武蔵野航海記

武蔵野航海記

鐙が世界史を変えた

鐙(あぶみ)とは、馬に乗ったときに両足を引っ掛けるものであることは皆さんもご承知と思います。

両足がだらんと鞍の両側から垂れ下がっているだけでは、体を馬に固定することが出来ず、走っている馬の上では更に両手を使わないと落馬してしまいます。

鐙を使うことによって、走っている馬の上で刀を振り回したり、矢を射ったりすることが出来る様になりました。

騎兵の誕生です。

鐙が発明される前は、軍隊の主力は戦車でした。戦う戦士を乗せた戦車には御者が必要で、混雑する戦車の上では身動きが不自由でした。

又、戦車は平坦な地面しか走れず、車軸は摩擦熱でひんぱんに折れました。

要するに戦車はそれほど優秀な兵器ではなかったのです。

そのため、市民からなる重装歩兵で十分対抗できました。

鐙が発明されたのは二千五百年ぐらい前で、黒海の沿岸に住んでいたスキタイ人が最初に使用したらしいのです。

この騎兵によって北アジアから黒海沿岸までの乾燥地帯に住む遊牧民の活動が俄然活発になりました。

孔子や孟子が生きていた春秋戦国時代の北アジアには、まだ鐙がなかったので北方遊牧民の戦力はたいしたことは無く、農耕主体のチャイナ優位の時代でした。

騎馬民族が騎兵を組織しチャイナに侵入しだすのは、ちょうどチャイナが初めて統一された二千二百年ほど前のことです。

漢王朝の創始者である劉邦は、騎馬民族である匈奴と戦って負けてしまい、匈奴の単于(王)であるボツトクが兄、劉邦が弟という関係の和睦をしています。

劉邦の子孫である武帝の時漢の国力はピークに達し、匈奴を打ち破ろうと頑張りました。

匈奴のライバルであった遊牧民の大月氏族と同盟を結ぼうとして張騫を西域に派遣します。

又、衛青や霍去病といった名将を見出して匈奴と戦わせました。そして最後に匈奴を打ち破りました。

尤も漢の方も国力を使い果たした様で、武帝の長い治世の間にチャイナの人口が半分になっています。

負けた匈奴は分裂し、チャイナへの従属を潔しとしない分派は西方へ移動します。

この西方へ移動した一派の子孫がフン族らしいのです。その王アッチラはハンガリー平原を拠点としてヨーロッパ中を荒らしまわりました。

フン族に押されたゲルマン人は、ローマの版図になだれ込んで、ローマを倒してしまいました。ゲルマン民族の民族大移動です。

余談ですが、ヨ―ロッパではこのアッチラ王はジンギスカンと並んで悪党の代名詞になっています。

しかし実際は、ナポレオン以上の軍事的天才だったそうです。

モンゴル高原に留まった匈奴は、後漢末の大混乱で人口が十分の一になってしまった穴埋めに、三国志の英雄曹操に招かれてチャイナに移住しました。

曹操の重臣の子孫が建てた晋王朝は、後継者争いで内乱が起こりました。

そして、それぞれが内地に居住していた匈奴を軍隊に編入したので収拾がつかないことになりました。

さらにモンゴル高原にいた遊牧民も侵入してきて、チャイナは大混乱になりました。

後漢末と晋末からの混乱で、以前から住んでいたチャイニーズはあらかた死に絶えてしまい、現在の北チャイナの住民は大雑把に言えば北方騎馬民族の子孫だそうです。

隋の創業者である楊堅と唐の創業者である李淵は、共に北方騎馬民族である鮮卑族の出身です。

唐の後の宋は、北方の契丹人や満州人に圧迫され、最終的にモンゴル人によって滅ぼされてしまいました。

異民族に圧迫されていた宋で民族主義が強烈になり、そこから生まれたのが夷狄を毛嫌いする朱子学です。

儒教は元来民族的差別など無い思想ですが、宋の時に排外主義的で畸形の朱子学が主流になり、それが日本に入ってきたのです。

モンゴル人が活躍したときが騎馬民族のピークでした。

ユーラシア大陸の主要部分を征服したモンゴル人は、中央アジアの平原地帯の治安を維持し交易に努めました。

その為この時代は東西貿易が栄え、世界的に好景気の時代でした。

モンゴル人の侵入に抵抗し独立を維持しましたが、東西貿易から排除され辺境になってしまったのが、ユーラシア大陸の両端であるヨーロッパと日本でした。

その後、ヨーロッパは海に活路を見出して挽回を図りました。

ロシアも近代的な武器で、騎馬民族を圧倒してシベリヤに進出していきました。

日本も若干の時間差がありましたが、明治維新で挽回をしました。

このように、世界史を巨視的に見ると二千年前から1500年間は騎馬民族が優位に立っていました。

その後の現代までの500年間は、ユーラシア大陸の端の辺境が主役に躍り出た時代です。

チャイナも14世紀にモンゴル人の元を倒して明が出来ました。

この明は17世紀に満州人に征服されましたが、満州人は遊牧民族ではなく農耕・狩猟民族ですが、騎馬の戦闘が強かったのは同じです。

満州人の版図は、今の満州、チャイナ、コリア、ウイグル、チベット、モンゴルを含む広大なものでした。

この広い領域が全て「清」という国家になったわけではありません。

これらは全て、独立した国のままでした。

明が倒れた後のチャイナの領域に満州人が清を建国し、チャイナの皇帝になりました。

その同一人物が、モンゴル、ウイグル、満州の元首を兼ねたのです。

同君連合ということです。

コリアは、伝統的に事大主義を採用していました。

大勢力に服属するということで、自国の安全を図っていたのです。

王朝が明から清に変わったときにも、自然に清に服属しました。

チベットで一番偉いのは最高位の僧侶であるダライラマで、対外的には彼がチベットの元首として行動していました。

ダライラマは僧侶ですから、独身で子孫を残しません。

そこで先代のダライラマが亡くなって一定期間の間に、男の子に生まれ変わります。

国中でその生まれ変わりの子を探し出して、次のダライラマとして育てるということを行っていました。

先代の身の回りの遺品を示してその男の子の反応を見て生まれ変わりか否かを判定したのです。

満州人の皇帝は、このチベットの習慣を尊重し、ダライラマをチベットの元首として扱っていました。

ただチベットの首都であるラサに大使を駐在させ、軍隊を駐留させて一定の影響力を保っていました。

20世紀になって孫文が革命を起こして満州人の皇帝を退位させました。

その結果、それぞれの国はばらばらの独立国に戻りました。

本来のチャイナにあった清を倒して出来たのが、中華民国です。

この中華民国とその後の中華人民共和国が、これらの国を侵略し自国の版図に組み入れてしまいました。

満州に関して言えば、もともと満州の元首であった満州人が建て、日本が応援した国が満州帝国です。

この満州帝国の正統性について、当時の列強は異議を唱えていません。

日本の敗戦後、チャイナは満州を占領しました。

従って、今でもウイグル・チベット・満州・内モンゴルでは独立運動が続いています。

日本の歴史家がなぜこの事実を書かないのか不思議でたまりません。


© Rakuten Group, Inc.
X
Mobilize your Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: