October 22, 2006
XML






親鸞35歳のとき。人生がいちばん充実
していた時期であろうこの年に、思いがけ
ない受難が待ってました。 『承元の法難』
(これが前半のクライマックスよ。で、まずは事件の背景を。)





往生できるという教えを説く法然のもとには
庶民も貴族も、そして武士もおしかけました。



ちなみに、源平合戦の大きな戦いであった
一の谷の戦い(1184)で、源氏方の武将・熊谷
直実が若武者・平敦盛を討ち取ったとき。


いくら世の習いとはいえ、まだ幼顔の残る
息子のような歳の平敦盛を討ってしまった。
そのとき、熊谷直実はそれまでの人生を振り
返り、やり場のない気持ちとなった。戦の後
京都の法然のもとへ。法然の言葉に救われた
熊谷直実は、その後念仏の生涯を送った、と。



しかし法然の教えの人気は、興福寺はじめと
する他宗派からは、危機感とともに妬まれる
ものでもありました。興福寺をはじめとする
旧仏教系の僧侶たちは、後鳥羽上皇に対して
ことあるごとに法然や親鸞たちの活動を批判
し、法然一門の撲滅を訴えてました。しかし
後鳥羽上皇は、この頃はまだ旧仏教系の言い
分を抑えて、法然たちの活動を容認してました。


(上記の文は「知ってるつもり」~『親鸞』 参照)





その頃、法然の弟子たちが鹿ケ谷の草庵で、
御仏の功徳を人々に説いていました。彼らの
声は先を急ぐ人も思わず足を止め、聞き入っ
てしまうほどでありました。そこを通りかか
った院御所の女房で、後鳥羽上皇の寵愛が
深い鈴虫と松虫も深い感動をおぼえました。




『鹿ヶ谷鈴虫松虫の剃髪得度』
訪問する鈴虫さんと松虫さん。



後鳥羽上皇が留守のある夜、鈴虫と松虫が
こっそり御所を抜け出して鹿ヶ谷の草庵へ。
話を聞いて感銘を受けた二人は、そのまま
一夜を明かし、髪をおろして出家しました。




念願かなって出家でき、嬉しそうな鈴虫さんと松虫さん。

爆発になり、この後とんでもない大事件になるのよ。。







(明日の日記に続きます)









お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  October 23, 2006 01:36:36 PM
[歴史・旅行 (*゜ー゜*)ノ] カテゴリの最新記事


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

PR

Calendar

Profile

☆えみりー☆

☆えみりー☆

Keyword Search

▼キーワード検索


© Rakuten Group, Inc.
X
Mobilize your Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: