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タイトルが重いけど、私には一大決心だったこと。それはホパリの保育園問題。今はホパリは幼稚園に通っている。働く親も通わせられる市から補助が出ている「預かり保育」のある幼稚園だ。幼稚園は2時までだけどそこから6時半まで預かり保育をやってくれる。土曜日はないけど、代休の日とか長期休暇もやってくれる。ホパリが行っている幼稚園は私たち一家が日本にやってきた時に行き先がなくて困っていて何とかイパリを入れてくれた、あの幼稚園だ。その恩もあったし、イパリを一年通わせて、フルタイムの親でもやっていけると思えたのでホパリが2歳までの保育園を終えた時そのまま持ち上がりで今の園に入ることにした。だけど園の状況もどんどん変わり、働く親にはきつい無理なことが増えていった。1ヶ月に2度も3度も親が参加しないといけない行事があって、イパリの学校行事とあわせると、公休だけでは足りず、年休も使って参加しないと間に合わない。特に月1回ある保護者会は絶対参加でその日は預かりすらやってくれない。そしてここの先生はニコニコ挨拶をしてくれる朝があったと思えば、目があっても知らん振りをする朝もあるとても気まぐれな先生たち。知らん振りをされたり、作り笑いで挨拶された朝なんかは「何か気に障ることしたかしら」なんて朝から気分が悪くなる。特に担任がひどい。イパリの時の担任はとても出来た先生で、まだまだ若いんだけど、言葉のうまく通じないイパリをクラスにうまく溶け込ませ、1年間とても楽しく通わせてもらった。朝連れて行くと、先生はまだ着たばかり。髪の毛を束ねながら、着替えもまだなのに絶対私たちの所に来てくれて「おはようございます」と挨拶してくれる。帰るときも気がついたら絶対来てくれて今日の出来事なんかを一言でも話してくれる先生だった。だけどホパリの先生は時々立ち止まって挨拶してくれる程度。ひどいときはすぐ横の職員室にいて私たちを見てるのに、会釈の一つもしない。挨拶しても知らん振りだ。年少の頃から信用が出来なかったこの先生。来年には違う先生になるだろうから、それまでの辛抱だ。そして頑張って幼稚園を通い通したいなと思っていた。しかし!年中になり初めの日に親子登園した私たちはまず15人ずつだったクラスが一つにまとめられたことを知る。年中、4歳児が30人だ。そして担任はホパリの年少の時の担任。この瞬間、「もう辞めよう」と思った。4歳児30人を一人で見るのも容易じゃないのに、あの先生には到底無理と思ったのだ。それでも騙し騙し通っていた。だけど、市のホームページを見ていて、2歳までの保育園とうちの幼稚園が併設されているモデル園みたいに書かれていてちょっと憤りを感じた。正直言って保育園みたいにみてくれるわけじゃない。預かりがあってもあまりの園参加が多いためフルタイムの親にはとてもじゃないけど保育園に代わりに選べるような所ではないのだ。これは語弊あると思ったので、市民の意見見たいのを書くところに投書をした。これでは親が誤解するから表現を改めて欲しいと。特に保護者会の日に預かりをやってくれないのはどう考えてもおかしいと。だってその日保護者会じゃない園児に対しては預かりがあるのだ。そして保護者会に出席する園児は12時半からある保護者会が終わるまでみてもらえる。でも参加できない親の園児は11時に帰らないといけないのだ。理由を聞いても「うちは幼稚園ですから」その事を書いてみた。そこで市から返事が来た。市から援助して行っている預かりだから、親の要望で必要な限り預かりはやらないといけない。園がやっていないのがそもそもおかしいのでそこに対して指導をしていく、という話だった。ちょっと論点がずれてしまったけど、まぁ指導してくれるならいいやと思っていた。でもこの指導のおかげで大変なことになった。市から指導を受けた園は、誰がこんなメールを送ったのかと犯人探しを始めた。片っ端から親たちに探りをいれ、とうとう心無い親たちがあるお母さんの名前を出した。そう、そのお母さんは濡れ衣を着せられたのだ。そのお母さんは、その日子供を迎えに行ったら園長を含む3人の先生に囲まれ、犯人扱いを受けて、散々説教をされたそうだ。そこで私はあわててメールを書いた。大変なことになっているから何とかしてくれと。犯人扱いをされたお母さんは何とか無罪を証明できたらしいけど、じゃあ誰なんだという感じだったと思う。うちが今度は怪しまれているかも知れない。ほんとだったら大きな声で言ってやりたいけど、息子という人質がいる。園で私が大きく出て、何かあるとしたら私にではなく子供に行くのだ。知らん振りを決め込んでいた。でも保育園には希望を出すことにした。ただ激戦区と言われる横浜市の中でも大変な区。待機児童は多くて、しかも年度途中の入所はかなり難しいといわれた。最初は2箇所だけに希望を出したけど、やけくそになって8園に増やした。そしてつい先日。区役所から電話が来た。ある保育園に空きが出たというのだ。でもそこは第4希望。正直言ってチェックもしてなくてどこにあるのか正確な場所も知らなかった。あわてて園を見学させてもらった。私たちが一番希望してた近所の保育園は高台にあって住宅街だし環境が良いなと思ったんだけど、そこはトラックの行き来が激しい団地内の保育園。でも中に入ってしまえば、古いながらもきれいに使われ、教室も広々した所だった。保育園は私も通ったことないので、ちょっと抵抗はあった。ここに入ることが果たしてホパリのためになるのか、正直分からなかった。多分今の幼稚園より悪いということはないと思う。市が管理してるだけあってしつこいくらいしっかりしてる。だけどよくも悪くもすっかり幼稚園の先生や子供たちを順応しているホパリを保育園に転園させちゃっていいのか?ここが自信なかった。今もない。今もこれでよかったのか分からないけど、保育園への入所を決めた。ホパリはきっと友達を恋しがるだろうし、寂しくなるだろう。最初は泣かれてしまうかもしれない。本当は夏休みに入るときくらいから移れれば一番良かったんだけど、区役所は容赦なかった。もう明日からでも行ってくださいって感じだ。その電話が3時だから「今から幼稚園の先生に言うことも出来ないし、物理的に無理です」と言ったら「そうですねぇ」と渋られ、「せめて来週からにしていただけませんか?今週はもう明日と明後日しかないんですから」と言ったけど結局「ダメ」だった。金曜からでも行けないなら、今回は他の方に・・・と言うのだ。待っている人はたくさんいる。1日でも早く入所できる人優先ってわけだ。仕方なく金曜日からと言うことにした。でも心は暗く、どうやってホパリに分かってもらおうかと何だか悲しくなってきた。そうしたら保育園の園長先生からは「来週からでも良いですよ」と言ってくれた。「いきなり明後日からって言うのもお子さんがかわいそうだからね~」と。良かった!かわいそうって思ってくれる人がいて。来週初日はいきなり一日は大変なので半日からと言われた。何とか婦長さんに話して早退しないと。ホパリに話したら、渋ってる。あの保育園はいいけど、明日は保育園で次の日は幼稚園でもいい?とか言ってる。ママお仕事しないでよ、とまで言ってきた。ゴメンね、ホパリ。ママの決断が間違ってなかったと思えるように頑張るからね。いいお友達をたくさん作ってみよう。
Jul 4, 2007
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思えば6ヶ月の頃からホパリはお姉さんキラーだった。日本に私と二人で来たとき、6ヶ月の息子は私に抱っこされながら周りを見回してニコニコ。それを見るお姉さんたちは、「わぁかわいい!」なんて喜んでくれる。そうすると息子はそのお姉さんたちに飛びっきりのスマイルをする。それを見たお姉さんたちはさらに「かわいい!」を連発。韓国ではあまり外に出ていなかったのでそういう経験がなかったんだけど、(おばあちゃんとおばちゃんには会う機会がたくさんあるけど、そこまでの愛嬌は振りまかなかった)日本であちこち私と歩き回った息子は、世の中にきれい&かわいいお姉さんたちがいることに気がついたようだ。それからもお姉ちゃんの友達や、レストランのお姉さん、お店のお姉さん、とにかく年上のお姉さんを妙に意識する。この前生まれて初めて美容院に髪を切りに行った時のこと。私と二人で切ったんだけど、とにかく初めての経験が何よりも嫌いな息子。突然泣き出したり、嫌がったらどうしようと思っていた。そこへシャンプーのお姉さん登場。「シャンプーしに行こうか?」とニコニコ言われ、「うん」なんてすっかり手を引かれて、あっさりついて行くホパリ。隣同士でシャンプーをすることになったんだけど、私のことなんて気にする様子がまったくない。もうお姉さんとの会話に入っちゃってる!さて終わった頃、「おかあさんもシャンプー終わった?」とホパリ。「お母さん」??いつもママって呼ぶくせに~。お母さんなんて言うのは生まれて初めて聞いた。おとといのこと。いつも行くパスタのお店に最近アルバイトを始めたと思われるお姉さんがいる。このお姉さんはとても愛想が良く、子供たちにも親切。いつもだったら、話しかけてもまともに返事しないホパリだけど、このお姉さんが来ると、自分からなにやら話しかけたり、返事したり。「だってあのおねえさん、かわいいんだもん~」だって。「確かにあのお姉さんは、きっとお嫁さんにしたらすごくいい子だと思うけど、ちょっと年が上過ぎるなぁ」なんてまともに話してるパパもパパだ。
Jun 24, 2007
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今日はイパリの土曜授業参観とホパリの「一緒に遊ぼう」が重なり、仕事は休んで子供に尽くす日になった。イパリの土曜授業参観は5時間目まである授業のどれを見てもいいという日で、親たちが行ったり来たり、好きに参観ができる。午後からホパリの行事がある私は午前中にイパリ、午後のホパリと決めていた。事前にプリントで科目と何をやるかを知らされていたので、イパリのリクエストもあって「算数」の時間に行った。ホパリをつれての授業参観はちょっときつい。とにかく45分もじっとはしてくれない。これを見ているとお前はまだまだ小学生にはなれないな、と思ってしまう。3時間目の算数の前の中休みに到着した私たち。1年生の時は暑い中グランドで先生と鬼ごっこをしていたけど、2年生になったら思い思いに時間をすごすようだ。イパリはイモリの水換えを友達とやっていた。平気でイモリを手に持っていられるわが娘を見てびっくり。教室に戻ると数人の女の子たちが水筒のお茶を手に、「お茶の時間なの」とクスクス笑ってる。算数の時間が始まった。今はものさしの使い方とか習っているみたいだ。三角形の図が入ったプリントを渡されながら、長さの図り方を習う。まず1辺だけ赤い線でそこは何センチでしょうから始まった。これはさすがにみんなできる。次は青い線の2辺。じゃ、これはどうやって長さを測ろうか?しばらく各々で考えた後、先生は何人かを当てて、どうやって測るかアイディアを聞いた。「1辺を測って2辺目を指で測って物差しに当ててみる」「1辺を測ったらそのまま物差しをぐるっとまわして2辺目まで測る」「1辺を測ったら2辺目はその続きから物差しで測り足す」「1辺を測ったら2辺目を改めて測って、最後に足す」みんなに共通してることは何かな?じゃあ何が違うんだろうね?みんなが次々と手を上げて思い思いの意見を言う。1番目のやり方はどうだろう?危ないところ(間違えそうなところ)はないかな?そうすると子供たちは指で測るのは間違えるかもしれないと言い出した。じゃあ、2番目は?「ダメ!」「悪い」という意見が出だす。「先生は良いとかダメとか聞いてないよ。これでちゃんと測れるか、危ないところはないか聞いてるのよ」と先生がたしなめる。聞いてたら先生は絶対「間違ってる」という言い方はしなかった。「答えは違ってたけど、アイディアは良いね」とかそんな風に言う。結局4番目が一番正しく測れるという結論になった。これで45分終了。これだけを習うのに、1時間かかるわけだ。算数が世界的に見て日本が遅れをとり始めてると言われるけど、これだけのんびりやっていたら仕方ないのかな。でも、なんで?どうして?を話す機会がたくさんある算数の時間は悪くないなと私は思った。授業のキリがいいところで、帰宅。急いで昼ごはんを食べて、今度は幼稚園へ。去年はソラマメを各々手にとって観察したり、先生が小麦粉で粘土を作ってくれるのを見せてくれたり、結構中身が濃かったんだけど、今回は「は?このために来たの?」って感じだった。今回も粘土。しかし今回は陶芸にも使うものだそうだ。山ほど用意されていて、親子で粘土で遊ぼうというもの。だけど実際にはじゃあお団子を作ってみましょう、お団子を高く積み上げていきましょう、なんてあまり面白くない提案ばかり。粘土という材料は悪くない。だけどそれを使って何をするか?が問題だ。ここに先生のセンスが光ると思う。粘土を通じて幼児が何を学べるか、どんなことができるか、そういう一番幼児教育の根本みたいなものがわかってない。以前イパリを担任していた先生は若かったけどセンスのある先生だった。ホパリを担任している先生は今年2年目に続くんだけど、子持ちの私と同年代の先生。だけど、何だかセンスない。こう、幼稚園の先生って読み聞かせをして歌を歌ってお遊戯すればいいって感じの先生。今の時期どんな本を読んで、どういう動作ができて、とかそういう根本的なことはあまり考えられてるのかな~という感じ。小さい子供のお母さんなんだけど、こういうところを見ると、「先生」は子持ちかどうか、子育て経験があるかだけでは決まらないんだなと思う。もちろんないよりあった方が、絶対味は深まるんだけど。予定よりも早く終わり、何だか本当に「これだけ?」って思いながら帰ってきたところ、イパリの学校がもうすぐ終わる時間。もしかしてこんな日は親と一緒に帰ってくる子が多いのかな、と突然心配になりホパリだけパパに頼んで、学校に戻る。ちょうど帰りの会をやっているところ。帰りはイパリとイパリの友達を一緒に帰ってきた。送り迎えを「恥ずかしいからしないで」と言われてやめてから久しぶりに一緒に帰ってきた。ずっと手をつないでたイパリを見て、まだまだかわいいな、と思った日だった。しかし、働くより疲れた!
Jun 16, 2007
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ほんっとにやばい位の人手不足。1月から2人辞め、3月に3人、5月に1人、6月でまた1人。でも入った人はたったの2人。いやいや、4月にも5月にも入ったは入ったんだけど、二人とも1ヶ月もたなかった。一人目は初日から欠勤。数日後にやっと出てきたと思ったらまた欠勤。そして出勤日が欠勤よりもはるかに少ない形でやめてしまった。辞めるときも荷物を取りに来たときも、挨拶のひとつもなかった。二人目はもうちょっと頑張ったけど、突然欠勤をはじめそして二度と来ることはなかった。その人も同じ、挨拶ひとつしないで消えていった。二人ともいい大人なんだけどね。いくら看護婦はどこでも引く手あまただって、辞めるときのマナーくらいないのかなと、結構嫌になる出来事だった。そう、うちは忙しい。忙しいんだけど、時間で始まって時間で終わる。その時間の密度が他所よりも濃いのだ。だから、結構みんな頑張れる。いつ終わるかわからない勤務をするよりはどんなに忙しくても時間できっぱり終わるほうがいいって思う人が働いてるからだ。でも初めて来る人はかなりビビるみたい。慣れる前に「こんなはずじゃなかった」と辞めてしまう。そんなわけで人手不足。あ~明日もまた仕事だ・・・。
Jun 10, 2007
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母は逝ってしまいました。2月26日でした。63歳でした。私はその前の日の夜に会ったのが最期だった。母はもうあまり頑張れないだろうと思っていた私は、それまで一日おきに夜病院に行っていたけど、明日も来ようと思ってた。いつものように仕事をしていて、午前中の仕事が終わり、休憩に入ろうとした矢先だった。「Galoさんに外線です」と事務から。とってもいやな予感。いつもだったら、幼稚園から「ホパリ君がお熱です~」と言われる電話じゃないかとビクビクするんだけど、その日はちょっと違ってた。「お姉さんですか?」という義妹からの電話。母が午前中から徐脈になってきていて、とうとう心拍が確認できない。今は心肺装置をつけているが、弟もすぐ行かれない遠い場所にいて、どうしたらいいかという電話だった。心肺装置?延命はしないっていうことだったけど、何が着いてるんだろう?という看護婦的な疑問と一緒に、母がとうとうダメなんだという目の前がクラクラするような現実が混ざって、私も混乱した。「私が行くまで待ってもらえるのかな?ここから急いでも30分はかかると思うけど」「もちろん大丈夫だと思います」義妹の声はちょっとほっとしたようだった。義妹の話から、私の想像では、今もまだ母の心臓は心肺装置で動いていて、もう回復の見込みはないからはずしてもいいかという事だと思っていた。まだ間に合う。最期に絶対母の手を握り、一言言いたいことがあるのだ。電話を切って、ただ事ではないと感じた同僚は「どうした?」と聞いてきた。「母が・・・」言葉が続かない。「早く帰んなさい!後は大丈夫だから、早く!」やっと体が動いた。ロッカーで着替えながらパパに電話する。「原チャリで行くの?一度こっちに帰って車で行ったほうがいいんじゃない?」と私の心配をするパパ。「間に合わないの!今行かないと間に合わないよ!」私の声は震えてたと思う。勤め先は横浜の真ん中。母のいる病院は横浜のはずれのほうだけど、スクーターで行けば、混んでいる16号も何とかなる。あせる気持ちを何とか抑えて、事故しちゃだめと言い聞かせながら、飛ばした。「待ってて、まだ待ってて!ここまで頑張ったんだから、もうちょっとだけ頑張ってて!」と心の中で母にお願いし続けた。多分30分もかからなかったかも知れない。病院に着いた。母の病室だけドアが閉まっている。母を見た。もう生きていない。呼吸の途中で途絶えてしまった、そのままの顔で。母についていたモニターはフラットのまま、時々振動で波を弱く作る。医師が来た。「11時45分死亡確認をしました。ご愁傷様です。」よくわからない妹はモニターの事を私に言っていたようだ。すでにかなり前から心拍はなかったみたいだった。もう一度母を見た。母はまだ目を開けたまま、最期の呼吸を吸ったところで、時は止まっていた。母は最期の最期まで生き抜いたのだ。この半年ほどは母の最後の戦いだった。ずっと痔からだと思っていた出血が実は直腸癌だったとわかり、貧血がどんどん進んでいた。そしてほとんど飲み込むように食べていた食事もどんどんむせるようになり、11月には誤飲性肺炎になってしまった。「肺が真っ白」と言われるほどひどい肺炎を起こし、先生も弟にシビアな話をしていたようだ。食事は取れなくなり、点滴だけの毎日。しかも「延命」をしないので、高カロリー輸液ではなく、ただの水分と電解質だけの点滴。今までなかった褥そうもでき始めた。貧血と栄養不足のせいで、褥そうはあっという間に悪くなっていった。癌と褥そうは見るのも忍びないほどの様子になり、母が痛みを訴えないのが不思議なほどだった。実際そのずっと前から痛みが出始めたらモルヒネを使うという承諾書を弟からもらっていたようだが、幸いにも母にはその痛みは訪れなかった。最後に与えられた神様からの慈悲かなと思った。肺炎は奇跡的に治った。元気な頃やばいくらいにベビースモーカーだった母の肺はあくまでも元気だったようだ。そして63歳の誕生日。食事も飲み物も口にできず、たったわずかな動きも自分でできず、とうとう目の筋肉も麻痺してしまって、自由にものを見ることもできなくなった母に、それでも意識だけはしっかりある母に、「生きる」ということはどんなことだったんだろう。その後も肺炎にまたなり、これでもかというほどのチャレンジに受けてたった。肺炎になってからは、二人部屋に移り、母の担当だった看護師さんは「いつでも来れるときに来ていいよ」と言ってくれた。言葉に甘え、それまで週末にしかいけなかった私は、仕事を終えてから、夕食を済ませ、そして病院に通うという毎日を続けた。その時の母は、すでに泣くこともできず、笑うこともできず、文句でうなることもできない。私が話してもこちらを向くことすらできない母だった。だけど、子供の話、イパリの話をすると母の表情が和らいだ。時々こちらを一生懸命見ようとした。私は夢中で子供たちの話をした。亡くなる1週間前くらいからは母の体に紫斑ができ始めた。ああ、とうとう母の体が悲鳴を上げ始めたんだ。もうこれ以上頑張れないよ、と訴えているようだった。それでも母は一生懸命呼吸をしている。自分の力で。亡くなってから、葬儀はあっという間だった。そこにはもう何年もあっていない、親戚と父親も来た。父は母の顔を撫でながら泣いていた。元気な母に最後に会ってからどれくらい経っていたんだろう。今の母を見てどんな気持ちになったんだろう。母の病院の人たちお通夜に来てくれた。本当にお世話になった。私の勤め先の人たちもほとんどの人たちが来てくれた。これには本当に感激だった。これで辞められないなと思ったくらいだ。葬儀が終わってしばらくすると桜が咲き始めた。あっという間に満開になって、家の前の桜並木がアーチを作るように桜でいっぱいになった。仕事に行くスクーターに乗りながら、それを見ていると、「あっちゃん、ほら見て!桜がきれいね~。ここでコーヒー飲みたい位ね。」母の声が聞こえる。幻聴かと思った。でも母が言ったのだ。昔の懐かしい母の声。それで思った。母がいなくなって私はとっても寂しくて悲しいんだけど、母は今が幸せなのかも、と。もう体から離れた魂はどこにでも行けるし、苦しいものはすべて残してきてしまったはず。母はやっと自由になれたんだ。
May 3, 2007
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前回の日記から1年です。早いものです。この一年は大変でした。イパリは一年生、ホパリは幼稚園の年少。すべてが新しいことだらけで、半年は仕事をパートにしてもらえたので良かったけど、フルタイムに戻ってからは毎日が飛ぶよう。今も飛んでいます。イパリは今年2年生になりました。やっとランドセルの黄色いカバーをはずし、黄色の帽子をかぶらなくて良くなったのに、本人には良くわかっていなかったみたいで、カバーは早速はずしてたけど、初日に帽子をかぶっていこうとしてるので、あわてて止めました。その日は入学式。ちょっと後から本物の1年生が来るのに。イパリの学校では「縦割り」というのがあります。1年生から6年生までの少人数グループを編成して1年を通して、そのグループでの活動があるんです。この前その最初の活動として、2年生が1年生に学校を案内してあげる時間があったそうです。「どんなこと教えてあげるの?」「えっとね、職員室とか保健室の入り方とか」「入り方ってあるの?」「うん、ドアをトントンして『失礼します』ってお辞儀してから入るんだよ」そんなことちゃんとできるんだ、と感心しました。そして朝顔の受け継ぎをします。去年2年生からもらった朝顔の種を去年育てて、そこからできた種をまた今年の1年生にあげる。それと一緒に自分で作った『朝顔の育て方』というパンフレットをあげる。2年生はまだまだ一生懸命でかわいいですね。
Apr 29, 2007
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今日でとうとう日本で1年を迎える。早かったようなものすごく長かったような。どうしても嫌だったら韓国に帰ろうといって来た私たちだけど、私たちの住む町はとても環境がよく、韓国のアックジョンとは比較にもならないので、あえて残る事になった。先月イパリは幼稚園を卒園し、4月から小学校の一年生だ。ホパリも保育室を卒園(?)し、お姉ちゃんの通っていた幼稚園の年少さんとして通い始めた。二人ともすっかり日本語に慣れてしまい、最近では韓国語がかなりきついようだ。パパが韓国語で話すと、ちゃんと理解できないこともある。子供は覚えるのも早いけど、忘れるのも早い。夏休みには是非韓国に行き、少し韓国語シャワーを浴びさせないと。私はやっと忙しいフルタイムからパートになった。まだ時間が有功に使えず、イライラの毎日だけど子供たちとの時間が増えたら、いろんな事がしっかり出来るようになってちょっと嬉しい。毎日日記に書きたいことだらけの日々だったけど、結局一日も書けずにここまできてしまって、ちょっともったいないけど、時々思い出しながらこの一年についてかけたらなぁと思います。
Apr 30, 2006
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今日の日記はまるっきりおばちゃんの「近頃の若い子は・・・」的な愚痴です。日本に来てもうすぐ2ヶ月。スーパーや通り道で夫婦とか親子をたくさん見かける。昔と違って最近は夫婦も若々しい(?)し、親子も友達みたい。だからなのだろうか。本当に時々びっくりすることがある。よく耳にする言葉。「あんたバカじゃないの?」これは道端や店内でダンナが奥さんに、奥さんがダンナに、そして母親が子供に、私が耳にする言葉だ。結構ショックだ。その言い方が、本当に「バカじゃないの?」という感情がこもってて、さらにショックだ。自転車で親子が過ぎていく。そこで母親が小学生くらいの子供に「何トロトロしてんのよ、早くしなさいよ、バカじゃないの?」店内で、奥さんに向かってダンナが「お前なにやってんだよ、そんなこともわかんねーのか、バカじゃねぇの」まったく同じような会話が夫婦逆でも聞こえる。わたしもね、決して言葉使いが良い方ではなかった。10代から20代前半ってかなり悪かったと思う。でも夫婦となり、人の親となって、やっぱり慎みたいなと思うことが増えた。だってすぐ横では何でも吸収しようと目を輝かせてる子供がいる。それに、自分のパートナーにそんな話し方したいとも思わない。そして韓国にいる間は、韓国って夫婦間でも丁寧語で話したりするから、それが当たり前になって、もっと今の日本での家族の会話に敏感になっていたかも知れない。でもこれが今の日本のスタイルなのよって言うんだったら、私はとっとと逃げたいなぁ。子供たちのその習慣がうつる前に、良い日本語だけ覚えてもらって、違う国に逃げてしまいたい。それくらい耳障りな今日この頃の日本語会話だ。外国で聞く、「日本人はマナーが良い、親切だ、丁寧だ」という評判、もう時代遅れっぽい。禁煙エリアが増えたせいか、歩きタバコの人ばかりだし、どこでもポイポイ吸殻を捨てるし。ぶつかってもプイってしてる人結構多いし、ルールを無視する人もかなり多い。外国にいると日本と日本人って結構良いイメージがあるから、いつもそのイメージで日本人でいることに結構誇りも持てたりしたけど、帰ってきたら、うっそ~日本人も全然ダメじゃんと思うことがいっぱいで、韓国にいる時、韓国人をマナーが悪いと批判してた自分が恥ずかしくなったりすることもある。イパリが幼稚園に通い始めて日本語が増えてきた。でも話すのは「何やってんの?」「うるっさ~い」「あっち行ってよ」こんな言葉ばかり。幼稚園ではこんな言葉ばかり飛び交ってるのかなぁとちょっと気になるこの頃です。
Jun 15, 2005
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私が日本に一人で早く来た理由は仕事もあるけど、もう一つ、子供たちの保育園探しがあった。韓国で家を探しながら、保育園も色々探してみて、時には電話をしてみたりしたけど、認可保育園は5歳児は何とかなっても2歳児は無理、横浜保育室という横浜市が認定している認可外の保育園もほとんどない状態だった。二人を違う所にバラバラに入れようとしたら、結構簡単だったかもしれない。でもイパリはともかく、今度初めて保育園に通うホパリのためにもできれば兄弟一緒のところに通わせたかった。ある掲示板で自分の息子が通っている認可外は結構良いよ、と教えてくれた人がいた。親切にも園長先生に聞いてみてくれ、二人とも入れてもらえるという嬉しい返事までもらった。でも認可外だけあって料金はびっくりするほど高い。いや、こんなものかもしれないけど、私にはびっくりだった。そしてずっと中区だけで探していた私の目に隣の区の保育室が飛び込んできた。そこは3歳以上は預かり保育のある幼稚園で、2歳以下は横浜保育室という同じ施設にあるところだった。思い切って問い合わせてみると、とっても人の良い感じの園長先生が、法人に掛け合ってみるからまた連絡して欲しいと言ってくれた。出来ればそこに通わせたいと思った。ところが法人の方でOKしてくれなかったそうだ。かわいそうに思ったのか、園長先生は「もしどこにも行く所がなかったら、またお電話してくださいね」と切り際に言ってくれた。あちこち問い合わせれば問い合わせるほど、焦る私。仕事開始の時期は決っている。私の保育園探しは日本に着いた翌日から始まった。まずはもう一度中区役所に行ってみた。そしてもらった一覧表を見ながら、その紹介された認可外の保育園を見に行った。彼女はとっても気に入って預けている保育園だけど、私はそこを見学に行ってちょっとブルーになった。住所から予想した通り、そこはビルの一室なので、園庭も何もないところだった。それは良いとしても、窓はどこも小さく、外が見えることもない。朝から電気をつけていないといけないくらいだ。朝の7時過ぎから夕方までいないといけない空間が保育園だ。その一日の大半をこんな薄暗いところで過すなんて・・・と考えたら、悲しくなってきた。私が仕事をしている間、子供たちは外で思いっきり遊び、室内でも十分な空間があって欲しいと思っていたのだ。他の認可外もあたることにした。保育室も行ってみた。そこよりは明るい感じだけど、同じくらいの年齢がいないという弱点があったり、行くのにかなり不便という難点があったりで、本当に難しかった。やっぱりもう一度あの幼稚園に頭を下げてみよう、と思った。そこまではバスで1本。しかもバス停の前にある。中に入ると、園庭があり、教室から子供たちが元気に走り出てきた。園長先生を呼んでもらうと、すぐ出てきてくれ、初めてあったのにも関わらず、私は挨拶すると同時に涙が出てきてしまった。誰も頼ることが出来ず、自分の親すら頼れないのが自分の中でかなりきつかったみたいだ。われながら情けない。先生は「もう一度頼んでみるわね。たった1年なんだもの。」と言ってくれた。その園内の雰囲気、子供たちの顔を見たら、ここにイパルを入れられたらなぁと思わずにはいられなかった。付属の保育室は、イパルが入れることになったらホパルも入れるようにしてくれるという返事だった。帰りのバスに乗ろうとした時、目の前に神社があった。幼稚園と同じ名前の神社だ。ついお賽銭を投げ、お祈りしてしまった。またしても「苦しい時の神頼み」だ。そして数日後、園長先生に電話してみた。「良いですよ!連れていらっしゃい!」と明るい声で言われた。電話を切ってからはしばらくまた大泣きだった。幼稚園はお弁当だし、7時半からしか預かってもらえないので、朝は送ってから毎日1秒を争って仕事場に向かう。だけど、子供たちが毎日十分遊べて、楽しく過せるんなら、全然問題ない。神様って本当にいるんだなぁ・・・。
Jun 12, 2005
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もう2ヶ月も前のことになってしまう。それは私が一人韓国から日本へ引っ越してきた時のこと。空港までパパが送ってくれ、空港に仕事中のハラボジも来てくれた。何だか永遠の別れのよう。もう会えないみたいで、急に悲しくなった。子供たちと離れ離れの3週間。パパは楽しめというけど、そんな気分にはなれない。飛行機は順調に到着した。トランク二つを持つ私はパパに言われたとおり、空港から宅急便を使って大きなトランクを一つ送ることにした。小さなトランクと紙袋(この中には寝袋が入っている)、そして私のバッグを持って、YCATに行くリムジンに乗り込む。いきなり新しい家に向かうので、鍵はまだない。契約をしてくれた不動産の所まで取りに行く。電車で一駅先にいき、鍵を受け取って、また横浜駅に戻ってきた。まだ家には戻れない。携帯電話を買ってしまわないと、連絡が出来ない。横浜でまず、携帯電話を選ぶ。どこへ行ったらお得なのか全然分からず、ウロウロ・・・。すぐ接客してくれる所で申し込むことにした。日本のいい所は、大抵の電話が1円という所だ。それにしても日本の携帯ってでかくて重い!韓国ではかなり小さいのを持っていただけにびっくりだ。どれが良いのかよく分からないまま、きれいなグリーンの色をした携帯を選んだ。そう、私は機能より見た目重視なのだ。使えるようになるまで40分かかるという。それまで時間つぶしだ。といっても、疲れててあまり動きたくない。夕食を食べてない私はその間にKFCに入って簡単な夕食を摂った。そしてやっと出来た携帯。やっと家に向かう。ここからバスが通ってるはずだ。東口に戻り、バスターミナルで行き先を見る。よくわかんないけど、本牧とかいてあるならきっと行くだろうと、適当に飛び乗った。そこから30分だ。新しい携帯を片手に、色々試してみる。市営バスの中では「車内では携帯電話の電源をお切りください」というアナウンスが聞こえるけど、ムシムシ。電源を切らないといけないなら、携帯の意味がないと思うのは私だけだろうか。さてやっと本牧という名前が聞こえ始めた。そろそろ私の家の近くの停留所も・・・と思いながらマイカル本牧を過ぎる。ところが突然このバスは、大通りからさくっと小道に入っていってしまった。何かが違う気がする・・・という悪い予感の通り、とうとうそのバスは終点を迎えてしまった。何が何だか分からないまま、バスを降りる。もう10時近い横浜の夜は、人通りもない。しかも全然分からない場所で下ろされてしまった。あわてて、反対側のバス停の行ってみる。まだ終バスじゃなさそうだ。そう思ってるとすぐバスがやってきた。今回は恐る恐る行き先を聞いてみる。「それはね~○○系統じゃないと行かないよ。乗り換えられる所まで行ったら声かけるから、運賃は良いですよ」と言ってくれた。なんて優しいんだろう・・・と感動しながら、来た道を戻っていく。大きなバス通りに出たところで、バス停でもないのに、下ろしてくれた。「ここからあっちのバス停に行けば、そこに来るバスなら何でも大丈夫ですよ」と教えてくれた。何のことはない。そこから数駅先だった。でも知らないと全然見当もつかないから、恐ろしい。やっと我が家を発見。もらった鍵で入る。真っ暗。そう、ブレーカーが下りている。暗闇でどこにブレーカーがあるのか分からない。手探りでやっと見つけると、やっと明かりがついた。次。手を洗おうとしたら水が出ない。翌日電話をして元栓がどこか教えてもらった。そして次。暖かいお湯が出ない。ガス会社に連絡。何とか次の日に来てもらえることになった。こうして何もない私の日本での生活が始まったのだ。ちなみに照明器具もそろってない我が家では、しばらくキッチンと玄関しか明かりはなく、カーテンもない日々。やっと照明を買っても、天井が高くて、椅子もない私は取り付けられず、結局2週間ほど明かりのない生活だった。
Jun 12, 2005
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やっとインターネットができるようになった。とっても長い道のりだった。私たちの住むところには光が入ってるというので、わくわくしながら申し込んでみたのが4月の最後の週。それからまったく音沙汰なく、電話をしてみると、まだ申込書が登録されてもいないと言われる。散々せかして、やっと登録ができても、今度はその後来るはずのはがきが来ない。申し込んでから1ヶ月かかるといわれてそれにショックを受けていた私たちは、その後やっと登録ができた5月の中旬に「これから1ヶ月半かかる」と言われて、さらにショック・・・というより、めまいのようなものを覚えた。とにかく何もかもが遅い。何を申し込んでも、買おうとしても即日で持って帰れるものがほとんどない。アメリカや韓国の何でもファストフードのようなスピードを当たり前と思っていた私たちには日本の遅さにあきれ果ててしまった。最近では笑ってしまうようになった。店員は何で笑ってるのかと変に思ってるだろうな。私が日本に来て1ヵ月半、家族が来てもうすぐ1ヶ月、まだまだ慣れないことばかりで、毎日は戦争のよう。覚悟してきたとはいえ、結構へこむことばかりだけど、何とか毎日生き抜いてます。ちなみに憧れの光はあきらめ、ADSLにしてしまった。2ヶ月も待てない私たちは、NTTなら早いと言われ、申し込み、その1週間後にはサービス開始ができたのでした。最初からそうすれば良かった・・・。
May 29, 2005
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多分これが最後の日記になると思う。もちろん日本で落ち着いたらまた始めるけど^^タイトルも変えないと・・・今考え中。昨日8日に日本行きの荷物は行ってしまった。残ったものは全て徒歩7分の義両親宅行きだ。そのために義両親は引越しする際に以前より大きいサイズのアパートに移った。その中の一部屋は、完全に倉庫状態。私たちが定住できるまで置いてもらう。私たちは本当に必要最低限の荷物で日本でスタートする。多分、アメリカに初めて住み始めた時のように。1年経ってイヤだったら帰ってこよう、を合言葉に。こんなに文句ばかり言っている韓国生活だけど、それより日本の生活がイヤだったら、その先はもう文句言っちゃダメだろう。韓国で始めたこの日記のおかげで、いろんな所からいろんな人たちと出会えた。多分韓国に住んでいなかったら得られなかった出来事だ。子供たちがハラボジ・ハルモニと一緒に住む思い出が出来た。韓国では飛躍的なことが何も出来なかった私たちだけど、決して無駄な2年間じゃなかった。次に日記を書くときはどんな私が書いているか・・・。楽しみのようでかなり怖い私です。
Apr 9, 2005
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私が今回韓国から日本に引越しするに当たって、まず本当にお世話になったのは不動産会社。前の日記にも書いたけど、この担当の人には本当に本当にお世話になった。代行として出来る範囲以上の代行をしてくれ、本当だったら日本にいる家族などを通してやらないといけない手続きも、彼が代行してくれた。メールで進行状況をまめに連絡してくれ、(ほとんど毎日)手続きの際に入った書類は全てスキャンしてメールで送ってくれた。それがたとえただの連絡用紙のようなものでもだ。海外から引越しをするとき、その引越し先に実家でもあれば、とりあえずそこにしばらくお世話になってそれから家探しという事もありえるだろう。会社の転勤とかだったら会社が世話してくれるかも知れない。でもうちのように、自分たちで何とかしないといけないような場合は、本当に不動産会社がこのように親身になってやってくれる所があるとないとでは雲泥の差だ。会社は朝日リビングという。HPを見る限りでは支社がたくさんある会社のようだ。もし、横浜周辺で賃貸を探す必要がある時は、是非家を担当してくれた彼を紹介したい。個人名を出すのはどうかと思うので、一言ご相談を!そして今回引越会社を選ぶ時もまた意外な結果だった。海外引越では第一人者といわれる日本の大手と、韓国の大手の両方に見積もりに来てもらった。日本の大手は、韓国の下請け会社を使っている。その会社から見積もりに来た。家具のサイズをいちいち全て測って、細かく記入し、見積もり結果が出るのに1週間かかると言われた。3月下旬だったので、引越予定が4月上旬である事を強調したけど、返事は1週間経っても来ない。結局あまりにも会社間の連絡がしっかりしてない場面を多々見て、HPに文句を書いてみた。その数時間後には日本の会社の方から謝罪の電話をもらい、別にそのことはもう良いとしても、もらった見積もりを見てびっくり。すっごい高い!!会社ではなくて個人での引越しですからディスカウントしてもらいますね、なんていっていたのに、それでこれ!!?ってくらい高い。どのくらい高いかって言うと、韓国の大手に見積もってもらったものの倍だ。さて、その韓国の大手だけど、こっちは早かった。見積もりも何を持っていくかだけざっと見て、その場で何キュービックですね、と教えてくれる。そして日本へは1キュービックいくらだということを教えてくれる。だからある程度の金額が予想できるという仕組みだ。でもこれは注意しないといけない。見積もりとは全然予想もつかない金額になることもある。日本の大手はそんなこともあったし、しかもとても高いので無理、という事で韓国の大手に頼んだ私たち。予定の日には時間もしっかり守ってくれて、手際もよく、さっさと荷物をまとめて入ってくれた。(梱包も全てやってくれる)空いている隙間にはなるべくモノを入れてくれ、経済的につめてくれ、梱包もしっかりやってくれる。それは良かったんだけど、見積もりでは13キュービックと言われたのに、結局荷物を全て梱包した時点で多分15キュービックにはなるだろうと言われた。見積もりに来た人は最後にトラックに詰めた時点で何キュービックになるか確認できると言っていたのに、それは出来ないと言われる。だから彼らがそういってしまえば、それで金額が出てしまうという事だ。これでは話が違う!とハルモニが早速見積もりに来た人に電話(知っている人だそうだ)そこで、やっとその彼がキュービックを出す際に自分の目で確認してくるという事で話が落ち着いた。私たちの経験から絶対に15キュービックはない。もしこれで15と言われたら、ハルモニとの大戦争になるはずだ。ま、こんな風に韓国の大手も金額のことに関してはかなりアバウトなので、最初からいくらとはっきり分かる日本の大手より良くない、という結果になるかもしれない。だけど「言えば何とかなる」韓国では、知り合いなどいれば、逆にこのアバウトさが有利になる事も事実だ。アメリカから韓国に来る際に小さな韓国の引越会社を利用してすっごく痛い目にあった私たちが言えるのは、「海外引越には大手が一番」という事。最初は安く見える小さな会社は実は最後には大手とあまり変わらなくなり、しかも扱いがひどくて紛失したり、破損する事もかなり多いのだ。そうそう、この韓国大手は、7000ドルまでの保険を無料でつけてくれる。日本大手は保険は費用外、しかも韓国では必須の引越方法サダリ(ベランダなどからはしごで上げ下ろしする方法)も別途料金だとか。そんな面でも韓国大手の方が利用しやすい事がわかった。多分15キュービックといわれても日本大手よりは全然安いし、サービスは悪くない。引越荷物を扱うおじさんたちの態度は、韓国なんだから期待しない事が一番。
Apr 8, 2005
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昨日とうとう飛行機を予約して、引越しやさんにも予約をした。パパはその二つの電話をして脱力してた。そう、荷物をまとめるとか、力仕事では全然疲れないパパだけど、いよいよの決断をする時には異様に疲れるのが家のパパ。結局話し合った結果、私だけが先に行くことにした。みんな一緒に行ったら、荷物も何もない部屋で子供たちのことが心配だし、パパと二人先に行ってしまったら、ハルモ二が大変だ。結局私が先に行くことになった。先に行って、子供たちの預け先を決定し、部屋の必要なものを買い、環境を整えるのが私の仕事。ここまで決るまでにも夫婦間でピリピリ、イライラがちょっとあったけど、私は考えない努力をして、パパは気楽に考える努力をして、何とか乗り切った。プッシュされるのが嫌いなパパ、焦る私、今までだったら、絶対喧嘩だった。パパは大人になったなぁと思う。こんな事言ったら怒られるけど、本当にそう思った。日本行きは、チケットを買うまで信じないと言ってきたけど、ほんとに行くんだ。ただ願うことは、パパと子供たちにとって日本が優しい国であること。どうか3人が「日本に来てよかった」と思える毎日であって欲しい。私は無宗教だけど、苦しい時の神頼みと言われても、手を合わせて祈りたい気分だ。所でまた問題。韓国での子供たちの外国人登録が何と日本に行く5日前で切れる。更新しないといけないのか問い合わせないといけない。同じ時に登録した私と子供たちだけど、私はF-2(配偶者)で毎年更新、5月に登録で5月で切れる。なのに、子供たちF-1は2年ごとで、5月に登録して4月で切れる。同じ5月にしてくれればいいのに!そのたびにあっちまで出向く外国人の身になってくれ。って日本でもきっと同じかもしれない。いや、それ以上にひどかったりして。どこでも移民局ってものは外国人に優しくないものだ。
Apr 5, 2005
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イパルが昨日突然友達を連れてきた。その子ソンホともう一人ピルグはイパルの今一番中いい友達。イパルのお誕生日に誰を呼びたいかと聞いたら、この二人の名前を挙げた。二人は男の子。イパルのクラス(5歳児クラス)には残念なことに女の子がイパルしかいない。だから友達は必然的に男の子だ。中でもピルグはイパルの大好きな男の子だ。クラスの中でも背の高いピルグはイパルのお兄ちゃんのようだ。イパルが友達が来て嬉しくて興奮しながら、きっと毎日話して聞かせているだろう同じ話を、またピルグに話して聞かせる。ピルグは「聞いたよ、それ」とぶっきらぼうに答えるが、それがまるでお兄ちゃんみたい。イパルと同じくらいの背のソンホは甘えっ子。お父さんはアメリカにいて、お母さんはいつも仕事で忙しいので、おばあちゃんが面倒をみている。そのせいかとても甘えん坊で、何だか子供っぽい。一度言い出したら聞かない、好き嫌いの多い、一人っ子タイプ(実際一人っ子)。イパルの誕生日(9月)以来遊びに来たいと言いながらも、なかなか来ることがなかった二人。いくら同じアパート内でも彼らの住む棟と家の棟は道路を挟んでいるため、子供たちで行ったり着たりも出来ないし、おばあちゃんたちも悪いと思うのだろう。ピルグとソンホは昔から行ったり来たりの仲のようで、ほとんど一緒にいるらしい。まるで兄弟のようだとおばあちゃんも言っていた。その二人が突然来た。数日前のことだ。その日ハルモ二の棟で降りたイパルは二人にバイバイしたんだけど、ちょっと後に警備室からインターフォンで、「イパルにナンジャチング(ボーイフレンド)が来たよ」と言われた。その二人を連れて、家まで行き、夕方まで楽しく遊んだ。ホパリも大喜び。そして昨日はソンホがイパルと一緒に幼稚園バスから降りてきた。遊びに来たという。ピルグが幼稚園に来なかったそうで、一人だけ遊びに来たのだ。そしておばあちゃんが後から迎えに来た。実はこの三人には別れが待っている。ソンホは4月6日にアメリカに行くことになっているそうだ。その数日後私たちは日本へ。ソンホはずっと離れて暮らしているお父さんのもとへお母さんと行き、これからはアメリカに住む予定(彼はアメリカで生まれた)。でも小さい時に韓国に来て、ずっとおばあちゃんのもとで生活し、しかも幼稚園も楽しく行っている。アメリカ行きはかなりの拒否反応をしているそうだ。本当は1月に行く予定だったのが3月になり、結局行かずに来月に持ち越しているそうだ。この来月に行くことも本人にはまだ言っていないらしい。ピルグも心の準備が必要だろう。日本へ行くことはイパルはみんなに言いふらしているから、みんな知っているけど、それがもう会えないという意味だとは誰も分かっていない。もちろんイパルも分かっていない。私は3人でいつまでも持っていられる何か記念になるものがあったら良いなと思っている。それを見たら会えない二人を思い出せるような。そして何年も後でもいつか再会できた時に、懐かしみながらまた友情が生まれるように。まだ手紙やメールを書くことも出来ない小さな友達たちが、その小さな友情を忘れないでいられるにはどうしたら良いだろうか。
Mar 26, 2005
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昨日、かよぬなさんから電話をもらった。彼女が何で私の電話番号を知っているかというと、以前彼女が留学しようかなといっていた時に、「何かあったら連絡を」と個人的に私の携帯の番号を教えていたからだ。彼女はその番号を持っていてくれて、今回韓国旅行をした際にわざわざ挨拶の電話をしてくれた。突然あまり鳴らない私の携帯が鳴り、見知らぬ番号(プラス顔文字つき^^)。きっと間違え電話だろうと思い、びっくりさせるつもりで「もしもし(日本語で)」と出た。そうしたら向こうからも「もしもし」しかも知らない声。私もびっくり。嬉しかったなぁ。私はネット上の人と連絡とか取ったり、オフ会に行ったりとかしないので、今回が初めて、ネット上で知り合った人との交流(というのは大げさね)であったわけだけど、何だか嬉しかった。韓国に来たからと言って、電話をくれたことが嬉しかった。私だったら、電話をかけるのが大の苦手なので、きっとしたくても出来なかったりしそうと思うからなお更だ。昨日無事韓国に着いてお友達といるそうだ。こんな時だけど、安全に楽しく旅行してください。
Mar 26, 2005
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私は今までどうしても忘れられないおばあちゃんがいる。それはかれこれ9年くらい前にたった数分だけ言葉を交わしたおばあちゃん。私はその頃、語学学校に行ってて、当時彼氏だったパパと何人かの韓国人の友達とコリアハウスと言ういかにもありふれた名前の韓国レストランに昼ごはんを食べに行っていた。そこはサンディエゴの中では結構有名だった。と言うのは大きくて、韓国らしい建物だったので目立ったのだ。そしてその頃は数少ない韓国レストランの中で結構おいしい方だった。(今は味がかな~り落ちました)そこで私たちは昼ごはんを食べ終わり、私はトイレに立った。女性用トイレはもう誰か入っていて、私はドアの前で待っていた。その時、後ろにおばあちゃんが来た。十何人の団体で来ている韓国人のグループの一人だった。私のすぐ後ろに来て、なにやら韓国語で話しかけてきた。その頃の私は韓国語なんて記号の世界だったから、おばあちゃんに「I’m sorry. I don’t speak Korean.」と言うと、「日本人ですか?」と突然日本語ではなしかける。お年寄りのおばあちゃんの口から突然日本語が出てくるのでびっくりしながら「ハイ」と答えると、おばあちゃんは目を細めて、「私も日本語少し話せますよ。ね?上手でしょう?」と私の手をとってなで始めた。それはまるで私の亡くなったおばあちゃんが昔私の手をとって撫でてくれていたように、優しくて暖かかった。それと同時におばあちゃんが何で日本語がそんなに上手に話せるのか考えたら涙が出そうになった。「ごめんなさい」とわけもなく言いたくなった。その時の私は初めて韓国人という人種に出会い、仲良くなるにつれて日本が過去にしてきたひどい仕打ちに対して、よく思い出すようになっていた。それは日本の教科書のほんの1ページかそこらだったけど、私には強烈な部分だったからだ。他国の人たちの名前を日本名に変えてしまい、日本語を強制する、自分たちの文化を捨ててしまえというのと同じ行為だ。それを想像しながら当時授業を受けていた私は、その部分の授業はほんとにあっという間に終わってしまったけどいつまでもそのページに戻って何度も読み返した覚えがある。韓国人と仲良くなってから、時々歴史的な話が持ち上がってくる。そうしているうちに、その昔に教科書で読んだ部分を思い出し、そのおばあちゃんの言葉が何だか胸にしみこんできたのだ。おばあちゃんは別に私に責めるように言ったわけじゃないし、むしろ懐かしげに私を見ていたんだけど、その分私の心は痛かった。私はただニコニコしながら何も言えず、おばあちゃんに撫でられたままだった。この事が今でも忘れられない。何でか分からないけど強烈に心に残ったままだ。多分パパに話したら「何で?」と不思議がられるだろう。そのおばあちゃんの顔も声も覚えてないんだけど、その時に私が感じた気持ち、そしてそのおばあちゃんの手の感触だけずっと残っている。
Mar 24, 2005
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つい先日、日本領事館へ行ってきた。先週のデモがかなり激しく、大使館だけでなく領事館までと言う話だったので、心配でつい領事館に電話して聞いてみたけど「今週はそれほどではないみたいですよ。大使館の近くは通らずに、裏門の方から入られたら全然心配ありません」と言う話だった。その日は、日本で新しく借りる公団の申し込みに必要な在留証明や印鑑証明、そして子供たちは日本のパスポートを持っていなかったので、その申請のために向かった。海外にいる時、みんなきちんとしてるんだろうか?私がズボラなんだろうけど、どうせ日本に住むこともないだろうし、なんてかなりいい加減だったので、在留届も出してなかったし、日本の住民票はそのまま、パスポートも旧姓のままだ。(私はパパの姓に変えたのだ。)領事館ではパスポートの申請、在留届をして証明書を発行、印鑑登録をして証明書を発行、ここまでしないといけなかった。さぁ一体どんな雰囲気なのかと少々緊張気味に安国駅を降りた。うん、いつもと変わらない様子。前2回は午前中だったけど、今回は午後なので、車の数が多かった。アックジョンより空気が悪い。何てことだ。いつも歩いた道は大使館の横を通り過ぎてたので、ちょっと遠回りして領事館のあるビルに向かう。そのせいかデモらしきものは一度も見ず、どこかでそんな騒ぎをやっている気配すらなかった。領事館は雑居ビルの中なので、本当にいつもの通り。7階(領事館)に行く私たちを変な目で見るわけでもなく、当たり前に着いた。領事館はビザ用(韓国人・外国人)と証明書等用(日本人)と両手に分かれている。今回初めて日本人用の方に向かったけど、窓口はビザの方と同じように韓国人がやっていた。最初はちょっと愛想のないおばさんが対応。事務的に山ほどの書類を渡された。パスポートの申請は?と聞くと目で横の方を指して、「あっちです」と言う。どこにあるのかとウロウロしてるとパスポート窓口のお姉さんが「ここですよ」と書類をくれた。パパにも手伝ってもらって何とか書き終えると、まずはパスポートからと思い、さっきのお姉さんの所に書類を持っていった。そこで訂正する所を訂正し、今度は名前のスペルで問題。ローマ字式を取る日本では特別なスペルの場合、その申請書を出さないといけない。そこでなぜか私のパスポートまで出てきて、旧姓から直さないといけないのと、スペルを申請するのとで、3人分の書類(2セットずつ!)が渡された。そして在留届はインターネットでやったけど、まだ届いてないから、とここでまた新たに申請書。結局そのお姉さんが全ての書類を預かってくれて全部まとめてやってくれたので、助かったけど、とにかく書類記入に1時間以上かかった。お姉さんはすごく親切で、私に書類を渡すたびに「済みませんが・・・」と笑いながら申し訳なさそうにする。いやいや、今まで全部やってこなかった私が悪いのに、いきなり面倒なケースをもたされたお姉さんに、私の方が申し訳ない。しかもパスポートは以前違う人に聞いた時は、「申請する時か受理する時のどっちかでいいので、必ずお子さんたちを連れてきてください」と言われたのだが、お姉さんは「本当は来ないといけないんですけど、今日大変だったし、いいですよ」といってくれた。子供たち二人を連れてアックジョン駅まで徒歩15分、電車で10分さらに駅から15分ほどの道のりを来ることを考えたら、本当にありがたいことだ。ちょっと無理やりの感はあったが、とにかく必要なことは全て終わり、何とか帰ってきた。地下鉄に乗ると、「次はアックジョン駅」と言うアナウンスとともに、あの漢江の橋を渡る。何となく都市から、私たちの住む町に帰ってきた気分だ。
Mar 24, 2005
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昨日あたり、楽天にも在韓日本人ママの日記に独島問題に触れている箇所を何箇所か見つけた。私は正直他の日本人と同じ独島が韓国領だろうか竹島と言う日本領だろうがどっちでもいい。だからパパが独島が韓国のものなのは事実だと言われれば、そうなのか、日本が勘違いしてるか、認めたくないんだな、なんて思ってる。でもこの問題のために韓国人がさまざまなデモをしながら自分の体を傷つけたり、ネット上で日本人を攻撃したり、Naverというブログでは「独島はウリタン(私たちの土地)」と言うアイコンを無料配布してほとんどのブロガーがそれを使っているのを見ると、腹立たしかったり、残念だったり、ちょっと苦笑いしてしまったりする。でも、まぁいいや。どれも良識ある大人たちがしてること。自分たちの考えがあり、自分の責任の下に動き、時には自分を傷つける。これに対しておかしいと思うのは、私が韓国人でないからであって、決してこれを間違っていると判断してはいけないのだから。韓国人を日本人のものさしで測ってはいけない。ただひとつ、どうしても納得のいかない事がある。これは国民性とかで何とかしてはいけないと思う。何人かの在韓日本人ママの日記で幼稚園や小学校に通う子供たちが、学校で「独島はウリタン~」と言う歌を歌ったそうだ。私はこれだけはどうしても嫌だ。もしこのまま自分の子供が韓国で育つとしたら一番嫌な部分の教育方法。これは今回の独島問題だけではない。イラクで韓国人の人質が殺害されたときは反米教育が直ちに行われた。そうやって教わった子供はどうだろうか。これはいわゆる「一時的」な大きな「感情」だ。時が過ぎれば、また友好だの同盟だの言って、両国が近くならざるを得ない場面が来る。本当に戦争でも起こさない限り、アメリカにしろ、日本にしろ、そして他のどの国にしても、ある意味仲良くやっていかないといけないのだ。ある部分はとっても嫌いでも、だからってその国の悪い部分を強調して子供に教えたとしたら・・・。子供はその国が悪い国、自分たちにとって「敵」と考える。でもちょっと後には、もしかしたらほとんど同時にその国は「同盟国」とかその国との「友好の年」とか言って、その国が実は「味方」でないといけない国の事情が出て来る。子供たちの頭の中ではどう整理すればいいんだろうか?敵であり味方である国。多分高校生や大学生にでもなれば、その辺の微妙な外交が理解できるだろう。だけど幼稚園生や小学生にはとてもそんなもの理解できない。悪いものは悪い、良いものは良い。これが小さな子供たちの考え方だ。いくら世論が燃え上がっているからといって、こんな小さな子供たちの教育の場に大人の感情を持ってきてはどうだろう?「独島はウリタン」と教えるのは良い。でもそのためには日本がうそつきで、韓国の領土を侵略する悪い国ということも教えないといけないだろう。(今の状況では)今でこそ、日本のアーティストが出てくる映像などは放送禁止になったが、ちょっと前までは文化開放のおかげで、色々日本の物が流れていたわけだし、もしかしたら少しおさまった頃、また流れ出すかも知れない。それを見て、韓国の子供たちは混乱しないだろうか。そして韓国にいる日本人とのハーフの子供たちは自分のアイデンティティーをどう位置づければいいのか。日本のYahoo!に行っても竹島については皆無といっていいほどニュースには現れてこない。そんな日本の態度、これまでのアジア諸国から言われている諸問題をのらりくらりと避けてきて、はっきりしない態度を日本は改めないといけない。いくら「謝った」といっても、その謝られた国々が納得していなければ謝ったことにならない。今回はこれまでにたまりに溜まった韓国の日本に対する怒りや不満が爆発した形なんだろうとも思う。だけど!その感情で子供を教育して欲しくない。良いと思うか悪いと思うか、許せると思うか許せないと思うか、これは教育を受けたあと子供が自分たちで決める、感じることだ。大人がその教育の間にこう感じなさい、こう思いなさい、と決め付けるものではない。幸いイパルの幼稚園ではその歌はやらなかったらしい。その代わり「愛国歌」は歌ったみたいだけど。そんな歌を歌ってきて、「イルボンナップダ」と言われたら、私はどう答えれば良いだろう。何人かが言ってたけど「いっそのこと北朝鮮が独島を爆発させちゃったら良いのに」、大賛成だ。でもパパに言ったら「そんなこと日本が言っちゃいけないんだよ」とちょっと真面目に怒る雰囲気になってしまった。私の手前、あまり感情的には怒りを見せないけど、この独島のことできっと苛立っている、そんな感じ。私みたいに笑って話せる問題じゃないんだ。その辺日本と日本人はもっと理解して欲しい。指を切る韓国人をバカみたいと笑わないで、少し深刻に受け止めて欲しい。韓国は今本当にすごいことになってるんです!!
Mar 18, 2005
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これは韓国語の表現で「1歳年を取った」の意味だ。そう、今日は私の誕生日。本当に30歳を過ぎると誕生日なんて嬉しいともなんとも思わなくなった。それと同時に、自分が今何歳かも分からなくなった。特に韓国にいると、数え年で答えるから、本当の年は何歳か計算しないと分からなくなる。そして1歳、時には2歳くらい若返った気分で本当の年を思い出す。おとといの夜、突然ハラボジがパパに電話してきて「もうすぐイパルエミ(私のこと)誕生日だろ。早く言わないとダメじゃないか」と言ってきたそうだ。別に特別なことをするわけじゃないんだけど、なぜかそんな電話をしてきた。そして今日はパパがハルモ二に電話をしたらすでに私のミヨック(わかめスープ)を準備していると言う。考えたらほとんど人生の半分を生きてきたことになるわけで、そんな事を考えると自分に「良くやったな」と言いたくなる。なんというか・・・子供の時から自分がこの先何十年もこうやって生きていくなんて想像できないと思っていたのだ。いつかは自分がお母さんになって今自分のお母さんがしていることをするようになるんだ、と重い将来に頭を抱えながら眠りについたこともある。それが小学生の時のわたし。その私が人生の半分までやってきた。やっぱりすごいことじゃないかなと思う。誰でもやっていることなんだけど、「良く飽きずにここまで続けて来れたね」と自分に言ってやりたい気分だ。今日はきっと母も病室から「お誕生日おめでとう」と言ってくれてるだろうな。
Mar 15, 2005
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いつか紹介してやろうと思っていた一家。ちょっと老けたお父さんとちょっと若いお母さんとその息子6年生。お父さんは昔有名なモデルだったそうだ。ハルモ二も知っているモデルだ。そして今は結構大きいモデルエージェンシーのCEOだそうだ。ここにはCEOと名乗る人が7割はいくんじゃないかというくらいいるけど、彼は本物だそうだ。モデルだったと言うだけあって、背は高いしスタイルもすらっとしている。お母さんはきっと私たちのあまり変わらない年代だと思う。あまり顔をあわせたことはないけど、一度血相を変えて、洗濯置き場の排水が流れないけどこっちはどうか、といきなりたずねてきた事がある。そして翌日は知らん振りだった。そして息子。お父さんの血を受け継いだのか、でかい。だけどすらっとではなくて全体的にでかい。だから声もでかい。隣のチョンダム小学校ではなくて、どこか私立の学校に通っているらしい。そしてその一家の運転手。きっと会社のだと思うけど、家族中使いまわしている。運転手は朝からベンツを磨き待機。子供を学校に送り、お母さんをどこかに送り、お父さんを会社に送る。その待機中には彼らのごみ捨て、車手入れなどなど雑用が結構ある。彼らはとにかくうるさい。ここに引っ越してきてすぐから感じてきたけど、うるさい。まず声が大きい。家族中、下にいる人に向かって叫ぶ。ここは11階。聞こえるためには思いっきり叫ばないといけない。それは朝でも夜でも構わず行われる。そして息子のサックス練習。絶対やる気がないんだと思わざるを得ない彼の練習は1年も2年も同じ曲の同じパートを延々と続いている。しかもドアは暗証番号で開くドアなので、番号を押す音、あく時の音、これも結構うるさい。この家族は出る度に忘れ物をするのか、絶対1回は帰ってくる。しかも夜中にもかなり出入りをする。そして大迷惑なのは、お父さんのタバコ。家の中では吸っちゃいけないのだろう。必ず廊下に出てくる。しかもなぜか私たちの家の目の前で。夏なんてたまらない。暑いから窓を開けてるとプワ~とタバコの臭い。かなりのヘビースモーカーなので、お父さんが家にいるときは毎時間といっていいほどタバコの臭いがやってくる。そのたびに窓をシャット。でも決して悪い人たちではない様なのだ。お父さんは子供たちとエレベーターで一緒になると必ず愛想良く話しかけてくれる。エレベーターから降りて階段を下りるとき、娘の手を引いてくれる。お母さんも挨拶したりしなかったりするんだけど、それは私が隣の人だって気づいていないからみたいだ。息子は警備アジョシ(おじさん)とかにはすっごく態度悪いんだけど、この前ちょっとエレベーターで助けてあげたら、にっこり笑って頭を下げていった。悪気はない様なので、隣でタバコをプカプカして吸殻を家の前で捨てられても、夜中の3時に廊下でうるさくされても、なかなか文句が言いづらい。いっそのこと嫌な奴らだったら喧嘩モードでも言ってやるのに。全然知らないモデルでもかつては有名だったと言うことで、一度くらい記念写真を撮っておくか。
Mar 13, 2005
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月曜日から3泊4日、私だけまた日本へ。今回で仕事も家も決めるぞという意気込みで。仕事は簡単に決った。なんせ10年前に働いていた病院だ。知ってる人は婦長さんになっていたり、懐かしい顔ぶれが何人かいた。家を借りる時に必要な書類など、わがままを言って無理やり出してもらったり、「やっぱり古巣に戻って良かったのかな」とちょっと嬉しかった。仕事が決れば次は家。行く前から目をつけていてある不動産屋とやり取りをしていた。実は行く前からあちこちの不動産に問い合わせをしている。返事の来ないところもあれば、事務的なところもあり、本当に親身になってくれる所もある。今回も行く前に何件か問い合わせて、それぞれ返事が着たけど、2回目のメールで実は今海外にいて夫が外国人だと伝えると、「じゃ、来た時にでも連絡ください」とあまり熱心ではない返事が来ることが多かった。その中で、ひとつの不動産会社だけ、相変わらず親身に対応してくれる所があった。ある家が気に入ってもっと写真が見たいが・・・と言ったら、わざわざ撮りに行ってくれた。実はなかなかそこまでやってくれない。返事も実に迅速に送ってくれた。インターネットがさほどメジャーな交流手段じゃない日本では、きっと実際に出向いたら親切と言う不動産屋も多いかも知れないけど、どうしてもメールでの連絡が多い私たちには、メールですぐ連絡が取れる不動産屋はとても貴重な存在だ。面接を終えて、その不動産屋に向かった。その前に内定証明書をもらうために時間がかかり、かなり遅くなってしまった。着くなり、彼は申し訳なさそうに言った。「実はあの物件決っちゃったんですよ。この週末に。」そこは位置的にはちょっと不便だったけど、家賃や費用も手ごろだし、彼に撮って貰った写真からかなりきれいな家なのは分かっていたので、結構ショックだった。でも仕方ない。それから物件探しが始まった。でも今回の引越シーズンは終わりらしく、いい物件はこの1週間でかなりなくなったとの事。いいと思う物件は予算ギリギリだった。でもパパから「少しくらい高くても居心地いいうちを選んで」と言われてたので、比較的新しい、広めの家を2件選んで見に行った。1件目は家賃がもうひとつのより高くて、その分広いし、パパの大好きな車庫も会った。2件目は家はとてもきれいだけど、駐車できるスペースがちょっと狭くて軽車じゃないと出入りできないんじゃない?と言う感じだった。駅からもバスだし・・・。でも1件目の扱っている会社は結構いろいろうるさいことを言うので、2件目の方が審査が通りやすいんじゃないかと言われた。色々考えて2件目に申し込んでみようかと言うことになった。ただ不動産屋が言うには、家賃が私の得る収入では高すぎて審査が難しいかもと言うので、韓国での夫名義のアパートから出る家賃と銀行の残高証明を出せると言う話をした。「要は家賃を責任持って払えれば良いんでしょ?」と思ったのだ。そして韓国に帰ってきてまもなく審査の返事が来た。「条件付」で入ってもらいたいと言ってきたというのだ。その条件にショック。礼金敷金手数料などはもちろんなのだけど、前月分の家賃だけではなくてなんと1年か2年分の家賃を前納して欲しいと言われたのだ。もちろん毎月払うんだから、同じこととハルモ二なんかは思ったらしいけど、それは違う。ファイナンスの言葉でタイムバリューと言うものがある。いや、そんなこと知らなくても、1年分の家賃を前払いしろなんて言うの、聞いたことない。それはパパの方の収入や銀行のお金をまるっきり考慮してくれなかったことになる。何だか弱みに付け込んだ感じだ。私たちは日本にこれから生活をしていく家族で、しかも外国人つき。貸す方はあまりかかわりたくないケースなのかもしれない。でもだったらいっその事断られた方が良かった。「○様(私のこと)に実際に会われてかなり好印象をもったそうで、出来れば借りて欲しい」と言う言葉と一緒につけられた条件としてはあまりにもひどい。私たちがありがたく一括払いすると思ったのだろうか。私たちの感覚がおかしいのだろうか。即答でお断りした。担当の彼は「出来ればこれからもお手伝いしたい」と言ってくれた。私としても、一度面識があって、色々すでに事情を知っている彼にこのまま助けてもらうのがありがたい。もう日本にはこれないと言う私に「そうしたら気に入った物件の写真を私が撮ってきますので、それで決めていただくしかないんですが」と言ってくれるので、ありがたかった。彼にしたって、こんな面倒くさいケースを担当したって、結局得るのは手数料だけ。他の簡単なケースを担当してたくさん契約した方が実績になるだろう。そういう人に担当してもらっただけでもラッキーだと思おう。家を借りると言う現実は思ったより厳しかった。今までアメリカや韓国で一度も苦労しなかった(契約するに当たって)家探し、まさか自分の国で苦労するとは。最近パパの口癖になっている言葉「誰が日本を『世界で住みやすい国4位』なんて言ったんだよ」を私もいつしか口にしてた。
Mar 12, 2005
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昨日3日は小学校の入学式、そして今日は幼稚園の入学式だったようだ。今年から幼稚園に通い始める子がぞろぞろアパートの下に集まる。今年はある幼稚園が人気だったようで、みんなそろって同じかばんをしょっていた。そこには去年違う幼稚園に通っていて今年からそこに通うという子もいれば、去年までそこに通っていて、今年から違う幼稚園に通う子もいた。とにかく韓国の幼稚園児たちはあちこち良く転園する。幼稚園に入れた後もお母さんたちの情報収集は絶えない。どこそこのプログラムがいい、英語レッスンが良い、などと聞くと次の月からそこのカバンに変わってる・・・なんてことはよくある事。ある英語幼稚園に通っていた子の場合、その幼稚園だけお迎えが乗用車だということで大不満だったお母さんが翌月には立派な園バスが来る英語幼稚園に変えてしまった。イパルの通っている幼稚園は、同じ棟から3人行くので結構目立っていた。そこで引っ越してきたばかりのお母さんや、他の園に行かせてるお母さんから絶対質問される。まず「何ていう幼稚園ですか?」次は「英語やってます?」学費はとか、園の雰囲気は、先生は、何ていう質問はいまだかつて聞いたことない。ここのお母さんの一番のチェックポイントは、英語をどのくらい教えてるか、ネイティブがいるか、などだ。そこで、ある英語幼稚園が最近人気だ。英語幼稚園も山ほどあるこのエリアで、お母さんの気持ちをひきつけるのはとっても大切なこと。そこでは、一日中ずっと英語だそうで、しかも名札を子供たちはつけてるんだけど、ハングルの韓国名の上には必ず英語名がある。きっと学校ではその英語名を使うんだろう。そんなのも人気の原因かも知れない。その人気の幼稚園から変えた子はその人気の英語幼稚園に行くそうだ。でも私は思う。幼稚園ってそういうものなの?イパルの通う幼稚園は園長先生が「うちでは専門の先生が体育、英語、コンピュータなどを教えますが、楽しく遊ぶことが第一なので、そんなに一生懸命お勉強をするというわけじゃありません。楽しくすることがモットーです」なんて江南のお母さんたちの前で言ってのける。私の欲しいのはまさにそのようなモットーなんだけど、この辺でこんなことを言ってたら、いつまでもあの幼稚園はなかなか「人気」にはならないだろうな。それはともかく・・・幼稚園っていったん入園したら2年でも3年でも通いとおすことが大事じゃないんだろうか?その自信がその後の小学校の6年に続くんじゃないかなと思うのだ。同じ幼稚園で一緒に遊んだ友達との思い出。ちょこちょこ幼稚園を変えてたらそんな思い出もできやしない。友達との友情も薄くなってしまうんじゃないかってそんな心配までしてしまう。かわいそうなことに、イパルは致し方なく幼稚園を転々とすることになる。アメリカで行き、韓国で行き、また今度日本で行くことになる。そのたびに仲良くなった友達とお別れしないといけない。イパルの幼稚園の思い出はどんな風になってしまうのか、友達との記憶は次第に薄れてしまうんじゃないか、などとパパと心配してる毎日だ。幼稚園で学ぶべきことは英語でもないし、ハングルでもない。そんなものは小学校に行ってからでも十分だ。幼児にしか感じられないものを伸ばして、幼児で経験しないといけないものを経験させてあげる、そこからだけでも学ぶものは数え切れないほどある。去年も1年の間にどれだけたくさんの幼稚園が出来たことか。今年もさらに新しい幼稚園&語学院がもっと出来ることだろう。うわさを聞くたびにお母さんたちは忙しくなり、子供たちはあっちこっち行かされるはずだ。かわいそうなのは子供たちだ。
Mar 4, 2005
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それは10数年前のこと。何を血迷ったか、看護婦になろうと決心して、看護学校に入学した。母親は娘が大学に行かずに専門学校へ行き、看護婦になることを猛烈に反対していた。反対されると、さらに燃え上がるのが10代。母親に援助してもらわなくても、自力で行ってやるとまで考えていた。結局他の学科を一切受けない私にあきれつつ怒っていたが、最終的には「仕方ない」と思ってくれた母。看護学校は記念受験(受けても受かりそうもないけど、とりあえず記念で受けた学校)も含めて10校くらいあったと思う。数校に合格したけど、結局母親のススメで、ある大学の医学部付属の看護学校に入った。看護学校は3年。もちろん、いろんなコースがあるんだけど、普通の高校を出て、正看護婦になりたい人はこのレギュラーコースと言うものに通う。1年目は基礎学科と専門学科の一部を勉強して、病院実習は3年生に連れられていく1週間の実習だけ。まだキャップももらっていなくて、かっこ悪い四角巾で作られた召使のような帽子をかぶる。2年生になるとようやく勉強の方も専門を増していく。ほとんどの専門科目を終えた頃、キャッピング(戴帽式)を行い、ナイチンゲール誓詞とキャンドルサービスを行う。これで一人前の学生になれた証拠。待ちに待ったナースキャップを頭につけ、喜んで写真を撮るのはこの日だけ。これから悪夢が始まる。そして悲話も始まるのだ。臨床実習と言われるこの悪夢の実習は2年生の始めから3年生の始めまである。月曜日から木曜日まで病棟実習に行き、金曜日と土曜日は学校で勉強だ。と言っても、授業ではなく、個々の実習で必要な勉強の時間となる。実習は内科から外科、産婦人科、小児科、精神科とほとんどの科を周るが、人によって循環器内科に行くか、消化器内科に行くか、天使病院に行くか悪魔病院に行くか異なる。天使病院が多かったり「簡単」と言われる病棟にばかり当たる人たちはシンデレラコースと呼ばれ、悪魔病院ばかりだったり、「怖い」と言われる病棟にばかり当たる人たちは・・・名前はない。ただただ哀れみの目で見られるだけだ。病棟実習は指導者で決まると言っても過言ではない。指導者と言うのは看護婦の中でも学生の指導をする人のこと。勉強になる指導者もいれば、ただやさしい指導者もいる。そしてこわぁい指導者もいれば、ただいじめるだけの指導者もいるのだ。学生は8時から始まる申し送りの少なくとも1時間前に病棟にいないといけない。グループ全員そろって病棟に向かい(エレベーター使用禁止)ステーションの入り口で「おはようございます」とバカデカイ声で挨拶。それから学生がいていい場所、たいていが1畳ほどの処置室に自分の荷物を置き、情報収集にかかる。自分の受け持ちの患者の夜間に変わったことや、今日の処置の確認などをする。椅子に座ってはダメ、ナースコールが鳴ったら誰よりも早く取らないとダメだ。万が一看護婦さんが先に取ってしまったら怒られるか、嫌味を言われる。看護婦のようにナースコールで「どうしましたかぁ」なんて聞いてはダメ。「伺います!」と言って、病室まで行って用件を聞かないといけない。看護婦さんのように走ってもダメ、常に早歩きだ。ある時、ナースコールが鳴って病室に行った。担当の看護婦じゃないと無理な用件だった。早速担当の看護婦を探しにまわる。この時も看護婦のように大声で「○○さぁん」なんて叫んではダメ。だからひたすら探しまわる。どこにもいない。ウロウロしている私を見て、やさしい看護婦さんが「誰探してるの?」と聞いてくれた。そこで看護婦さんの一声「○○~!!」ノコノコと休憩室から出てくる。用件を言ったら、その看護婦「そんなこと、もっと早く言ってよ!」「もっと私を探してっ!!」(あんたが休憩中でもないのにサボってるからわかんないんじゃないかっ)学生には「朝の突っ込み」と言う恐ろしい儀式が待っている。申し送りの後、学生たちが一人一人、全員の看護婦の前で、今日の目標、行動計画を発表し、「何かアドバイスをお願いいたします」と言わないといけない。これはいじめてくれと言う意味だ。私の記録用紙をチラチラと見ながら、「じゃあ~聞くけどぉ」と始まる。真面目にただ勉強してきてるか確認するだけの看護婦さんもいれば、朝からストレス発散にいじめちゃおうという意地悪な看護婦まで色々。ひどい時は答えられなくなるまで突っ込む。最後の方の質問は質問にもなっていない。そこで答えに詰ると、「じゃ、この処置は今日しないでね。ちゃんと勉強してきて」と言い放つ。一度皮下注射をするという処置計画があった。そこで「怖い」指導者さんから「そういえば、××さん、午後に注射するんだよね、じゃ目的と注意事項を言ってみて」と聞かれた。勉強したことをそのまま答える。クリア。「必要物品を言ってみて」もちろん、これもクリア。「じゃ、さっき21G(ゲージ、針のサイズ)を使うって言ったけど、何で?」・・・ここで詰った。何でってそんなこと書いてなかったぞ。「何で23Gや19Gじゃいけないの?」「あ・・・23は細すぎるし、19は太すぎるからです」「何でダメなの?理由は?」もうアドリブも無理。「調べてきます」「じゃ、お昼休みに調べてきてね。」昼休みって30分しかない。教科書には載ってないから、図書館に行くしかない、とご飯も食べず、図書館に向かった。でも一体どんな本を見ればそんなこと載ってるのか分からない。30分図書館にかじりついて粘ってみたけど、無理だった。「分かりませんでした」「じゃ、今日はしないでね。」もちろん、答えは教えてくれない。指導者なんてそんなもの。質問はするんだけど、教えてはくれないのだ。そして投薬の時間。この時は指導者ではなく、その受け持ちの患者がいる部屋を担当している看護婦に行き、「薬の確認をお願いします」と言って、薬のひとつひとつを取りながら、作用・副作用・禁忌を言う。これは、毎回看護婦が違うので、いろんな突込みがあったり、逆に全然聞いてない看護婦もいる。同じグループの一人が要注意看護婦に確認をしてもらうところだった。勉強家の彼女はスラスラと言っていく。副作用を一通り言ったとき、その要注意は「それからぁ?」と言った。彼女は明らかに戸惑っている。今までそれでずっとOKをもらってきたのに「足りない」と言われるとそれはそれはオロオロするものだ。散々考えた挙句、どの薬を調べても必ず最後の最後に出てくる、一番マイナーな副作用を恐る恐る口にした。「そうよ!ちゃんと覚えておいてよね。あたしも忙しいんだからさ。」と言った後、彼女は「禁忌」に方に移った。最後まで聞いた後、その要注意は手を忙しく動かしながら、「いいんだけどさぁ、なんていうの~、美しくないのよねぇ~。」何じゃ、そりゃ。(お前の言葉使いも美しくないよ、ちょっとはドクターに話すときみたいに美しく話してみなっ)悲話はもちろんこれの限りではない。でもそろそろ終わりにして、次回は患者編。
Mar 2, 2005
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24日はイパルの幼稚園の卒園式&終了式だった。幼稚園にはこういう式をやるような場所がない。と言うわけで、ある会館の式場を借りて行われた。式場に着くと、園児たちはみな一人前にガウンを着ている。卒園の子供たちは頭に帽子も。それはアメリカの学校の卒業式のときのような格好だ。日本では幼稚園と言ったら、制服があるからこんな格好をすることもないけど、韓国の幼稚園ってほとんどが制服がないようだ。卒園の子も、1学年を終了しただけの子も、みな立派なケースに入った賞状をもらった。見た目はガウンを着て、そんなケースに入った賞状を持って、絵になるのだけど、とにかく練習を一度もしない式だったようだ。子供たちは入場の仕方も、受け取って退場する流れも、挨拶の仕方や賞状の受け取り方も、何一つ練習なしの本番だったようで、まぁそれは幼稚園児には大変なことか、と理解を示すことにした。だけど、その式自体の流れすらめちゃくちゃだった。結局順序が変わったりで、ヒヤヒヤの式だった。イパルはただの終了式だからいいけど、これが卒園式だったらちょっと悲しいなぁと言う感じ。しかも何だか慌しくて、ガウン姿の園児の写真を撮ることも出来ないし、先生と撮るのもやっとだった。かといって、私の姪っ子(日本在住)の幼稚園のように、運動会だからといって1ヶ月も行進の練習をするのもどうかと思うけど、これって感覚の違いなんだろうか。そういえば、目の前にあるチョンダム高校の朝礼を時々見るけど、生徒たちすっごいダラダラで、先生がいつも怒鳴ってるもんなぁ。この前の避難訓練なんて、本当の火災とかだったら絶対けが人続出って感じだった。でもこれは何も韓国だけの現象ではない。アメリカもまたひどいもんである。小学校の体育授業なんて見ると、全然先生の言うとおりに動かない。きちんと整列をして、先生が話すときには休めの姿勢で聞く、無駄口をたたかない・・・これって日本でだけ通じる常識なのかな、と思ったものだ。子供たちがそう出来なかったとしたら、今度は親の私は譲歩する番なんだ。とにかくコアラ組(6歳組)が無事終了した。おめでとう、イパル。
Feb 27, 2005
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昨日の午後、イ・ウンジュさんの自殺が報道された。彼女は「プルセ(火の鳥)」というドラマに出ていた女優だ。亡くなったのを発見されたのは午後1時だそうだけど、3時ごろ知った私たちは、インターネットでニュースを見ようと思ったら、どこもダウン。ニュースが動かない麻痺状態だった。それくらいこのニュースは衝撃的だったようだ。 私ももちろんパパもびっくりだった。何で死んじゃったの?あんなに成功してたのに。今回撮った映画でもその演技でかなりの評価を得た彼女。まだ韓国の年で25歳だというのだから、実際には23歳だろう。報道をたどっていくと、この映画が少なからず自殺の理由になっているようだ。ニュースでは、その映画での脱がなければいけないシーンが多いことをかなり嫌がっていたと言っていた。でもだからって死んじゃう?というパパに「他にも理由があるんだよ」と言っていた私。時間が経つうちに、本当にそれが理由かも知れないとおもい始めてきた。あまり感心を持ってニュースにかじりついていたわけじゃないのに、彼女の死の理由を考えてた私も、結構ショックだったのかもしれない。その映画は全体的にとても暗い映画で、彼女の役割もとても難しいものだった。23歳の彼女にはとても演じきれると思えない役割だった。だけど彼女は多分みんなの期待以上に演技した。でもその映画が与えた影響はかなりのものだったようだ。それはそれで分かる気がする。彼女は今は女優としての自分の存在よりも23歳の彼女自身の存在をもっと大事にしたかったのかも知れない。でもまわりは女優としての将来性や、そこから見込まれる利益の方ばかりを優先して、彼女の気持ちを無視していたかも知れないのだ。周囲はおろか、母親とも言葉が通じなかったという彼女。どうして良いか分からない、とノートに綴った彼女。最後の最後に病院を受診した。多分助けを求めていたのだと思う。医師はさらに検査をするように薦め、脳波やその他の検査予約をさせたそうだけど、彼女に必要だったのは脳波検査なんかじゃない。その場で彼女の言葉をありのまま受け止めてくれる人が必要だったはずだ。医師は彼女の自殺企図を見抜けなかったのか。何だか彼女がとてもかわいそうに思えた。誰にも通じない、分かってもらえない気持ちがあったとしたら、それはそれがたとえ心の1%であっても辛いものだ。彼女が死を選んだ理由なんて結局は誰にも分かるわけじゃない。こうだろう、と想像するだけだ。ただただ、悲しい。彼女を誰一人救うことが出来なかったこと、女優としてではなくて一人の女の子が、こうして死を選ぶしかなかったことがとても悲しい。哀悼の意を込めて。* やっぱり呼び捨ては良くないなぁと思い、名前書き直しました^^;
Feb 23, 2005
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私が楽天に日記を始めたのは約2年前、その頃はまだブログと言う名前すらなじみがなかった気がする。そしてブログなるものがあちこちに現れた頃、パパがNaverという韓国のサイトでブログを始めた。それまでは韓国で爆発的に人気になったサイワールドと言う簡単なHPサイトを利用してたけど、どうしても雰囲気が若者向き。実際利用してる子のほとんどが10代、20代という感じで、そのコミュニティーについていけなかったようだ。それでもこのサイワールドは人を探すのに役立っている。利用してもしなくてもとりあえずHPを持ってる人が多いので、生まれた年と名前を入力すると登録者のリストが出るこのサイトは長年連絡が取れなかった友達を探したりするのにも使えるのだ。私も一度持ってみたけど、ほとんど写真ばかりの世界で、そうなると自分の私生活を暴露してるみたいなものだ。写真がないとつまらないし。そんなわけで、すぐやめてしまった。このNaverのブログはそこをいくとちょっと年齢も幅があるし、写真を載せたり、日記を書いたり、自分の好きなようにアレンジが出来る。そんなわけでパパもこのブログを利用して1年が経とうとしている。パパがブログを始めて、日本と韓国のブログの認識の差がとっても良く分かる。まず、日本のブログにはあまり個人的な写真は出てこない。もちろん見せる人もいるけど、こと写真には保守的な人がほとんどだ。パパは写真を載せることに結構気をつけてるけど、他の人は自分の写真はもちろん子供の写真、自分のプライベートをあっけらかんと見せる人は結構多い。でも何よりも違うなぁ~と感じたのは、ブログに来る人たちの反応だ。パパのブログでは、日記でも写真でもひとつ載せると、そこの下にはコメントが20近く付く。何がそんなに書いてあるのかと思うと、ほとんどの人が一言が二言の簡単なコメント、しかも内容と全然違ったりする。その下にはキャ~とかKKK(笑い声)だけだったりするし、そこの下にはまたパパがコメントで返事したりで、ほとんどチャット状態だ。しかもそれを常連さんのブログ全てにまわってやっている。ほぼ一日24時間使っての付き合いだ。それが可能なのも、韓国人のほとんどが会社で勤務中すらチャットをしたり、こんな自分のブログで遊ぶことが出来るからだろう。親しくなるととことんまで近づきたい韓国人の特徴のせいで、オフ会をやろうとしつこく迫るブロガーもいるし、親しくなったとはいえ、あくまでネット上の付き合いなのに、コメントにはまるで長年の親友が突っ込むように書く人もいたりで、この韓国のブログも長所短所があるようだけど、見た目は楽しそうだ。他のブログサイトは良く知らない。だけど、この楽天の日記とNaverのブログを見てると何だかすごく両国の雰囲気が見て取れる。個人個人でも違うわけだし、日本は、韓国はって言うのはあまりにもStereo Type化しすぎで良くないのも分かってるけど、それでもつい伝わってくる雰囲気。楽天からは日本人の丁寧なそして親しみよりマナーを気をつけた空気が伝わる。それはまるで街中での立ち話を見ているようだ。どんなに良く知っている人との立ち話でもある程度距離を開けて、丁寧に静かに話してるおばさんたちのような雰囲気。笑い声は何となく「ホホホ~」って感じかな。韓国のブログからは韓国人の親しみのこもった(悪く言えば馴れ馴れしい)マナーよりもフレンドリーって感じの空気。それは立ち話で言えば、大きな声で手振り身振りを加えながら、しかも相手にスキンシップも交えながらの会話。笑い声だけじゃなくて怒りの声も響き渡る賑やかな立ち話。パパはそんな韓国のブログのあまりにも遠慮ない付き合いが嫌になり、日本スタイルを求める時がある。マナーをある程度守った節度ある付き合いが良い、と言う。でもどんなコメントであろうと、常に一言でも新しいコメントが待っているブログに慣れてしまったパパにはきっと日本のこういったサイトはきっと詰らないだろうなって思う。でも私はやっぱり楽天が心地良い。Naverにもブログやってみて、もし私がハングルをかけるんだったらそれはそれで楽しいかも知れないけど、きっと本当に思っていることは書けないだろうなって思うのだ。楽天では正直な気持ちを書いたり、悩みを書いたり出来るのは、読んでくれる人も自分のことのように考えて、コメントしてくれるのはもちろん、読む私の立場になって気をつけて書いてくれるからだ。それは韓国のブログでは求められない。感想は書いてくれるだろうし、アドバイスもしてくれるだろう。だけど、読む私はどう感じるかは考えてくれないだろう。だから最初からそんな微妙なことは書けない。韓国のブログ、どなたか参加してる人はいますか?
