人生朝露

人生朝露

プーさんと老荘思想。

荘子です。
前回の続き。

参照:『竹取物語』と荘子。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5193/

日本の物語文学の黎明期にも影響が見られる『荘子』ですが、今回はちょっと変り種を。老荘思想の関連書になぜかついてくる「くまのプーさん」について。

たとえば、
『くまのプーさん 心がふっとラクになる言葉 』。『くまのプーさん 小さなしあわせに気づく言葉』
PHPから『くまのプーさん 心がふっとラクになる言葉 』『くまのプーさん 小さなしあわせに気づく言葉』という本が出ていまして、それぞれ、『老子』『荘子』、明の時代に洪自誠が著した『菜根譚』の言葉を、プーさんの挿絵と共に載せています。

『くまのプーさん心を見つめる言葉 くまのプーさんと読む「論語」』。
さらに最近では、『くまのプーさん心を見つめる言葉 くまのプーさんと読む「論語」』なる、プーさんと論語の本まで登場しておりまして(ウォルト・ディズニー・ジャパン株式会社 監修!)、中国古典といえばプーさんというような不思議な流れがあります。

“The Tao of Pooh ” Benjamin Hoff
「プーさん」と中国古典の抱き合わせ。源流に遡ると、1982年に刊行された“The Tao of Pooh ”という書物に突き当たります。著者はアメリカ人、ベンジャミン・ホフ(Benjamin Hoff 1946~)という人物です。『クマのプーさん』と老荘思想の紹介本として、80年代には世界的なベストセラーであったそうです。日本語版は1989年に発刊されています。

・・・そもそも、プーさんと老荘思想に関係はあるのか?
『タオのプーさん』によると、一つはプーさんの人格、もう一つは名前です。

素樸(素朴)。
紀元前の書物にもあり、現在も使われている言葉の中に「素朴(素樸)」という言葉があります。日中ともに使用されて意味もほぼ同じ、なんですが、これは老荘思想の言葉でして、中国語では「sùpǔ」と発音します。素朴の朴(樸)の字の読みが「プー」なんです。

原木を彫る我王。
・・・「樸(あらき)」とは、人為の加わる前の原木のことです。

『タオのプーさん』 ベンジャミン・ホフ著。
≪ <樸>(あらき)の原理で肝心な点は、本来の素朴さを備えているものには生来の力がある、ということだ。素朴さに変化が起こると、その力はたちまち損なわれ、失われてしまう。代表的な中国の辞書で樸(プー)という漢字を見ると「自然な、単純な、飾り気のない、正直な」という定義が出ている。樸(プー)は二つの文字でできている。まず、基本的な意味である「偏」は、樹木や木材という字。そして、音をあらわす「旁」はうっそうと茂るものとか、茂みという漢字。それで「茂みのなかの木」ないし「切られていない木」というあたりから「自然の状態にあるもの」という意味が出てくる---一般にタオイストの著書の英語版では「彫られていない木(アンカーヴド・ブロック)という言い方をする。
 このタオイストの原理の基本は、自然のままの美しさと機能を持つものだけでなく、人間にもあてはまる。それからクマにも。(平河出版社刊 ベンジャミン・ホフ著 吉福伸逸、松下みさを訳 『タオのプーさん』より)≫

Wikipedia The Tao of Pooh
http://en.wikipedia.org/wiki/The_Tao_of_Pooh

老子(Laozi)。
『絕聖棄智、民利百倍。絕仁棄義、民復孝慈。絕巧棄利、盜賊無有。此三者以為文不足。故令有所屬。見素抱樸、少私寡欲。』(『老子道徳経』第十九章)
→聖を絶ち、智を棄てれば、民の利は百倍する。仁を絶ち、義を棄てれば、民は孝慈に立ち返る。巧を絶ち、利を棄てれば、盗賊はいなくなる。この三つの言葉では足りないので、それにつないでこう言おう。「素を見せて樸(あらき)を抱き、私を小さく、欲を少なくせよ」と。

Zhuangzi
『故至徳之世、其行填填、其視顛顛。当是時也、山無蹊隧、澤無舟梁。萬物群生、連属其郷。禽獣成群、草木遂長。是故禽獣可係羈而遊、烏鵲之巣可攀援而閲。夫至徳之世、同與禽獣居、族與萬物並、悪乎知君子小人哉。同乎無知、其徳不離。同乎無欲、是謂素樸。素樸而民性得矣。』(『荘子』 馬蹄 第九)
→ゆえに、至徳の世というのは、束縛もなく人の行いは穏やかで、人々の瞳は明るかった。かつての至徳の世では、山には道も拓かれず、川には舟も無かった。万物は群生して、棲み分けをする必要もなかった。動物たちは群れを成し、草木は伸びやかに成長した。ゆえに、動物を紐に繋いで共に遊ぶことが出来たし、木によじ登って、カササギの巣をのぞいてみることができた。その至徳の世においては、動物たちと同じ場所に住み、万物と並んで暮らしていた。そこに君子や小人なんているはずがない。人々はさもしい知識も持たず、徳が心から離れず、無欲でいた。これを「素樸(そぼく)」という。素樸だからこそこそ民はあるがままでいられる。

