人生朝露

人生朝露

「看羊録」その2。



姜コウは日本の歴史について研究しているのだけど、結構凄い。

「上世に、葦不合尊(ふきあえずのみこと)なる者がいて号を天神といい、剣と璽と鏡をそれぞれ一つずつ持って、日向州に降ったといいます。そして日向に都し、のちに都を大和に遷し、また長門州の豊浦に遷し、さらに都を山城に遷しました。今の倭京であります。開闢以来、一姓を相伝し、今に至っても変わっておりません。」

(「日本書紀」によると、「ふきあえずのみこと」は、神武天皇の父。「ににぎのみこと」が天降神。「長門に遷都」というのは、推古天皇が都したとされる「豊浦宮」と、姜コウが立ち寄ったであろう長門の「豊浦」とを混同している。逆にいうと、本当に彼が自力で日本の歴史を研究していたことの証明になると思う。)

「私がその国史の編年といわゆる『吾妻鏡』(自分のよし、あしはすぐにその妻に現れる。自分の妻を観れば、自分のよし、あしを知ることができる、それでこれを史名とした、といいます。)を入手して見たところ、四百年前には、いわゆる倭の天皇はまだその威福を失っていませんでした。・・・関東将軍源頼朝以降、政は関白に委ね、天皇は祭を行うことになりました。賊魁が信長に代わってからは、下克上が極端になりました。天皇の畿県の土地も尽く賊魁の占め奪う所となり、土地を分割してその諸将に授けてしまいました。(天皇の側近者の俸禄は極めて少なく、多い者でも僅か数千石であります。賊魁の家臣である家康や輝元のごときは、食邑が八、九州にも亘り、俸禄は五、六百万余石にもなります。)」

「そのいわゆる摂政なる者は、前代にあっては、必ず藤・橘・源・平の四大姓のうちからその任にあたりました。貴は貴が襲(つ)ぎ、賎は賎が襲ぐので、権枢の地位にあたる倭人はそれでも名義を惜しみ、あえて恣に道に外れることはしませんでした。信長がその配下の明智に殺されるや、秀吉が奴隷から身を起こし、諸大名を攻め殺して自ら関白を称しました。(そして)四大姓を国王に請い受けようをしましたが、王の側近者がみな「余事は公に従いましょうが、姓は許すわけには参りません」と言いました。賊魁はいかって退き、勝手に平氏を名のりましたが、その後は豊(臣)に改めました。」

大意は合っている。
天皇を中心にして、日本の歴史の黎明期から1600年まで、僅か2ページほどの文章。儒教の正統論から見た歴史観だけど、これだけ簡潔でありながら今の日本人の認識とあまり変わらない。ゾッとしたね。

「今の要路にあたっているものはみな庸奴・市児のたぐいで、秀吉を頼ってにわかに富貴になった者であります。倭僧のうちのいくらかでも識見のある者はみな『日本ができて以来、まだこの時(代)の顛倒の如きはない』と言いました。」

と、結ばれている。
秀吉の天敵は儒者だったのね。秀吉のような生まれの卑しい人間が天下を取るような時代であるから、朝鮮に侵攻するような蛮行をするのだ、というのは結構説得力がある。

「秦の始皇の時、徐福が童男・童女を載せて海に入り、倭の紀伊州熊野山に至って止まったといいます。熊野山には今もなお徐福の祠があります。その子孫が今の秦(はた)氏となり、世々徐福の後(裔)だと称しております。今の倭皇になった、というのは誤りであります。」

いわゆる熊野の徐福伝説。しかも、神武=徐福伝説についても言及している!紀元前のまともな記録が日本に無いからって、戦後中国の学者さんが言い始めたとばっかり思っていたけど、当時からあったか・・。

徐福については、室町時代の僧・絶海中津が明の太祖に贈った、

熊野峰前徐福祠
満山薬草雨余肥
只今海上波濤穏
万里好風須早帰

という「応制賦三山」と、朱元璋の返詩も記録されている。

ちなみに、「倭国八道六十六州図」という日本地図と地域ごとの注釈の中の「大和(奈良県)」の説明のところで、

「倭の南都である。倭王はもともとここに都を置き、国名を和国といった。またの名を野馬台(やまたい)という・・。」

と、邪馬台国が近畿にあったというような文章がある。

ただし、
「野馬台とは梁の武帝の命名である。倭国人の道理についての軽薄さがちょうど野馬のようであったので、その都をそう名づけたのである。倭人は今でも大和を野馬台といっている。四八〇の寺があって、華麗さを極めている。」

ムキー!!ちげえよ!!魏の歴史書だよ!(曹操が魏の武帝だったから、間違ったのか?)しかも、この「野生馬みたいに道理について軽薄」って何だよ!

続きは後々。


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