感想文



<下書きその1>     やまんばあさんとわたし(meimei)

 やまんばあさんはスーパーおばあさん。山から町まで三分十八秒で行くとか、とてつもなく高い松の木に登ったり、車より早く走ったりする。やまんばあさんがスポーツせん手だったらきっと新記録を打ち立てるだろう。
 やまんばあさんは人間とはぜんぜんちがうことも考える。たとえば、車と走って競争しようとか、時計台の上に上っておどるとかね。
 でも空にプカプカうかぶ雲を食べたいなと思ったり,友だちが帰った時にさみしいなと思ったりするのは、わたしとよくにている。わたしも遊びにきた友だちが帰った時はさみしいから、同じところもあるんじゃないかな。
 やまんばあさんは二百九十六歳だけど、あんなことをやってみたいな、こんなこともやってみたいという好奇心のかたまりだ。
 何かをするとき、はじめから「だめだろうな。」って思う人もいるし、「あっこれやってみたいな。よし、やってみよう。」と思う人もいる。わたしもだめだなって思うときもあるけれど、ぜんぜんみこみがないわけじゃないのだから、やまんばあさんみたいに前むきにちょうせんしてみるのが好きだな。
 やまんばあさんは、まだ子どもみたいに未来のことばっかり頭にあるんだと思う。やまんばあさんの心はゆめときぼうでいっぱいなんだろうな。それはわたしが明日は体育の時間があるからうれしいなとワクワクしたり、休み時間にする遊びをいっぱい考えてドキドキするのと同じ気持ちなんだと思う。きっと自分をぜんぜん「ばあさん」だと思ってないんだろうね。まだまだ心がおばあさんになってないんだよ。
 恩返しのことだけを考えたり、たぬきと救助隊ごっこをしようと思いついたり、
時々自分のことだけを考えていて、大きな子どものようなところもあるけれど、カラスのひなのめんどうをみるとか、とってもやさしいところもあるんだよね。
 町のおばあさんとやまんばあさんが「こんなに楽しかったことは何十年ぶりでしょうねえ。」「わたしも本当に楽しかったよ。」と話しているのを読んだとき、わたしは神戸のおばあちゃんのことを思い出した。
 わたしのおばあちゃんは神戸にいて一人で住んでいる。目がわるいのでつえをついている。最近は体の調子がよくないので、時々しかこれなくなった。
 おばあちゃんがわたしの家に来た時には、いろいろなお話を聞かせてもらったり、しりとりやアルプス一万尺をしたり、おばあちゃんの好きな「やしの実」の歌を一緒に歌ったりする。この前は、おばあちゃんのベットの上で、お姉ちゃんとわたしとおばあちゃんの三人でタオルケットをかぶって「ひょうりゅうきごっご」をした。「わー、船がゆれる。わー、氷山にぶつかった。あっしおのながれがかわった。」と言うと、ヨルダンについていたり、ロシアについていたりする。島にのりあげたりもする。おばあちゃんは「キャー、こわいー。」とか言ったりするので、よけいにいたずらな気持ちがして、とびはねるほど楽しい。
  おばあちゃんは神戸では一人でぼそぼそ食べるのでごはんがまずいそうだ。でもわたしの家にくると「みんなでにぎやかに食べるのでとってもおいしいわ。」という。
 さよならするときは、いつも泣きながら「またね。とっても楽しかったわ。ありがとうね。」と言ってぎゅっとわたしの手をにぎる。わたしももう遊べないのでとってもさみしい。だから車が見えなくなるまでずっと手をふっている。
 やまんばあさんは、ともだちと別れるときに「小切子竹」というすばらしいおみやげをあげた。その竹をカコーンンとならすと、はなれていても、いつでもその人の声や歌が聞けたり、すぐにあうことができるのだ。そんなおみやげをもらったら、別れ別れになるのもさみしくないよね。
 わたしは小切子竹はもっていないけれど、わたしの家には小切子竹とちょっとだけにているものがあると思う。それはね、電話。
 今日の夜おばあちゃんに電話をかけて、また秋の運動会には遊びにきてねってお願いしようと思う。わたしのおばあちゃんもやまんばあさんみたいにひとりで小切子竹が三回ならないかなって思っているかもしれないものね。
 やまんばあさんのともだちも、きっと今ごろ小切子竹をカコーン、カコーン、カ
コーンとならしているかもしれないね。

★以上で5枚になってしまい、感想文は3枚までなので短く書き直す。

<下書きその2>    やまんばあさんとわたし(meimei)

