piled timber

カオル



 カオルはバイトで中に入らない時は、お客として来ていたから週に一度しか通わぬ僕でも、何となく話を交わす様になっていた。もっとも、古くからの常連達とも通う年月を重ねる事によって、話を交わせる様になっていた。

 初めてその店の扉を開いたのは、今からもう十年以上も前になる。日曜にバーに出かける時間にはいつも働いていた僕は、その店で気楽に客同士の会話が出来る様になるまでは、二三年はかかったと思う。日曜の夜は文庫本を抱えてバーの扉を開き、酒を飲みながら薄暗いカウンターで酒を飲んでいた、時折僕に話しかけるのは、カウンターの中の娘か、カウンターの隅を定席とするママのどちらかでしか無かった。今でも文庫本を片手にバーには行くが本を読む機会は減ってきてしまっている。

 今にして思えば、当時カオルは学生だったのだろう。しかし僕は彼女が何を学んでいるかとか、全く興味が無かった。というよりも、水商売の世界に入りきってしまい、彼女の明るさが眩しかったのだろう。明るく、人懐っこい性格の彼女を好ましいとは感じていても、声をかけるには自分が汚れていると感じていたのかも知れない。

 一年後、バイトの娘達の中にカオルは居なくなっていた。
 それでも、時折お客として来て偶然店で会うことはあった。

 初めて会ってから、五年後位だろうか、彼女が病院で働いてると偶然会った時に彼女の口から聞いた。そしてその時彼女の名前も初めて聞いた。
「ところでさ、名前なんて言ったっけ?」
「ひどい、もう会ってから何年も経っているのに、名前も覚えていないの?」
「名前を知らなくたって、話も出来るし、酒の注文にも困んなかったよ」
「じゃあ、今度は覚えていてね。私の名前は カ・オ・ルっていうのよ」
そう言いながら彼女はちょっと怒ったように頬を膨らませていた。

 何年経っても、その店の中で以外にカオルと一緒に酒を飲むことは無かった。それが良かったのかも知れない。僕は彼女に好感は持ちはするけれど、彼女を口説く事は無かった。だから彼女に振られる事も無い代わり、バーで会えば楽しく酒を飲むことが出来た。

 ただ、一度だけカオルと一緒に外で飲む機会があった。ちょっと酔ったカオルが珍しく僕を誘ったのだ。「北君、一緒に飲み行こう」好感を持つ女に誘われて、断る男はまず居ない。
「良いよ」そそくさと返事をして連れだって他の店へと行った。
  着いたところは、行きつけの店よりひとまわりは大きな店だった。カオルに誘われた事で浮かれた僕は、彼女を口説いていた。

 酒好きの看護婦、そう思っていた。 病院で働いていると聞けば、看護婦だと思っていた。労働時間が厳しい、給料が安いと聞けば看護婦だと思っいた。今日病院に行くまでは。

 昨晩、飲み疲れている体にむち打って、バーに出かけた。わざわざ清里まで電話をかけてよこした常連客との約束があったからだ。清里でバーベキューを楽しんでいる最中に電話が鳴った。
「おーい、北。今何処に居るんだ。今から新宿出てこないか?」
「今から新宿って行ったって着くのは十時過ぎちゃうよ」
「おまえ、今何処に居るんだ」
「清里だから明日の晩なら行くよ」
「判った。明日の晩な」
「じゃあ」
そんな会話が交わされた。

 そして、バーの扉を開くとカオルがカウンターの中に立っていた。
「久しぶり」
「本当にたまにしか会わないよね」
「ところで今日はどうしたの?」
「ママが体調悪そうだから、私が入ったの」
「ふーん」カウンターの指定席でママがちょっと辛そうな顔をしていた。
「丁度良かった。聞きたい事があったんだ」
「何?」
「最近太ったからかな、しこりの様なものが出来ちゃって」
「どこどこ?」僕は顔を指さし、顎の部分を彼女に向けた。
「これなら、切っちゃった方が良いよ」何の躊躇も無くカオルは僕の顎を触っ
て断言した。
「保険が効かないんじゃ高くつくだろ」
「大丈夫、これなら保険が利くから」
「顎の脂肪が取れたら痩せて見えるかな」
「顎の脂肪が取れたら、私の胸に頂戴ね。このままじゃ用を足さないから」
「子供が出来たら、腫れるだろ」
「作りたいんだけど、まだね・・・」
「でも脂肪がちょっと抜けたって痩せてなんか見えないよ。そんなんでそう見えるんなら、私なんかとっくにやってるわよ!。けど、取って欲しいんなら取ってあげるよ」彼女は笑っていた。翌日、病院へ行く約束をした後は、電話の主と一緒に飲んでいた。最初は空きが目立った店内も僕が店を後にする頃には一杯になっていた。

 翌朝、満員電車に乗り込みお茶の水まで出かけた。目指す病院は大きすぎて、カオルに書いて貰ったメモを見ながら行ったのだが、守衛の人に案内して貰った。
 初診の受付で、誰に紹介して貰ったか?と聞かれ、看護婦のカオルさんに聞いて来た。といっても埒があかないため「普通の外来扱いで良いです」とちょっぴり苛立ってしまったけれども、結局は病院にくるきっかけが出来たので、彼女に対して怒りも覚えなかった。

 長い待ち時間の後、僕の診察の順番がまわって来た。診察自体は、触診、患部の撮影でものの五分もしないで済んだ。その途中で、誰の紹介で来たとかの話になった。
「オペ室に勤務している、カオルさんに相談したら切った方が良いと言われたんで来たんですけど・・」診察した医師が怪訝そうな顔をしながら、どこかに電話を入れていた。
「伊藤先生は?。今先生のお友達という方が見えてますが・・・」
 先生?、看護婦じゃなくて先生?だったなんて・・・・。
 結局、手術の日程も診察した医師と電話の向こうのカオルとで決めていた。その後、採血と問診を看護婦に受けたのだけれど、看護婦か医者かの判断に困った僕は看護婦に尋ねてみた。
「伊藤さんって先生なの?僕はてっきり看護婦さんだと思ってたのに」
「先生」ですよ。看護婦さんは笑っていた。

 あのカオルが看護婦じゃなくて、医者だったなんて。明るくて、人懐っこく、それで居てちょっとトロイカオルが医者だったなんて・・・。
 確かに、驚きはしたものの何か新しい発見をしたようで嬉しい気分だった。今度会う時は、カオルはどんな一面を見せて呉れるのだろう?。

 そうか、カオルはお医者さんだったんだ。


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