占星術オフィス アルクトゥルス

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御者・馬・馬車

御者・馬・馬車――多様な側面から



質問者 気づきは意識の一形態ではないでしょうか?

マハラジ 意識の内容が好き嫌いなしに見られたとき、その意識が気づきなのだ。だが、意識のなかに反映された気づきと、意識を超えた純粋な気づきとには違いがある。反映された気づき、「私は気づいている」という感覚は観照者だ。一方、純粋な気づきは実在の本質なのだ。(456p)

マハラジ (「私は在る」に気づきの焦点を合わせつづけることで)ひとたび意識と無意識が自由に混ざりあえば、二つはひとつになり、ひとつはすべてとなる。個人は観照者のなかに溶け、観照者は気づきのなかに、気づきは純粋な存在のなかに溶ける。しかし、それでもアイデンティティは失われない。ただその限 界が失われ変容されて、真我、サットグル(真の師)、永遠の友達、そして導き手となるのだ。(465p)

--以上、『アイアムザット』(ナチュラルスピリット)より引用。

スーフィズムの御者・馬・馬車のたとえでいうと、マハラジの言う「意識」は御者にあたる。グルジェフのシステムだと「思考オクターブ」、神智学だと「メンタル体」といったところか。そして、「意識の中に反映された気づき」「私は気づいている」「私は在る」という状態は、この御者が自分自身に気づいている状 態、いわゆる自己想起の状態である。

グルジェフのシステムでは自己想起の努力は「ド48(思考オクターブ)」であり、その確立(自己意識)は「レ24」となるだろうか。ただし、注意すべきはグルジェフの考えた自己想起のプロセス自体はそこで終わりではないということ。

グルジェフは、「自己想起によって頭の中に生じたなにかが腹部に流れていくにまかせる」といったニュアンスの説明をしているのだが、高弟であったウスペンスキーの理解による自己想起では、「見ている自分に気づく」というだけで終わってしまっているように思える。つまり、見ている「I」を想起するだけで終 わってしまい、ついに「AM」へ至ることがないのだ。「AM」へ至ったときに体感的に感じられるのが、「腹部への流れ」なのだろう。

ウスペンスキーが死のまぎわになって気づいた「過ち」とは、おそらくはそのことだ。彼は自分の理解が間違っていて、自己想起の修練が本来の成果を上げていないことに気づいたにちがいない。

グルジェフは「私」の三つの位相として「I」「ME」「AM」を説いているのだが、この「AM」(純粋な気づき)こそが、御者のさらに上位にいる「主人」、マハラジの言う「純粋な存在」への架け橋となるのだろう。神智学ではその純粋な気づきは「魂(コーザル体)」と呼ばれ、純粋な存在は「霊的トライ アッド(メンタル-ブッディ-アートマ)」と呼ばれる。

ところで、アジズ・クリストフのシステムはほとんどマハラジの教えと同じに思える。「ステート・オブ・プレゼンス」は「『私は在る』に気づきの焦点を合わ せつづけること」に、「アウェアネス」は「純粋な気づき」に、「絶対状態」が「純粋な存在のなかに溶ける」ことに対応しているのだろう。

ただし、個人的にはアジズのメソッド自体に疑問を感じるところが少なくないし、グルジェフも技法としては自己想起をうまく説明できなかった。その点、ダグラス・ハーディングのメソッドは非常に良くできていると思える。その理論的な背景として、半田氏のヌース理論をもってきたいところだが、なにぶん、ヌース 理論は非常に難解なので、理解までには時間がかかりそうだ。

(c)神谷充彦



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