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武蔵野航海記
明治維新
明治維新という日本史の中でも非常に重大な事件にはいくつかの特徴があります。
1868年、天皇を擁した新政府軍は京都近郊の鳥羽伏見で幕府軍を敗走させました。
この鳥羽伏見の戦いでは、御三家の一つである紀州徳川家は戦いの初日から新政府軍に参加して本家である幕府軍を攻撃しています。
御三家筆頭の尾張徳川家は態度をはっきりさせませんでした。
本場のチャイナの儒教では宗族の利益が何よりも優先しますから、この御三家の行動は儒教とは別の原則に拠っています。
また徳川譜代の筆頭格である彦根藩は最初から新政府側に立っていました。
彦根藩の前藩主は井伊直弼で、大老として幕府の権威の回復のために反幕府勢力を強烈に弾圧して、反対派に暗殺されています。
このように重代の忠実な家来だった大名家が最初から裏切っています。
鳥羽伏見の戦いに勝った後、新政府軍は戊辰(ぼしん)戦争という全国制覇戦を行いました。
このときに新政府軍と激しく戦ったのは会津藩と長岡藩ぐらいです。
徳川将軍は天皇に政治を委託されたというのが建前です。
だからこの委託を取り消された後は徳川のために戦う理由はないという理屈は一応成り立ちます。
しかし天皇は15歳の少年であり討幕の勅令が彼の意思でないことは誰でもわかります。
更に前年に孝明天皇が急死していますから、これを暗殺とし明治天皇は正統な天皇ではないと主張して抵抗することも充分可能です。
しかしこのような主張をして抵抗したということはありませんでした。
以上の諸事実から日本人には儒教の思想はほとんど根付かなかったことが分ります。
浅見絅斎が「靖献遺言」で主張した朱子学もどきの尊皇攘夷の思想も日本が平和な間は何の現実的な力を持ちませんでした。
ヨーロッパの勢力によって威嚇され日本人が強烈な危機意識を持った時に、水戸学という総合的な危機打開策としてクローズアップされただけです。
だから不要になった「攘夷」論はどこかに消えてしまいました。
やはり「尊皇攘夷」も平静な状態の日本人が充分納得した思想ではありません。
西郷隆盛は人間通でしたが、幕府勢力の掃討戦である戊辰戦争があまりにあっけなく終わったので驚いています。
そして日本人が思想に殉じるという態度をほとんど持っていなかったことが大いに不満でした。
「戦争が足りない。日本が焦土となるまで内乱で戦って初めて日本人の精神が強くなる」と口癖のように言っていました。
確かに隆盛が不平を言ったように、幕末維新の日本人は大勢に順応しました。
フランス革命から80年以上の間、革命という名の宗教戦争を続けたフランス人と比べるとその違いは歴然としています。
明治維新の時、日本人は「時代が変った」と考えたのです。
鎌倉時代の初めに明恵上人はこの日本人の発想を「あるべきようは」という言葉で表現しました。
日本人は社会や国家という人間の集団も自然の一部と考えていると喝破したのです。
自然の一部という意味では、人や動植物さらには山や月といった自然物と社会や国家は同列です。
そして人間は無欲に自然の中で本来自分が占めるべき位置を悟りそこにいるのが正しいと考えているのです。
社会は自然の一部ですからその存在と善悪は無関係です。
藩や天皇が存在しているのは、牛や馬や蚊が自然界に存在しているのと同じです。
馬の存在自体は善でも悪でもありません。ただ自然に存在しているのです。
これと同じで藩や天皇も自然に存在しているのです。
この日本人の発想は非常に特殊です。
キリスト教やイスラム教などの一神教を奉じている社会や「天」を奉じているチャイナでは、神や天といった絶対的存在が善悪を判断します。
そのような発想ですから、国民は国家組織が神や天の教えに合致しているか否かその善悪を絶えずチェックしています。
「あるべきようは」という日本人の発想は7世紀末に当時の天皇がチャイナの儒教の体系に基づく律令制度を導入したために出来てしまったのです。
日本人とはまるで発想の異なる儒教の思想によって国家組織を作ろうとして大失敗して社会が混乱しました。
そこで日本人は日本人全体の価値観を作り上げてそれで社会を律していこうという気をなくしてしまい、社会体制は台風や大雨のように自分たちの上に覆いかぶさってくるものだと思ってしまったのです。
律令制の導入に失敗して出来た平安時代の社会はなんともしまりのないものでした。
その無法状態に一定の秩序をもたらしたのが鎌倉幕府でした。
現実に社会を統治する能力を失っていた朝廷を鎌倉幕府は無用のものとして潰すことをしませんでした。
自然の一部として存在しているのだから、本来自分の占めるべき場所に収まっていればそれで良いと考えたのです。
即ち社会の片隅で目立たないようにしていればそれで良かったのです。
これと全く同じことが徳川幕府開設時にもありました。
そして明治維新でも同じことが起こったのです。
日本人は社会も自然物と考えます。
徳川幕府を中心とした社会から天皇を中心とした社会に自然の構造が変ったので、各個人、各藩はこの構造の中で自分の本来占めるべき位置を模索したのです。
親藩である紀州徳川家も譜代の家来であった彦根藩の井伊家も新しい天皇中心の自然構造の中で相応の居場所を確保することが賢明だと判断しました。
新しい自然の秩序に抵抗しいたずらに社会を混乱させるのは正しくないと思って新政府軍に参加したのでした。
徳川幕府でさえ同じ事をしました。
最後の将軍だった徳川慶喜は鳥羽伏見の合戦で敗れた後はひたすら謹慎し、新しい自然の構造の中であるべき位置を占めようとしました。
その結果、廃藩置県までの短い間でしたが徳川宗家は静岡県内に70万石の領地を持つ大大名として存在することを許されたのです。
廃藩置県後、徳川慶喜は公爵という最高位の貴族になっています。
このように幕末・維新の動乱を全体として眺めてみると、日本人はこの大事件を善悪で判断していません。
天皇が太古の昔から日本の正統な支配者だとする考え方からすれば、天皇の主権を270年間奪い続けてきた徳川家は悪の極致です。
その悪行はペコペコ謝罪した程度で償えるものではありません。
悪は滅ぼさなければなりません。
これが神や天といった絶対的な者が存在する社会の考え方です。
やはり天という絶対的な存在を前提とする儒教の本質を日本人は最後まで理解できなかったのです。
新しく社会の表面に浮かび上がってきた天皇も「あるべきようは」の発想の通りに自然の一部として存在しています。
チャイナの皇帝のように天からこの地上の支配を委託され絶大な権力を持ったものではありません。
またルイ14世のように神から王として指名された絶対君主でもありません。
江戸時代後半に大流行した心学では天皇家の先祖とされている天照大神は太陽神で自然の恵みの象徴とされていました。
また国学でもただ昔から存在しているから尊いと考えられています。
江戸時代という長い時間の間に、天皇とは自然を象徴するものと考えられるようになっていったのです。
天皇が自然の一部で自然を象徴するという発想は「あるべきようは」という日本人独特の発想そのものです。
一方で靖献遺言や水戸学で唱えられ幕末にかけて流行した「天皇家こそが日本の正統な支配者」という現人神の思想が新たに出来ていました。
明治政府はこの「自然物としての天皇」と「現人神」の天皇という二つの概念を新国家の精神的支柱として活用していきます。
古代日本では共に働き同じかまどの飯を食べたものが一族だと考えられていました。
古代の日本の「氏」とは血縁集団ではないのです。
この発想は江戸時代でも健在で、武士の君臣関係をも規定していました。
「君 君たらずとも 臣 臣たれ」という武士道の教えです。
また「忠孝一致」とも教えられました。
殿様と親は同じだから殿様に対する「忠」と親に対する「孝」は同じであり、親を大事にするのと同じように殿様を大切にしなさいというのです。
江戸時代の日本の儒者はこれらを儒教の思想だと教えていましたが、本場の儒教にはこんな言葉はありません。
本場の儒教では君臣関係は契約関係であり、主君が義務を怠れば臣下のほうもその主君に忠実でなくてもいいのです。
これは共に働き「同じ釜の飯を食った」者は同族だという日本人の伝統的な思想を儒教の言葉を使って表現しただけのものです。
殿様と家来は藩という同じ職場で働いていますから一族だという意識を自然に持ったのです。
親子の関係ですから宿命的な関係であり契約関係ではありません。
だから「君 君たらずとも 臣 臣たれ」や「忠孝一致」という教えが武士たちに受け入れられたのです。
江戸時代の殿様と家来は一族意識を持って強固な運命共同体を作り上げました。
そして運営共同体に忠実であることが道徳になったのです。
このような道徳を持った武士たちが明治政府の要職につきましたから、政府の各省自体が運命共同体になっていきました。
大蔵省、陸軍、海軍みなそうです。
この役所の一家意識が後の日本の運命に大きな影響を及ぼします。
江戸時代も後半になると藩はそれ自体が経済活動をしていました。
特産物を生産して大阪や江戸で販売したり密貿易という商社活動をしたりしていました。
その藩という大きな「企業」には優秀な経済官僚がいたのですが、明治になって失業してしまいました。
そこで三井・住友などの大商人は新しい時代を生き抜くために、彼らを大番頭にして、事業改革を行わせたのです。
三菱財閥の基礎を作ったのは阪本竜馬です。
竜馬暗殺後、海援隊を引き継いで三菱財閥にしたのが、土佐藩の下級武士出身の岩崎弥太郎でした。
このように日本を代表する大企業のトップが下級武士出身者だった為に、日本の大企業は藩と同じ組織・メンタリティーを持つことになったのです。
このようにして日本の企業は従来からの日本人の「同じ釜の飯を食う仲間」という意識が武士道の道徳で強化されました。
明治がスタートした段階で、日本人は役所でも大企業でも職場で働く仲間を一族と考え運命共同体を作る太古からの習性を維持・強化したのです。
鳥羽伏見の戦いの直後、明治天皇は、というより側近の革命武士たちは「五箇条のご誓文」を発表しました。
新しい政府の基本方針です。
1、広く会議を興し万機公論に決すべし
2、上下心を一つにして盛んに経綸を行うべし
3、官武一途庶民にいたるまでおのおの志を遂げ、人心をして倦まざらしめんことを要す
4、旧来の陋習を破り天地の公道に基づくべし
5、智識を世界に求め大いに皇基を振起すべし
我が国は未曾有の改革をなさんとし、朕身をもって衆に先し、天地神明に誓い、大いにこの国是を定め、万民保全の道を立たんとす。衆またこの趣旨に基づき共心努力せよ。
これは横井小楠の考えが基になっています。
小楠の思想を受けて阪本竜馬が「船中八策」を作り幕末の志士たちに発表しました。
この「船中八策」を基に小楠の弟子の由利公正が原稿を作ったのです。
この「五箇条のご誓文」はなんとも表現が曖昧で良くわからない文章です。
ただ儒教と訣別したということは分ります。
議会で政治方針を決めるなどという考えは儒教にありません。
道徳的に優れた聖人である皇帝が独断で全てを決めるというのが儒教です。
江戸時代の中期以後日本人は儒教を実質的に放棄し、自分の思想を儒教の言葉を借りて公表するだけになっていました。
それをここではっきりとさせたわけです。
またヨーロッパの政治制度を採用したとは読み取れません。
この「五箇条のご誓文」の発想の基をなす横井小楠や由利公正はヨーロッパの政治制度の賛美者ではありません。
松平春嶽という名君を戴いた福井の貧乏藩の藩政改革を行った実務家です。
小楠の共和制の考えはチャイナの神話にヒントを得て独自に考え出したものです。
天台宗の多数決の習慣が戦国時代になって一向一揆を媒体に日本中に広まりました。
この日本的多数決の習慣が小楠の思想に影響を与えたのです。
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