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つい先日私のYahoo!メールに全然知らない人からメールが来た。「突然のメールで失礼します」と言いながら、彼女は夫と自分との関係を話し、寂しいのでたまたまネットで見かけた私にメールをした、と言う。「会いたい、費用は私が持つ、秘密さえ守ってくれれば、あとはこっちの都合に合わせる」と言うような事を言ってきた。私は目が点。まず、一体どこで私のことを知ったんだろう。多分、私の名前は知らず、メールアドレスだけしか知らないようだ。文面を読んだ限りでは、私の事を男と思ってるようなきがする。私はもちろん(!!)出会い系サイトなんて利用した事もないし、どこかに投稿するとすれば「夫は韓国人、二人の子供がいます」なんて書いている。それを読んで、こんなメールをよこす人はいないだろう。そして次にびっくりしたのは、この人の潔さ(!?)私の顔を見たわけじゃないし、年も知らないだろうし、一体どこの誰かわからない相手に対して、「セフレ関係」なるものを求める。いたずらなのだろうか? 本気でこんな事する人がいるんだろうか?1回のメールならいたずらと思うんだけど、あまりの気味悪さに「どこで私のこと知ったのか」と返事を送ってしまった。そうしたら、それから彼女はメールを何回か送ってきている。ご主人が今出張とかで、できれば会いたい、と。途中、私がどこに住んでいて、どんな姿をしてるのか承知でメールをしてるのか、だったら女だって事も分かっているのか、と言うメールを出したけど、それに対しての返事はなくて、彼女の思うがままのメール。Yahoo!は時々届かない事があるので、見なかったのか・・・。それともかなり調子の悪い人なのか・・・。とっても不思議だ。いたずらにしては回りくどく、ここまでするか??って感じだ。でも相手が男かどうかも分からない相手にここまでのめりこむのもヘン。私が男だったら、ラッキーって感じだろうか?連絡して会ってしまうんだろうか?世の中物騒だと言っても、こんな度胸のある人もいるんだ。なんかのたちの悪いいたずらであってほしい。これが「よくある出来事」であってほしくないなぁ。こんな経験、ありますか? あれから調べた所、All Aboutのサイトで同じような経験をされた方の記事が載ってました。やっぱり出会い系サイトへの勧誘だったようです。ちょっと違うんだけど、話のもって行き方はおんなじ。ヘンだけど、かなりホッとしました。あんな風に見ず知らずの人にメール送ってくるのが本気だったらかなり怖いし、いたずらも目的が分からなかったら、気味が悪いし・・・。しかし何で私のメールアドレスが男のものと思ったんだろう・・・。女らしいと思ってたのに・・・!!??
Dec 11, 2004
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日本行きの話が本格化して、私にもちらほら仕事の話が来ている。一応何件か面接できるようにしておいて、1月中旬に日本へ一度行って、準備をしてくると言う計画になっている。日本での住居、子供たちの保育園、家電などの購入・・・考え出したらきりがない。何とかなる。そう思って、今まで来たけど、どうしても不安がぬぐいきれない。一番の不安はパパ。しばらくは私が一人働き、パパは家にいる、と言う生活になるだろう。初めて日本に来て、右も左も分からないのに、いくら日本語が話せるからと言って、すぐ働けるわけがないし、新しい環境にすぐ溶け込む性格でもないパパ。ゆっくりパパのペースでなれて行ってくれれば良いと思ってる。でもこの「私が働き、パパが家にいる」と言う状況、アメリカでも一度あったんだけど、最悪な結果に終わったのだ。その悪夢がよぎる。と言うのはパパが言い出したからだ。「今度あんな事あったら、きっともうやり直せないよ」その当時、私はカレッジを終えて、やっと探した病院で勤務を始めていた。パパはまだ学生。試験やレポートで追われるのに、学校が終わると私は仕事に向かう。その時イパルは2歳だった。午後はそんなイパルと向き合いながら、自分の勉強もしないといけない、そんな切羽詰った毎日だった。そして妻が働くと言う事実。正直、男の人にはおもしろくない状況だ。自分が働いているならまだしも。私はそんなパパの気持ちを理解してるつもりで、できるだけ食事の用意はしていき、家の事をせずにいられるように気を遣い、仕事で疲れてもグチを言わないようにして、パパがもっと大変だよね~と思うようにしてきた。でも、パパにはあまりその私の気持ちは伝わってなかったらしい。病院から帰ってくると、パパのむすっとした顔。一言も口を利いてくれない。何があったのか、どうして気分が悪いのか、聞いても無視。その内聞くのが怖くなった。家に帰るのも憂鬱だった。会話が確実に減った私たち。もともとパパが突然むすっとして、聞いても何があったか教えてくれない。それでも何とか乗り切ってきていたけど、その時は私ももう限界だった。どうでも良くなってしまうと、あとは気持ちがサーっと冷えていくのだ。もう戻れないと思えた。その時は離婚の話まで出た。私は離婚したいと言った。最後にパパが折れた感じだった。(もちろん、それから今までこのことで文句言われてるけど^^;;)パパの気持ちは分かる。分かる努力もしていた。