AGNUS DEI    結城やすはの部屋

AGNUS DEI 結城やすはの部屋

『天空の煌めく太陽~ホルス~』序章

太陽煌めくパピルスの生い茂る川のほとり、少年は一人で遊んでいた。

母と叔母と彼は、王都を遠く離れ、彷徨っていた。
ふたりが語るところによると、自分の命は『風前の灯』だと言う。
何に対して怯えているのか、多くを語らない。
自分を幼い、何も分からない子供だと思っているのだろう。
少しでも問い詰めようとすると、母は、
「幼い、あなたにはお話できないことなのです。分かってくださいね。
そして、少しでも早く大人になって、母たちを救ってください」と言い、
叔母は、「あなたの母上の言われるように、いといけない、あなたの耳に入れるのを憚られる事柄ばかり、でも、できる限り、わたくしたちがあなたを護ります。どうか、強く、賢くお成りあそばせ」とのたまう。
子供には話せない、早く大人になれという、矛盾。
それに彼らは気が付いているのだろうか?

そして、この川の辺の小屋に移ってきて、数日――。
気を付けて留守番するように言いおいて、今日も外出している二人。
そろそろ、一人で遊んでいるのにも飽きてきた。
川の淵に木切れの船を浮べて遊ぶのも、だれてきた。
寝そべって、怠惰に水面を眺める。
だが、この小屋から少しでも離れていることが、母や叔母にバレたら……
それは、もう、死ぬほど退屈な説教が待っている。
お互いのためにも、小屋から離れないに限るのだ。
それに、間も無く 自分を訪ねてくる者がいるはず……。
今日は、いったい誰が来るのだろうか?
ほら、パピルスの茂みが風もないのに、靡いて騒めく。
微かな人の気配を感じる。その人間が自分の気配を探っているのも分かる。
ぼんやりと近付いてくる相手を見ている間に、茂みがサッと割れて、彼の前に人影が現れた。
「ずいぶん、間の抜けた顔をしているな、オレの顔に何か付いているか?」
ぶっきらぼうなことば遣いだが、人は悪くなさそうだ。
切れ長の眼を自分に当てて、ニヤリと笑った。
「あ……、何も付いていないけど……」
「ふん、それなら、腹でも空いているのか? これでもカジッてろ」
少年は手に持ってきたナツメヤシを投げて寄こした。
「今日は、遅かったね、」
ナツメヤシを頬張りながら、思わず口籠もった僕に、少年は眉をしかめて鼻を鳴らした。
「今日は、も何もないだろう? オレたちはここで初めて逢ったんじゃないか!」
「あ、そう、そうだったね。僕はホルス。君の名前は?」
ガミガミと噛み付くように言っていた彼は、溜息をついて、肩を竦めた。
「オレの名は、ステク。ステクって言うんだ」
「ステクか……。テーベの名前じゃないね。どこから来たの?」
「シリアからだ……」
2人で、僕が寝そべっていた川のほとりに並んで腰を下ろした。
「…それで、もう分かってしまったのであろう?」
少年は取り出したナツメヤシをカジッて、いきなり口調を変えた。
「うん……」
「何時から分かったのだ?」
ゆっくり頷いた僕に、ステクと名乗った彼は溜息をついて訊ねた。
「最初から。パピルスの茂みをこっちに向って来た時から。セテフのことはなぜだか分かるんだ」
「そうか、気配から我が分かってしまうのでは、もうダメかも知れぬ、な」
子供らしからぬ表情を浮べて、ステクことセテフは呟いた。
そんな、セテフにいつもの彼の表情を見つけて、僕はホッとしたように微笑んだ。
 何時の頃からか、母、イシスと叔母、ネフティスが長時間外出している時に限って、僕の側に彼が来るようになった。最初、召使や侍女がいる時には、遠くにいたようだ。
だが、本当に何時の頃からか、彼が側にいるのが至極 自然なことになった。
不思議なことに、彼は、女にも、男にも、年寄りにも、青年にも、子供にもなった。
たぶん、人ではないのだろう。
それが、分かる自分自身も人間ではない。
自覚はないが、母や叔母に言わせると、
「あなたの父はオシリス、世界を治める神なのです。母はイシス。オシリスの妻です」
その時にはピンとこなかったが、確かにそうかもしれないと納得できることもあった。
自分に敵意を抱いている者、そうではない者、そして、セテフのように自分の身を変えてくる者が分かるのだ。普通の人では、そういうことはできないだろう。
そして、母イシスも叔母のネフティスも、それはできないのだと言う。
それにしても、叔母はなぜ、夫である叔父セトから逃れて、僕たちといるのだろう。
僕は、それが不思議でたまらない。