『荘子』の場合には、道具の使用や、社会性、広い意味での人為、すなわち「文明」を「獲得」する以前の人の姿を描写する場合に「素樸」という表現をしています。

日光東照宮 陽明門 三聖吸酸。
↑の英語版Wikipediaのページでもわかるように、この本は、『三聖吸酸図』の解説もやっています。
世界遺産・日光東照宮の陽明門の彫刻でも有名なモチーフです。

『タオのプーさん』 ベンジャミン・ホフ著。
≪三人の男が、大きな酢桶をかこんで立っている。それぞれの指に酢を浸して、味見をしたばかりだ。ひとりひとりの表情に、三人三様の反応があらわれている。絵は寓話的なものだから、このひとたちがただの酢の味ききではなく、中国の「三教」の代表だということ、そして味を見ているその酢が人生の本質(エッセンス)を象徴していることを心得ておくほうがいいだろう。三人の導師(マスター)とは、孔子、仏陀、そして現存する最も古いタオイズムの著者、老子だ。一人目はすっぱそうな表情を浮かべ、二人目は苦い顔、なのに三人目はほほえんでいる。
 孔子にとって、人生は、どちらかというとすっぱいものだった。現在は過去と足なみをそろえていないし、地上の人間のまつりごとは、宇宙のまつりごとである<天の道>と調和していないと考えていたのだ。だから彼は<先祖>をうやまうことを、皇帝が<天子>として無限の天と地を仲立ちする、古来の典礼や儀式と同じくらい重視した。儒教のもとでは、整然とした宮廷音楽、定められた立居振舞と言いまわしを用いる非常に複雑な儀式制度がつくりあげられ、それぞれ特定の目的で特定の時に使われていた。孔子について、こんな言葉が記されている。「敷物がまっすぐでなければ、師はお座りになろうとしなかった」。これで、儒教のもとで諸事がどのように行われたかおわかりだろう。
 絵の中の第二の人物、仏陀にとってこの世の生活は苦しみを招く執着や欲望に満ちあふれた苦々しいものだった。この世は罠をしかけ、妄想を生みだし、あらゆる生き物をを苦しめる際限のない輪廻であるとみなされた。心の平安を見出すには、この「塵界」を超え、サンスクリット語で文字通り「無風」状態を意味するニルヴァーナ(涅槃)に達するしかない、と仏教徒は考えた。発祥の地インドから中国に渡ったのち、仏教は本来楽天的な中国人のおかげでずいぶん変わったけれど、それでも敬虔な仏教徒は、日常生活の苦い風にニルヴァーナの道をさまたげられる感じることがしばしばだった。
 老子にとって、そもそものはじめから天地のあいだにあった自然の調和は、だれもがいつでも見出しうるものだった。といっても、儒教のきまりにしたがっていては無理だ。『道徳経』にもあるように、地は、その本質において天を映しだしており、おなじ法則によって営まれている----人間の法則によってではない。これらの法則は、遠い惑星の回転ばかりでなく、森の鳥や海の魚の活動にも影響をおよぼしている。老子によれば、宇宙の法則によってつくりだされ、支配されている自然のバランスに人間が介入すればするほど、その調和は遠のいてしまう。無理をすればするほど、問題が大きくなる。軽重、乾湿、遅速にかかわらず、万物はその内に独自の性質をもっており、それを無視すると面倒が起こらずにはすまない。観念的で一方的な規則が外から押しつけられれば、どうしても軋轢が生じる。人生がすっぱくなるのはそのときだけだ。
 (中略)それから何世紀ものあいだに、老子の古典的な教えは、哲学的、求道的、民間宗教的な諸形態にわかれて発展していった。これからすべて大きくひとまとめにして、道教(タオイズム)と呼ぶことができる。けれど、ここでとりあげているタオイズムの基本は、あらゆる日々の営みの真価を充分に認め、それから学びとり、それとつきあっていく、ひとつの特別なやり方にすぎない。タオイストの見方では、この調和のとれた生き方がおのずから幸福をもたらす。明るい落ちつきこそ、タオイストの人格のいちばん目立つ特徴といっていい。それに微妙なユーモアのセンス。これなどは、たとえば二千五百年前の『道徳経』のような、もっとも深遠なタオイストの書物にさえ見られる。老子と並び称される道教の第二の大家、荘子の著したものを読むと、泉からわきでる水さながら静かな笑いがこみあげてくるようだ。

 「でも、それがお酢となんの関係があるの?」と、プーがきいた。
 「それは説明したと思ったよ」と、ぼくはいった。
 「ぼくはそう思わないな」
 「それなら、いま説明しよう」
 「それがいい」

 例の絵で、老子はなぜほほえんでいんだろう?ほかのふたりの表情からもわかるように、人生を象徴するその酢はたしかにイタダケナイ味だったにちがいない。けれども、人生で起こるさまざまなことと仲良くつきあっていくことで、タオイストは、ほかのひとなら否定的にとらえるかもしれないことを、肯定的なものに変えてしまう。タオイストにいわせれば、酸いも苦いも、ありのままを受け容れようとしないおせっかいな心から出ているのだ。あるがままに理解して役立てれば、人生そのものは甘い。それが『酢を味わう者』のメッセージだ。(同上)≫

今日はこの辺で。


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