でも一度だってパパが私の気持ちを理解しようとしてくれなかった。パパから見える私の態度だけを見て、ただそれを責めていた。パパにそんな風に見せる私が悪い、と。結局今でもあの時の責任は私にあると言う。お互いに未熟だったとは思わないみたい。だから私に言う。「またあんな事になったら知らないよ」と。日本行きを決めてからも、私は何度となくパパに聞いている。本当に行くべきか、と。韓国に残るという事も考えなくて良いのか、と。再来年アメリカに行くまでの話だから、辛抱できるし、日本に一度も住まないのはもったいない話だから、行く方が良いだろう、という。でも、日本に行ったら何でも良いからやれることやって、私たちだけで頑張ってみよう、そんな意気込みは聞こえてこない。もちろん心の中ではある程度の覚悟をしているんだろう、私にしか言えないから、どうしてもネガティブな事ばかり口にするんだろう・・・そうは思ってるんだけど。私も同じように不安なのだ。日本に行ったら全て私にかかってくる。そして頼れる家族もいないのだ。私にまかないきれるだろうか、そんな不安がいつもある。でも言えない。 パパまで不安になるから。だから口だけでも良いから、「大丈夫だよ、俺たち二人で頑張れば」なんて言ってほしいのに。そんな気持ちが常に付きまとっていた。だからだろう。先日たわいのないことで、言い合いになった。私は普段心の底で思ってることを隠しながら冗談みたいに返していたけど、それがかえって毒がある言い方になった気がする。ちょっとおちょくったような、そんな言い方だったかな、と思い返して反省した。私の心に余裕がないみたいだ。心配事は山ほどあって、暇さえあれば、インターネットで検索してる。楽天なんて余裕がないから素通り。そうして見てたって答えは出てこないのに、調べてはブツブツ・・・。パパに相談できないからなお更だ。言ってみた所で、頭が痛いと逃げられる。あまり日本行きのこと話してると「日本にすごく行きたいみたいだね」と皮肉交じりに言われてしまう。そろそろこの日記に白状した事だし、自分の心の余裕を取り戻さないと。何とかなる、よね?続きます。
Dec 10, 2004
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以前にうちの消えた金魚について日記に書いたけど、今日とうとう(と言うかやっと?)水槽の掃除をした。あの後、1匹が具合があまり良くなくて様子を見ているうちに、他の子も具合が悪くなり、やっと治ってきたなと思ったらバスルームの工事。水槽は汚れに汚れ、やっと掃除にいたったのだ。パパの、この掃除屋は自分で中にもぐって死んでしまった、という説を少なからず信じるようになったのは、それ以降水の汚れがかなりひどくなったからだ。そんなわけで、今日の掃除は本当にドキドキものだったけど、結局どこにも見当たらなかった。パパが言うには、あれからかなり経っているから、腐ってなくなってしまったのだと言う事だ。そんなに跡形もなくなくなってしまうものなのか?と疑問だったりするけど、他に説明がつかないし・・・。結局、はっきりコレというものがないまま、消えた金魚は本当にいなくなってしまった。消えた掃除屋。謎は残ったまま。(て思ってるのは私だけだけど)水槽がピカピカになって、ちょっと緊張気味の金魚たち。下のほうに集まって、水槽はまるで誰もいないみたい。
Nov 30, 2004
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1週間の避難生活を終えてやっと我が家に戻ってきた。修理をするこの1週間、職人さんたちにもうちの大家さんにも、言いたい文句は山ほどあった。しかも避難をしていたチョンダンドンのアパートでは、上の階の人の嫌がらせのような騒音。(もともとうちのハルモニと仲がこじれている)そのアパートでは炊事ができないため、ご飯はハルモニ宅まで行ったり来たりの生活。なんだか居所のない不便な生活だった。やっぱりひとところに落ち着けるっていいことだ。いつも文句を言っている我が家だけど、帰ってきたら、なんだかほっとした。隣のチョンダンドンより、アックジョンドンに帰ってきたら、安心した。そのチョンダンドンのアパートはまだできたばかりなんだけど、結構芸能人が入ってきてるらしいとは聞いていたが、とうとうBoAも引っ越してきたとか。同じ棟ではないから、お目にかかることはないかな。この書かない間に初雪が降ったりして、日記に書かなきゃ!なんて思ってたのに、いろんなイベントを吹っ飛ばしてしまった。ソウルはすっかり冬。ハルモニは2回目のキンジャンキムチをやるらしい。明日は忙しくなりそう。
Nov 29, 2004
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先週の水曜日突然我が家のバスルームを工事することが決まり、金曜日から始まった。というのも、うちのすぐ下の人が水が上から漏れてくるという苦情をもらったからだ。本当はこの苦情、先月に来たんだけど、そのときうちの大家さんは、工事をしてお金をかけたくないため、応急処置だけして終わりにしてしまった。でもその水の漏れ方はひどいらしく、もちろんそんなものではおさまらない。再度の苦情によって今回の工事になったわけだ。うちは大迷惑だ。せめて先月やってくれてたら、寒くなくもう少し楽にできただろうに。今はパパが学院に使ってるアパートに避難している。といっても、人が出入りする間、うちのアパートを空けたままいるわけにいかないし、ハルモ二かパパが工事をしてる間監督(?)しているのだが、埃とセメントから出る粉末、匂いで喉がやられる毎日。家中粉だらけで、帰ってからの掃除が怖い。あ~こんな大変な思いして、家賃が返ってくるわけじゃないし、本当についてない。子供たちはキャンプのようなこの生活を楽しんでるけど、大人たちはヘトヘト。この生活、火曜日まで続くそうだ。