「今日は、何をして遊ぼうか、ホルス?」
キラキラとした眼を自分に向けて、セテフは悪戯っぽく笑う。
「う~ん、お話が聞きたいな。ほら、毛皮のサンダルを落とした女の子の話」
「そんなものでいいのか? 剣や弓の相手をしようと思ってきたのに……」
「そんな、練習したくない。僕が逢ったこともない叔父さんを殺す練習なんて、したくないよ」
僕一人で放って置かれて、武術の訓練をして、どうするのだろう。
そう言うと、セテフの顔が少し明るくなったように思えた。
「では、『毛皮のサンダル』の話をしてやろう……」
 二人で木陰に腰を下ろして、今まで何度も話してもらった『毛皮のサンダルを落とした女の子』の話を聴いた。
それは古いエジプトの話で、ナイル川で水浴び中に、毛皮でできたサンダルを鷲に盗まれた女の子がエジプト王のお妃になるお話。
半分眼を閉じて、詩を吟じるようにセテフは話してくれる。
落ち着いた、深みのある耳触りの良い声は優しくて、今の少年の容姿には合わない。
寝そべって聴いているうちに、僕は眠ってしまった。
吐息だけで笑うような彼の呟きを聴いた気がしたけど、眠くって目蓋が持ち上がらなかった。
「よく、お休み。可愛いホルス。そなたが、叔父を厭わないことが、我は嬉しい……」
セテフと僕の叔父、セトとは何の関係があるのだろう……。
その疑問は僕の心の中に、ずっと澱のように残った。
叔父に逢う時まで、ずっと……。

                            ◇  ◇  ◇

 寝入ってしまったホルスを小屋に運ぼうと、大人に変化しようとしたセテフはそれを止めた。こちらに近付いてくる他人の気配を感じ取ったのだ。
「あの子はどこに行ってしまったのかしら。外に出てはダメだと言ったのに」
「イシスお姉さま。早く探して、ここを引き払わねばなりませんわ。セトの追っ手が迫っていると言う話ですもの」
セテフは舌打ちをして、木陰で寝入っているホルスの頬にそっと口付けた。
「また、しばらくそなたに逢えなくなるかも知れぬ。また、逢う時まで、我を忘れてくれるなよ?」鋭い眼を眇めると、二人の女に何食わぬ顔で近付いて行った。
彼の変化を見破れるのは、今のところ、ホルスしかいない。
女神と言うのに、二人には全く見破れないのだ。
「お姉さま、その子にホルスの行方を聞いてみたらどうでしょう?」
「そうね、ネフティス。――ねえ、坊や、近くで男の子を見なかった?」
「男の子? 僕より小さな子だったら、木陰で寝ていたよ」
「まあ、ありがとう……」
二人は彼に礼を言うのもそこそこに、ホルスの元へ急いで行ってしまった。
 そんな二人を見て、木陰で寝ているホルスの方がよほど用心深いと、咽喉の奥でくぐもった笑い声を上げて、セテフはその場を立ち去った。


 後年、成人したホルスは叔父セトに逢って、幼い頃の友人セテフが彼の叔父であった事実に愕然とするが、それはずっと後のことである。







                                                    おわり







解説
 このお話は、エジプト神話がモチーフになっております。
エジプト神話では、最高神オシリスとその妻イシス、オシリスとイシスの弟妹であるセトとネフティスもまた兄妹でありながら、夫婦です。
オシリスの王権が欲しいセトは、彼を騙して殺してしまいますが、それをイシスとネフティスが秘儀で復活させます。
復活したオシリスとイシスの間に生まれるのがホルスなのですが、彼を殺そうとしたセトに追われたイシスとネフティスは、ホルスが成人するまで各地を転々と逃げ回るのです。

 日本の神話と同じように兄妹同士での婚姻がエジプト神話にもあるところが不思議ですね。
しかも、それをサラリと受け流せる日本人で本当によかったと思います。
古代エジプトでは、女性に王位を補完する役割があったので、自分の王位を正当化するために(先代の王の息子でも)女姉妹や義姉妹との結婚が王位に上る条件でもありました。
そして、エジプト神話を模倣して近親結婚することは、王家の特権でもあったのです。
このお話では、イシス、ネフティス姉妹が、子供のホルスを連れてセトから逃げているところを書いています。
子供のホルスに逢いに来る『セテフ』はセトの古代名、『ステク』はセトのシリアでの名前です。
つまり、警戒や情報集めで出歩いているイシス、ネフティスの姉妹を尻目にセトはしっかり、ホルスに逢いに来ているというお話です(笑)
つまり、セト×ホルス という形になります。

古代エジプト物というと、最近では小説も多く出るようになりました。
『ラムセス2世』の小説、いずれは読んで見たいと思っています。
「古代エジプトの雰囲気を知る手引き書」として、私は、A・クリスティーの推理小説と長岡良子の漫画をお勧めします。
ぜひ、一度 手に取られてはいかがでしょう?

『死が最後にやってくる』早川文庫 アガサ・クリスティー著 加島祥造訳
『ナイルのほとりの物語』 全十一巻 秋田書店刊   長岡良子

ナイルのほとりの物語 11


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