Feb 22, 2005
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2年前の今日、ホパルは生まれた。1月末に37週を迎えた私は、先生に「子宮口は1指程度開いてるし、赤ちゃんもかなり降りてきてるから、陣痛がきたらいつでも生まれるよ」と言われていた。それから、まだかな、まだかな・・・と待っていた私たち。イパルは予定日の朝に陣痛が来て、翌日の夜に生まれ3316gだったから、出来ればちょっと早めに小さめに生まれてくれたらいいのに・・・なんて母親の自分勝手な願いがあった。でもそんなみんなの期待とは裏腹にホパルは全然出てくる気配がない。相変わらずおなかに波が立つような動きを見せている。出産に間に合うように、とハルモニが韓国から2月のはじめに来てくれた。早めに生まれるかも知れないよ、という言葉を信じて早めに来てくれたものの、早2週間。ハルモニは26日には帰らないといけないのに、それまでに生まれるのかしら・・・という心配まで出てきた。しかし、その頃ハルモニが風邪を引き、私まで・・・。そのときの風邪はとにかく咳が止まらなくて、大変な思いをした。「赤ちゃんも外の状況を知ってて、みんなが治るまで出てこないんだよ」なんて言っていた。そしてハルモニの風邪が治り、私は咳が相変わらずだけど、ちょっと落ち着いてきた頃。それは予定日の翌日。前の日から少しおなかが張っていた。いつもおなかが張っても1,2時間もするとおさまってしまっていたが、今回は微弱ながらも続いていた。でも強くならないので、その予定日の翌日定期検診まで待って、クリニックに行った。先生にそのことを話すと、内診をして「おめでとう!3cmだよ。今から入院して」と言った。そう、アメリカでは少なくとも子宮口が3cm開いてないと入院させてもらえない。イパルのときはその3cmまでなかなかたどり着かず、陣痛はどんどん強くなってるのに、入院できず、自宅で苦しんだ記憶がある。とりあえず、病院に直行して、と言われ、パパはすっかり舞い上がった。病院ではすぐ病室に運ばれた。しばらくして先生が現れる。「今日中に産みたいでしょ?今のままじゃ生まれないからね」と人工破膜をして去っていった。さて、人工破膜は初めてだ。突然羊水がなくなって、おなかの中ではどんな感じなんだろう?私は突然痛くなってくるんだろうか?とちょっとドキドキ。でも思ったより陣痛は強くならなかった。今回は微弱陣痛ってやつね・・・なんて思ってたら、予想通り、しばらくすると看護婦が点滴を持って現れた。誘発だ・・・。正直これは怖かった。薬で陣痛を強くするってやっぱり違和感がある。点滴が始まると、少しずつ痛みが変わってくる。パパは横でソワソワ。「痛いの?」「もうすぐかな?」「まだこれくらいじゃ生まれないよ」こんな会話を続けながら、看護婦が時々来てはどんどん滴数を上げていく。「もういいよ~上げなくて」と言いたくなるくらい痛みがだんだん冗談じゃなくなってきた。それでも滴数を上げるのを見て、誘発による子宮破裂、なんていう怖いニュースなんかが頭の中で横切る。かなり痛くて、もう会話も出来なくなってきた頃、先生が内診に来た。「ウン、いい感じだね。5cmだよ」まだ5cm?そこで看護婦が「あなたは無痛やらないって言ってたけど、どう?やってもいいのよ」入院するときにいろんな書類にサインさせられるけど、その時に無痛分娩などに関する書類にもサインさせられていた。無痛はやらない、と言っても実際痛みが強くなったら分からないというわけだ。で、だんだん痛みに対して余裕のなくなってきた私に無痛分娩にしない?と言う誘惑を始めてきた看護婦。「無痛はやりません」と私。そして1時間後また内診。「8cm」おお~もう少しだ!と思っていたら、看護婦がまた無痛にしないかと言ってきた。「まだ8cmでしょ?これから何時間かかるか分からないんだから、絶対無痛にした方がいいわよ。」あと2cmなのに、何で何時間もかかるのよ~、と信じない私。「あなたが無痛をしないという気持ちはもちろん尊重するわ、だけど・・・」と続く彼女の無痛への勧誘は正直うんざりだった。それより痛みをやわらげられるように呼吸法でも手伝ってよ~!!挙句の果てには、「無痛って全然怖いものでも、痛いものでもないのよ、ビデオを見せてあげるから、見てみてね。」とビデオを流し始めた。私、余裕なくて全然見てない。パパはあまりにも苦しむ私を見ていて、無痛にしたら?と言う気持ちになっていたらしいけど、背中にでかい注射をするのを見たら、かえって引いてしまったと言う。そのビデオが終わった頃、私は突然何かが出てくるように気持ちになった。「いきみたい感じがするの?」と看護婦。大きくうなずく私に半信半疑で内診をする。10分ほど前に8cmだったのに、と言う感じだ。内診をしながら「じゃあ、いきみたかったらいきんでみてもいいわよ」お許しの出た私はここぞとばかりにいきんだ。「Wow~~~~~~!!! STOOOOOOP!! Call Dr. Wong!」そこからは戦争のようなあわただしさになった。「もういきんじゃだめよ、待っててね。赤ちゃん出てきちゃう~」短い呼吸をしながら、ホラ出てくるって言ったじゃん、と心の中でつぶやく。先生が再度登場。「じゃあ、いきんでいいよ」ここからが本番。といっても二人目はすごい。2,3回いきんだだけで頭が出てきた。ここでとっても辛いのは、イパルのときもそうだったけど、羊水が濁ってたとかで、肺炎の予防のために頭が出てきたらそのままいったん胃内吸引をしてから体を出すということだ。だから私は頭が出たらそのまま一気に産んでしまいたいのに、途中でいきみをやめないといけない。これは本当にきつかった。そして2月18日19時08分にホパルは生まれた。アプガール10点満点、私は切開なし。私の腕の中に来たときは、あれ、軽いと思った。イパルより小さいのかしらと思ったくらいだ。イパルは初めて抱っこしたときものすごくズシっときたから。でも体重は7lbs11oz 3500いくらだ。後ろで看護婦が看護学生に「経産婦は予想がつかないのよ、突然お産が進んだりするから・・・」なんていっている声が聞こえてきた。その2ヵ月後には韓国に渡り、赤ちゃん時代を過してきたホパリ。最近はすっかり反抗期で、日本で言う「イヤイヤ期」だ。「シロ(いや)」が彼の挨拶。なのに、まだおっぱいを卒業できてない、甘えん坊。お誕生日おめでとう。2年前の今日、生まれてきてくれてありがとう。*ちなみに韓国での彼の誕生日は19日。韓国時間に直してあります^^
Feb 19, 2005
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なんだろうか・・・。本当にいろんな事がはっきりしてるようでしてなくて、日記を書こうと思っても、何を書いたら良いか分からない日々。それでも、ホパリの写真も昨日無事に撮り終わり、パスポートも取りにいけることになった。(これが出来ないとお前だけ日本に行けないよ、なんて脅かす場面もあり^^)私は仕事先をいまだに決定してないけど、昔働いていた病院に行こうかなぁと改めて考え始めて、連絡した所、是非面接に来てほしいといわれて、ほとんど心はそっちに傾いている。紹介所から紹介された所も2箇所ほどあるんだけど、どこも都心から遠かったり、母の病院から遠かったりで、ちょっと気が進まなかった。パパの事を考えるとちょっと都心に出やすくないとかわいそうだ。その点、かつて働いていたそこは、横浜中心部にあるので、どこにも出やすいし、母の病院にも行きやすい。少しゆっくりした場所で静かに住みたかったけど、全部満たす環境なんてないのだ。19日のホパルの誕生日が終わったらすぐ日本に行ってきて、今度こそ決めてくる。家も決めてきたい。引越し会社も決めないといけないし、やる事は山ほどあるけど、ここの両親も引っ越さないといけなくて、なかなかスムーズに行かないのが現状だ。ここ韓国は卒業式シーズン。今日は目の前の高校も卒業式だった。イパルの幼稚園は終了式の写真を撮ったそうだ。3月から新しい学年の韓国では、そろそろ新しい年に向かう準備が始まっている。私たちも新しい年に向かって進まないと・・・。
Feb 15, 2005
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正直言って分からない!ビザをもらった夜、パパの心の行き先が曇ってきた。私はこれを優柔不断と呼ぶ。パパは違うと言うんだけど、私から見たら、そうだ。私は言ったのだ。日本から帰ってくるとき、韓国での生活の選択肢も十分考えてみること、すべての可能性を考えてみて、それから決めようと。しかし帰ったら、パパは韓国での生活は考えられない、日本に行くことは変わりないと言った。後悔しないとも。だからビザ申請をしたのだ。でも実際ビザをもらったら、「本当にこれでいいのか」と言う気持ちになったようだ。自分が韓国でどこでも文句言わず就職すれば、無駄な引越代、新たに買わないといけない電化製品、子供の幼稚園問題など、色々と考えられる問題を避けることが出来る。・・・それを今考えたの?と半分あきれながら聞いていた。もちろん今までも同じ質問を自分に投げかけていたと思う。それにこんな風に考えるのは日本が最終ゴールではないからなのも承知だ。だけど、パパは来年に必ずアメリカにいける保証がないうちは、それに焦点を合わせて判断してはいけない、と言っていた。でも来年のビザがもらえるように色々ハラボジも働きかけていてくれてることを昨日あたりから聞かされていたので、決心も揺らいだんだろう。私は知っていた。絶対パパはこんなことを言い出すって。だから日本行きのチケットを手にするまで日本行きは信じないと思ってきた。パパの心の揺れ、分かる。優柔不断なのは正直イライラすることもあるんだけど、こればっかりは仕方ない。直前に悩むなと言ったってそれは変えられるものじゃないんだから。夜のパパの一番の悩みは子供のことだったようだ。日本に行ったら一日中保育園か幼稚園に居ないといけない子供たち。韓国にいたらそんなこともさせずに済むと。でもこれも散々今まで悩んできたこと。本当に正しい選択なんて誰も分からない。あるのかどうかも知らない。子供たちにしたってどれが一番良い事かやってみないと分からない。私は正直どっちでもいい。韓国でも日本でも。どっちになっても、結局大変な思いをすることになっても後悔しない。だって自分たちが一番良いと思って決めた選択なんだから。この際母のことは脇に置いておいて・・・。私は「決心」をしたい。一度決めたらそれに向かって努力をして準備が出来るように。そして一度決心をしたら、後ろは当分振り向きたくない。・・・でも無理だろうな。パパは最後までマークシートの答えを悩んで直前に変えてしまうタイプなんだもの。しかも変えた後もずっと「あれでよかったのかな」と考えるタイプ。しばらくパパに付き合うしかない。とにかくパパの選択が家の選択。パパに一番良いように決めたい。
Feb 5, 2005
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道が一気に見えてきたようだ。大げさかな。でも最大難関だと思っていたビザが下りてしまった。日本の配偶者ビザはどこの体験談を見ても時間がかかる、面倒だ、と言っていた。正直言って、1ヶ月しかないのに、果たして間に合うか?という気持ちで一杯だった。今週は午前中がフリーだったので、今週中に申請しちゃおうね、とパパに言い聞かせたものの、書類をきちんと準備したのは水曜日。大使館に申請すると午前中のみ受け付けてくれて、翌日に何らかの返事をくれるそうだ。簡単なビザならその日に渡されるし、もっと追加書類や面接が必要ならそのような旨を知らされる。そんなわけで大使館に2日間連続で行かないといけないので、木曜日に申請して金曜日に返事をもらう、という段取りにしたかった。パパは全然のんびりしてて、「何で明日行かないといけないの~?」とか言っている。今週中に済ませたかったら木曜に出さないといけないんだと言い聞かせて何とか予定通りに行った。大使館は車で行けない。いや、行けるようだけど、道もはっきり分からないし、混雑が予想できるので、地下鉄で行くのが便利だ。パパの大嫌いな地下鉄で、しかもパパの嫌いな早起きをしていかないといけない。アックジョン駅まで徒歩15分。地下鉄に乗って安国駅まで行き、そこからさらに徒歩で10分くらいか。行きも何とか人に聞きながら行ったけど、帰りに近くにあったスターバックスに寄ったら帰りがはっきり分からなくなった。そこのウエイトレスに安国駅までの道を聞いたら、「そうだったかな」とか言いながら自信なさげに教えてくれた。韓国人って歩くのが嫌いな民族だ。運動で歩くのは好き。朝夜問わず、運動のために熱心に歩いている人たちの姿は日本よりずっと多く見かける。だけど、どこか行くときに歩くのは苦手のようだ。ハルモニはアックジョンの駅までバスで行けというし、大使館までの道を聞くときも、帰るときの道を聞くときも、「結構歩きますよ~」と言っていた。って10分なんですけど??歩いてみてびっくり。近いじゃん、と拍子抜けした。だから交通費が安いのか、それともだから歩くのが苦手なのか・・・。地下鉄はどこまででも一律800ウォン(約80円)、バスはバスに乗ってそれからすぐに地下鉄に乗り換えるとバス代無料になるそうだ。タクシーはメーター1600ウォン(約160円)。韓国人に日本での交通費を言うと信じないほどだ。何はともあれ、大使館というか領事部につくと、ものすごい人の数。もちろん韓国人ばかり。これがみんな日本に行くんだ~と感心してしまった。アメリカ大使館はこれと比較にならないくらいすごい、といっていた。日本ではビザの申請など、郵送だったからこんな経験したことなかった。いざ提出に行くと、韓国人のオバちゃんが書類を点検する。何回もホッチキスをつけたりはずしたりして、私の方を見た。「こちらに住んでいるんですよね、外国人登録証ありますか?下でコピーをしてきてください」と言われた。配偶者ビザを申請するときは夫婦で行ったほうが良いと聞いていた。それがこの事なんだ、と思った。準備する書類を電話で聞いたときには言われなかったのに、持ってて良かった~(って本当はいつも持っていないといけないんだけど)。そして小さな紙切れを渡し、「明日来て下さいね」と言われて終わり。パパは「明日出なかったら、オレ日本に行かないぞ」とか言ってるし、でも心の中では明日なんかに出るわけないじゃんと思っていた。パパに言われてみたら、あれ以上必要な書類があるとは思えなかった。でも面接くらいしないといけないんじゃないかと思っていた。そして今日の午前中、再びやってきた。並んでる間、ひそかに緊張の私。私たちの番になって、紙切れを渡すと、パスポートを探し始める。くっついていた番号をはずし、パスポートだけ渡された。思わず「オモ・・・オモ・・・」と言ってしまったのだが、それは結構人の目を引いていたそうだ。(お恥ずかしい・・・)それはそうだ。他の人はほとんど観光ビザをもらいに来てるのに、そのビザをもらってそんな感激してると思われたとしたら、それはすごく変だろう。ジャジャン!パスポート見たら、ちゃんと配偶者ビザが貼ってある。後からパパは「1年しかくれなかったのか、考えたらムカつくな~」と言ってたけど、内心パパもほっとしていただろう。「まぁ、でもいきなり5年もあげないよな、ここでも1年ごとの更新だもんな」と一人で納得してた。後は子供たちの日本のパスポートだけ。怠け者の私は今の今まで作っていなかった。日本に行くときはアメリカのを使って済んじゃったし・・・。でも今回は日本のものが必要だそうだ。簡単そうで、難しい。イパルは大丈夫だった。だけどホパルが・・・。何かって言うと、写真。この写真撮りが大変なのだ。昨日チャレンジしたけど、案の定泣き喚いて撮れなかった。ホパルは生後2ヶ月でアメリカのパスポートの写真を撮り、3ヶ月ごろこっちの外国人登録証の写真を撮ったきり。トルチャンチ(1歳の誕生日)の記念で撮りに行ったときも大変な思いをしたけど、とにかく知らないところで一人で座らせるなんて無理な話なのだ。隣についていてあげてもダメ。写真が撮れなかったらパスポートも作れない。次の課題はホパルの写真となった。家では大いばりなくせに、頼むよ・・・息子。
Feb 4, 2005
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といっても家から見える景色なんだけど。しかも賑やか方面ではなくて、漢江方面。漢江に沿って、アパートの後ろにはサンチェンロ(散歩道)がある。これが片道2メートル。ここには朝夜問わず、走る人歩く人がいるけど、最近すっかりし~んとしている。 というのも、外は零下の世界。昨日あたりは、冬一番の寒さで風も吹いていたので、外をちょっと歩いただけで寒さに負けそうだった。今日は風がないからちょっとマシ。でも最低気温マイナス11度、最高気温マイナス2度だ。そして家の中は25度はくだらない。この気温の変化についていけない。もともと私は寒さに強いほうだけど、零下に突入すると途端に寒がりになることに気がついた。着ても着ても寒い。だんだん最低気温は上がってくるようだけど、最高気温はマイナスのまま。あ~やっぱり日本の冬がいい。寒くても薄着でいられるくらいの寒さだもの。寒くても子供が外で元気に遊べるくらいの寒さ。心なしか、最近のアックジョンの夜も静かな気がする。みんな春を待ちわびてるようだ。
Feb 2, 2005
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日本では桜木町に宿泊した。久しぶりのみなとみらいはさらに賑やかになっていて、その人ごみの中にまぎれるのが気後れしてしまうくらい。夜8時を過ぎると途端に行き来する人が少なくなる横浜。これは相変わらずだった。だって飲食店以外はほとんど閉店してしまうから。いつまでも賑やかで人ごみが絶えないアックジョンとは違うのでパパはその静けさにびっくりだった。でもその狭い道路に絶えない人の流れ。アックジョンでも夜のお出かけをしたことない私は、久しぶりの人ごみで頭が痛くなりそうだった。人にぶつからないように、スッスと行くのはこんなに難しいことだったんだ。ほんとに私ったら山奥から出てきたオバチャンのようだ。
Feb 1, 2005
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3泊4日。妙に長かった。自信もなくしたし、パパにもムカついた。パパも私にイライラしてたし、帰るバスの中では日本移住は私が無理だと両親に言おうと心の中で決心してた。何故だろう。一人で来たり、子供と来たときはこれほど大変じゃなかった。いろんな所に行ったけど、いつも周りの日本人たちと同じように歩き、迷うこともなかった。なのに、今回はオロオロしっぱなし。人ごみの中でうまく歩けないし、どうやって乗換えまでたどり着くのか、どこの出口に行かないといけないのか、何だか頭が正常に動かない感じだった。「遅い」「気が利かない」「要領が悪い」散々言われた。パパのムカつく行動については置いておいて、正直私は自信をすっかりなくした。確かに私はすべてにおいてギクシャクしてたと思う。何でもパッパとスムーズに事が運ばないと気がすまないパパ。特に自分の思う段取りで進めないと「遅い」「要領が悪い」ということになってしまう。ここにいたら、私は何も分からないから、何も言わずパパの言うとおりに事を進める。それが遅かろうが、間違っていようが気にしないことにしてる。だけど、日本では私が事を進めないといけなくて、それがパパのイライラの原因を作ることは間違いないのだ。「こんな通勤は出来ない」「自分がもしかして後で学校に行くときのために関係のない仕事をするのは意味がない」良いんだけど、間違ってるとは言わないんだけど・・・。今は家族のために何でもやるよ、と多少苦労しても頑張るよ、とどうして言えない! と私の心の中では怒りと失望がフツフツ。分かってることなんだけど、これがカンナムのオボッチャンなのよ、と知ってるんだけど、本当にこれだけはいつもがっかりさせられる。全てが私にかかってくる日本の生活。パパは間違いなくイライラモードに入るだろうに、本当に上手くやっていけるんだろうか。私がさっさといろんな事を処理し、パパの気分を何とか盛り上げ、子供たちが日本の生活にとけこめるように助けてやる。どこの母親も当たり前にやっていることなんだけど、アメリカではそれでも私なりにこなしてきた事なんだけど、この自分の国でできるか自信がないなんて。結構ブルーだし、ショックでもある。こんなに自信をなくして帰ってくるとは思わなかった。母に「帰ってくるの?」と聞かれた時に、はっきり帰ってくると言えなかった。私の顔を見て、何か感じる所があったんだろう。「無理しないでね」と言った。母は進行が確実に進んでいる。この前できていたことが大変になるくらいに。それでも人工呼吸を拒否し、今最大の問題胃ロウをつくることも拒否していて、その意思は変わらない様だ。帰る日にギリギリで最後にもう一度病院に行って、担当医に会ってきた。「お母さんの意思は本当に固いです。でもそれをわがままだとは思いません。できるだけお母さんの意思に沿ってあげたいと思ってます。」そう言ってくれる医者は実はとっても少ない。大学病院の医師でもある若いその先生は、家族にも本当に親身になって話してくれる先生だ。病院側を知ってる私は、今の母の頑固な申し出がどんなに面倒くさいものか承知している。口や飲む込む力がなくなってきてる母はむせる事が多く、間違って誤飲してしまえば、肺炎になり命取りにさえなるという。実際この病気の患者はこの肺炎などの感染症で命を落とすことが多いそうだ。だから、母の意向を無視して胃ロウをつくってしまえばそういった事故を防げるし、介助する側も簡単だ。毎回母の誤飲を気にしながら、時間をかけて食事を与える、しかもその危険性から看護師以外には介助をさせてないという事は、病棟側にはとても大変な仕事だろう。母はパパにも会えて嬉しそうだった。息子である私の弟よりよっぽどほれ込んでいる婿なので、ずっとパパを見ながら「格好いい」と何度も言い、パパを困らせていた。帰るときはやっぱり母は泣いた。私はもう泣かない。泣く気持ちにならなくなった。だけど母が今回は取り乱して泣いた。何でそんなに泣くのか分からないくらい泣いた。泣きながら「行って!」と言い、ワーワー泣くので、私も涙が出てきた。「お母さんが泣いてたら行けないよ」とつい言ってしまった。・・・なんであんなに泣いたんだろう。今でも妙に心に残っている。韓国人は日本や日本人を見て感心するけど、自分たちは出来ないしやりたいとも思っていない。その気持ちが分かっちゃうような気がした。日本にいる日本人って偉い。いろんな事我慢しながら、見返りも期待せずに毎日満員電車に乗り、会社へ行き、残業までして帰ってくる。家では両親の助けも借りずに子供たちを育て、家計をやりくりして、夫に感謝をする。もちろん、みんながそうじゃないだろう。だけど、一般的に見て、韓国の生活は本当に楽にできてるなぁと思った。一回そんな風に自分に厳しく生きてみても良いんじゃない?と思う気持ち、何をわざわざ苦労しに行くの?という同じ日本人妻からの意見・・・でもきっと運命の道ってあるだろうと思っている。行く運命だったら行くんだろう。そして私たちは行く方向で準備を始めるのだ。