 やまんばあさんはスーパーおばあさん。山から町まで三分十八秒で行くとか、とてつもなく高い松の木に登ったり、車より早く走ったりする。やまんばあさんがスポーツせん手だったらきっと新記録を打ち立てるだろう。
 やまんばあさんは人間とはぜんぜんちがうことも考えるけれど、空にプカプカうかぶ雲を食べたいなと思ったり,友だちが帰った時にさみしいなと思ったりするのは、わたしとよくにている。
 やまんばあさんは二百九十六歳という年よりなのに、あんなことをやってみたい、こんなこともやってみたいという好奇心のかたまりみたいだ。
 何かやったことのないことをするときに、はじめから「だめだろうな。」って思う人もいるし、「よし、やってみよう。」と思う人もいる。わたしもだめだなって思うときもあるけれど、まったくみこみがないわけじゃないのだから、やまんばあさんみたいに前むきにちょうせんしてみるのが好きだな。
 きっとやまんばあさんの心の中は未来のことでいっぱいなんだろうな。それはわたしが明日は体育の時間があるからうれしいなとワクワクしたり、休み時間にする遊びをいっぱい考えてドキドキするのと同じ気持ちなんだと思う。
 町のおばあさんとやまんばあさんが「こんなに楽しかったことは何十年ぶりでしょうねえ。」「わたしも本当に楽しかったよ。」と話しているのを読んだとき、わたしは神戸のおばあちゃんのことを思い出した。
わたしのおばあちゃんは神戸にいて一人で住んでいる。目がわるいのでつえをついている。最近は体の調子がよくないので、時々しかこれなくなった。おばあちゃんは神戸では一人でぼそぼそ食べるのでごはんがまずいそうだ。でもわたしの家にくると「みんなでにぎやかに食べるのでとってもおいしいわ。」という。さよならするときはいつも泣きながら「またね。とっても楽しかったわ。ありがとうね。」と言ってぎゅっとわたしの手をにぎる。わたしももう遊べないのでとってもさみしい。だから車が見えなくなるまでずっと手をふっている。
やまんばあさんは、ともだちと別れるときに「小切子竹」というすばらしいおみやげをあげた。あんなおみやげをもらったら、さよならするのもさみしくないよね。
 小切子竹はもっていないけれど、わたしの家にもちょっとだけにたものがある。それはね、電話。今日の夜はおばあちゃんに電話をかけて、秋の運動会には遊びにきてねってお願いしようと思う。
 やまんばあさんのともだちも、きっと今ごろ小切子竹をカコーン、カコーン、カ
コーンと三回ならしているかもしれないね。


<清書>     やまんばあさんとわたし(meimei)


感想文 課題図書 おじいちゃんの桜の木

           きずな(jiejie)


 「それはおじいちゃんの桜の木だ。」そう言ってトニーノは木から下りませんでした。
 世の中には、必死で守らないといけないものがあるのだと思います。それは、家族だったり、自然だったり、思い出だったり、人それぞれですが、みんな心のどこかで大切にしているものです。
 私の祖父は、私がちょうどトニーノと同じ年のころに病気で亡くなりました。祖父は、私が生まれた記念にびわの木を植えてくれています。今では毎年、そのびわの実をたべるのが楽しみです。もしいつか、このびわの木が切られることになってしまったら、きっと私も思い出が木といっしょに失われていくように感じる事でしょう。
 一方、「ぼくはもうおじいちゃんに会いに行こうとは思わなかった。」というトニーノの言葉は、まだ小さいからとはいえ、私にとってとても悲しいものでした。もし私だったら、あんなに楽しく遊んだおじいちゃんを「色のない家」で一人ぼっちにはできないと思います。たとえ、私がだれだかわからなくても、病院へ行って、そばで歌をうたってあげたり、お話をしたり、以前おじいちゃんがしてくれたことを、今度は私がしてあげたいと思います。
 また、私はトニーノのママをかわいそうに思いました。それは、いつもイライラして、子どもに対して自分勝手な感じがするからです。田舎の両親が大好きなのに、やつあたりしているように見える時もあります。きっとママは、心のどこかで分かっていたのではないでしょうか。自分の生きる場所がここにないということを。そんなママのきもちをパパは何もわかってはいませんでした。いや、理解しようともしなかったのです。もしかすると、パパは田舎に住むのがとてもこわかったのではないでしょうか。だれだって何も知らないところへ行くより、良く知っている所のほうがいいのですから。
 しかし、最期にはパパも加わって三人で桜の木を守りました。どうしてパパの気持ちが変わったのでしょう。それはきっとママとトニーノが桜の木を心から大切に思っていることが良くわかったからではないでしょうか。パパは二人のことを大好きだと思っているし、大事だとも思っているのです。パパにとって桜の木はただの木でした。でも大切な人がそれを守ろうとしているのを見た時、パパは桜の木を家族の一員として受け入れ、守る決心をしたにちがいありません。新しい「家族のきずな」が桜の子によあって育てられたのです。「死」は暗く悲しいものとして、だれからもおそれられていますが、はなればなれになっていた三人の心は、オッタビアーノおじいちゃんの死によって結ばれ、パパとママとトニーノは、より豊かに生きる力を与えられたのにちがいありません。私は、これからも人とのきずなを大切にし、より豊かに生きる力を探して大きく羽ばたいていきたいです。




© Rakuten Group, Inc.
Mobilize your Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: