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写真をたくさん載せられるようになったのですね。知らなかった。せっかくなので巡礼の写真を少し追加します。▼巡礼路の標識集▼巡礼宿▼沿道の風景(2004年の巡礼から)
2006年01月15日
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日付け順に書いてきた「巡礼日記」は前回でおしまいです。それとは別に、サンチャゴ巡礼についての感想をまとめてみました。●歩くことのすばらしさを実感する身体が慣れないうちはたいへんですが、そのうち一日30kmでも40kmでも歩けるようになってびっくりします。身体からぜい肉がそぎ落とされ、五感は敏感になり、身体の調子がよくなっていきます。●北スペインの美しい自然にひたることができる歩く道はその多くが歩行者の専用道。土の道は歩きやすく、野を越え山を越え、田園風景を楽しみながらの歩行はあきません。●ヨーロッパを中心とする各国からの巡礼者と知り合える老若男女の巡礼者と語り合うことはなににもまして楽しい経験です。「なぜカミーノを歩くのか?」と人に問い、問われることは、「わたしの人生でたいせつなことはなにか?」と自問することにつながりました。●自分を見つめ直すことができる歩いているといろいろなことが頭に浮かびます。これまでのこと、これからのこと。頭がからっぽになり、どうでもいい余計なことが身体のぜい肉同様、そぎ落とされていくような気がします。●感謝の念がわく宿を提供してくれる人、食べ物を用意してくれる人、その他なにかと助けてくれる人。なにかと不便なことの多い巡礼だからこそ、人の親切が身にしみます。●すべてを自分で決める快感を味わうきょうどこまで歩けばいいか、人に指示されたり命令されたりすることはありません。どこで食事にするか、何時に出発するか。すべてそう。みんな自分で決めなければいけません。決められたルールは「巡礼宿に連泊はできない」ということぐらいでしょうか。これまでプライベートと仕事で計30回以上、のべ4~5年くらい海外旅行の経験があります。そのなかでサンチャゴ巡礼はまちがいなく「最も意義深く、楽しかった旅」になりました。
2004年11月07日
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■第13日 サンチャゴ・デ・コンポステーラ(つづき) 10月9日きのうはパラパラという程度だった雨が夜半から本降りになる。風も出てきたようだ。スペインで初めて「ひとりで目ざめる朝」を迎えた。もう暗いうちから出かけることもない。その事実にうれしさよりも寂しさを感じる。8時。外へ出ようと思ったが雨が断続的に降り続いている。しばらく待ってもやむ気配はない。レインコートを着て9時に大聖堂へ行く。聖ヤコブの誕生日が日曜と重なる聖年しか開かない「免罪の門」。きのうは長い列ができていたのにこの時間はガラガラだ。どしゃ降りの雨になり、大聖堂から出られなくなってしまった。そうこうするうちにミサが始まる。きのう見たものとは違い、白い聖衣を着た人たちが12人出てくる大がかりな儀式だった。聖職者が語ることばはまったく理解できない。しかし参加者も加わったハレルヤの合唱には魂を揺さぶられた。なぜか涙が出てくる…。儀式の終わり近く、ミサに出ていた会衆が近くの人と握手をする。わたしも求められるまま、近くの人たちと握手をした。どの人もギュッと握ってくれる。微笑みかけてくれる人もいる。そのとき、心と心が触れ合ったような気がした。11時にミサが終わったとき、広い大聖堂は人、人、人…。びっしりと人で埋まっている。外へ出る通路はラッシュなみの混雑だった。その後も雨は小降りになったりどしゃ降りになったりをくり返した。風も強く、カサを吹き飛ばされる人が続出している。「免罪の門」に並んでいる人たちの行列からは突風が吹くたびに「キャーーー」という悲鳴が上がる。わたしは翌日のサンチャゴ発マドリード行き飛行機のチケットを買ってあった。しかしこの天気に飛行機が欠航しないか心配になり、きょうの夜行列車で出発することにした。夕方、雨のなかを駅まで行き、チケットを購入する。駅から大聖堂へ向かう道でわたしの名前を呼ぶ人がいる。ブラジル人のアリさんだ!きのうモンテ・ド・ゴソで「サンチャゴで会いましょう!」と別れたきりだった。「フィニステレへ行ったんじゃなかったんですか?」「この天気だからやめたよ」「今晩の列車でマドリードに発ちます。きょうが最後の日です」「あいにくの天気だったね。君と会えてよかったよ」「わたしもです」「アリガト、サヨナラ!」アリさんはわたしを抱き寄せ、ハグした。これで本当にお別れだ。夕方のミサにも出た。それが終わった19時になっても雨は降りやまない。列車が出るのは夜の10時過ぎ。そろそろ宿に帰って荷物をまとめなければ。宿の手前まで来たところですれ違った人に呼び止められた。「やあ! サモスで会っただろう?」サモスの僧院で出会ったカップルの巡礼者だった。そのあとも何回か会っている。いまフィニステレから帰ってきたところだという。「天気がよくなかったでしょう?」「サンチャゴよりもっとひどかったよ。雨と風が強くてまともに歩けなかった」そのときわたしのカメラにはフィルムが2枚だけ残っていた。それを思い出し、「写真を撮らせてもらえませんか? 日本に帰ったら送ります」とお願いする。「いいとも!」その2人、ヘルガとデビッドは雨のなかですばらしい笑顔を見せてくれた。ヘルガさんがいう。「この次はいつヨーロッパに来るの?イタリア?わたしたちが住んでいるところから遠くないわ。ヨーロッパに来たらうちに寄って。そしたらお互いにもっと知り合えるでしょう?」たとえ社交辞令だとしてもうれしかった。それもわたしたちがともにサンチャゴをめざして歩いてきた巡礼者同士だからだろう。何度も顔を合わせていたとはいえ、きょうまでお互いに名前も国籍も知らなかったのだ。国籍も、宗教も関係なかった。ただ同じ道を歩いているというだけで、巡礼者にはそこはかとない連帯感が生まれる。人の歩くペースはそう変わらない。だから一度出会うと同じ人にくり返し出会うことになる。それを象徴するような出会いだったと思う。きょうに限っていえば、聖堂を出るのが5分早くても、あるいは5分遅くても、彼らと出会うことはなかっただろう。そこに不思議な縁を感じる。写真を撮ったあと、これからきょうの宿を探すという2人を雨のなかで見送った。3時間後、マドリード行きの列車がサンチャゴ駅を出て行く。激しい雨はまだやまない。ゴーゴーという風のうなり。激しい雨音が駅舎内に響く。さよなら、サンチャゴ・デ・コンポステーラ。雨のサンチャゴ。きっとまた来ます。■帰国してから彼らが住むドイツに写真を送った。妻のヘルガはオーストリア人、夫のデビッドはフランス人だ。数日前、ヘルガさんから返事が届いた。その一部を紹介したい。「人生はとても簡単。幸せになるのに、あなたはそんなに多くのものを必要としないから。そして人生は、存在するもののなかで最も偉大な贈り物。わたしたちがカミーノで学んだ最も重要なこと。それは、ものの見方を変えれば世界はちがって見えるということ。あなたが見方を変えれば、世界も変わる。住所を交換できてよかったわ。あなたが来たいときに、うちへいつ来てもいいのよ。ブエン・カミーノ!(よい巡礼を)わたしたちの人生すべてが巡礼なんだから」 ▲最後の写真。雨のサンチャゴで。
2004年11月02日
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■第12日 サンチャゴ・デ・コンポステーラ(つづき) 10月8日もう道を指し示してくれる黄色い矢印はない。「さあ、これからどうしよう…」巡礼証明書を手にしたあと、しばらく大聖堂のわきに腰かけてボーッとしていた。これまでは「サンチャゴまで歩く」という明確な目標があった。それを達成したあとの空虚感のようなものを感じる。サンチャゴにも巡礼宿がある。しかし町の中心からは少し遠い。時間があまりないわたしは旧市街で安い宿を探すつもりでいた。さて、それもどうするか…。「どこからいらっしゃったんですか?」ボーッとしているわたしに声をかけてきた人がいる。日本人の女性旅行者だった。きょうの午後、列車でサンチャゴを発つという。それまで町をブラブラしているらしい。お互いのことをいろいろ話すうちに、彼女は荷物を宿に預けていることがわかった。「宿を探しているのならそこに泊まったらどうですか?」「そうですね、荷物をとりに行くときついていっていいですか?」「どうぞどうぞ」――というわけで、その人と会って30分後にはサンチャゴの宿が決まってしまった。大聖堂から歩いて3分とかからないところの民宿だ。その日本人女性の乗る列車の出発時間が迫っている。お礼もかねて駅まで見送りに行く。サンチャゴはまだ大聖堂と巡礼事務所しか知らない。駅まで見送りに行って、ちゃんと宿に帰ってこれるかどうか心配でしかたなかった。19時、大聖堂の前で村上くんと落ち合う。彼が巡礼中に知り合ったフランスとスイスの巡礼者と一緒に最後の晩餐へ。「ぜいたくしよう」ということで定食ではなく食べたい料理をアラカルトで注文した。カフェでコーヒーを飲み、宿に帰ったのは深夜11時半。ときどき叩きつけるような雨が降る。なかなか寝つけなかったのはコーヒーのせいだろうか。それとも歩き終えたという感傷のせいだろうか。この日に書いた絵はがきの文面から。「けさサンチャゴ・デ・コンポステーラに到着しました。ひたすら歩く日々が終わり、『あしたからなにをしたらいいのだろう?』と途方にくれています。今年もたくさんの人と出会いました。サンチャゴに着いたあと、大聖堂や街の通りで見知った顔を見かけると、巡礼の終わりをお互いに祝福しあいました。さまざまな人たちとの友愛に満ちた交流は、温かな思い出となっていつまでも胸に残ることでしょう。出会ってはしばしともに過ごし、やがては別れていく。巡礼はまさに人生の縮図といえるかもしれません。またいつか、この道を歩きます」 ▲巡礼証明書を発行してくれる巡礼事務所。 ▲サンチャゴの宿となった屋根裏部屋。シャワー・トイレは共同で1泊20ユーロ(2800円)。
2004年11月01日
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■第12日 モンテ・ド・ゴソ~サンチャゴ・デ・コンポステーラ 4km 10月8日モンテ・ド・ゴソからサンチャゴまではたった4kmしかない。最後の日は明るくなってからひとりで歩く。ゆっくりと、大地を踏みしめて。丘を下るとすぐに市街地が始まる。心なしウキウキしてきた。路地の向こうに大聖堂がのぞいた。「見えた!」とうとう着いたのだ。サンチャゴ・デ・コンポステーラに!旧市街に入ると建物にさえぎられて大聖堂は見えなくなってしまう。標識をたどっていくと知らない間に大聖堂の前に出ていた。ザックを背負ったまま大聖堂に入っていく。ミサの最中だった。感動?よろこび?大聖堂に入ったとき、特別な感情はわかなかった。「これが大聖堂?本当に着いたのかな?ここでいいのかな?」サン・ジャン・ピエ・ド・ポーから歩いてきた800kmの道がここで終わった、という実感はなかった。聖堂のなかをウロウロしている間にミサが終了した。パイプオルガンの音が鳴り響く。「栄光の門」にあるサンチャゴ像に到着を報告し、祈りを捧げるための行列に加わった。大聖堂を出たところで村上くんに再会する。巡礼事務所の場所を教わった。1階でスペイン人のカップルと出会う。セブレイロからほとんど毎日、どこかで顔を合わせていた2人だ。「着いたのね!おめでとう!」「上で少し待つと証明書をもらえる。簡単だよ」「ありがとう!」2人と固く握手する。巡礼事務所には20人ぐらいの列ができていた。待っている人たちのなかには「どこかで見たことがある」という人が少なくない。順番がくるまで30分以上待つ。氏名・年齢・職業・巡礼を始めた場所・巡礼の方法…。登録が終わると巡礼証明書が発行され、巡礼手帳(クレデンシャル)に最後のスタンプが押される。最後に事務所の女性がいう。「おめでとう!」わたしのカミーノは終わった。 ▲壮麗なサンチャゴの大聖堂。 ▲サンチャゴ像の台座に手と額を当て、祈る。
2004年10月31日
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■第11日 アルズア~モンテ・ド・ゴソ 35km 10月7日アルズアを出てすぐ、サンチャゴまで「36km」という標識を見る。空に星が見えない。きょうも天気はよくなさそうだ。野を越え、畑のわきを通り、森のなかを抜ける。道は平坦で、快調にとばす。きょうはアルカまでの19kmでいいと考えていた。しかしどこがアルカなのかはっきりしないまま、標識がサンチャゴまで20kmを切ったことを告げる。まだ昼前で、身体もまったく疲れを感じていない。ならばモンテ・ド・ゴソをめざそう。たびたび出会うブラジル人のおじさんに追いついた。わたしを見かけるたびに「◎▲☆×!(わたしの名前) アリガト! サヨナラ!」と声をかけてくれる陽気なおじさんだ。小一時間ほど話しながら歩く。62歳、ボルト・アレグロで医師をしているという。「きょうサンチャゴまで行けるかもしれない。カミーノでいちばん楽な区間だね」同感だ。終わりが近く、気分が高揚していることもあるのだろう。アリさんといった。本当はアリステなんとかという名前らしいが、「アリでいいよ。アリガトのアリと同じ」。「わたしはカトリックに生まれ、カトリックとして育った。けれども宗教的な理由だけでカミーノを歩いているわけではない。去年は仕事が忙しかった。それで仕事を断ち、エネルギーを得ようとカミーノへ来たんだよ」「君やわたしのように大都会で働いている者には、ふだんのルーティンから外れることに意味がある」とアリさんはいう。そしてつけ加えた。「スペインには観光でも来たことがある。しかしカミーノを歩くことのほうがはるかにおもしろい。だって世界中からやってくる巡礼の人びとと出会い、話をする機会があるのだからね。観光で来てもそんな体験はできないよ」まったく同感だ。それに出会うのは各国の巡礼者だけではない。自分にも出会える。それがカミーノのすばらしいところだ。アリさんは11日にマドリードを発ってブラジルに帰る。「13日から仕事だよ。患者が待ってるからね」「わたしは10日にマドリードから東京に発ち、12日から仕事です」「東京まで14時間?信じられんな」「アリさん、いまの気分は?「ハッピーだね!」道が上りにかかったところで「先に行っていいよ」とアリさん。そろそろひとりで歩きたいと思っていたところだった。いつの間にか空港の横を歩いた。木の間から飛行機の機体が見えてびっくりする。サンチャゴ空港だ。すでに市内まで10kmない。道はほとんど下り。ラバコーリャを出たところで村上くんを発見。モンテ・ド・ゴソまでいっしょに歩く。巨大な研修センターの一画がモンテ・ド・ゴソの巡礼宿として使われていた。隣接する丘に巡礼者の像がある。その像が手を上げている方向にサンチャゴの大聖堂が見えるはず…。夕方のうすぐもりのなか、3本の尖塔がうっすらとかすんでいた。 ▲アリさん。 ▲モンテ・ド・ゴソの巡礼者像。
2004年10月30日
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■第10日 パラス・デ・レイ~アルズア 27km 10月6日きょうは村上くんと一緒に宿を出る。2人連れというのは非常に心強い。大きな自動車道を歩いていて道がわからなくなった。ちょうどスペイン人の若者2人も前後して歩いており、「どっちへ行ったらいいんだ?」と迷う。8時近いがまだ真っ暗だ。ふつうなら人が出歩く時間ではないが、前方から農夫のおじさんが歩いてきた。スペイン人の若者たちが巡礼路の方向を聞き、4人で道を引き返す。迷ったときにスペイン人の巡礼者が近くにいたこと。そのときどこからともなく地元の人が現われたこと。ささいなことをとてつもない幸運に感じる。ありがとう!なにものかに感謝せずにはおれない。正しい道にもどるととたんに前後に巡礼者の姿が増える。日の出を迎えても太陽は見えず肌寒い。道は木々に囲まれた田舎の道をゆるやかに続く。のどかで気持ちがいい。これなら30kmでも40kmでも歩けそうだ。昼前にメリデという大きな町を通り過ぎる。そこからも田園、森、牧草地帯、草をはむ牛…と、風景はほとんど変わらない。13時40分、アルズアのアルベルゲに到着。最後のベッドが空いていた。これから着く人はキッチンや事務室のマットレスが寝床になる。ガリシア地方では到着が遅くなればなるほどベッドの確保がむずかしい。マットのスペースもなくなると、あとからやってきた人たちは向かいにある民宿に宿をとっていた。宿に着いたあとは判で押したような日課が待っている。まずシャワー、次いで洗濯。それが終わってから遅い昼食に。食事のあとは荷物の整理や日記書き。あるいは町をブラブラする。そうこうするうちにまた夕食の時間になる。村上くんと、彼が出発したときから顔なじみというフランス人の青年シルバンの3人でバルに行く。サンチャゴまで残り約40km。あと1泊2日の行程だ。いよいよサンチャゴが近づいてきた。
2004年10月29日
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■第9日 ポルトマリン~パラス・デ・レイ 23km 10月5日6時に起きたら80人部屋のすでに半数が出発したあとだった。きょうはいつになく暗い。いつもは見える月や星が見えない。懐中電灯がなければ歩くこともむずかしい。雲が出ているのだろうか。…と思う間もなく、ほほに水気を感じた。すぐに雨がパラパラと降り出す。そのときの道は自動車道と並行していた。うまい具合に屋根つきのバス停がある。そこでザックの底からレインコートを引っ張り出す。しばらく歩くと軒下で雨具の準備をしている集団を追い抜いた。今年初めての雨。これまでは雲を見ることすらない晴天が続いていた。雨が本格的になってくる。9時に通過した村のバルに巡礼者がたまっていた。温かいものを飲みたいが、この天気だ。先を急ごう。きのう買ったチョコレートをかじる。これがじつにおいしい。身体がエネルギー源を欲しているのだろう。途中で水を飲むため小休憩。あとからやってきたスペイン人の夫婦に「これどうぞ」とチョコレートを差し出す。「チョコラーダ!」といって奥さんのほうがニッコリ笑った。雨のなか、ポンチョ姿の人を追い抜いた。なんとなく見覚えがあるなあと思ったら村上くんだった。トリアカステラで夕食を食べて以来の再会だ。話しながら歩くとパラス・デ・レイまではあっという間だった。12時20分に到着し、巡礼宿の開館を待つ。時間も体力もあるけれど、きょうはここどまり。冷たい雨ではなかったが、歩くのをやめるととたんに冷え込む。外出は控え、村上くんが持っている黛まどかさんの『星の旅人』を読ませてもらう。「ぼくにはロマンチックすぎます。もっとリアルなほうがいい」と村上くん。以前読んだことがあるが、細部はほとんど忘れていた。夜、近くにあるホテルのレストランへ2人で出かける。顔なじみの巡礼者があとからあとからやってきた。ウェートレスの女性は笑みを絶やずにたくさんの客をさばいていく。サービス業の鏡のような人である。 ▲パラス・デ・レイに向かう道で。
2004年10月28日
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■第8日 サリア~ポルトマリン 23km 10月4日去年、おととし、そして今年の前半も、「前後に巡礼者の人影が見えない」というときがしょっちゅうあった。そんなときは「この地球上に存在するのはわたしひとりだけ」とでもいうような、とても不思議な感覚におそわれる。それがどうだろう。サリアを出ると前後には必ず巡礼者の姿が見える。ときには「列をなす」こともあるほどだ。サリアからの道は田園のなかをゆく。道も歩きやすい。気持ちのよい田舎道である。時間がないからどこか一部を歩きたいという人には、今回のレオン~サンチャゴ間の300kmをおすすめする。さらに短くというのならセブレイロ~サンチャゴ間の150km。もっとというのなら、えーい、サリア~サンチャゴ間111kmを4日間でどうだろう。途中で追い抜いたおじさんに「どこから来たの?」と声をかけられた。その人はブラジル人。少し話しながら歩く。「日本でカミーノは有名なの?」「いいえ。わたしはパウロ・コエーリョの本の影響を受けました」「わたしはあの種の本が嫌いなんだ。だからパウロ・コエーリョの本も読んでないよ。あの本(『星の巡礼』)に書いてあることは、すべてが本当にあったことというわけではないからね」パウロと同国人のおじさんはそういって笑った。しかしパウロ・コエーリョの本がサンチャゴ巡礼路の活況に一役買っていることはまちがいない。『星の巡礼』が置かれた巡礼宿もあったし、サリアのツーリスト・インフォメーションではパウロの本とDVDを売っていた。ポルトマリンには12時40分到着。巡礼宿の前にはすでに巡礼者の列ができ、13時の開館を待っている。やがてホスピタレーロが「ブエノス・ディア~ス!(こんにちは)」と登場し、受け付けが始まった。どこかで見た顔が多い。見知った人とはあいさつをかわす。それがまたうれしい。夕方、町をブラブラしていてまたヘンクさんと出くわした。「あしたのルートを確認に行こう」そういって町から出る道を2人で確かめにいった。ヘンクさんはビールを、わたしはオレンジジュースを飲みながらバルで話した。すでに仕事は退職している。年は聞かなかったが、60歳は超えているだろう。「どうしてカミーノを歩こうと思ったんですか?」「スポーツとして、あるいは文化的興味からという人もいるが、わたしはそうではない。わたしはカトリックだけれど、宗教的な理由だけでもない。人生で大事なことを確かめるため、とでもいったらいいのだろうか」サンチャゴには奥さんがキャンピングカーで迎えにきてくれるのだという。そのあと2人でスペイン、フランスを見物しながら11月に家へ帰るのだとヘンクさんはいった。なんと優雅な!ドイツ語の巡礼ガイドブックに興味を示すわたしにヘンクさんがいう。「サンチャゴに着いたらあげるよ。それまでは使うからあげられないけど」「本当ですか?ありがとうございます!」宿に帰る道すがら、空に黒い雲が出ているのが見えた。「あしたも晴れてほしいね」ヘンクさんがそうつぶやいた。 ▲ポルトマリン。巡礼者の数はサリアよりさらに増える。
2004年10月27日
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■第7日 トリアカステラ~サリア(サモス経由) 24km 10月3日トリアカステラからはルートが2つある。ひとつは次の町サリアへの最短距離を歩く道。もうひとつは僧院があるサモスを経由してサリアに至る道だ。これから巡礼宿でのベッド確保競争が激しくなることを考えると少しでも早くサリアに着いたほうがいい。けれども分かれ道まできて、わたしはサモス経由の道を進んだ。道は1時間ほどで森の中に入る。初めて雲がわき、なかなか明るくならない。あたりは薄暗く、空気も冷たい。2時間でサモスの僧院を見下ろす場所に出た。かなり大きい。緑の谷間にうずまるように建っている。坂道を下っていくと僧院の手前で休んでいるヘンクさんを発見した。一緒に僧院を見に行く。ところがきょうは日曜のため、僧院が開くのは12時半。まだ2時間もある。僧院内にある巡礼宿はそれからさらに3時間たたないとオープンしない。「わたしはコーヒーを飲んで待つよ」というヘンクさんを残し、わたしはサリアに向かうことにした。僧院で行なわれるという儀式にちょっと心残りではあったが。サモスからの道は歩きやすく、ほとんど疲れを感じないままサリアに到着。町の入り口に巡礼者のための案内所がある。「公設のほかに私設の巡礼宿が3つあるからどこかに泊まれるでしょう」といわれ安心する。案内所から町の中心部までは10分ほどの距離だった。サンチャゴに到達した巡礼者には「巡礼証明書」が発行される。ただしそれには「徒歩で100km以上」か「自転車で200km以上」の巡礼をした者、という条件がある。ここサリアからサンチャゴまでが111km。とりあえず最低限の距離を歩いて巡礼証明書をもらおう、という人には最適の出発地なのだ。だからだろう。サリアに来て急に巡礼者が増えた。教会で巡礼証明書を作ると料金は0.5ユーロ(70円)。あんまり安いのでわたしももう1通作ってしまった。夕方、通りを歩いていてヘンクさんと再会した。道の真ん中で思わず手を握り合う。知った人に会うのはうれしいものだ。「サモス経由は遠回りだけれどいい道だったね」とヘンクさん。「あなたに僧院のことを教わってよかった。ありがとう」そうお礼をいった。泊まっている私設の巡礼宿は門限が夜の10時。なのに9時半になってもわたし以外はみな出払っている。 ▲サモスの僧院。サリアでこの僧院のCD(グレゴリオ聖歌)を買った。 ▲この階段を上りきるとサリアの町の中心部に出る。
2004年10月26日
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巡礼には捨てても惜しくない服を持っていきました。穴の空いたズボンと靴下、ゴムがのびきったTシャツや下着、さらに古びたズボンや帽子など…。旅行しているとだいたい荷物は増えていくものですけれど、そのなかで捨てられるものがあるというのは精神的にも楽になります。しかしTシャツなどはけっきょく捨てられず、すべて持ち帰りました。巡礼路の沿道で民家の洗濯物をときどき見かけます。わたしが捨てようと思っているシャツよりボロいものが堂々と干されているのを見ると、シャツに申しわけなくて捨てられませんでした。巡礼の途中および終了後に捨てたものは以下のとおりです。・ユニクロのズボン …穴が空き、ほつれが目立ち、最後は雨でグチャグチャに。・穴の空いた靴下 …3足・下着 …2枚・使用済み単3乾電池 …2個・使用済み日焼け止めクリーム・文庫本2冊・不要となった資料靴も帰ってきてから捨てるつもりでした。底がすり減っているし、一部はひび割れているし、最後の雨のおかげで少々臭うようになっています。しかしこれも捨てられず、洗って次の出番を待っています。巡礼から帰ってからぜんぜんモノを買ってません。「欲しいものがない」というより「必要なものはほとんど持っているから」です。帰ってきてから食費以外に使ったのは本と写真の現像代ぐらいでしょうか。「身のまわりをシンプルにしておきたい」という気持ちは巡礼後、ますます強くなっています。■第6日 セブレイロ~トリアカステラ 21km 10月2日出発して1時間ほどたつ8時過ぎ。ようやく空が明るくなってくる。けさも何人かに先行してもらっていた。しかし途中で追い抜いてしまい、以後は目印を探して慎重に歩く。明るくなってくると周囲は森と牧草地帯。あとでふり返るとセブレイロの上りと下りは風景がとてもきれいだった。沿道には農家が多い。どこの家にもシェパードの番犬がいて、家の前でこちらの様子をうかがっている。通りすぎるだけなら吠えないが、敷地に入ろうとしたらきっと襲ってくるだろう(???)。セブレイロの巡礼宿は夕方には満員になり、遅く到着した人たちはキッチンの床に寝床を作っていた。マットレスはなかったから、寝袋しか持っていない人はつらいだろう。セブレイロ以降、巡礼者が急増する。徒歩の場合、巡礼証明書は「100km以上歩くこと」が条件。セブレイロまでバスなどで来て、ここからサンチャゴまで150km歩いて巡礼証明書をもらおうという人が多いのだと思う。さらにセブレイロを過ぎると巡礼宿が間遠になる。早く着くようにしないとベッドからあぶれることになりかねない。そこでこの日は12時20分に着いたトリアカステラに泊まることにする。宿が開いたのは13時になってからだった。これからは巡礼宿のある町が少ない。一日にどれくらい歩くかより、巡礼宿のある町によいタイミングで着くように調整しなければならない。早く着きすぎると宿は閉まっているし、遅くなるとベッドを確保できなくなる。同室のドイツ人、ヘンクさんにガイドブックと資料を見せてもらった。