武蔵野航海記

武蔵野航海記

儒教の「天」とは宇宙の中心で、そこから物質や道徳など全ての物が発生しています。

そういう意味ではキリスト教の「神」と似ています。

しかし二つの点で違います。

一つは「天」には個性がないということです。

キリスト教の神は怒ったり妬んだりして非常に個性的・感情的です。

しかし「天」には個性が無くコンピューターの様です。

孔子以前の儒者は一種の霊媒で神を鎮めたりしていましたから、神を認めていたのですが、孔子はこれを政治哲学にしました。

そして神がかりの要素を消し去ったのです。だから儒教は無神論と考えられています。

チャイナの庶民はこのような「天」では物足りないので相手にせず「道教」を信奉しています。道教には神があります。

非常に現世利益の傾向の強い宗教です。閻魔大王は道教の神様です。

もう一つの違いは、個々人との関係です。

キリスト教の神は聖霊を通して個人を指導し、最後の審判では一人一人を裁判します。

しかし「天」は個人を相手にしません。代理人として皇帝を指名するだけです。

皇帝が道徳的であれば自然は穏やかで農産物は良く実り社会は平和になります。

天は人間社会の全体を管理するのであって個人的な面倒は見ません。

このような違いはありますが、代理人がいるということでは共通しています。

キリスト教の神の代理人はローマ法王で、「天」の代理人が天子です。

靖献遺言の頑固親父八人は「天」という抽象的な存在を絶対視しているのであって代理人である天子(皇帝)に忠誠を誓っているわけではありません。

しかし日本には「天」という概念がないし、天子である天皇は道徳的でなければならないという思想もありません。

だから昔から続いている天皇家だけが日本の正統な支配者だという「血統」の原則が儒教とは違うということに気がつかなかったのです。

そこから天皇家という特定の家系に忠誠を捧げなければならないというのが儒教の教えだという偽儒教が日本に定着してしまったのです。


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