Jan 29, 2005
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パパと日本に行ってくる。行くまでにビザの事でもめたりして、いくら日本人と結婚しても外国人が訪問することすら面倒くさいと思われた日本。取りあえず法的には韓国に外国人が住むのはあまり面倒くさくないので(あくまでも配偶者の場合)、それにすっかり慣れてしまったわたし達は、日本のビザ、日本での外国人がやらなければならない手続きなどを調べるうちに何だか大変なことをしてるような気がしてきた。それでも「カバヤジ(行ってみなきゃ)」と言うことで明日から3泊4日行ってくる。メインはわたしの就職の面接。3箇所まわらないといけないので、結構忙しそうだ。わたしたちを先立って、ハラボジが昨日まで2泊3日で日本に行っていた。もちろん仕事で行ったのだが、今までにも何回も日本に行ったことのあるハラボジ。それでも今回の日本訪問はかなりのカルチャーショックだったそうだ。今回は「これから息子夫婦が日本に住むぞ~」と思いながら日本の街中を注意深く見てきたハラボジ。「ノエドル サルゲンナ~?(お前たち、住めるのか→やっていけるのか)」と何回も言う。何でそんなに言うのかと思った。ハラボジの目にはすべてがチョコチョコ小さく細かく並び立つ日本の街。何もかもが複雑でお金がかかる日本。そして何よりも右ハンドルで左側通行の日本。(これは左ハンドル右通行の国の人たちにはとても不思議でおかしなものらしい)「行って見てきますよ。」とパパは言った。物価は世界トップを争う高さなのに、住みやすい国第4位の日本、一度住んだ韓国人はなんとしてもまた戻りたいと言う国日本。ハラボジの感想と裏腹に何か日本に特別なエキスでもあるかのように中毒になる人たちもいるのも事実。正直、わたしも不安だ。ほとんど10年ぶりの日本の生活はわたしにも少なからずカルチャーショックを与えるかも知れない。自己責任と反省が大好きな日本人、ルールが重視で例外と言うものがほとんど認められない日本のやり方、昔はわたしも同じことをしてたのに、海外でずれてしまったんではないか。エスカレーターに乗ったら右側を空けておく、ショッピングカートに子供を乗せてはいけない、日本では当たり前のマナーがすっかりなくなってしまったんじゃないか。今度の日本訪問は初めてパパと行くことになる。9年前、パパがわたしを訪ねに来てくれて以来の日本訪問だ。パパが一番恐れている電車生活を見せないといけない。日本人のように生活する、実はこれ似てそうで似てない韓国人の生活をしてきた韓国人には「恐ろしい」課題なのだ。先日8日間の日本滞在で感じたことを書いた韓国人の歌手を取材した記事の中で一番最後に出てきた作家のコメント「私は日本では息苦しくて窮屈で住めないですよ」『殴り殺される覚悟で書いた100年ぶりの親日宣言』と言う本を書いた彼の正直なところだ。今回の訪問で、母の所にも行く予定。やっとパパを会わせられる。結婚式以来だ。結局胃チューブを入れなかった母は、最近むせること多く、誤飲が一番の心配だそうだ。今までいた病室から、酸素のある部屋に移った母。万一に備えてだろうけど、かなり母にはショックだったようだ今年に入ってから進行が早くなっていると告げられた弟。弟もかなり心細いんじゃないか。いつ来るのかとよく聞いてくる。ハラボジもお見舞いに行こうとしてくれたんだけど、時間がなくて行けなかったそうだ。タクシーに乗ったらすぐ行けるはず、と韓国でのように考えていたハラボジは、同じ市内なのに遠く、タクシーは嘘のように高いことにもショックを受けたようだ。帰ってきたらいろんな事がはっきり具体化するだろう。まずは行って来てみます。
Jan 23, 2005
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まず、サウジの留学生たちはみんなお金持ちだ。というか金持ちの息子ばかりだ。いくら台湾や韓国からの学生も比較的家庭が豊かだといっても、サウジの学生には勝てないだろう。留学生をルームメイトにと言っても、ヨーロッパ系や中東系などの学生を取るほど勇気があった私たちじゃない。日本人、韓国人と聞けば安心する小心者の私たちだった。でもルームメイトは多ければ多いほど良い。それに来るものを拒むほど贅沢の言える状況じゃなかった。そんな中、家の中がいきなり国際色豊かになったのはこの時。先日話した日本人の男の子Sと私たちだけだったこの家にいきなりフランス人の女の子が入ってきて、そしてこのサウジの男の子も入ってきた。彼は、確かまだ10代。背が高く、見た目は結構良かったかも。ただとってもOutgoingに見える彼にちょっと不安を感じたパパは、この家ではパーティは絶対禁止、タバコは外でと言うことを約束させた。「OK,OK」と気軽に言う彼。これさえ守ってくれれば、結構楽しい生活になるんじゃない?と思っていた。さて引っ越してくる彼の荷物運びをパパが手伝っている。その家具の多いこと!全部持っている感じだ。何も持ってないフランス人の彼女には余分にあるマットレスを布団やシーツと一緒に貸してあげていた。とにかく気前は良い。私たちにも「自分のものみたいに使ってよ」と言っていた。そのサウジの彼、その約束をした数時間後に約束は破られた。荷物をある程度整理して出かけた彼。私たちも外出していたが、部屋に戻った。隣の彼の部屋からタバコの臭いがする。悪いと思ったが、ドアを開けて見ると中からすごい臭い。さっきまで吸っていたようだ。これにはちょっと嫌な予感。パパが彼が帰ってくるなり、「タバコは外で吸うって分かってるよね」と念を押した。彼は「Of course」と言う。「部屋からタバコの匂いがしたんだけど」「I don't know. I didn't smoke in the room. It's not me.」肩をすくめて平然と言う。でも見たわけじゃないから、その話はそこで終わった。そして翌日の朝。バスルームから煙が。パパがすかさず彼に文句を言った。彼はトイレに入るときは絶対吸わないとダメなんだと主張したけど、一人だけ例外を作るわけにはいかないと話し、彼ももうしない、と約束をした。彼は謝るときは本当に悪かったと言い、後に引くようなことがないので、パパもそこが気に入っていた。彼はとっても明るいので、どうしても静かになり勝ちなアジア人の家の雰囲気をすっかり変えてくれた。これは助かった。アジア人に混ざってたった一人フランス人はきっと居心地悪かったかも知れないのだ。サウジの学生が来たことで、彼女も結構楽しそうだった。この彼の悪いところは何でも「OK」と言うことだった。とにかく何でもOK。意味が分からなくてもとりあえずOKと言ってしまう。そしてある日、電話のBillを受け取りながら大興奮で怒っている。パパが何事かと聞いたら、電話のBillのなかでオプションだけで60ドルもチャージされていると言うのだ。内容を見て彼に確認をする。彼は「こんなオプションは知らない、申し込んでない」と言う。アラビア語のサービスはないので、パパが韓国語のサービスに電話をして、彼のアカウントについて問い合わせてみた。そうすると、最初に電話のラインを引くときにすべてのオプションを申し込んだことになっている、と言う。その話をして彼は「あ~、そのとき早口のアメリカ人がよく分からないことずっと話してるから、面倒くさいから全部OKって言ったんだ」と思い出したように言った。ずっこけそうになった。いくら分からないからって、こんなに無防備な留学生をはじめてみた。これも金持ちぼっちゃんのせいなのだろうか。その後も彼は携帯を持ったら、自分の自宅の電話番号と同じにするんだ、車のナンバーは電話番号と同じにするんだ、などなど「夢」を語ってた。それも全部お金がかかるんだよ・・・。でもそんなことは気にしない様子。彼は気前も言い分、気性も激しかった。家には犬が2匹いるが、「自分の家にも犬いるんだ」と言いながら特にちびの犬の方をかわいがってくれていた。そして、ある日そのチビHerculesが彼のソファーを汚してしまった。何で汚したかははっきり覚えてないけど、とにかくしみを作ってしまった。それを見つけて、血相を変えて彼はパパに怒鳴り込んできた。もちろんこれは飼い主である私たちの責任。彼が怒るのは当然。なので、「悪かったよ、すぐきれいにするから」と謝ったのだが、彼の怒りはおさまらない。「元のようにきれいになるもんか!」と言いながら「Your f○○○ing stupid dog」その他もろもろのFワードを並べた。パパは犬をこよなく愛している。その「F○○○ing Stupid Dog」でパパもプツン。二人は大声でのけんかになってしまった。彼のこのソファーの怒りに対して、パパは日ごろ我慢していた彼の自分勝手な行動や守らない約束に対しての不満が爆発。彼は「I'm going out」と言った。パパは「Fine」と言った。結局彼は4日間だけのルームメイトとなった。ルームメイトはたくさんいたけど、こんなに短いルームメイトは彼が最初で最後だ。次の日には彼はアパートを見つけてきた。共同生活は無理だと思ったんだろう。一人で住むアパートを見つけ、引っ越すことになったが、ここでまた問題が生じた。まだカリフォルニアの免許証を持っていない彼、トラックをレンタルしようと思ったが、できないのだ。ここに移ってくるときはそのときの知り合いだか友達が手伝ってくれたが、今回は頼めないと言う。仕方なくパパが借りてやることになった。そして引越しの手伝いもすることになった。彼はやっぱり気前が良いと言うか・・・。必要なもの、大きなものだけさっと荷造りすると、「後残ったものは使うなり、捨てるなりしてくれ」と言った。おかげさまで食器と色々使わせてもらったけど、困ったのはイスラム教の人が祈るときに使う絨毯みたいな布。(名前知らない)これだけは取りに来るだろうと思ったらそれさえ取りに来ない。電話では「分かった、後でとりに行くよ」と言っていたが結局彼は来ることはなかった。でも捨てることもできない。なんだか宗教のものなのに、捨てるのは大変ばちあたりだと思うからだ。そして今でも家のどこかに眠ってる。この彼、引っ越す前の晩もパパに硬い握手をしながら、涙を浮かべて「全部俺のせいだ。気分の悪い思いをさせて本当に悪かった。短かったけど楽しかったよ」と言っていた。本当に良いやつなのか悪いやつなのか分からない・・・。でも確かなことは悪気がないのが一番困ると言うことだ。
Jan 13, 2005
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二人目の日本人は男の子だった。私はK県出身だけど、一人目のMもこの子もやっぱりK県出身だった。この男の子Sは私より3歳か4歳若かった。日本で大学を卒業していて、そのときはALIにいたけど、後々(目の前の大学ではなく)医系で有名なSDの大学に入り臨床をやりたいんだとか言っていた。そんなSは常に人を馬鹿にしたような態度や言葉だった。ALIにいるやつらはみんな馬鹿だと言うし、ALIから普通コミュニティーカレッジに行きそして大学に編入してくるケースがとても多いんだけど、コミュニティーカレッジなんて絶対行かないと目の前に実際行ってる人がいるのに(私)堂々と言ってのけた。英語を練習したいのか披露したいのか、日本語を話せるパパに英語で話すのは良いとしても、日本人の私にまで英語で話すのは困った。私が日本語で答えても彼はずっと英語。ALIのクラスで先生が宿題を出したのだが、他の日本人学生が把握してなかったらしい。いつもまじめなSに宿題の内容を聞いてきたそうだ。「I don't know」が彼の答え。「あいつらはいつも遊んでて英語勉強しないからそんなことも分からない。僕みたいにラジオをいつも聞いてみれば?と言ってやった」と私に言う。(そういえばこの時は日本語だった)それにしてもなんと嫌なクラスメイトだろう。私だったら嫌味の一つくらい返してやるところだ。彼はそういう話を時々私にしてきた。人を下に見る話はよくあったけど、一番ぶっ飛んだのは「慶応の教授」が対象だったとき。何かの機会で彼は慶応の教授の講義を受けたそうだ。その講義の中でその教授は何か計算ミスをしたらしい。そのミスを捕まえて「慶応の教授は僕より馬鹿だ」と言い放った。別に差別するつもりはないけど、県内の小さな大学を卒業しただけど若造に教授が馬鹿だと言われる筋合いはないだろうなぁと心の中でひそかに思った。プライドの高い彼は決してコミュニティカレッジに行く事はなく、結局3年間ALIにいた。多分最長の学生だったんじゃないかな。ずっと馬鹿にしていたパパの行っていた大学もTOEFLスコアが足りず、他の分校に行ったとか行けなかったとか。彼が多分ルームメイトの中で一番長くいた人だ。彼の話や行動は別に人に迷惑かけるものじゃなかったので、それさえ目をつぶれば、彼はなかなか良いルームメイトだった。(ここまで言ってそれはないか)家賃は決まってきちんと払ってくれるし、その他の光熱費なども遅れることがなかった。いつも部屋で静かにしてるし、女の子をつれてきてイチャイチャなんてこともなかった。だから彼には力になれることはしてあげようとパパがフレンドリーにしてみたりしたけど、ちょっと仲良く話したと思ったら翌日はさっぱりという感じ。そんなあっさりした(?)彼はそんなに長くいた家を出るときも、まるで学校に行くように「じゃあ」と手を上げて言ってしまった。それっきり連絡もない。そして3人目の女の子は当時23歳だったと思う。彼女は留学に来たわけではなく、いとこを頼って生活をしに来たようだ。遊ぶと言うわけでもなく、行動的な彼女は近所の韓国人経営のすし屋の厨房のバイトをすぐゲットし、うちの大家さんのビジネスの手伝いバイトもゲットした。そうやってバイトして生活をするために来たような感じだ。彼女Kはその大家さんと付き合っていた。と言うと語弊があるかも知れない。二人の間には意識のズレがあったようだ。大家さんに言わせると、彼女と付き合っていると言うし、彼女は他に彼氏がいて、大家さんとは良い友達だと言っていた。そんな意識のズレから大家さんには相談を持ちかけられ、私は彼女から彼女の話も聞いてるので、一体どこまで本当の事を言って良いのか分からなかった。結局知らぬ存ぜぬで通したけど。日本では洋服のバイヤーとかをやっていたと言う彼女。責任ある仕事をいくつも任されていたという彼女はその仕事をあっさりやめて、SDに来たのだ。そして彼女はこっちで働きたかったらしい。私はワーキングビザってそんなに簡単に手に入らないよ、と言ったけど次の日に彼女は面接をこぎつけた。「わーさすがに行動的だわ」と感心した。彼女はそこでワーキングビザをもらえば良いと言っていたが、「その会社はビザがないこと知ってるの?」と聞いたら「そんな事聞かれなかった」と言う。結局面接には行ったが、そこはやっぱりビザサポートなどと言うものはしてない会社だったそうだ。それからも彼女の意欲的な就職活動は続いたけど、結局無理だったようだ。2,3ヶ月いたかな。その後は彼氏のアパートに引っ越していった。それからも大家さんとは時々ご飯を食べに行ったりしてたみたい。ある日大家さんが言った。「彼女の友だちと言う男がいるんだけど、ボクが彼女を送っていくたびにすごい目で見るんだよね。何なんだろう」そりゃ、彼氏は面白くないんだろうね。彼女はそれから日本とSDを行ったり来たりしていたみたいで、時々大家さんにも手紙が来ていたようだ。それは大喜びしてたけど、彼女が「サプライズがある」といって突然SDに来て大家さんに連絡したときは、ちょっと引いていた。やっぱりコミットメントが苦手な大家さんであった。来る物拒まず去るもの追わず、そして一旦去ったものはもういらない、のである。次はサウジアラビア人編
Jan 11, 2005
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私の記憶が正しければ、家にルームメイトとしてやってきたのは3人。まず最初の子は当時19歳(だったかな)の女の子M。この子はなんとも強烈な子だった。その大きな家に引っ越してきたのは、一緒に住もうと言っていたもう一人の韓国人の学生とそれからフィリピン人のおやじがいたからなんだけど、見事に裏切られ、その大きな家にパパと私の二人っきりになってしまっていた。家賃は大変だし、家は古くて寒いし、そのころ飼い始めたミニアチュアプードルのHerculesと3人寒さに震えながら暮らしていた。何とか早くルームメイトを探さないといけないということで目の前の大学のALIに募集を出したけどなかなか連絡はない。アメリカ人は入れるつもりなかった。私たちが一緒に暮らしてやっていけそうなのは留学生と思ったのだ。首を長くして待っていたルームメイト。そこへ電話してきたのがこの子だ。彼女はそれから1年以上住んでいたのだから、彼女のことをあまり悪く言ってはいけない。悪く言うつもりはないけど、結構驚かせる子だった。同じ日本人なのに、なんだか別世界に住んでいるような感じの子だった。人のものを借りたら借りっぱなし。しかも汚しちゃっても平気。かと言って、文句を言ったら「じゃ、弁償します」とあっさり言って弁償し、気を悪くした風でもない。なべを火にかけて忘れることもしばしば。最悪のときはそのまま出かけてしまい、私たちが帰ってきて気がついたということもある。シャワーをしながら洗った下着をそのままバスルームに堂々と干して、パパがびっくりしていた。そして彼女は「かっこいい男の子」が大好きだった。家から車で30分以上(彼女の場合はバスでだから優に2時間はかかっただろう)のところにPBと呼ばれるビーチがある。そこは他のビーチに比べて学生が多いし、にぎやかだ。そこはナンパの名所でもあって、彼女はそこに足しげく通い、ナンパをひたすら待つというのだ。格好よければ、家までついて行くという。それか電話番号を渡す。そして家に帰ってきて翌日あたりに電話がかかってくると、電話を切った途端に「キャー-----」と叫ぶ。何事かと最初はびっくりしてMのところに言ったけど「昨日あったかっこいい人から電話あったの~!!」と大興奮してるのを見たら、それからは気にしないようにした。ある時は、LJという所をフラフラ歩いていたら、モデルかタレントのエージェンシーらしき事務所を見つけたらしい。その事務所の窓ガラスに「とっても素敵な男の人」のポスターが貼ってあったそうだ。そのポスターの彼に惚れた彼女は事務所の中に入り「あの男の人みたいな人に会えるには、ここに登録したらいいんですか」と聞いたらしい。どこでも簡単についていったら危ないよとか何度か言ってみたけど、聞く彼女じゃない。この子は友達はたくさんいるくせに、何か困ったことがあると必ず私たちに言ってきた。まるでMの親のようだった私たち。顎か何かの治療をしたいのに、クリニックから「英語が分かる人を連れてきて」と言われた彼女。実はこんなに勇敢な彼女だけど、英語はお世辞にも上手とは言えない。で、私に白羽の矢が当たった。他に頼る人がいないといわれると、断ることもできない。それから車のない彼女のために運転して連れて行ってやり、クリニックで通訳をしてやり、書類を書いてやった。すでに家を出て行き、LAの学校に転校して行ったMはある日突然電話をしてきた。そして「車が壊れて修理してもらってるんだけど、助けてほしい」と言ってきた。仕方なく迎えに行くと、その車を売って帰りたいという。彼女が買ったディーラーに連れて行ってほしいというので、彼女の車で行く。そこで彼女の代わりに交渉をして、(売るというのにピンクスリップも持ってこなかった!!)何とかまとめて、ディーラーの人に私の車がとめてあるところ(彼女の車を修理したところ)まで連れて行ってもらい、この後どうするのかと聞くと「行くところがない」という。そして彼女を一晩泊めて、翌日ダウンタウンのグレイハウンドまで連れて行ってあげた。そのときダウンタウンで髪も切りたいと付き合ってあげたのは言うまでもない。彼女の珍話は話し始めたらキリがない。彼女のやる事すべてに悪気がないのが特徴。だから怒るというよりあきれることが多かった彼女との生活。一度はSDに戻ってきたらしいが、その後どうしてるかは知らない。