巡礼宿のある町とそこまでの距離をノートに書き写しておく。ドイツ語のガイドブックには距離のほかコースの難易度、歩行時間、高低差も出ている。「日本語の資料はないんです。一昨年もらった巡礼宿のリストは古いし」「ドイツ語のガイドブックはものすごくたくさんあるよ。日本じゃきっとマーケットがないのだろうね」わたしが持っていたのは、2年前にもらったロンセスバイエス~サンチャゴ間の巡礼宿リストと、去年レオンでもらったレオン~サンチャゴ間の巡礼宿リストのみ。これだけでもどうにかなるが、巡礼宿は毎年新しいものができているらしい。また地図があると心強いのも確かだ。じつは地図もついた英語の巡礼ガイドをわたしは一昨年、インターネットで購入した。けれどもそれはとても重く、持ち歩く気になれない。それで去年も持たずに出かけた。結果として困ることはなかった。今年もそのガイドブックのことはすっかり頭から抜け落ちていた。出発前はなにかと忙しく、地図をコピーして持参することも思いつかなかった。「万全を期すると荷物が増える」ということはガイドブックにもあてはまる。ロンセスバイエスのインフォメーションや巡礼宿でもらえるペラペラの巡礼宿リストだけで歩くのがいちばん楽だ。困ったらだれかに見せてもらうという方法もある。巡礼者には親切な人が多いし、それが話すきっかけにもなる。情報はあってもいいが、なくても困らない。どちらかといえば余計な先入観がないほうが意外性があって楽しめるような気がする。また「朝は道を見つけにくい」というと、ヘンクさんは次のような方法を教えてくれた。「巡礼宿に着いたらいつも続きの道を確かめに行くんだ。この町から出る道ももう確かめてきたよ」なるほど!とくにあしたは、僧院があるサモスを経由する道としない道があり、どちらかを選ばないといけない。さっそくヘンクさんをまねて、あした進むべき道を確かめにいった。 ▲トリアカステラの巡礼宿で。昼寝を日課にしているヘンクさん。上段がわたしのベッドです。
2004年10月24日
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■第5日 ペレヘ~セブレイロ 24km 10月1日きょうはセブレイロ峠をめざす。上りを意識してか、けさはみな動き出しが早かった。7時出発。けさもほかの巡礼者の出発を待つ。まだ真っ暗だ。姿は見えないが、アスファルトの道路に杖をつく「カツン、カツン」という音が聞こえる。自分のほかにも歩いている人がいるという安心感を得る。8時、10時と続けてバルで休む。2軒目のバルで、先に着いていたドイツの若者に話しかけられる。「遠い日本から高いお金をかけて、なぜカミーノへ来たの?」なぜだろう?理由はいろいろあるけれど、説明するのはそう簡単ではない。ましてや英語では。それで自分でも意味不明?ながらこう答えた。「巡礼って歩く禅なんだと思う」ドイツ人の若者はうなずいていった。「歩くことは瞑想でもあるよね」たしかシャーリー・マクレーンも同じことをいっていた。ペレヘからしばらくは小さな村をいくつも通り過ぎる。アルベルゲも多い。緑が深い。木立ちのなか、道はしだいに急な上りになっていく。汗がしたたり落ちた。牧草地帯を抜けると山の上に出た。ゆるやかな道をさらに上り、1時前にセブレイロに着く。いきなり目に入ったのはお土産屋さんだ。団体観光客がバスで次々とやってくる。セブレイロは山奥のひなびたところだと勝手に想像していた。この観光地ぶりは意外である。『星の巡礼』の最後にパウロが教会で剣を師から授かるシーンがある。幻想的な場面だが、その教会とおぼしきサンタマリア教会もなかにお土産コーナーがあった。とあるバルをのぞく。きのうペレヘで夕食をいっしょに食べたペペがいた。彼と同じテーブルにつき、彼と同じものを注文してもらう。そのうちペペの顔見知りらしい若者も店に入ってきて、同じテーブルについた。彼と店の人の会話をペペが通訳してくれる。「彼は速く歩く人たちに聞くらしい。なぜそんなに速く歩く?地元の人たちと話しているのか?シエスタはとっているのか?彼はサンチャゴに早く着こうとは思っていないんだね。ゆっくり歩いて人と話し、ゆっくり食べて昼寝をする。それが彼にとってのカミーノなのさ」昨晩「カミーノから得るもの、学ぶことは人によってちがう」といったペペらしい結論だった。「最後の難関」といわれるセブレイロへの上りはそれほどたいへんな道でもなかった。天候にめぐまれたおかげかもしれない。『地球の歩き方』によれば、セブレイロの天気は一年の半分が風雨らしいから。難所という点ではブルゴス~レオン間の日陰がない平地を真夏に歩くことのほうがつらいかもしれない。また上りという点では2年前の初日、ピレネー越えのほうがはるかに苦しかった。また地形以上に天候と季節の影響も大きいと思う。9月下旬の30kmと7~8月の炎天下の20kmとでは、後者のほうが厳しいという感じがする。レオンからセブレイロまで150km。セブレイロからサンチャゴまでが150km。半分を5日で歩き終えた。少し速すぎるような気がする。夜になってガスが立ち込めてきた。星は見えない。 ▲セブレイロ周辺の風景にはかなりフィルムを使いました。 ▲セブレイロのサンタマリア教会
2004年10月23日
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■第4日 ポンフェラーダ~ペレヘ 28km 9月30日手前のビリャフランカでやめるつもりが5km先のペレヘまで歩いてしまった。あすはサンチャゴへの道で「最後の難関」といわれるセブレイロ峠への上りが控えている。これで少しは楽になるだろう。ビリャフランカで道に迷い、カップルの巡礼者にたずねた。彼らも続いてペレヘの巡礼宿に到着する。ドイツ人だという女の子が話しかけてきた。「日本のどこから?」「東京です」「わたしの父の奥さんは日本人なの」「ええっ?」とても日本人の血が混じっているようには見えない。それもそのはず、日本人なのは彼女の母ではなく「父の妻」だった。「とても不思議な話なの。わたしの父は離婚して日本人女性と結婚したんだけど、2人が知り合ったのは東京オリンピックのとき。父が東京に行ったとき、彼女はドイツ語の通訳だったの。2人はお互いに家庭を持ったんだけど、そのあと再び恋に落ちたというわけ。おもしろい話でしょう?」ドラマみたいな人生があるんだなあ。ドイツ人の父、日本人の義理の母はベルリンで暮らしているという。ペレヘに着いたのが午後3時。寝るまではおおむね次のようにして過ごす。1.まずシャワー。一日の汗と疲れを洗い落とす。2.次いで洗濯。スペインの太陽は強烈なのですぐに乾く。3.時間や腹のすき具合によって食事、あるいは食料の調達。4.昼寝、日記書き、散歩など。そして10時には寝てしまう。時間があるようであんがい忙しい。19時に村で一軒のバルに行く。メニューを訳してもらったことをきっかけに隣のテーブルの男性と話す。バルセロナから来たペペといった。「カトリックとして育ったが神の存在は信じない」と彼はいう。じゃあなぜカミーノ(サンチャゴへの道)に来たの?「カミーノは宗教以上のもの。