July 24, 2005
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おちょぼ稲荷さん に行ってきた際、
その後おちょぼ稲荷さんより
南に15kmほど行ったところにある
木曽三川公園のすぐ南にある
治水神社 に行ってきました。


私たちが住む濃尾平野は、
木曽川・長良川・揖斐川という
3つの大きな川の恩恵を
昔からたくさん受けてきました。


しかしこの3つの大河は、
その昔は川筋が入り乱れ、たびたび
大洪水を起こしては、人々の生命や
家・田畑をうばい去っていき、
恵みだけでなく苦しみも与えてきました。


今から約250年前、徳川幕府は
この濃尾の地よりはるか遠い
薩摩藩(鹿児島県)に、治水を命じました。
当時は幕府の命令は絶対で、そのあまりに
理不尽な命令に憤慨して、工事前より
切腹して果てた武士も多数いました。


しかし家老の 平田靱負 ( ひらた ゆきえ )
「民のために」とあえてこの
難事業を引き受けました。


ただでさえ薩摩藩は財政難なのに、
大金を貸してくれるところはない。
家老の平田が商人に頭を下げて下げて、
やっとのことで資金を確保する。


いざ工事が始まっても、幕府の役人の
圧力(嫌がらせ)で何度も工事の
やり直しを命ぜらる、
食事や住まいの冷遇で、
30名以上の病死者を出す、
治水専門の職人を雇うことさえ許されない、
やっとできかけた堤防も、夏の大雨や
台風でまた壊れてしまう。


>※もっと詳しく見るならば:中務大輔豊久様HP


宝暦治水と薩摩義士伝・その壱


宝暦治水と薩摩義士伝・その弐


私たちが住まうこの濃尾の地を、
今のような重機も工具もまだない時代に、
遠く離れた薩摩の武士たちが、
まさに命がけで整備してくれた。


いつか参拝して、義士たちの 御霊 ( みたま )
お礼を言わなければと強く願っていた
治水神社に、やっと行くことができました。
(この話を知らなかった夫は、神社で歴史を知って
いたく感動してました。)





○に十字の薩摩の家紋がいたるところにあります。




重労働に耐える人々の像




宝暦治水の犠牲者の御名です。




竹を編んだ籠に石を入れて川に沈め、
川筋を整えていきました。





宝暦の薩摩義士の皆様方、
命を賭けたあなた方の偉業を、
時代を越えてお礼申し上げます。
本当にありがとうございました。


この宝暦治水のことを、私たちは
ずっと後世に伝えていきますね。
治水完成の後、記念というより
堤防を固めるために植えられた
千本松原も、樹齢200年を越えて
今も青々と茂ってますよ。
(車中からで写真が撮れず。残念!)






治水神社の主?、チャボ殿。




感動~宝暦治水











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Last updated  July 25, 2005 11:07:42 AM
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