたから。

友人たちは壮行会を開いてくれました。そしていつかきっと、バンコクで飲み会をやろうと約束しました。

2002年6月のある日、初夏の仙台空港でインチョン乗換えバンコク行きアシアナ機に搭乗しました。そしてドンムアン空港に到着したときから、「オヤジひとり暮らし~バンコク編~」が始まったのです。


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