宗教的な人たちだけのものじゃない。なにかを見つけるために、過去に見失ったものを探すために来る人も多いよ。カミーノで見つけるもの、学ぶことは人によってちがう。あなたのカミーノとわたしのカミーノではちがうんだ」「なぜカミーノを歩いてるのか?」このあともそうたずねたり、逆にたずねられたりした。つたない英語を駆使してこのような会話をさまざまな国の巡礼者とかわすこと。これが巡礼中の最大の楽しみではないだろうか。教会の前でにひざを折ってじっと祈りを捧げる敬虔な人がいる一方で「神は存在しない」といいきる人もいる。そのどちらもが「なにか」を求めてサンチャゴまでの道を歩いているように思えた。巡礼路でしばしば聞くあいさつがある。「ブエン・カミーノ!」よい巡礼を、お気をつけて、とでも訳すのだろうか。お互いの巡礼の無事を祈り、祝福しあう。ことばが通じなくても、巡礼者同士、目に見えない心のつながりを感じることがよくあった。そんなとき心がほんのりと温かくなる。「巡礼に出てよかった」と思う瞬間だ。 ▲石造りで山小屋風のペレヘの巡礼宿。
2004年10月21日
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■第3日 ラバナル~ポンフェラーダ 32km 9月29日一夜明けると体調は元に戻っていた。ラバナルの宿は朝食つきなのがうれしい。早く起きた順にパンとカフェコンレチェの簡単な朝食をすませる。「グラシアス」遠慮がちにお礼をいうと、ホスピタレーロのおばさんがいう。「サンキューは日本語でなんというの?」「ありがとう、です」「アリガト!」こうして毎日毎日、やってくる巡礼者の世話をしているに違いない。ホスピタレーロの献身ぶりには頭が下がる。7時出発。まだ真っ暗な時間帯だ。この時期、朝日が上るのは8時20分ごろ。とくに朝は道を見つけにくい。そのためだれかが出発するのを待って、すぐそのあとを追うようにしている。道はフォンセバドンの峠に向かってゆるゆると上る。途中で日本人のような顔をした若者に追い抜かれた。峠で休んでいた彼に「こんにちは!」と声をかける。村上くんといった。今回、初めて出会う日本人巡礼者だ。彼とはこのあとあちこちで顔を合わせる。サンチャゴ到着も同じ日になった。峠を越えると道は下り坂。下りのほうが楽かというと必ずしもそうではない。きつい下りはひざに負担がかかり、上りよりむしろ苦労することがあるアンブローズという村に着いた。何時かな?と腕時計を探す。Tシャツになったとき外した腕時計が見当たらない。あれ? どこ? 忘れた? 落とした?探し始めて1分もたたないうちに後ろからアジア人の若者が追いついた。「この時計、あなたのですか?」彼が差し出したのは、まさにいまわたしが探している腕時計ではないか!きっと前の村のバルで休んだとき置き忘れたのだろう。それを彼が持ってきてくれたのだ。「サンキュー!」「ノープロブレム」顔つきは日本人とまったく変わらないが、彼は英語を話していた。オーストラリア人だという。彼ともその後よく顔を合わせた。最後はサンチャゴの大聖堂前で出くわした。2人で「おお!」を顔を見合わせ、「着いたね!」と手を握り合った。名前は聞いていない。だが会うたびに会釈をかわした彼の表情はまぶたに焼きついている。名前も国籍も知らない、だけど会えば笑顔であいさつをかわす。巡礼中にそんな知り合いがたくさんできた。彼らとこの世で出会うことは二度とないだろう。そう思うと少し切なくなる。15時過ぎ、ポンフェラーダに到着。大きな町で、巡礼宿も大きく近代的だった。ここで村上くんと再会、同じ部屋になる。夕食は2人で食べに行った。ひとりで歩いていてもさびしさはあまり感じない。しかし食事だけは何人かでしたほうが楽しい。同じ日本人であっても、日本にいたら村上くんと知り合う縁はなかっただろう。年齢・職業・出身地に関係なく人と知り合えるのは旅ならではの楽しみだ。しかもサンチャゴをめざすという目的は共通している。日本を出て初めてぐっすり眠れた夜だった。 ▲ポンフェラーダの城壁跡。『星の巡礼』でパウロが参加したあやしげな儀式はこの城壁内で開かれたことになっています。
2004年10月20日
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■第2日 オスピタル・デ・オルビゴ~ラバナル 36km 9月28日この日は昼食をムリアスという町のバルで食べた。スペインでは定食をMENUという。前菜・主菜ではなく、ファースト、セカンドと料理が出てくる。それに飲み物(ワインか水)とデザート、パンがついたお得なセットだ。安いと6ユーロ(約840円)ぐらいからある。スペイン語のメニューはもちろん読めない。適当に頼んだら、出てきたのはファーストがイカとじゃがいものスープ、セカンドがブタのヒレステーキだった。日本では「準ベジタリアン」だが、このときまでスペインで菜食を貫く方法がわからなかった。(あとでいい方法を教えてもらった)たぶんこのときのスープが原因である。このあと「人生で初めて」の苦しみを味わうことになるのは…。ムリアスからの道は日陰がほとんどなく、午後歩くにはつらかった。…と、突然吐き気がこみ上げ、あっという間に2度吐いた。がまんするヒマもなかった。それまでなんの兆候もなかったのに。食べ過ぎた!日本なら3人分はあろうかというスープを、調子にのってほとんど飲み干していた。スープといっても具だくさん。日本ならシチューと呼ぶかもしれない。吐いてしまってから本格的に気持ちが悪くなってきた。まずい。悪いことに、いま歩いている道が正しい道なのか自信がなかった。巡礼路の目印である黄色い矢印をしばらく見かけていないのだ。あいにく前にも後ろにも人の姿はない。迷った末、いま来た道を戻ってサインを確認することにした。ただでさえ気持ち悪いのに、ますます元気がなくなる。しばらく戻ると向こうから2人の巡礼者が現われた。この道でいいという。いま戻ってきた道をとぼとぼと引き返す。そしてまた、突然。吐き気がこみ上げ、昼に食べたものが口から飛び出してきた。「ゲェ~~~ッ」道ばたにひざをつき、2度吐く。「暑さのせい? 疲れ? それとも昼のイカスープにあたったのか?」モウロウとしながらそんなことを考えた。このときすでに16時を過ぎていた。本来ならひとつ手前の村の巡礼宿に泊まるはずだった。しかしここの宿はみすぼらしかった。裸電球がぶら下がる倉庫のような古い建物に、2段ベッドが並ぶだけ。16時になってまだひとりも宿泊者がいない(宿の人もいない)のは変である。トイレもシャワーもないのかもしれない。というのは、建物の裏には野ウ○コの痕跡が多々あったから…。すでに30km近く歩いていた。ここを目標に歩いてきたから本当は休みたい。しかしこの設備である。次の巡礼宿は8kmも先だ。あれこれ考えたあげく、8km先の村まで歩くことにした。吐き気に襲われたのは、そこから1kmほど歩いた地点だったと思う。あまりの気持ち悪さに、戻ることも考えた。しかしあの巡礼宿ではゆっくり休むこともできないだろう。前に進むしかない。