Jan 10, 2005
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フリーページに昔チラッと書いたことある私たちが以前住んでいた家とルームメイトの話、書いてみたいと思う。ルームメイトの話になる前に、この家の大家さんの話からしないといけない。この大家さんはもちろんアメリカ人、でもかなり個性的な人だった。この大家さんは他に7件家を持っていて、全部貸してマネージしていた。その他に自分の小さなビジネスもやっていた。彼のガレージがそのオフィスだった。その大家さんは40代の独身。独身主義者だった。「カリフォルニアでは結婚してなくても長く一緒に付き合っていたら、夫婦のように財産分与の請求ができるんだから、気をつけないといけないんだ」と言いながら、見る度に違う女の人を連れていた。彼は面白い人だった。すごくだらしないし、怠け者だし、パートナーとしては絶対嫌だなぁと思うけど、彼のそばで彼を眺めているのは楽しかった。彼が付き合うのは絶対アジア人だった。アメリカに住んでいても、留学に来ていてもとにかくアジア系の女の人しか興味なかった。私は会った時からパパと付き合っていたので、彼の対象外だったけど(!)その代わり、後々私は彼の相談役になった。彼を良く知ったのは、彼のその小さなビジネスのアルバイトを始めたときだ。彼のテナントもやはり外国人留学生が多くて、正規で働けない彼らによく小さなアルバイトを作りやらせてあげたり、ということをよくしていた。彼のビジネスはそのガレージで組み立てたものを売ること。私はその商品のパーツを点検して、組み立て、梱包して、注文が出たらその品物を用意してUPS(宅急便みたいな会社)が着たら渡す、のがメインの仕事。その他に物品を整理したり、お使いを頼まれたり、顧客へのメールの準備をしたり、こまごましたこともやった。彼がマネージする家のテナントから家賃を受け取ったり、記録するのも私の仕事だった。そんなわけで、彼の公私ともどもいろんな事を知ることになる。だから彼の口癖は「Galoは僕のこと良く知ってるから」だった。そんな彼からは彼女の相談も受けたし、日本人の女の子を見つけるには(彼女として)どうしたらいいかとか、色々アドバイスを求められた。そのアルバイトは何年やっただろう・・・。イパルを妊娠して、出産する前日までもやっていたし、引っ越してもう私たちの大家さんでなくなった後もやらせてもらっていた。彼は今でも自分が貸している家のひとつの敷地内にあるワンルームプラスオフィスに住んでいる。SDから車で数時間の山の上にある別荘を週末に少しずつ自分で直しながら。10年後には持っている家の価値がものすご~く上がり、すべてのローンが終わって、一人気楽に山の生活をするのが彼の夢だそうだ。そんな彼は、小型飛行機も操縦するし、ボートで釣りにも行くし(捕った魚をいつももらっていた^^)、自分でビーフジャーキーも作るし、キャンピングカーを買ってそこにも住むし、本当に趣味に生きる、自分のやりたいことを全部やってしまう自由人だ。次はルームメイト物語-日本人編
Jan 9, 2005
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それは妹からのメール。妹と言っても腹違いの妹で私とは13歳も年が違う。父のお嫁さんがこの妹を妊娠してちょっと後に私は母の元に行ってしまったため、妹はまさに「降って下りてきた」ような存在だ。それから先も一緒に住む事はなく、年に1度、2度会えば良いほうだった。それでも妹は私の事を「お姉ちゃん」と言って慕ってくれ、時々手紙もくれた。弟は妹と何年か一緒に暮らしたので、私より妹を近く感じているだろう。弟がすっかり自立した後もメールの交換をまめにしてたり、妹の事を結構かわいがっていた。この妹と最後に会ったのはイパルが9ヶ月の時。日本に帰っていて、イパルを父と祖母に見せようとたずねた時だ。彼女はその頃高校生。子供の頃の面影は残っているけど、すっかり日に焼けてギャル風になっている妹を見るのはちょっと不思議だった。話しかけようにも、何だかくすぐったい感じだった。それから私と父がある事から連絡を一切しなくなり、もう数年経つ。妹には元気かとか普通に連絡取りたかったけど、父と連絡を絶った事実を妹はどう感じているか、間に入って嫌な思いをしないだろうか、など考えると、どうしても連絡をできなかった。最後に会ってからもう5年。そんな妹から突然メールが来た。私が連絡取っているいとこからメールアドレスを教えてもらったと言う。「メールして良いかどうか悩んだんだけど・・・」と言いながら「お姉ちゃんにどうしても報告したい事あって」と彼女が今年成人式を迎えることを教えてくれた。「私が大人になることお姉ちゃんに知ってほしかったんだ」と無邪気な妹の文面が何だかとっても嬉しかった。そういえば私が成人式の時、あの子は来てくれたっけ。妹はその時の事うっすらと覚えている、と言う。あ~私のこと忘れないでいてくれたんだ、時々思い出したり、考えたりしてくれてたんだ、と思ったら嬉しいのと同時に「ゴメンね」と思った。この5年の間に妹は高校を卒業して、専門学校に行き、美容師の資格を取っていた。4月からは銀座の美容室で働くらしい。メールの文面は昔妹がくれたつたない手紙とは全然違い、今風の女の子の文面。本当に降って下りてきたあの子は一瞬のうちにすっかり大人になってしまったみたいな、そんな気がする。父とは多分これからも連絡を取るつもりはない。でも、妹とはこれから繋がっていきたい。たった3人のきょうだい。今までは弟とふたりっきりと考えてたけど、もう一人仲間が増えたような気分。妹が私を忘れないでいてくれた。これは私に今年最初のすばらしいプレゼントだ。
Jan 6, 2005
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とうとうイパルが首をながぁくして待っていた幼稚園も再開し、昨日からは私も日本語レッスンを再開して、お正月休みは終わりとなった。イパルは幼稚園が休みに入ってすぐから「つまんなぁい、幼稚園行きたい」とうるさかったので、ホッと胸をなでおろしている私である。韓国は数え年なので、イパルは5歳4ヶ月ながらすでにイルゴップサル(7歳)、ホパルは23ヶ月だけどセサル(3歳)だ。(自分の年は考えたくもない)3月から新学期の韓国では子供たちはもう次の組に行ける事を楽しみにしているようだ。今はコアラバン(組)で、7歳のクラスはコキリバン(ゾウ組)。きっとイパルの中ではコキリバンは大人の組くらいのイメージなのだろう。今日帰ってきてからしきりにコキリバンの話をして、ホパルにはもなにやら言い聞かせていた。ホパルは最近言葉が増えて面白い。動きは何だかちゃんと動けないおもちゃのようで、おかしい。お姉ちゃんの言葉を真似するので、出てくる言葉はほとんど韓国語。まだトイレットトレーニングもしていないホパルだけど、ウンチをしたときは以前から教えてくれていた。教えてくれる時は「オンマ~」と来て「ウンチ」という。ところが最近教え方が変わった。「ウンチ」という代わりに、自分の鼻を押さえて「ア~ネムセ(うわ~くさい)」と言うのだ。これもおねえちゃんの真似。それから「アッサー(よしっとかやったーの意味かな)」とか「アイシッ、エイシッ(何か上手くいかなかったり、失敗したり、嫌な事があったりしたら言う?表現)」もおねえちゃんの真似。宇宙語もかなり多くなってきた。幼稚園の始まる前の晩、なかなか早く寝ないイパルに「早く寝なかったら明日起きれないよ。ママ起こしてあげないからね。」と半分脅しながら言うと、グズグズ始めた。なのでさらに「韓国の幼稚園より日本の幼稚園の方がもっと早く起きないといけないんだよ、イパル日本の幼稚園行けるかなぁ」と言った。日本行きを誰よりも楽しみにしてるのはイパル。でも彼女の日本のイメージはかなりずれている。日本はキティちゃんがいるところ、ピューロランドがあって、ディズニーランドがある楽しい所、でしかない。韓国はつまんないから、早く日本に行きたいと言い出している始末。何度言い聞かせてもイパルの頭の中には「日本=キティちゃん」だ。そんな彼女のさっきの私の話に対する答えは「クロミョン、ディズニーランドマン カッケ(じゃあ、ディズニーランドだけ行って来る)」日本にはディズニーランドだけ行って来て、幼稚園は韓国の幼稚園に行くというのだ。早起きしないといけないと言ったらそんな事言ってしまうイパルが正直母は心配だ。とりあえず2005年はスタートした。去年書いた抱負は嘘にならないようにしないと。
Jan 4, 2005
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セへ ボク マーニ パドゥセヨ!やっぱり新年という実感のない年明け。昨日は夕食をハラボジ宅で一緒にトックック(韓国のお雑煮)を食べて、ハルモニは「ワンコッ ソンセンニム」というなぜか欠かさず観てるドラマを観ないといけないということで、私たちは帰ってきた。帰ってきてからは私たちはテレビ、子供たちはおもちゃで遊びに夢中。年末の韓国のテレビは全部○○大賞ばっかり。SBSとKBSはドラマの、MBCは歌謡大賞だった。日本だったら、局によってコメディーをやったり、歌番組をやったり、色々だけどなぜか韓国はそのようなことはない。オリンピックの時も全部の局で同じようなものを見せていた。で、SBSとKBSとMBCをぐるぐる回りながら観ていたのだけど、SBSはやっぱり「パリの恋人」が一番。パクシンヤンとキムジョンウンが大賞をとっていた。(おめでとう~!)KBSは名前忘れちゃったけど、女家族のドラマのお母さん役の人が大賞をもらってた。MBCではよく知らないけど、先日SBSの歌謡大賞ではビが大賞をもらっていた。もらった瞬間泣いてましたね~、ビ。歌も涙でうまく歌えないけど、ダンスは自然に体が動いてたって感じ。おせちを作ろうかなぁなんて思ったけど、個人的におせちが好きじゃないので、どうしてもやる気にならない。ナムルとかジョンとか作ってたほうが良いなと思ってしまう。多分作ってハルモニに見せた所で、「モゴルッケ オムネ~(食べるものないわね)」って言われちゃうだろう。日本の正月料理は、見た目は凄くきれいだと思うんだけど、食べる楽しみがない(あくまで私の感想だけど^^;;)お雑煮も子供の時大好きだったけど、韓国のトックックを覚えてから、どうしても物足りない気がする。カウントダウンってテレビでやってたけど、日本の番組のように大きくやるんじゃなくて、ただ番組の中でみんなでカウントダウンするだけ。花火も見れなかったなぁ。子供たちもまだ起きてたんだけど(!!)新年になるって言うのにイパルは歯磨きしてるし。ホパルはダンスしてたか・・・。この子達が新年って分かるようになるのはいつだろう・・・^^分かり始めたらもっと楽しいお正月にできるかな。今日はこれからまたハラボジ宅に行き、ご飯を食べてきます。一日一緒にいるのかな?あまり長くいるとハラボジとパパのピリピリ緊張が張り詰めすぎて怖いんだけど・・・-_-;;では、皆さんこれから楽しいお正月を。そして皆さんの新しい年がより実りのある年であることをお祈りします。そしてそして・・・今年もどうぞよろしくお願いします。2005年元旦 Galo
Jan 1, 2005
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韓国の10大ニュース、この前セブンデイズという番組でやっていた。全部覚えてるかなぁ。3月に100年ぶりの大雪大統領の弾劾スレギマンドゥ(ゴミ餃子)売春婦狩り公務員のデモ首都移動問題クマ(だっけ?)のチューブ金鮮一さん殺害ヨン様(これが入ってるなんて!!) やっぱり観てすぐ書かないと忘れてしまう。もう一つ何だっけ? 大体これであってるのかな?でもそれを観ていて激動の一年だったなとつくづく思った。10大ニュースに入るんじゃない?と思うニュースは他にもたくさんあるし、ゴミ食品に関しては何も餃子だけではない。ニュースの多くは韓国人お得意の「モッコ サラヤデ(食べていかないと)」のせいで起きてたりする。私はこのモッコサラヤデが好きじゃない。もちろん食べていかないといけないけど、食べるために何をやっても良い、自分が食べるために他の人に迷惑かけても仕方ない、みたいに聞こえるからだ。きっと本当に食べて生きていくのがしんどかった時に、この言葉ってよく使われたんだと思う。だけど、もう自分が食べる事ばかり心配する時代ではないように思う。ニュースの中のクマはそのクマの内臓かどこかから出るエキスが良いとかで、生きているクマのお腹にチューブを差込み、エキスを採っていた。おかげでクマは体中感染症。脳に腫瘍までできていた。これも人間のエゴだ。来年はもっと明るいニュースがたくさん流れると良いな。その意味ではヨン様は韓国にとって良いニュースだったのかも。日本には恥のニュースだけど-_-"韓国のお正月は今年は2月なので、本当に新年を迎えるんだぁという華やかさはない。忘年会などで慌しい世の中だけど、年末の厳かさ、新年を迎える緊張感は味わえない。かと言って、旧正月の習慣のない私には、クジョンもピンとこない。それでも2004年はもうあとちょっとで終わり。年が終わるその直前に本当に恐ろしい地震が起き、悲しい年末になってしまった。新しい年を迎えるワクワクはもうない。愛する人を探す人たちの目、愛する人を失った人たちの目、何もかもすっかりなくなってしまって瓦礫の山になった自分の町を見る目・・・この人たちの目に再び少しでも希望の光が戻らないと。ここソウルはマイナスの毎日。この寒い中、暖房もわずかしかなく寒さに震えながら過ごしている人たちも多くいるそうだ。SBSでやっていた「愛のヨンタンを送りましょう」キャンペーン。このヨンタンって炭みたいなもので、昔というかパパの子供世代は誰でも使っていたものらしい。でも今でも生活が苦しい人たちは使っているということだ。その円筒状のヨンタン一つが300ウォン(約30円)だとか。今地震で家を失っている人たち、こんな寒空ではなくってよかったなぁなんて思ったり・・・。年末にこんな悲しい気分なのは初めて。
Dec 31, 2004
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子供を育てるってエネルギーの要ることだ。いくら自分は子供好きだと言っても、自分の子供を実際持ってみると、24-7(一日24時間1週間ずっと)好きだ、かわいいという感情だけではいられない。時には、「自分は本当に子供が好きだったのか」と疑いたくなる瞬間さえある。赤ちゃんの間は、ただただ泣く自分の子供にどうして良いか分からず、その自分の不甲斐なさから、子供への「どうして泣くの」という苛つきに変わる。でも、よく考えたら言葉のできない、泣く事でしか意思表示のできない、まだ人間らしくない小さな我が子に怒ったって仕方ないと思えたりする。そして子供は成長する。言葉を覚え、いろんなことを理解しようとするようになる。その過程で、言葉を変に覚えたり、間違って使ったり、理解の仕方が自分勝手だったり、ある一部分しか見えなくて理解する事が出てくる。親にはそれが「反抗」に見えたり、「馬鹿にしてる」ように見えるかもしれない。親が一生懸命何かを教えたい、伝えたいと思っているとき、子供はそっぽを向いていたり、ふざけるように笑っていたりする。でもそれは、日本で今はやっている言葉を使えば、親と子供の「温度差」なのだ。全てをすっかり理解し、察する事ができるようになった大人の親と、まだまだその発展途上にいる子供との。昨日、そんな親子がいたようだ。親は子供にある事を注意した。「3回言って直らなかったら雷が落ちるよ」と母は言った。子供は3回同じ事をした。そして母は言った。「直らなかったんだから、出て行きなさい」と。子供は泣きながら家を出て行ったそうだ。子供はまだ小学生にならない年長の子。午後に出て行って、夜になっても探しに行かなかった母。もう「どうでも良い」と思ったそうだ。幸い子供は保護されたそうだけど。子供が怒られている時、自分は必死なのに、子供が笑っていたりしたら、本当にムカつく~と思う事がある。何で真剣に聞かないの!と。注意したのに、またすぐあとで同じ事を繰り返すと、キ~となることもある。さっき言ったばかりでしょう!と。その時は頭にカ~と血が上るので、なかなか冷静に考えられないのだが、よく考えてみると、子供は子供なのだ。母親が今真剣に怒ってるかどうか、まだまだ「察する」事ができない未熟な子供。言われた瞬間は直すけど、また遊びに夢中になったりしたら、すぐ忘れてしまう小さな子供。言葉や行動だけはまるで一人前の大人のようにできる幼稚園児。おかげで自分の言っている事や分かる事を同じように理解し、できるようになるとつい思ってしまう。だけど、実は頭の中はまだまだ発達の途中なのだ。そう理解できたら、子供の腹立つ行動の一つ一つは、実は親を馬鹿にしたり無視してるから出るものではない事も分かるはずなのだが・・・。「どうでも良い」と思うこと自体が子供をすでに大人扱いしている。「どうでも良い」とは、すでに何でもできる、一人で生きていける人に対して思う感情だ。出て行ったら一人で成す術のない子供に対するものではない。かくいう私も、毎日子供に大きな声を出し、時には子供に能力以上のことを求めてしまっていることもある。怒った時はつい口走ってしまって、後から反省することもしばしばだ。パパがよく私に言う。「子供たちに頭にきたときは、子供の足を見るようにするんだ。この膝から下の所を見るとね、まだこんなに小さい子供なんだって思って、ス~ッと怒りがひいていくんだよ。」そういうパパも普段は子供にそんな事言ったって・・・と思うことで怒ったりするけど。私は子供の手を握る。そしてその顔を両手で触ってみる。その小ささを実感した時、私の心は愛おしさでいっぱいになるのだ。
Dec 30, 2004
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先日凄いものを見てしまった。朝日本語を教えてる私たちは、いつもの通りチョンダム洞のアパートに向かったのだけど、その大通りに出る道が水浸し。こんな零下の朝に水浸しでまた凍っちゃいそう、危ないねなんて話してたら、横の歩道は凍っている!!まるで雪が降った時のように凍った道は尋常じゃなかった。何でこんなことになってんの?と思いつつ歩道からビルに目をやったら、そのビル凍ってる!!そこは自動車プジョーのビルなんだけど、かなりのその高層ビルがぜ~んぶ凍っていてツララがぶら下がっていた。「うわぁ映画みたい!どうしちゃったんだろうね~」なんてのんきに高層ビルの上を見やってその原因を発見。一番上の階が燃え尽きていた。窓は全部焼け焦げ、下の階の窓まで及んでいた。きっと火事になり、消火活動をしたおかげで水浸しになったビルが零下の寒さで凍ってしまったらしい。その最上階に何があったのかすら知らなかったが、その日の夜にニュースでやっていた。どうやらそこにはお酒やさんがあった様で、火事になったのに、消火器具が全然作動しなかったよう。しかも装置も全部オフになったままで、消防署が駆けつけるのに時間がかかってしまった事、高層ビルの為に消火が困難だったこともあって、完全に消火するのに6時間かかったそうだ。私たちはいつもそこの横道から散歩道路の道に抜けて家に帰るのだが、その横道に入ってすぐのレストランがとってもムカつく。そのせまい横道、結構抜け道として通る車が多いのに、レストランのその入口にバレットパーキングをやっていて、いつも車をそのまま放置。両方から車が入ってくると完全麻痺状態になってしまうのに、そこのパーキングの人は態度がデカイ!!その火事のせいで、その横道が閉鎖になった。おかげで私たちもその抜け道使えないが、そのレストランも車で来れない!!チャンサモッタジ~!!いつも迷惑かける罰さ。********************************今日の夕ご飯を作る時、イパルが突然「オンマ、オヌルン クリスマスパプ へジョ(今日はクリスマスご飯にして)」と言った。クリスマスパプ?? 何それ?と聞いたら、クリスマスの夕食に作ったメニューの事らしい。ハラボジ、ハルモニと一緒に食べると思っていた私は、あまりちゃんとメニューとか考えてなくって、思いつきで作ったメニューだった。カルボナーラ風のフィットチーネと醤油とイチゴジャムで味付けしたチキン。このチキンにイパリははまったらしい。パスタまで作れと言ったわりにチキンばかり一生懸命食べていた。作る時に、「パパは今日はパスタがイヤだろうし、パパの分と二通りご飯を作らないといけないから、ヤダよ」と文句を言ったのだが、「オンマ、ネガ トワヘジュッケ(私が助けてあげるよ)」と心強い(?)事を言ってのけて、結局自分はShrek2を観ながらフィオナになりきり、演技に夢中だった。クリスマスご飯、私が子供の時のメニューは決まっていた。母特製のコーンクリームスープとチキン、あと何かあったけど、とにかくこの二つが楽しみだった。母にはその日特別のメニューがあって、たとえばひな祭りには雛人形の散らし寿司、誕生日にはスポンジケーキを焼いてくれて、お誕生会に来てくれた友達全員でデコレートできるようにしてくれた。子供の時は専業主婦だった母は料理に結構凝っていたと思う。私も今は専業主婦なのになぁ。私特製のメニューでも作らないと・・・。クリスマス特別メニューってありますか?
