武蔵野航海記

武蔵野航海記

貞永式目

田舎の武士達が自分達の身近の問題を解決するために作った慣習法が貞永式目です。

広い世界観から考え出された膨大な法典ではありません。

自分達の社会で日々起きる紛争を解決するために、無欲のままに感じるところに従って作られていった法律です。

この法律の規定は現在の日本人もあまり違和感のない内容になっています。

場合によっては、ヨーロッパから導入した民法典より日本人の感覚にマッチするものもあります。

以下、主要な規定をダイジェストして紹介します。

(所有権は現状主義を採用)

現にその土地を占有しているものに所有権があるという考え方をとっています。

律令体制では本来土地は国有であるべきですから、完全な所有権を証明する文書などなかなかありません。

武士が現に占有している土地を安堵(所有権を確認すること)するのが幕府の存在理由ですから、現状主義の原則が出てくるのは当然です。

頼朝以来の将軍から恩賞として貰ったものを、旧所有者が訴え出ても受け付けません。

(現状主義は近代資本主義の所有権とは異なる)

実際に占有していなければ所有権を失うという考え方は、ローマ法に起源を持ちキリスト教を背景とする近代資本主義の所有権とは異なります。

近代的所有権は抽象的であって占有を条件とはしません。

占有が所有の条件というこの日本的所有権の考え方は、現在の日本人にも深く浸透しています。

長期借地人の住んでいる不動産が売却された場合、その売却額のかなりの部分を借地人が取るという慣習はその最たるものでしょう。

又、会社の創業者が実際に占有(経営)している間は、創業者の会社に対する所有権は確保されています。
しかしその子孫である大株主が経営にタッチしなくなると影が薄くなるというのもこの発想だと思います。

(取得時効を認めている)

土地を占有しているものに所有権があるという考え方から取得時効を肯定します。

本来権利が無い土地でも20年間占有していれば所有権を認めるというのです。

但し、寺社領に関しては取得時効を認めていません。

御家人が寺社領を横領したことを、時効を理由に認めたら僧兵を擁している寺社が幕府に対して戦いを仕掛けてくるからです。

一方律令は理想主義であり、理想を現実に合わせるという考え方がありませんから時効を認めていません。

(相続は被相続人の意思を尊重)

武士の間では現に土地を占有していることが所有の条件でしたから、相続人にはその土地の占有を継続出来る実力が要求されるようになりました。

そこから出生の順番より実力を備えた者に相続させるようになり、親の相続人指名を最優先するようになったのです。

跡継ぎの器量を見極めるため生前贈与も行われましたが、親がめがね違いを悟ると贈与した財産を取り返すことも出来たのです(悔い返し)。

所有者が遺言状を残さずに死んだ場合も血縁順序で相続するという「法定相続」の考え方を採っていません。

この場合でも「幕府への奉公の度合い、能力を勘案してわける」と規定しています。

従って当時の「惣領」というのも後の時代の「長男」という意味はなく、「跡目を継いだ者」という意味です。

現在の日本の民法では均分相続が原則ですが、中小企業経営者などの間では、器量のある息子ないし養子に跡を継がせるという民法とは異なる発想が今でも生きています。

一方の律令では法定相続による自動的な遺産の配分が原則です。

これはチャイナの遺産相続の原則でもあります。

(女子の相続権を認めていた)

「男女の号異なるといえども父母の恩これ同じ」として女子にも相続権を認めています。

妻にも当然相続権がありました。

亡父の財産を相続した未亡人が養子をもらって相続させることも出来ました。

現代の日本人には違和感のない規定だと思いますが、チャイニーズやコリアンは今でもこの規定を理解できないだろうと思います。

彼らにとって財産は宗族のもので、その財産が外部に流出することはあってはならないからです。

妻は宗族ではないので配偶者の相続権がないのが一般的です。

貞永式目のこの規定からも日本には宗族という概念がないことが分ります。

この規定などは、封建時代には女性の権利は一切認められなかったと思っている方には予想外のことだと思います。

なお未亡人になった後に再婚する場合は、財産を亡父の一族に返さなければなりませんでした。

(一夫一婦制を規定していた)

貞永式目の規定は妻と妾を分けています。

妾というものが規定されていますから否定されているわけではありませんが、同質のものとは考えていないのです。

チャイナやコリアでは複数の妻の間での序列はありますが、妻ということでは同質です。

日本人が妾を日陰者と考えるのはこの時代も同じでした。

(結婚を制限した条文がない)

同族と結婚することをとんでもない不道徳と考えたチャイナやコリアは族外婚ですが、貞永式目には結婚を制限した規定はありません。

また違うカースト同士の結婚が厳禁されたインドや身分違いの結婚が社会問題となったヨーロッパとも違います。

十九世紀末のオーストリアでは皇帝の息子が伯爵の娘と結婚したというのでヨーロッパ中のスキャンダルとなりました。

また、正田美智子さんが現在の天皇と結婚した時、アメリカの新聞は「彼女はただの粉屋の娘」だとデカデカと書きました。

これが四、五十年前です。結婚制度という文化の基礎的なところで日本は外国と全然違うのです。

(喧嘩両成敗という刑罰はまだ出来ていなかった)

貞永式目の刑法は、平安末期の検非違使の慣習が起源です。

事情を調査して非のある方を罰していました。

喧嘩両成敗という理屈に合わないメチャクチャな刑罰はありませんでした。

この刑罰が生まれたのは室町時代の末で、軍旅中に起こった喧嘩を鎮定し軍紀を保つためでした。

その後戦国時代には天下の大法となり百姓・町民の間にも広がったのです。

貞永式目の刑法規定もこのように全体的に穏やかなで日本人感覚に合うものでした。

だから明治になるまで600年間使われたのです。


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