人生朝露

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ハイゼンベルクと荘子。

荘子です。
荘子、参ります。

だいぶ前に、ハイゼンベルグと機心について書いたんですが、お詫びと訂正。ハイゼンベルグが荘子の「機心」について書いている『Das Naturbild der heutigen Physik(1955)』は『現代物理学の自然像』というタイトルで、 1965年(昭和40)にみすず書房から、尾崎辰之助さんの訳で発刊されておりました。

ヴェルナー・ハイゼンベルク(Werner Heisenberg,1901~1976)。
ハイゼンベルク自身が荘子について語っている部分なんですが、ちょっと前提の理解がないと難しいと思いますので、長いものの今回は作業。

≪-技術と自然科学の相互作用-
 ここで、このような近代物理学の新しい立場から一般的結論について述べる前に、なお地上の生活に重要な、そして自然科学の発達とともに進みつつある技術の発展について詳しく述べなければならない。実は最初この技術が自然科学を西欧から全地球上に広げ、それを現代の思想の中心点にしたのである。最近二百年の発展経過において、技術はいつも自然科学の前提及び成果であった。技術は前提である。なぜなら、自然科学の拡大と深化はしばしば観測手段の精密化によってのみ実現できるからである。望遠鏡及び顕微鏡の発明、あるいはレントゲン線の発見を思い起こして見るがよい。一方、技術は自然科学の成果である。なぜなら、一般に自然力の技術的利用は、それにかかわりあいのある経験領域の十分な知識をもとにしてはじめて可能になるからである。
 このように、はじめて十八世紀及び十九世紀初頭に力学的現象を利用する技術が発達した。ここでは紡績及び織布にしろ、重量物の吊り上げあるいは巨大な鉄財の鍛造にしろ、ただ人間の手の能力をまねしていることが多い。したがって、この種の技術形式はまず昔の手仕事の継続と拡張であると考えられる。いたがって、この技術は、個々の仕事のコツまでまねできなかったとしても、だれもその原理は知っていた昔の手仕事と同様に、局外者に理解でき、そして明瞭なものであるとみられた。このような技術の性格は蒸気機関の導入によっても、まだ原理的には変更されなかった。しかしながらこの時点以降、技術の伸長は未曽有の尺度で増大した。なぜなら、いまや石炭に貯えられた自然力を人間の奉仕に変えることができ、人間のそれまでの手工労働が消滅したからである。
 しかし、技術の性格の決定的変化は、まず前世紀後半における電気技術の発展とともに起こった。ここでは昔の手仕事との直接の結びつきは問題にならなかった。むしろ自然における直接経験からはほとんど知られなかった自然力の利用が問題になった。したがって電気技術は今日でもなお多くの人間にとっては不気味なものを持っている。少なくとも人々はそれがわれわれをめぐっていたるところに顔をだしているにもかかわらず、しばしそれを不可解なものと感じている。われわれが近づいてはならない高圧線は、自然科学が応用している力の場の観念を、まさに実地で教えてくれる。しかし本質的には自然のこの領域はわれわれには縁遠いものである。複雑な電気装置の内部に目をやることは、往々にして外科手術を見ているように不愉快である。 
 (中略)原始技術では、素朴な経験の世界からの道が通じていない自然力の利用が、結局、問題であろう。この技術もおそらくまた、電子技術が近代人に対すると同様に、結局は我々に対し周知のものになるであろう。電気技術は、もはや近代人が直接関係する外界から離しては考えられないのである。しかしながらだからといって日常われわれをとりまいている事物もまた、自然という言葉の本来の意味において自然の一部にはならないであろう。おそらくまもなく多くの技術的装置は、カタツムリの殻がカタツムリに、あるいはクモの糸がクモに必要欠くべからざるものとなっているように、人間に必要欠くべからざるものになるのであろう。しかしそのさいにもなお、装置はわれわれを取りまいている自然の一部であるよりは、むしろわれわれ人間という有機体の一部となるであろう。(ヴェルナー・ハイゼンベルク著『現代物理学と自然像』2 技術より 尾崎辰之助訳)≫

・・・ここで、手作業と仕事のコツについてあるところがミソ。

≪-人間と自然の関係への技術の侵入-
 同時に技術は、人間の環境を大幅に変え、世界の自然科学的側面を直接かつ不可避的に、人間の眼前に導くことによって、人間と自然の関係の中に深く侵入する。個々の事象を、ときには分析し、ときには究明し、そして関連から関連へと前進するといった方法で全宇宙に探りを入れたいという自然科学の要求は、技術に反映する。技術は一歩一歩、つねに新しい領域に突き進み、我々の環境をわれわれの眼前で変え、そしてそれにわれわれの像を刻印する。自然科学における、個々の問題は、自然を全体として理解しようという大きな課題に属するのであるが、同様に個々の細微な技術的進歩は、人間の物質的力を拡大しようという一般的な目的に奉仕する。この目的のもつ価値は自然科学における自然認識の価値と同様疑問の余地はない。そしてこの二つの目的は陳腐な標語「知は力なり」において一致する。なるほど個々の技術の過程が共通目的に従属することは証明できるとしても、個々の技術の過程はしばしば全体目的は間接にしかつながっていないために、われわれは個々の技術の過程を全体目的の達成を意識した計画の一部以上のものと解し得ない、というのが全体の発展の特徴である。このような状況下にあっては、技術は物質的力の拡大のための人間の意識的努力の産物としてよりも、むしろ人間という有機体に組み込まれた構造がますます大規模に人間環境に移される全体としての生物的過程とみなされる。そして一つの生物的過程は、まさに生物的過程であるがゆえに、人間による制御はない。なぜなら、「人間は意欲したことをすることができるが、何を意欲するかを選ぶことはできない。」同上2 技術より≫