Dec 29, 2004
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重い腰をやっと上げて、昨日イブにやっとクリスマスツリーを出してくれたアッパ。というのも、家のクリスマスツリーはアメリカのCostcoで買ったバカデカイもの。アメリカでは小さいうちに住んでいても邪魔にならなかったツリーもここではかなりの邪魔者。ベランダに置くしかないんだけど、この1年の間に植物園と化してしまったので、置く場所がなかった。昨日その植木たちを何とか移動させて、置く場所を作って、やっと飾ったツリー。子供たちは大騒ぎ。特にホパリは去年の記憶はないだろうから、初めて見るような興奮。オーナメントを引っ張って大変なことになった。 それでも何とか子供たちをなだめすかして、やや遅めに就寝。私たちが寝る前に「サンタさんからのプレゼント」とツリーの下にセッティング。あ、それからイパルが書いたサンタハラボジへの手紙を隠して・・・。そして寝るときにパパが子供のころの思い出を話してくれた。それは小学校2年生のころ、まだプサンにいた時の話だそうだ。そのころの韓国ではクリスマスといってもこんな華やかなものではなかったそう。それでも靴下を下げる習慣はあったらしい。ただその靴下は特別なものではなく、お父さんのサッカー用の大きな靴下を下げていたそうだ。寝る前、朝起きたらその靴下に何が入ってるんだろう・・・とドキドキしながら寝入ったパパ。朝起きて布団から靴下を見ると、ものすごい大きく膨らんでいる。あまりのすごさに怖かったパパは、隣で寝ているハルモニを起こし、「オンマ、あれ見て」と言った。「あ~、本当だ。何が入ってるか見てごらん」とハルモニに言われて勇気を出して見に行ったパパ。中には所狭しとみかんが詰っていた。サンタハラボジがみかん・・・??靴下をさかさまにするとみかんがドサドサと出てきて、一番最後に薄っぺらいコミックが出てきた。しかもコミックには近所の書店のスタンプが押してある。「オンマ、これってあそこの本屋のスタンプだよね?」「そうだね~。サンタハラボジも忙しいから、作ってこれなくてこの辺で買ってくることもあるんだよ」それにしても、みかんとコミック。パパはかなりショックだったという。そして翌年。ハラボジとハルモニは同窓会に出かけて、パパのハルモニと二人のイブだった。「ほら、早く寝ないとサンタさんが来ないよ」とおばあちゃん。パパは今年は何をもらえるんだろうと期待しながら就寝。翌朝起きてみると、靴下の中にも枕元にもどこにもプレゼントはない。「僕悪い子だったのかなぁ・・・」と落ち込んでいるところへおばあちゃんが「あっちを見ておいで」と玄関の下駄箱を指差す。下駄箱にサンタさんから何かあるんだろうか・・・といぶかしげに下駄箱を開けてみると・・・。靴ひとつひとつに缶詰が。もも、パイナップル、ブドウ・・・。しかも英語でも書いてあればサンタさんからのギフトだと思ったかも知れないとパパは言った。でも、すべてハングルのしかもプサン出産の缶詰たち。本当にサンタさんがくれたのか?サンタさんってこんなものくれるのか?パパのサンタ疑惑は深まったそうだ。みかん、缶詰と続いたクリスマス。さすがの両親も息子に悪いと感じたらしく、翌年のギフトはすごかったそうだ。その当時センセーションだったラジコン。バックしか操作ができないものだそうだが、それでも当時はすごかったそうだ。クリスマスが迫ったある日、パパがあるきれいな包装紙に包まれた箱を発見した。「オンマ、あれ何?」「あれはアボジ(お父さん)のよ」その翌日その箱は消えていて、あ~お父さんが持っていったんだと思っていた。そして迎えたクリスマス。朝起きたら枕もとにあの包装紙の箱が。その瞬間思ったそうだ。オンマがサンタハラボジなんだ、と。ハルモニはとぼけたそうだが、パパの心には疑惑が消えなかった。やるなら徹底しないと・・・。これがクリスマスの教訓。それでは最後にパパとイパルからクリスマスの挨拶。
Dec 25, 2004
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今年の一月、日記をもし読んでいた方は知っているけど、私はある試験を受けて不合格だった。そう、私にはやらなければいけないことがある。NCLEX-アメリカのRN(正看)の試験にパスしないといけないのだ。日本で正看を持っている人は、普通審査を受けて試験資格をもらえる。わざわざ学校に行きなおさなくて良い。でもその審査に提出する書類というのがかなり面倒臭かった。時間とお金をかけてこの審査をパスしたのに、試験はあきらめてはいけない。本当は、1月に不合格だった時点で、また勉強をしなおし、3ヵ月後にもう一度チャレンジしようと思っていた。だけど、来年に渡米かと思っていた私たちだったので、パパがどうせだったらアメリカに行ってからちゃんと勉強しなおして、と言うので、一度勉強を中断してしまった。でも来年の渡米はできなくなり、代わりに日本へ行く私たち。試験は最後に受けてから2年以内にまた受けないと無効になってしまう。だからあと1年の間にもう一度イヤでも受けないといけないのだ。いざ勉強というと、子供がいては全くといって良いほど集中できない。ハルモニが見てくれるという話だったけど、ハルモニにもハルモニの生活があり、数時間でも毎日束縛するのはとても申し訳なく、とても中途半端な状況での勉強だった。今年からは韓国でも受験が可能になるらしいけど、それまでは少なくともサイパンかグアムまで行かないと受験できなかったので、その旅行費用もかかった。皮肉な事に、私たちは今度日本に行ってしまうので、受験の為にまた旅行をしないといけない・・・^^;;ああ・・・勉強をどうするか。考えると頭のいたい話。年をとるたびに勉強がどんどん難しくなるし。頭がついていかない。さっきやったことを何だっけ?と首をかしげ・・・。でもここであきらめてはいけない。ハワイ市場さんは大学に戻って勉強してる(しかもAを取る優等生!)。私なんて試験のための勉強だけだ。これくらいできなかったら恥ずかしいぞ。ここで抱負を発表して、みんなにお知らせして逃げ場のないようにしよう。それからもう一つ。日本に行く事で、今までと全く違う生活を始める私たち。お互いを愛していたわる気持ちを忘れない努力をすること。来年からは私たち4人が力をあわせて頑張っていくことも私たちの抱負。・・・頑張ります。
Dec 21, 2004
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ハルモ二のはからいで、今日の夕方サンタが家に来た。何でもいくら以上買ったら、サンタが自宅にプレゼントを届けてくれる、というような企画があったらしい。イパルとホパルの驚く顔が見たい、と二人にプレゼントを買い、このサンタの配達をお願いしたらしい。…というか、実はその「いくら以上」の金額に満たなかったらしいが、無理やり頼んだとか。さすが、ハルモニ!というわけで、さてどんな展開になるだろうと、大人たちはちょっと楽しみにしていた。5時に来ると言っていたが、まあ、韓国のサンタさんはやっぱり遅れてきた。チャイムが鳴ってイパルに出るように言う。「ヌグセヨ~?(どなたですか)」と叫びながらドアに近づく。「サンタハラボジエヨ」と答え。ドアを開けるとサンタさんが入ってきた。イパルは何がなんだかわからないながらもサンタさんと話してプレゼントを受け取った。ホパルは思いっきりビビリながら近くにいたハラボジに逃げたが、サンタさんがプレゼントを差し出すと、それはしっかり受け取り、「ゴマッスムニダへ(ありがとうって言いなさい)」というと頭をペコリと下げた。嵐のように来て去っていったサンタさん。でも実はちょっと失敗だったかなと思う。サンタさんが帰った後、「さっき誰が来たの?」と聞くとイパルは「サンタハラボジ」と答えたが、その小さな顔には疑いの色があった。このサンタさんってアルバイトの人かなんかだろう。30前後の男の人で、芝居っ気も何もない。しかもアジア人でしょう~。イメージ崩れるかもね…子供の中では。サンタさんのようなものって、目に見えないから信じられるって事あるだろう。会ったことないから、どうやって来るんだろう、プレゼントってどこで作ってるんだろう、本当に白ひげのおじいさんなのかな、トナカイに乗ってくるんだよね、などなど子供の心の中で、サンタさんは形作られていく。毎年12月になると、想像を膨らませて、ドキドキしたりワクワクしたりするわけだ。納得のいかないイパルはハルモニに何でサンタさんがこんなに早く来たのかと聞いた。「ニガ チャッカンオリニニカ イルチック オショッチ~(お前がいい子だから、早くいらしたんだよ)」とハルモニ。イパリの顔は納得行くようないかないような…。でもサンタさんの話題はイパルから出てこなかった。23日、幼稚園の終了式の日にも幼稚園にサンタさんが来るのかな。幼稚園からの連絡帳に「子供に分からないように絵本を包装し、サンタさんからのカードを添えて担任の先生に渡してください」と書いてあった。こんなに何回もサンタが現れていいのだろうか?子供を喜ばせるよりも、本当なの?という疑いのほうが大きくなるような気がする。それよりも、これはハルモニから、パパから、とはっきり伝えて、本当のサンタさんは24日の夜に来るんだよ、と言う方がよっぽど素敵に思えるんだけど…。子供も馬鹿じゃない。いい加減なうそを言うと、子供の心をがっかりさせるだけなのだ。今日のイパルの鋭い目。イパルの心の中のサンタさんを壊さないようにしたい。
Dec 19, 2004
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ソウル市江南区(カンナム)と言うところは、ちょっと特別な所だ。以前、韓国の新聞で職場も江南が良いという人が何割・・・とか出ていた。江南はもともとお店やレストラン、遊びのスポットで人気だけど、住むところとしても人気があり、今では職場の場所としても人気があるらしい。江南区には本当のお金持ちはあまり住んでいない代わり、”余裕ある”暮らしができるくらいの人たちが住んでいる。そしてここに住む親たちは、ほかの家よりもっと裕福に見えるようにいい車に乗り、きれいな服を着て、子供たちの教育にお金を費やす。江南という地区は毎日競争の世界だ。見た目がとても大切な韓国の中でもさらに外見を重要視する江南。そのためだったら多少の嘘も仕方ないだろう。この辺のどこも子供も、アメリカに留学して(これもアメリカじゃないと駄目)、ハーバードやスタンフォードを卒業してることになってる子がほとんど。そんな競争と見栄の世界に小さいときから育っている江南っ子は常に周りを気にしないといけない。そして、誰よりも英語ができ、いい学校に入り、一番になることを親から言われ続ける。今の子のことは知らないが、パパ時代の江南っ子は、毎日ストレスの連続だったと言う。今みたいにおしゃれがどうとか、そういうのはなかったみたいだが、とにかく勉強ができなければいけなかった。韓国のどこよりも教育水準が高いと言われる江南区。教育熱心で江南に住んでいない家庭は、余裕があれば子供だけでも江南に住まわせてそこの学校に通わせようとする親もいたし、家族で引っ越してくるケースも少なくなったとか。実際パパの高校時代からの友人二人はそのケースだ。その当時進学校と言われたY高校に入り、それからも勉強勉強の毎日。高校は有名大学に入るための塾みたいなものだった。毎日夜11時ごろまで学校で勉強し、帰ってきてからさらに数時間。ちょっとでも気を抜いたら恐ろしく怒られたと言っていた。そんな風に中学高校時代をすごした江南っ子は、将来行きたい大学(行かなきゃいけない大学)はあっても、将来自分が何になりたいとか、何がしたいと言う人生の目標みたいなものはない若者に育ってしまった。大学もその後の就職も、何がしたいからそこに行きたい、ではなくて、一流だからそこに行かないといけない。だから、自分の中に残るものは何もない・・・少なくともパパはそう言っていた。競争の中ですごした高校時代には、友達とも本音で語れない。常に相手の出方を見ながら、自分の出方を考える、そんな付き合い。「本当の友達っていないんだよ」とパパはこぼす。江南といっても広いので、江南全域がそうだとは言い切れない。私が知ってるのは少なくともこの辺の江南っ子の話。パパだけじゃないのは、ここに小さいときから、もしくは生まれたときから住んでいる今の20代30代の男の人たちを数人見てきて感じるからだ。みんながあこがれる江南に住む子は実は一番疲れてるかもしれない。空気は悪く、アレルギーやアトピーと闘いながら(アトピーはここら辺の水のせいとも言われてる)、幼稚園のころから習い事のオンパレード。英語が話せないとほかの子から遅れると英語専門の幼稚園に通わせ、情緒豊かな子供にならないととピアノやバイオリンを習わせる。幼稚園が終わっても夕方暗くなるまで習い事で外にいる子がほとんどだ。小学校に上がると、学校のほかに学院(塾)に通わないといけない。小学校の校門には下校時刻になると学院のバスが何台も横付けされる。幼稚園も学校もブランド物じゃない服を着ていけば、馬鹿にされたり、携帯も最新型を持ってないとムシされたり。そして何よりも、この子たちには「選択」がない。きっとどこの子よりいいものを与えられ、必要なものはすべて持っているかもしれないが、彼らには自分で選ぶ選択はない。何を習うのも、誰と遊ぶのも、すべて親が選んで与える。ここにこのまま住んだら家のイパル、ホパルも同じ過酷な人生(!!??)を歩まないといけない。だから私たちは脱出する。私たちには、みんなが言うカンナムの良さが全然分からないからだ。子供が子供らしく生き、自分のしたいことがはっきり分かる大人になってほしい。そういう環境で子供たちを育てたいのが私たちの目標。夢ではなく、目標だ。そうじゃないカンナムっ子さんたちには、ごめんなさいね^^私から見たカンナムの感想です。では最後に私の日記のタイトルでもある、私たちの町アックジョンの風景をご紹介。
Dec 16, 2004
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もうすぐ今年の1月に先生と話してから1年が経つ。先生は、肺が麻痺するまで1年くらいだろう、と話していた。母は頑張っている。麻痺は進行してるけど、母はまだまだ頑張っている。先日の弟からのメールでは、先生に外食の許可が出て、看護師さんを同伴で連れて行ってくれたらしい。その後伯母との電話では、母の話がほとんど分からなくなってしまったこと、食事がかなり難しくなってきたことを教えてくれた。そろそろ、胃ロウを作らないといけないのか・・・。先生はそんなことも考えて先日外食を許可したのかな・・・などと考えた。私たちが引越しできるのは多分2月下旬。パパがほせの2歳の誕生日をこっちで迎えてから、と言ってるので、それより早くはならないだろう。どうか、このまま頑張って!進行がとっても遅いと先生をびっくりさせているその力は、お母さんの生きる力なんだと思ってる。イパルがとっても会いたがってます。ばあばが一番大好きなイパルがもうすぐ行きます。待っててね・・・。
Dec 14, 2004
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