そのためには気力を奮い起こさなければならなかった。吐き気に耐えながら歩き、次の村まで2.2kmという標識を見つけてホッとする。あと30分だ。そう思ったのも束の間、また吐き気に襲われ2度吐く。わたしは吐くような体調不良はほとんど経験がない。1時間ほどのあいだに6回も吐いたのは人生で初めてだ。ところが最後に吐いてから、一気に気分が楽になった。悪いものを出し尽くしてしまったのだろう。この間に2人の巡礼者に追い抜かれたが、その姿が前に見えるのも心強かった。18時、ラバナルに到着。村の入り口にあるバルの椅子にへたり込んだ。冷たいコーラと水を一気飲みする。吐いたことでかなり水分を失っていたと思う。先に着いていた男性はポーランドからの巡礼者だった。「ここに泊まるのか?」と聞くと、さらに次の村まで歩くという。ラバナルの巡礼宿には本日38番目の到着だった。こんな遅くなのにまだベッドがあって助かる。疲れていたがまずシャワーを浴び、食欲はないので水ばかり飲んでいた。水は飲んでも飲んでも飲み足りない。ラバナルは巡礼路で「最後の難関」といわれるセブレイロ峠への登り口にあたる。標高はすでに1000mを超えているはずだが、まったく寒さは感じない。ラバナルの巡礼宿はこぢんまりとしたきれいな宿だった。がんばってここまで歩いてよかったと思う。ただ水を飲んだだけできょうは眠りにつく。
2004年10月19日
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一日20kmも30kmも歩くというと、「そんなの無理だ」と思う方もいるでしょう。だいじょうぶです。健康な人の身体はそれくらい歩けるようにできているようです。60代の巡礼者はザラでした。わたしが知っているなかではフランス人の67歳の女性。彼女はわたしとほとんど同じペースで歩いていました。60代になるとさすがに瞬発力では若者にかないません。そのかわり、ゆっくり、じっくり歩くことは可能です。その人も早めに宿を出て、人より遅く次の宿に到着していました。67歳のフランス女性とはとうとうサンチャゴ到着も同じ日でした。けっこうとばしたと思っていたので、これにはまいりました。聞けばル・ピュイから1500km歩いたそうです(一度にではなく分割したそうですが)。人間の身体にはそれだけの能力と可能性がある。なんとすばらしいことでしょう!■第1日 レオン~オスピタル・デ・オルビゴ 32km 9月27日前夜はさっそく巡礼者の盛大なイビキにろくろく眠ることができなかった。レオンの巡礼宿では朝食が出る。朝の冷気のなかで飲むカフェコンレチェ(ミルクコーヒー)の温かさはなににも替えがたい。7時40分、出発。空はこれから白みはじめる。手がかじかむ。日中との温度差は思った以上に大きい。サンミゲルという町でのこと。道ばたのベンチに、「巡礼の人に」といってクッキーやあめ玉が入ったかごが置かれていた。巡礼宿もそうだが、巡礼はこうした無償の親切に支えられている。日が昇るとだんだん暑くなり始める。1枚、また1枚と服を脱いでいき、昼過ぎにはTシャツになった。日焼け止めのクリームを用意する。初日は32km歩いた。日程に余裕がないわたしは一日平均30kmを目標にしている。初日としてはまあまあだろう。初日に泊まったのはオスピタル・デ・オルビゴという町。ここには公営・私営を含めて3つの巡礼宿がある。わたしが直感で選んだ公営の宿は、わき道をずいぶんと歩かなければならなかった。到着すると奥から男性がひとり出てきていう。「だれもいないんで勝手にチェックインしたよ」カナダ人のジョーさんといった。「2か月前、突然カミーノ(サンチャゴ巡礼路を意味するスペイン語)に来ることを決めた。なぜかは自分でもわからない。来年は女房とくるよ。日本でカミーノは有名なのかい?」「あまり有名じゃありませんね。パウロ・コエーリョの本を知っていますか?日本人はその本でカミーノを知る人が多いと思います」「知らないな。読んでみたいから書名を教えてくれ」いっしょに買い物に行ったり食事をしながらジョーさんと会話を続けた。年齢も、職業も、国籍も、そして宗教も異なる。それが「サンチャゴをめざして歩く」という共通の目的を持つというだけですぐに打ち解け、親しくなれる。それがサンチャゴ巡礼のすばらしいところだ。「わたしは60歳になる。孫ができ、身体は老いてゆく。死んだ友人がもう6人もいる。そんななか、自分を見つめ直すため、自分を試すためにカミーノへ来たのかもしれない。これまでは仕事、仕事のハードワークだったからね」ジョーさんとふたりしかいない宿はしんと静まり返っている。「本当に静かだねえ」こうして初日の夜は更けていった。 ▲ローマ時代の石橋を渡るとオスピタル・デ・オルビゴの町に入る。(この写真を含め今年撮った写真は左ページの「巡礼アルバム3」にアップしています)
2004年10月18日
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サンチャゴ到着からもう1週間以上たつとはとても信じられません。ついこのあいだの出来事のようです。少しずつ今年の巡礼について書いていきます。きょうはレオンに着くまでの事実経過を。■第0日 出発からレオンまで 9月26日マドリードには日本を出発した25日の21時近く(現地時間)に到着。インターネットで予約したホテルまで地下鉄に乗る。空港から所要40分。翌朝、やっと空が白みはじめてきた8時過ぎにホテルを出発。地下鉄で南バスターミナルへ。インフォメーションで確認し、レオンへのバス便を運行しているALSA社の窓口へ行く。ところが9時30分発は満席。仕方なく次の14時30分発にする。ターミナル内のカフェテリアで時間をつぶした。読んでいた文庫本がおもしろくないのでゴミ箱に捨ててしまう。わざわざスペインが舞台の小説を選んだのだけれど。どんな作り物よりもこれからの旅のほうがおもしろくなることは間違いない。17日間もの休みが果たして取れるのか、また取ってもいいものなのか、ギリギリになるまで自信がなかった。出発前は残業の連続で肉体的にも精神的にもかなり疲れていたと思う。やり残してきたことはたくさんある。しかしきょうから仕事のことは考えない。余計な心配はしない。サンチャゴまでの残り300kmを歩くことに専念する。バスが出るとすぐにウトウトと居眠りを始めた。ふっと顔を上げるとバリャドリード。また眠りに落ち、次に気がつくともうレオンに着くところだった。マドリードから4時間余りの旅である。すでに19時近い。しかしスペインは日没が遅く、まだ明るい。バスを降りるとムッとした熱気に包まれた。去年もらった地図があるので、迷わず巡礼宿(アルベルゲ)に直行する。修道院に併設されたもので、去年の巡礼はそこで終わった。19時に到着。若者が数人、手続きをしているところだ。受付の人(巡礼宿の世話係をホスピタレーロという)が「ちょっと待ってね」と声をかけてくれる。順番が来ると巡礼手帳(クレデンシャル)を差し出す。去年のスタンプを見せ、「去年はレオンで終わりました。今年はレオンから始めます」と告げる。「それはいいわね!」