Nov 21, 2004
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チャンウォンは都市計画をされてできた都市だそうで、ソウルのこの辺とは違い、区分がしっかりできている。私がこのアックジョン・チョンダンドンをあまり好きになれない理由は、住居地も商業地も全部ゴチャゴチャなところ一般住宅もオフィスとして使えるため、生活が落ち着かない。ビジネスをする人には便利だろうが、住むにはたまらない状況だ。このチャンウォンは、繁華街があり、その周辺に一軒家が立ち並び、少し離れてアパート地区がある。そしてチャンウォンで一番ウェイトを占めている工業地区はやはり同じ地区にまとまっている。ハラボジが住んでいるのは繁華街のオフィステルなので、正直言って、慌しい外だったが、13階にあるハラボジの部屋はその外の音は全く入ってこなくて静かで、落ち着いていた。いわゆるワンルームなのだが、結構広くて、一人で住むには快適な空間だった。それに引き換え私たちが泊まった6階のモーテル。ここはひどかった・・・。まずうるさい。すぐ下にカラオケやルームサロンがあるんだから当たり前なんだけど、寝てるとズンチャズンチャ響いてくる。挙句の果てにはへたくそなカラオケの歌まで聞こえてくるのだ。それが夜中の3時、4時まで続く。朝方に静かになったかと思うと7時にはもうズンズン音が聞こえてくる。そして暑かった。ただでさえ暑いオンドルの床。寝苦しくて眠れなく、朝起きてみると床は裸足で歩くのもきつい位アツイ!!窓口のアジョシに聞いたら、小さい子供たちが寒いだろうとちょっと暖かめにした、といっていた。チャンウォン市内を回ってみようと言っていた日、あまりの寝不足に朝起きれなかったパパ。なるべくお怒りにふれないよう、子供たちを連れて私だけ先にハラボジ宅に行くが、パパはなかなかこない。とうとうシビレを切らしたハルモニは、「ちょっと出かけてくるよ」と言って、2時間ほど帰ってこなかった。帰ってきて、ハルモニは「私はもう市内観光してきたよ」と言う。車も運転せずどうやって??と思ったら、不動産に入って、あちこちの家を見せもらってきたらしい。その運転中にチャンウォンでの生活のことや、チャンウォン市について色々聞いてきたらしい。さすがハルモニ。午後からみんなで市内をドライブ。まずはハラボジの会社を見に行った。中に入っても見るものないから入ってこなくて良い、といっていたハラボジだが、家族はやっぱり見てみたいもの。だって社長さんなんだもの。全員で入るのはやっぱり恥ずかしいので、せめてハルモニとハラボジの会社を見たがっていたイパルくらい入って、社長室でも見て来たいとハルモニは思っていた。でも会社の前から電話したら、あっさり断られてしまった。ハルモニはかなり寂しそうだった。私たちも何だかハラボジにがっかりした。何しにチャンウォンまでってハラボジの会社と生活を見に来たのに、会社の目の前だけ見て終わり?妻であるハルモニが来たのに、社員に紹介もせずに?「ハルモニは色々面倒臭いから一緒にどこか行きたくないオヤジの気持ちは分かるんだけど、今回はちょっとひどいな。もう30年以上もこうやって無視されてきたんだよ、オバサン(なぜか日本語のとき自分のお母さんの事こう呼ぶ)」とパパも寂しそうだった。町の中心にあった大きな公園を見つけそこに駐車。お昼寝をしていた子供たちも起き、昼ごはんを食べてなかったハルモニはお腹がすいたと韓国版タイヤキを買ってきた。タイヤキは日本のより小さかったけど、もっとカリカリしてておいしかった。よっぽどお腹すいてたのか12個買ってきて、食べきれないと思ったのが、すっかり完食してしまった。(もちろんみんなで)そのタイヤキを売っているところで、おでんも売っている。韓国でおでんはたくさん見たけど、実際食べるのは初めて。長いくしに刺さっているおでんを勝手に取って、醤油につけて食べる。スープはプラスチックのすくいを使って勝手に飲んでいい。おでんは「プサンおでん」が一番おいしいらしいけど、オバサン曰くこのおでんもプサンものだということだった。寒い風が吹く中、おでんを立ったまま食べるのは結構趣があってよかった。公園の中で子供たちは一通り跳ね回り、寒くなってきたので、買い物をして戻る。今日の夜はフェ(刺身)だ!マサンというところまで行って、食べるという事で、ハラボジも早く帰ってきた。ちょうど退社時間なので、少し混んでいたけど、市内をすぎると空いてきた。途中から港が突然現れる。大きな船もとまっていた。漁業港ではないらしく、工場のようなものしかなかったが、暗闇の中港の向こうを見るのは、ソウルに来てずっと海を見てなかった私には嬉しくて仕方なかった。レストランに到着。