・・・ここまでが前提としてあって、『荘子』が登場します。

ヴェルナー・ハイゼンベルク(Werner Heisenberg,1901~1976)。

≪ 3.人間と自然の相互作用の一部としての自然科学
-技術と生活様式の変化-
 このような事情において、しばしば次のようなことが言われた。すなわち技術時代における我々の環境及び生活様式の深刻な変化は、われわれの思想にも危険な変化を与えたとか、われわれの時代をおびやかし、また、たとえば芸術にさえも現れている危機の根元は、ここに求められるべきであると。この異議はもちろん現代の技術と自然科学よりも古い。なぜなら、技術と機械はその原始的な形態ではすでに古くからあったので、人間はすでにとうの昔にそのような問題について考えさせられていたからである。たとえば二千五百年以前に中国の賢人、荘子はすでに人間に対する機械使用の危険について述べた。わたしはここに、われわれの課題に重要な、その一部を引用したい。
 「子貢が漢江の北の地方を通ってきたとき、かれは野菜畑で働いている一人の老人を見た。かれは水を引くために溝を掘っておった。老人は自分で泉へ下りて行き、水のいっぱいはった桶を抱えて上っていき、それを溝に流した。かれはとてもつかれ、なかなか仕事ははかどらなかった。
 子貢は言った。一つ仕掛けがある。それを使えば一日で百杯の水をまくことができる。あまりつかれずにたくさんの仕事ができる。それをつかって見る気はないかね。農夫は顔を上げ、かれを見て言った。いったい、それは何だ?
 子貢は言った。“後は重く、前は軽く木で作ったテコの柄を使うんだ。それを使えば、そのあたり一面に流れるほど水を汲みあげることができる。それはつるべ井戸というものだ。”
 そのとき老人の顔に怒りがあらわれた。そしてかれはあざ笑いながら言った。“わしはわしの先生がおっしゃるのを聞いたことがある。人が機械を使えば人は自分のすべての仕事を機械的に片付ける。自分の仕事を機械的に片付ける人は機械の心を持つようになる。人が機械の心を胸にもっておれば、その人から素朴さが失われる。素朴さを失った人は、その精神の制御が不安定になる。精神の制御の不安定は、本当の思慮分別とは調和しないものである。つるべ井戸をわしが知らなかったことを恥じるよりも、わしはそれを使うことを恥ずかしいと思う”。」
 この昔物語が少なからぬ真理を含んでいることはだれでも認めるだろう。なぜなら、「精神の制御の不安定」ということは、われわれが現在の危機の中にある人間の状態に与えうる、おそらくもっとも適切な表現の一つであるからである。技術、機械は中国のいずれの賢人も予想できなかったほど、広く世界に広まり、二千年後にもっとも美しい工芸を地上に発生した。そしてあの哲学者が述べた精神の素朴は全く失われたのではなく、世紀の経過のうちにあるいは弱く、あるいは強く現象の中にあらわれ、ますます実り多くなった。結局人類の向上は確かに道具の発達によって成就された。今日それぞれの立場における連鎖の意識が失われたことに対する根本原因は、とにかく技術そのものにはない。
 いろいろな困難の原因が、最近五十年間の突発的な、以前の変化に比べて異常に急速度な技術の拡大にあるとするならば、それは真実に近いであろう。なぜなら、前世紀に比べて急速度の変化が人間に、新しい生活状態に順応する時間を与えなかったからである。しかし、そのことをもってしてもなお、なぜわれわれの時代が明らかに一つの全く新しい、歴史上その比を見ない状況の前に立っているように見えるかは、正しく説明もされなければ、完全には説明もされない。(同上)≫

・・・ここに『荘子』の天地篇にある「機械の心(機心)」の記述があります。

この後に、
≪以前人間は、自分が自然と対立していると考えていた。あらゆる種類の生物の住んでいる自然は一つの領域であり、それはそれ自身の法則に従って存続し、その中で人間は自分の生存を何とか適応させなければならなかった。しかしわれわれの時代では、われわれは人間によって全く変えられた世界に生活している。それでわれわれは、日常生活の諸器具を取り扱おうと、機械で作った即席食事を摂ろうと、あるいは人間によって変えられた風景を通り抜けようと、いたつところで絶えず、人間によってもたらされた創造物に出会う。そしてわれわれは、絶えずわれわれ自身に出会うのである。たしかにこの経過がまだ終了していない地方もある。しかし早晩これに関して人間の支配が完成するはずである。(中略)むしろわれわれは最初から自然と人類の対立の中間に立っており、自然科学はその中間の一部分に過ぎないのである。それゆえ、世界を主観及び客観、内界及び外界、肉体及び精神と断層的に分割することはもはや適当ではなくなり、困難に陥ることになる。したがって自然科学においてもまた、探求の対象はもはや自然自体ではなく、人間の質問にかけられた自然であり、その限りにおいては、人間もふたたび、自分自身と向かい合うのである。
 あきらかにわれわれの時代は、あらゆる生活領域においてこの新しい状況を甘受しなければならないという、課題を負わされている。そしてそれが到達されたときはじめて、中国の賢人が言う、「精神制御の安定」が人間によって再発見される。その目標への道は長く、かつ苦渋に満ちているであろう。そしてわれわれは、途上にいかなる苦しみの階段があるかを知らない。(同上)≫

と続きます。

文字数ぎりぎり。

今日はこの辺で。


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