そのひとことに、日本から引きずってきた疲れがすっと抜けていくような気がした。名簿を見ると本日116人目の客だ。もうベッドはなく、中庭の奥にある体育館のような建物に連れて行かれる。「マットを敷いて寝るのよ」そういってホスピタレーロがマットを持ってきてくれた。日本人にとっては床に寝るというのはなんとなく落ち着く。荷物を置くと歩いて5分ほどの大聖堂まで出かけていった。あたりはすごい人出でにぎわっている。カテドラルのなかも熱気がこもっていた。少しあたりを散策し、ツナサンドなどをつまんで宿に帰るともう21時近い。レオン到着が遅かったのに、巡礼宿に泊まれたのは幸いだった。3回に分けて歩くサンチャゴ巡礼最後の年。今年は聖ヤコブ(サンチャゴ)の誕生日と日曜日が重なる聖年(ホーリーイヤー)にあたる。例年の数倍にあたる巡礼者がサンチャゴ・デ・コンポステーラへの道を歩くという。さて、今年はどんな旅になるだろう。いよいよあしたから巡礼のファイナルステージが始まる。▲レオンの大聖堂。スペイン3大カテドラルのひとつ。(この写真を含め今年撮った写真は左ページの「巡礼アルバム3」にアップしています)
2004年10月17日
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きょうは今回2004年の巡礼(レオン~サンチャゴ)のデータを簡単にご紹介します。(距離は資料によってかなりバラつきがあります)★サンチャゴ巡礼2004データ●日程9月25日 成田→パリ→マドリード(航空機) 26日 マドリード→レオン(バス)★巡礼スタート 27日 レオン→オスピタル・デ・オルビゴ (32km) 28日 オスピタル・デ・オルビゴ→ラバナル (36km) 29日 ラバナル→ポンフェラーダ (32km) 30日 ポンフェラーダ→ペレヘ (28km)10月1日 ペレヘ→セブレイロ (23km) 2日 セブレイロ→トリアカステラ (21km) 3日 トリアカステラ→サリア(サモス経由) (24km) 4日 サリア→ポルトマリン (23km) 5日 ポルトマリン→パラス・デ・レイ (24km) 6日 パラス・デ・レイ→アルズア (27km) 7日 アルズア→モンテ・ド・ゴソ (35km) 8日 モンテ・ド・ゴソ→サンチャゴ・デ・コンポステーラ (4km)★サンチャゴ到着 9日 サンチャゴ→マドリード(夜行列車) 10日 マドリード→ロンドン→成田(航空機) 11日 成田着●持っていったもの貴重品・パスポート・航空券・現金(ユーロ、米ドル、日本円) …770ユーロ、100ドル、6万円・トラベラーズチェック(日本円) …10万円、予備として・クレジットカード …緊急用・巡礼手帳(クレデンシャル)衣類・ズボン …ユニクロのチノパン・長袖ポロシャツ …セーター代わり・長袖Tシャツ2 …去年と同じもの・Tシャツ3 …着古したもの・下着4 …着古したものを捨てるつもりで多めに・靴下4 …同上・バスタオル …小さめのもの・タオル・バンダナ …日焼け止め&防寒用として首に巻く・レインジャケット …防寒具と兼用・帽子・ランニングスーツ …寝巻き用・替えズボン …ペラペラの薄いもの・トラベラーズベスト …ポケットがたくさん付いたベスト・靴 …ニューバランスのスニーカー日用品・歯ブラシ、歯磨き粉 …ふだん使っているもの・かみそり …同上・シェービングジェル …旅行用の小さなもの・せっけん …同上・シャンプー …同上・洗濯バサミ …2個・日焼け止めクリーム …コパトーンの子ども用・ゴムぞうり …屋内ばき用・めがね・腕時計・ポケットティッシュ …3個・トイレットペーパー …少し・バンドエイド …マメができたときのため・懐中電灯 …小型マグライトその他・ザック …3年連続で同じもの、ミレーの中型(27リットル)・寝袋 …同上、独イエティ社製の夏用シュラフ(ダウン)・ザックカバー …雨用・ナップサック …セカンドバッグとして・水筒用ペットボトル&ペットボトルホルダー …500mlのもの・お菓子 …森永のキャラメル・ノート …A5判1冊とメモ帳・ボールペン …3本・コンパクトカメラ …リコーGR-1・フィルム …36枚撮りネガフィルム5本・カメラ用電池 …1個・目覚まし時計兼電卓・資料類 …『地球の歩き方-スペイン』の一部、『トーマスクック鉄道時刻表』のコピー、巡礼宿のリスト・文庫本 …パウロ・コエーリョ『星の巡礼』ほか3冊・杖 …アストルガで購入◎…新たに加えたものは洗濯バサミ。今年持って行くものをやめたものは貴重品ベルト、ポーチ。◎…貴重品は腹巻きをやめ、ベストのポケットに分散して持ちました。◎…ジャージはかさばるのでやめ、寝巻きはナイロン製のランニングスーツに。◎…捨てるつもりでTシャツ、下着、靴下は古いものを多めに持ちました。◎…文庫本は歩き始める前に『星の巡礼』のほかは捨てました。◎…スペイン語会話集はやはりあったほうが便利です。●かかった費用◎…スペインで使ったお金は15日間で約620ユーロ(約8万7000円)。しかし最後にマドリードで「謎の150ユーロ紛失事件」に遭遇し、けっきょく持っていったユーロの現金770ユーロ(約10万8000円)をきれいさっぱり使い果たしました。この額は交通費・食費・宿泊費・土産代などすべて含んでいます。2002~2003年と同様、巡礼中はあまりお金がかかりません。◎…レオン以降、巡礼宿(アルベルゲ)の宿泊代はほとんど「寄付」となり、決まった額が定められていません。ふつうは3~5ユーロを払うようです。わたしは3ユーロに統一して払っていました。私設のアルベルゲは6~10ユーロします。◎…食生活は今年がいちばん豊かでした。昼は13時ごろから、夜は20時からというシステムがわかってきたためです。しかしまともに食べると量が多すぎるため、今年も「ちゃんとした食事は1日1回」をめどにしていました。朝はクロワッサンとコーヒー、昼間の軽食はトルティーヤ(スペイン風オムレツ)とパンなどですませます。◎…今年がいちばん水を必要としました。常に1リットルくらいは携行しておかないと不安です。食べものはなくて水は忘れずに。
2004年10月14日
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3年目、最後の巡礼の年です。サンチャゴ・デ・コンポステーラに無事到達し、きょう夕方の便で帰国しました。2回目の終着地レオンから歩き始め、サンチャゴには予定どおり2004年10月8日の朝に到着しました。それを待っていてくれたかのようにサンチャゴ周辺は9日朝から猛烈な雨と風。「歩いている途中じゃなくてよかった」そう思いつつ、ずぶ濡れになってその日のマドリード行き夜行列車に乗りました。魂の一部はサンチャゴを、スペインを、まださまよっているようです。今年もいろいろな人に出会い、さまざまなことを考えました。その体験はまた、写真とともにここでご紹介します。
2004年10月11日
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