明日に架ける橋 Bridge Over Troubled Water    ケン高倉☆彡

明日に架ける橋 Bridge Over Troubled Water ケン高倉☆彡

十一章


わたしは、満二歳の時まで、風邪ひとつ引かない健康優良児だったそうです。
でも、ある日、突然、風邪を引き、高熱四十度の熱が三日間続いたそうです、その熱のビールスが脊髄を通り右頭部に入ってしまいました。始め、熱がひどいので、町医者に連れて行ったなら、ただの風邪だと言われ薬を貰ったけど、三日目になっても熱が下がらず、ひきつけを起こし日立で一番名医が揃った日製病院(日立製作所病院)へ行ったなら、四十度の熱で熱のウイルスが脊髄の水(髄液)をぼろぼろにしてしまったのです。その時、両親は寝ずの看病をしてくれました。その時の思いは大変なものだったでしょう。
病院で、「髄液を取り換えないとこのままでは死んでしまう。」と言われ、身体の髄液を全部採ってしまい、一度仮死状態にし、新しい髄液を入れ換え生き返りました。その時、一度わたしは、死を経験している事になります。医学と言うのはすごいモノです。
でも、その頃、テンカンと言う病気はまだ知られて無く、「この病気は移る病気だ。」と言われ、隔離病棟に入れられた事もありました。
そして、病院の先生に言われた事は、「この子は後、二十歳までの命です。」そんな事を言われた父は、諦め切れず、いい病院があると聞いては、わたしを連れて行きました。でも、どこの病院に行っても同じ検査のやり直しでした。
そして、思春期と言うのは、考えなくてもいい事を考えてしまいます。わたしは、小学校の頃からあまりに多くの病院を廻り、中学生の頃で、12箇所は病院を変えました。親に負担をかけている事やいじめに会った事、将来の事、を考えすぎて不安になり、自殺未遂を3回しました。「自分が好きで病気になったのではじゃない。親だって好きで病気にさせた訳ではない」と言う事を子供ながらに解っていたのにもかかわらず、中学の時にすごい反抗期を迎えました。今まで口に出せなかった事を爆発したように 親に対して暴言を吐き、女なのに父親との取っ組み合いのけんかをし、昭和45年には、今で言う、家庭内暴力をしていました。
その中学の時に、友部の病院でもう一度精密検査をし、死ぬ病気ではないことが解りました。でも、病名が解らずその頃、かかっていた水戸の病院に週一度、東京の大学病院から先生が来ていました。その先生に、病名をつけて貰った事がありましたその病名は「瞬間間接麻痺症(しゅんかんかんせつまひしょう)」なんと長い病名なのでしょう。ただのテンカン病だと言うのに・・
それでも、13年間かかってやっと自分の病名が解ったのです。
わたしは、ただのテンカンを持っていると言うだけで、子供の頃から随分差別されながら生きてきました。
小学生の頃は、「移る病気」と言われ、わたしを相手にしてくれるのは、男友達が多く、男の子と言うのは、そういう事に無頓着なのか発作なんか気にしないで遊んでくれたのです。
その頃の女の子の親は、テンカンと言う病気を知らない人が多かった為、「移るから遊んじゃいけない。気持ち悪い病気なんだから」と差別され、わたしが、一度でも発作を起こしたものなら女の子達は、気持ち悪がって遊んではくれませんでした。
それが、原因でしたが、自分が病気を持っていてみんなにいじめられている事を親にも言えず、とても悩み、十円はげができ、毎日、はげてしまったところ(20箇所)に注射を打ちに行って居たことも有りました。わたしは、子供の頃から注射などする時、泣きそうになると『こんなことで泣いたら親に迷惑をかける』『親が悲しむのは見たくない』『発作が出ると親は悲しむ心配させちゃダメ』だから、発作が出ても親にはいつも『発作出てないよ』と嘘をついていました。そう言う風に強がって居れば親は喜ぶんだなどと思っていました。
ですから今でも、その癖が直らず元気じゃなくても元気なフリをする・・・
そんな癖がついてしまったのです。皆を悲しませたくない・心配させたくない・・・
でも、そこから学んだ事は、「元気な人には人はついてくるけど暗いと人はついてこない」と言う事を学べました。
ですから、子供の頃の遊びと言ったら、木登り、めんこ、自転車などで、みんなの前では、昔で言うガキ大将と呼ばれていました。
でも、一歩家に帰ると自分と同じ背の高さの人形と遊ぶと言う、子供の頃からみんなの前では、粋がる自分と、何故なのかとても、シャイな自分と使い分けていたので、今もそのクセが直りません。人の前では、粋がって、家に帰ると大人ばかりに囲まれていたので甘えん坊に変わっていたのです。

そんなガキ大将で居た頃の事です。
ブレーキの利かない自転車に乗り、神社で遊んでいた時、崖から落ちたのは・・・
もう時効ですので話しますが、自転車のブレーキが利かず、気が付くと車のボンネットの上で失神していたこともありました。ボンネットが引っ込んでいるのを見て、慌てて壊れた自転車をひきずりながら帰ってきた事を覚えています。そんな事があったのに良く生きていたと思います。

それと、家が、映画館だったので、映画館の入り口のところに屋根を支えている鉄の柱がありました。わたしは、男の子達と木登りをしてたので、その鉄の柱を登ったりもしました。みんなが危ないと言うのにも聞かず、それで、股が擦り切れるまで登るのです。
また、映画館のキップを買う処に鉄棒がありました。そこで、逆上がりをしたりして遊んでいたのですが、キップを買う処がちょっと出窓になっているので、大人たちは、危ないと言いましたが、人の言う事を聴かないわたしは、上手く廻る事ができる時はいいのですが、失敗した時と言うのは、その石でできた出窓に頭をぶつけ、大人たちに心配をかけてしまう。それでも、鉄棒を登ったり、逆上がりをしたりするのです。人並みはずれたおてんばでした。

幼稚園に上がる前、人が乗っているブランコに頭をぶつけて、七針縫ったことも有りました。

こんな子ですので、祖父もわたしのことを見て見ぬ不利はしていましたが、孫の中で内孫と言う事もあり、とても心配し、病院と言う病院に連れて行くよう父に言ったのです。
ですから、わたしは、家族には、感謝しきれないほど感謝しています。

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