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武蔵野航海記
浅見絅斎
山崎闇斎はとても近寄りがたい人で、弟子達は彼を恐れ自由に発言できるような雰囲気ではありませんでした。
しかしこの偏屈な先生に弟子が6000人いて、特に優秀な者がふたりいました。
佐藤直方(なおかた 1650~1719)と浅見絅斎(けいさい 1652~1711)です。
佐藤直方は闇斎と違って自由闊達で話の面白い人だったそうです。
彼は儒教の正統派で、本場の儒教の思想に忠実であり先生の闇斎のように我流に解釈したりしませんでした。
天子というのは道徳的に立派な聖人でなければならず、家系が昔から続いているなどということはまるで評価しませんでした。
そこから「湯武放伐論」を肯定しました。
天から見たら悪逆な王だった桀や紂は家老であり、彼らを武力で討伐した湯王や武王は物頭(ものがしら 家老より地位は低いが藩の中堅幹部)だというのです。
物頭は殿様である「天」から家老である桀や紂を討てと命じられたら討たなければならないわけです。
また日本の神話には天皇家に徳がなかったら天子を交代させるという思想がないから、儒教と神道が同じもののはずがないと考えました。
そもそも儒教は無神論であり、神を認める神道とはまるで違うものだとも考えました。
そして師である闇斎が新しい神道を創設したことを批判しました。
そこでついに闇斎は直方を破門してしまいました。
直方と一緒に闇斎の神道を批判した絅斎も巻き添えを食って破門されてしまいました。
闇斎はその最も優秀な弟子を二人共破門してしまったのです。
神道に反対した点では闇斎に従わなかった絅斎ですが、朱子学については師の闇斎の考えを受け継ぎ発展させました。
湯武放伐論を師の闇斎と同じく否定しました。
周の武王は悪逆な殷の紂王を武力で放伐しましたが、それ以前の周は諸侯の一つで殷の家来だったのです。
武王の父である文王は紂王を諌めましたが、かえって濡れ衣を着せられて幽閉されてしまいました。
文王は殷の紂王の家来で王ではなかったのですが、息子の武王が主君の紂王を放伐して王になったので、人格的に立派だったこともあり王と呼ぶのが習慣になっています。
しかしこのような仕打ちにあっても文王は紂王を怨まずかえって自分に非があったと考えたのです。
この文王は儒教では大聖人です。
この話を絅斎は、悪逆な主君からどんな仕打ちを受けても絶対服従するのが忠臣であり聖人であると理解しました。
そして湯武放伐論を否定したのです。
自分の主君である紂王のひどい仕打ちを受けても絶対服従した文王の息子が武王です。
武王は紂王を武力で討伐し自らがチャイナの王となりました。
絅斎が主張するようにどんな悪逆な主君に対しても絶対服従するのが正しいとするならば、息子の武王は悪党になるはずです。
しかしチャイナの儒教では武も聖人です。
この関係を本場の儒教では下記のように考えています。
悪逆な紂王は聖人である文王に禅譲して王の位を譲るべきだったのです。
しかし紂王はそれをしなかったので、文王の息子である聖人の武王が武力放伐をして紂王を滅ぼしたのです。
禅譲であれ湯武放伐であれ、その底に流れている思想は「道徳的に優れている聖人を天が天子に指名する」というものです。
ところが絅斎は、父の文王の態度だけを賞賛し息子の武王の行動を無視しました。
絅斎の考え方から、「君 君たらずとも 臣 臣たれ」という日本人を長い間拘束してきたこの言葉が出来てきました。
君主がどんなに変な者でも誠実に仕えなければならないという教えです。
多くの日本人は、この言葉は本場の儒教の言葉だと誤解しています。
しかし本場の儒教にはこんな言葉は存在しません。
17世紀から日本でだけ使われた言葉なのです。
チャイナでは、三度主君の行動を諌めても聞かれなかったら、家来を辞めるべきだと考えられています。
君主と臣下は他人なので契約関係を解除できるのです。
しかし絅斎の考え方では君臣関係は契約でなく逃れられない関係になっています。
逃れられない関係という点では親子関係と君臣関係は同じになるわけで、そこから「忠孝一致」という考えが生まれてきます。
前に説明したように、日本では「同じ釜の飯を食う」仕事仲間が一族だと考える伝統があります。
君主と臣下は同じ仕事をしているわけで一族だという感覚を持ちやすかったのも、この考え方が広まった原因です。
さらには「大義親を滅す」と主君のためには親も犠牲にすべきだという考えに発展していきました。
このように絅斎以後の日本の朱子学は本場の朱子学とはまるで違うものになっていきました。
この絅斎の思想から尊皇討幕思想が生まれ、最終的に徳川幕府を倒し天皇中心の政府が出来ました。
絅斎の言動を観察すると、絅斎は意図的に尊皇討幕思想を作り上げたということが分ります。
絅斎は武士の生まれではありません。米商人の息子で初めは医者になりました。
その後山崎闇斎の弟子になり朱子学者となりましたが、生涯浪人を通しました。
紀州藩から好条件で仕官の話がありましたが、彼は即座に断っています。
それは彼が日本の正統な支配者は天皇だけで徳川幕府は天皇の権限を侵していると思っていたからでした。
天皇以外のものに仕える気はなかったのです。
彼は京都に住み江戸に行こうとはしませんでしたが、それは江戸が敵地だったからです。
そして徳川幕府を倒し天皇親政の世を作るために勤皇の志士を養成しようと考えました。
そのために書いた本が「靖献遺言(せいけんいげん)」です。
明治維新はこの「靖献遺言」から始まったといっても過言ではありません。
この本で正統な王朝を守るために命がけで努力した八人の伝記を書いています。
この靖献遺言は幕末の勤皇の志士たちの聖書とでも言うべきものになりました。
また詩吟という独特の節回しを伴った詩の朗読の題材にもなりました。
志士たちはこの詩吟によってかれらの行動のエネルギーを補給したのです。
また、西郷隆盛・高杉晋作などのリーダーたちは、これら八人の一人に自分を擬している詩を作っています。
当時までの日本人には、儒教の考える正統な王朝を守るために命がけで戦った日本人などいなかったのでチャイニーズを模範とするしかありませんでした。
これらの八人の事跡は後ほど紹介しますが、絅斎はここで巧妙なすり替えをしています。
チャイニーズの八人は特定の王朝の家系に忠誠を尽くしているわけではありません。
チャイナの正義という抽象的なものに絶対的な価値を見出して、それを命がけで守っているのです。
チャイナの正義は天から指名を受けた天子を中心にした道徳的な体系ですから、八人の忠誠の対象もチャイナの基準で正統と認められた王朝に忠誠を尽くすという形になっています。
一方絅斎は日本では天皇家だけが日本の正統な支配者だとしています。
ですから、天皇家だけが正統だと考えている日本人がこれを読むと、天皇家という特定の家系に忠誠を尽くさなければならないという意味に受け取られるのです。
そして天子は天から道徳的な政治をするように命じられているというチャイナの儒教で大事な点には触れていません。
ここから天皇家という特定の家系を絶対視する「現人神」の思想が生まれてきたのです。
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