まず最初に、パンチャンが出てきた。貝や、わかめ、ヤンニョンにつけて食べる。その内、サンチュなどと一緒にメインのフェが出てきた!今が旬だという刺身3種。わさび醤油もあったけど、韓国のわさびってすごい色をしててすっごくまずそうなのだ。最初は緑色のスポンジかと思ったくらい。だから、今回もチョジャンというコチュジャンをベースにした甘辛酸っぱいものと、サンジャンにわさびとにんにくを混ぜたもので食べた。サンチュで巻いたり、しそで巻いたりする。山盛りのその刺身、ほとんど私とハルモニで食べつくした。 その後に駄目押しのメウンタン。フェを食べると必ずその魚を使った辛いスープが出てくるらしい。もうお腹いっぱいでご飯は食べず、スープだけちょっと食べた。すんごくおいしい。お腹がいっぱいで食べれない事がとても残念だった。しかもすっかり食べる事に集中して、このメウンタンの写真を撮るのを忘れてしまい、アッと思ったときにはもう見るも無残な姿に。とにかく肉より魚の私には、と~っても至福の時間だった。食べ終わった直後はもうしばらくフェは見たくないと思ったけど、また食べたくなってしまった。でも、フェを食べながらいつも思うこと。やっぱり日本の刺身が一番! あ~お寿司が食べたい・・・。帰りにシジャンに寄った。ミョルチ(煮干)を買うという事で。残念ながら、遅かったので、ほとんど終わってしまっていたシジャン。もっと早く行って私も中を見物したかったなぁ。 次はプサンに行ったときの話を書きます。
Nov 16, 2004
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チャンウォンは韓国の南部にある地方都市だ。ここに何があるかというと、ハラボジの会社がある。1年前に本社に単身赴任して以来、一度は行って見なきゃとずっと言ってきた。そう言いつつもなかなか実現しなかったのは、病気のゴモ(義姉)や犬のタムシリまで連れて行かないといけないからだ。ところが先週突然ハルモニが行こうと言い出した。あまりにも突然、しかもハルモニの車Mussoで。この車はいわゆるジープ車なので、後の座席をたたんでそこにゴモを寝かせる事ができるものの、全員そこに座り、荷物まで持っていけるか、それはかなり無理っぽい計画だった。しかも大雨が降るという今週。雨が降ったら何もできないのだから、来週に行こうとパパが提案したら、来週は寒くなるからダメだと聞かない。車もMussoは無理だと思う、と言ったら行きたくないからブツブツ言うんだと取られ、ほとんど喧嘩模様だった。正直、パパはあまり行きたくなかったのだ。と言うのは泊まる場所も今回はモーテルだ。ハラボジが一人暮らししている場所は14階の雑居ビル(オフィステルと言うのだが)で、地下にはナイトクラブ、6階のモーテルのすぐ下にはカラオケやルームサロンがある。このモーテルが家族向けでないことは一目瞭然。でも、ハラボジの所にハルモニ、ゴモ、タムシリが泊まり、すぐ下の階に私たちが泊まるのが便利なので、そのモーテルに泊まる事になっていた。怒ったりもめたりしながら、結局出発の日を一日延ばし、前回ソラク山に行った時のように、ミニバンを借りる事にした。行く直前もパリパリ(早く)しないんだとか、ハルモニはプリプリ怒っていて、パパはそんなハルモニを見るのにうんざりしている。これから6時間のドライブが待っているのに、きついなぁと心の中で思っていたが、子供たちはそんな雰囲気も知らず、大きな車に乗ってウッキウキ。でも、まぁ走り出してしまえば、ハルモニの気分もちょっと良くなり、そうなるとパパの表情も和らいできた。ソウル市内は渋滞で、なかなか進まなかったが、それを抜けてしまうとスムーズに流れ始めた。天気予報どおり、雨がポツポツ降ってきた。これから大雨になる予定だ。こんな日を選んだのは、どうしても今週行かなければいけないというハルモニと大雨が2日間続くと言う天気予報を考慮して、移動する日に雨の日を一日使えば、向こうで雨の中することなく缶詰状態にならなくていいだろう、と言うパパの選択だった。こんな日に移動するなんて、とこれにも文句を言っていたハルモニだけど、出発してしまえば、「雨の日にドライブもいいわねぇ」なんて言い出している。なんにしても雰囲気がよくなってきて良かった。途中作ってきたキンパップ(海苔巻き)を食べたり、トイレ休憩を入れながら、のんびり移動する。若い人だったら4時間少しあったらチャンウォンまで行ってしまうらしいが、家は小さい子が二人、犬もいるし、病人もいる。6時間を目安にドライブしていた。雨の中視界は悪いけど、どんどん田舎風景に変わっていく。山が増えていくと、最後の紅葉風景と思われる色とりどりの木々が見えてきた。去年韓国に来るまでは、紅葉ってほとんど見るチャンスがなかったので、去年はうちのすぐ下のイチョウの木が黄金色になっただけでも感動だった。紅葉は美しかった。これで温泉もあれば文句ないんだけど・・・って思うのは日本人の私だけだろうか。日本の紅葉はどうなんだろう。もう8年みていない日本の紅葉も、今見ればまた違った感動があるだろう。途中からは本当に大雨になった。雨が激しくほとんど前が見えない。なぐりつけるような雨の中、「これで本当に紅葉は終わりだなぁ」とパパがつぶやいた。 (途中の休憩エリアで)日が暮れてきた頃、チャンウォン市内に入った。ここからハラボジの会社まではすぐらしい。途中から携帯でずっとナビゲーターしてきてくれたパパのいとこと合流した。彼はプサンに住むが、歩く地図と言っても過言ではない。とにかく道を良く知っている。道が分からなくなって電話すると「その辺に何がある?」と聞いて、説明するとすぐそこがどこか分かり、その後の道案内をしてくれるが、それがまたすごいのだ。どこどこでこんな看板が見えてくる、とか説明が細かい。それが地元のプサンだけでなく、しばらく住んでいたソウルでも、このチャンウォンでも同じだった。こんな彼、この才能を生かして何かできればいいんだけど、今の所代理運転をしながら生活している。チャンウォンでのことはまた次の日記で。
Nov 15, 2004
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何の話かというと、子供のこと。私が子供の頃、3月31日生まれの子とは出生日を4月1日とかにして、翌年度に子供の学年を遅らせると言うケースを何回か見た。理由は、子供がかわいそうだから。私も3月生まれだ。幼稚園が始まるまでは知らなかったが、4月生まれの子との1年の差、これってかなり大きいのだ。体のサイズは結構負けなかったけど、体の動き、考える能力、学習する能力・・・いろいろな面で遅れをとる。ある程度大きくなってしまえば、あまり差がなくなるのだけど、それまでは結構他の子より遅れてると自分でも感じたほどだ。だから3月31日生まれの子を翌年度に持ち越したい気持ち、分かる。ところがだ。韓国では逆なのだ。韓国の学校は3月から始まり、2月に終わるんだけど、3月生まれの子をわざわざ2月生まれに変えて出生届けを出すケースが多かったようだ。今でこそ簡単に出生日を変える事なんて出来なくなったけど、その昔は女を男として、3月生まれを2月生まれとして届けることくらい、なんでもなかったらしい。実際に、出生日はともかく、子供を1学年早く学校に行かせようとする親は少なくない。何でも早い方がいいと考える、韓国人らしい考え方だ。パパの高校時代の友達がこの前遊びに来た時に教えてくれた。次男は3月生まれなのだが、2月生まれで届けを出した事。最近は厳しくて、病院の証明がないと届けられないのに、どうやったんだと聞くと、取り上げてくれた先生に1時間頼み込んで、出生日を変えてもらったというのだ。彼は「うちの家族はみんな陽暦を使わない。陰暦しか使わないんだから、出生日も陰暦で書いてくれ」と言ったそうだ。その息子、陰暦に直すと2月生まれになる。そんな非理論的な理由に、先生は最初「無理だ」と言ってたらしいが、彼があまりにもうるさくするので、最終的には「分かった、分かった」と彼の言うとおりにしてくれたらしい。何で2月生まれにこだわるのか聞いた。やっぱり1学年早く学校に送れることが大切だったらしい。韓国には徴兵制度があるので、男の子はどうしても普通2年は軍隊の為に遅れてしまう。学校を卒業するのも、就職をするのも。「1学年早く学校に送れたら、1年"稼ぐ"じゃないか」と彼は言っていた。パパと私は、その1年が長い人生でそんなに大事だろうか、と思ってしまう。その1年より、早く学校に行かされる事で、本人が感じるかも知れない劣等感、自分の体の発達よりより多くの事を要求されるストレスの方がもっと考えなければいけないことじゃないかと思うのだ。軍隊に入っている時間は無駄な時間ではない。それも彼の人生に大きな影響を及ぼす大切な2年だ。なのに、大学卒業が遅れる、就職が遅れる、と遅れることばかりを気にしている韓国人。結局本人が満足する学校生活をして、好きな仕事にめぐりあえれば、それでいいんじゃない?何でも早く早くして、自分の子供時代の思い出が全然楽しくなかったら、何のために生きてるんだろう。来年イパルは韓国で7歳になる(韓国は数え年なのだ)。本当は8歳になる年に小学校にあがるのだが、来年行っても良いそうだ。そんな話を両親がしてきた。でもパパはきっぱり言った。「早く学校に入れる必要なんかないよ。早く入れたって子供がかわいそうだ。勉強なんてできなくったって良いよ。自分がしたいことすれば良いんだ。」これはパパの本音。 いつも他人より早く、誰より良く出来ないといけないと、学生時代ずっと押し付けられた勉強。勉強が終わったら自分に残ったのはストレスばかりの記憶だけ。本当の友だちもなく、自分のやりたい事もわからないそんな20代が待っていた。イパルは韓国、日本、アメリカを行ったり来たりしたら、1,2年の遅れを取る事になるだろう。でも私たちはそれでも良い。イパルがイパルらしく育ってくれれば。その1,2年の遅れは無駄な時間ではないのだから。他の子にはない時間、それがイパルをイパルらしく形作っているのだから。遅らせるわけでも、早めるわけでもなく、本人のペースにあわせてあげる、そういう育て方をしたいなと思うのだ。
Nov 7, 2004
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家では夏から金魚を飼っている。無知と店員のいい加減な勧めのおかげで半分の金魚たちが去っていってしまったが、最近やっと落ち着いてきた。色々な金魚とともに「チョンソムルコギ(掃除魚?)」またの名を「掃除やさん」と呼んでいる金魚を2匹飼った。店員の話によると、水槽の中の掃除をしてくれる金魚で、一緒に飼っていると水槽があまり汚くならない、という事だった。この子達、他の金魚と違ってすごくユニークな姿をしてる。色もきれいじゃないし、ぶさいく?でもマイペースで、いつも下の方やすみの方にウロウロしてる彼らは、見てるとおもしろかった。行動が他の子たちと全然違うので、時々、死んでるのかしら?と思ったり、苦しいの?と思うようなそぶりを見せたかと思えば、えさに誰よりも早く喰いついたり、突然元気にぐるぐる回ったりする。時には隠れて見えないときもある。その掃除やさんが、1匹見当たらない。どこを探してもいないのだ。そんな大きな水槽ではないので、隠れる所も限られている。隠れて死んでしまったのか、と念入りに探したけど、いない。そういえば、不思議なことがある日あった。水槽に飾っているプラスティックの水草(と言うの?)の一つが、あるとき見たら1本抜き取られ、倒れていた。しかも後の方にあったのに、前の方に移動していた。この小さな金魚たちがどうやってこんな事したの?とびっくりしたけど、「変なことするんだよね~」で終わりだった。もしかしてその時に何かあったのか??そうじやさんはいつもあちこち隠れるのであまり入るかどうかチェックしてなかったのではっきり分からない。みんなで首をひねりながら、パパはとうとう変な事言い出した「誰か家に入ってきたんじゃない?」まさか。入ってきて金魚1匹取って出て行くの?そしてパパはインターネットで調べ始めた。「こういうことってよくあるんだって。」よくあるって、じゃああの子はどこ入ったのよ~。謎は深まるばかり。調べによれば、フィルターに入り込んだり、下の砂利の中に入ってしまって死んじゃう事もあるとか。でもこのそうじやさん、かなり大きいので、フィルターには入れないと思うし、砂利の中に入ったとしても完全に埋まる事はないと思う。どうやら1回水槽を全部出して見ないと真相はわからなそうだ。金魚って不思議。そうじやさんはどこに行ってしまったんだろう。
Nov 5, 2004
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これが私のPersonalityだそうで。皆さんも一度お試しあれ。Which File Extension Are You?Which File Extension are You?で言われたとおりにタグを貼ったのに、何できれいに出なくて途中からタグがはみ出てるんだろう??タグって全然わかんないから、このままにしておこう。誰か何か知ってたら教えてください^^
Nov 4, 2004
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私の韓国版ブログの方にまたOSTを載せました。冬のソナタフルハウスパリの恋人まだまだ追加したいんだけど、今日はここまで^^冬のソナタはドラマを見たことなくって、今回ミュージックビデオだけ初めて見ました。興味なく何となく見始めた人もはまるって言うけど、ほんと?
Nov 2, 2004
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私は一度だけ家出をした事がある。それは私が小学校6年生の時。両親が離婚し、父親に引き取られ、母親が恋しくて恋しくて仕方ない時に、父親の再婚話が持ち上がった。父親の再婚相手が嫌いだったわけじゃない。ただ父親の再婚は受け入れられなかった。父親が私に再婚する事をどう思うか聞いた時、私は「してほしくない」とははっきり言えなかった。父親に悪いと思ったのだ。だから「わかんない」と答えた。父親は再婚する事を話しに私の母親に会いに言った時「子供たちは賛成してくれてる」と伝えた。その時に私の心は決まった。母の元に行こうと。私は思ったのだ。父親はもう私たちを必要ではない。新しい人と結婚して新しい家庭を作るつもりなのだから。でも母は一人ぼっちだ。私たちが傍にいてあげなければ、そう思った。当時小学校3年生の弟に話を持ちかけた。毎晩のように母が恋しくて父に隠れてメソメソ泣いていた弟だ。「ウン行く行く!」と何も考えずに即答してた。計画は慎重でなければならない。父に分からずに準備し、こっそり出て行かないといけないのだから。私は帰ってくるつもりはなかった。だから、向こうの小学校に通うときに必要だと思った学校の道具を全部持っていくつもりだった。弟の準備もしてやらないといけない。あれも持って、これも持って・・・毎晩寝る前にはそのことばかり考えて、一人でドキドキしていた。決行は日曜日、早朝。父に残す手紙も書いた。言葉で言えなかったこと、手紙に全部書いた気がする。その頃、私は自分の思っていることを言えず、全部自分の中に溜め込んでいた。二人分の荷物は重かった。朝5時に起きて準備をし、家を出る。朝の空気は冷たかった。音を立てずに家を出れた事に、二人ともちょっと興奮気味。バスに乗って駅に出た。朝早いせいか、各駅しかない。終点まで行ってそこから又乗換えだ。暖房がきいて暖かい車内。人の少ない車内で弟と二人座る。最初ははしゃいで窓の外を見ていた弟も、私に寄りかかって寝てしまった。私もだんだん眠くなる。でも寝ちゃいけない。終点に気づかず、又戻ってきたら大変だし、二人とも寝てしまったら荷物を見る人がいなくなる、と本気で心配してた。その代わり色々思い浮かべる事にした。これから始まるお母さんとの生活。お母さんは働いてるから、家の事は私がやらなきゃ・・・大変な事なんてない、お母さんと暮らせるんだったら。今までみたいに、お母さんに会いに行く事に罪悪感を感じなくて言い。帰ってきてお父さんの不機嫌な顔を見なくてもいい。お母さんと別れたあとに、弟は声を殺しながら泣かなくたっていいのだ。ガクンと揺れてハッとした。終点だ、慌てて弟を起こし、荷物を持って電車の外に出る。そこから又電車で同じくらい行かないといけない。またまた急行に乗れず、各駅だった。今度は人の乗り降りも多いため、知らないうちに駅の到着した。それでも優に2時間はかかったはずだ。私にはその2倍も長かった気がした。ここから又バス。でも本当にもうすぐだ。バスに乗ること20分。そこから歩いて5分。母の住む団地が見えてきた。はやる心を落ち着かせる。どんな顔をするだろう。今まで何度も想像してきた事だ。ドアベルを押してみたが返事がない。せまい室内。聞こえないわけがないから、母はいないんだろう。仕方ないので、そこから5分ほどのおばあちゃんの家に行ってみた。ドアを開けて、私たちの姿を見て、おばあちゃんは「あらあら」と驚いた。ただ遊びに来たわけじゃない様子が見えたようだ。私たちは暗く悲しい家出少女少年ではなかった。嬉しくて嬉しくて仕方ない、母とのこれからを本当に楽しみにしてるただの子供たち。祖母はそんな私たちを見て、涙をこぼしながら「よく来たねぇ」と頭をなでた。日曜日だと言うのに、仕事に行っていた母。夕方には帰ってきた。母は嬉しさと困惑の気持ちでいっぱいだったようだ。その間、父と母がどのような話し合いをしたかは分からない。私たちは1週間母の所にいた。ただただ母と、祖母と楽しい毎日を過ごした。でも母は言った。「こんな風に家を出てきちゃダメなのよ。一旦お父さんの所に戻りなさい。そしてちゃんと手続きをして、お母さんと一緒に住もう。お母さんが約束するから。絶対一緒に住めるようにするから。」あとから母に聞いた。このときは身を切られる思いだったらしい。こんな大変な思いをして二人が来てくれたのに、又送り返さないといけない事。「あの時絶対返しちゃいけなかったのよ」と時々思い出しては言っていた。母に送られて私たちは父の元に戻った。約束忘れなかった。それから先は、母とあとで一緒に暮らせるんだと思いながら毎日過ごしていた。何でこんな日記を書こうと思ったのか・・・。私が見てるドラマ「二番目のプロポーズ」での母親と子供たちを見てたら、いつもその時の私たちとダブルのだ。状況は全然違うんだけど、その会いたい気持ち、会えない悲しさを思い出す。そのドラマは楽しく見てるんだけど、そんな場面では、切ない気持ちや、会わせてあげない姑と父親に対して怒りを感じる。母を思う気持ちは、子供誰でも同じ。それを奪う権利は誰にもない。ちなみに私は中学2年の時、弟は小学校卒業とともに、母の元に移って来た。祖母は「よかったねぇ、宝物が二つも戻ってきたよ。」と言いながら喜んでくれた。
Nov 1, 2004
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新潟中越地震については、毎日韓国でもニュースが流れているとはいえ、今ひとつ現実味がないのが正直な所だ。神戸の地震の時も、被災地に救援物質はたくさん届くが、配給が行き届かなかったり、色々問題があったと記憶している。他の人の日記を拝見したら、同じような問題が今回も起こっているらしい。海外にいる自分に何が出来るだろう。そこで、さっき日記のリンクをたどって、「クリック募金」なるものを知った。1回クリックすると1円。本当だったら、ど~んと現金を寄付したい所だけど、親からも助けてもらってる今の生活ではとても出来ないのが現状だ。この1円も自分が払うのではない。こんなんで自己満足してはいけないなぁ~と思いつつ、でもこれでも役に立つなら、やらないよりはいいんじゃない?と思うのだ。救援物資ももちろん必要だけど、これから先、再建をするためにも現金は何より利用価値があるはずだ。この日記を読んだ方、リンク先に行って1回だけでもクリックしていかれませんか?義援金のサイト
Oct 29, 2004
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やっと楽天を通して再会したハワイ市場さん。私のお気に入りで見た彼女の日記のタイトル「楽天を辞めます」・・・。ずっとネット、特に楽天の方を覗けなかったので、一体何があったのか全然分からなかった。彼女のサイトに行き、事情を察した。人気のあるサイトなだけに、いろんな意見、見解がさまよってるけど、彼女の名誉の為に言いたい事がある。彼女は嘘を平気でつくような人ではない。いつも正々堂々としてて、自分に非があるときは潔く謝れるそんな人だ。困っている人、助けが必要な人がいたら、放っておけない人だ。それは、メールを通して、実際に会って、私が知っている事だ。この前、彼女との再会を書いた日、彼女の日記に私のサイトの住所を書いてくれたので、訪れた人は過去最高を記録した。私とこんな形で再会できて「本当に嬉しい」とメッセージをくれた。私も今まで楽天で書いてきて、ネットをやっててこんな嬉しい事はなかった。それから1週間しかたってないのに・・・こんな事になってしまうなんて。彼女の決心は仕方のないことだ。残念だけど、彼女が楽しく日記をかけなかったら、充実した毎日を送れなかったら意味のないことだから。今彼女はどうしてるんだろうか。メッセージを送ってもコメントを残しても心が晴れない。私に力をくれた彼女。今度は私が力をあげたいけど、どうしたらいいんだろう。どうか又いつもの生活に戻ってほしい。学校に通い、生き生きとしながら子育てしている彼女に戻ってほしい。そしていつか又彼女のエネルギーあふれる日記にめぐり合う事が出来るように心から祈ってます。****************************************************この日記を書いた日、アクセス数は550になりました。誰にもトラックバックしてないのに(ハワイ市場さんにしようと思ったらなぜかできない??)この数。もちろん私の日記の最高アクセス数です。これが彼女の影響力だと思います。
Oct 26, 2004
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私たちがアメリカにいる時、一番の食事の問題は「キムチ」だった。私はともかく、パパはやっぱりキムチがおいしくないとご飯がおいしくない。最初のうちは、どこどこのスーパーのキムチは結構おいしい、と言う感じで大きなビンに入っているキムチを買ってきていた。大体9ドルから12ドル。韓国のレストランの中でも、結構おいしい所はキムチもおいしく、外食をすればおいしいキムチにありつける、そういうこともあった。ところが、韓国人の特長にはこんなところがある。「売れ始めると味がおちる、またはサービスが悪くなる」まあまあおいしかったスーパーのキムチはだんだん「シンゴウォ(味がない)」になってきた。どうみても、材料をケチっているとしか思えなかった。おいしいと人気が出てきたレストランも少しするとサービスが悪くなったり、味がおちたり、キムチももちろんおいしくなくなったりした。おいしくないキムチを食べるくらいなら、いっそのこと食べない方がマシだ。なければないで、何とかなる。しばらくキムチなしのご飯生活が続いた。私はそれでも大丈夫だ。やっぱりそこは韓国人じゃないんだな。韓国人のキムチは日本人の漬物だ、なんていう人がいたけど、韓国人にとってのキムチってそんな生易しいものじゃない。韓国人じゃキムチなしでは生きられない。(たま~にキムチが嫌いと言う韓国人に遭遇するけど)そんなわけで、どうしてもキムチが食べたい時には、そのまずいキムチを買ってきて我慢して食べる、そんな生活が続いた。そして結婚して、やっとそんな問題を解決することが出来た。自分で作ればいいのだ!本当のキムチは、いろんなものが入る。だけど、それが不可能な時、本当に簡単な材料で簡単にキムチを作る事が出来るのだ。これから紹介するのはその簡単キムチを作り方。材料は全てアメリカにある韓国系スーパーで手に入るものだ。そしてレシピはウリ英子ハルモニによるもの(!?)材料白菜6~8個(スーパーの中で一番大きくて重いもの)、あら塩、にんにく5~6個(みじん切りにしてお玉に1杯くらいになる程度)、しょうが少々、グリーンオニオン5束くらい、コチュカル適量、ジョックック適量、白ゴマ(好みで)作り方白菜を適当な大きさに切っていく(レストランとかで出されるキムチの大きさくらいに)良く洗い水を切る。その後、あら塩を満遍なく振り掛ける。そのまま4~5時間くらいつけておく(2~3時間経ったら、ひっくり返す)。時間がたったら、白菜の状態を見る。しんなりフニャフニャになっている事を確認。もう一度洗う。今度はしっかり水切りをしないといけないので、洗ったあとザルにそのまま置き、水が完全に切れるのを待つ。にんにくはつぶしてからみじん切りに(フードプロセッサーでやっても良い)、しょうがも同じように、グリーンオニオンは3センチ幅くらいで切っておく。白菜の水が切れたら、用意しておいたにんにく、しょうがを入れ、味の素は少々、コチュカル、ジョックックは味を見ながら入れる。フィッシュソースは大体コップ半分くらいを目安に入れる。コチュカルは手で混ぜ、白菜にしみこませながら、追加していく。最後にグリーンオニオンと白ゴマを入れて又混ぜる。*混ぜる時は必ず手袋をしましょう!手がすご~く痛くなります。出来たものをビンやタッパーに入れて、約一日くらいそのまま室温で置いておく(室内温による)。発酵させるためなので、キムチの味を時々見て、発酵してきてる(ちょっと酸っぱい感じ?)ようだったら冷蔵庫に移す。ちなみにジョックックにはいろんな味の種類があって、家はエビかミョルチ(煮干)だった。しかしおかしなもので、私たちが同じ要領で作るのだが、ハルモニが家に来て作ってくれた時は味が全然違った。同じ材料、同じ方法で作るのに、全然おいしいのだ。そうハルモニに言ったら「そりゃ、私は何十年もこうやって作ってるんだよ。あんたたちが何回か作ったって同じ味が出来たら困るよ。」と言ってた。キムチはやっぱり奥が深い。
Oct 25, 2004
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韓国ドラマに関してはフリーページで別に書いてるんだけど、今はまってるドラマに関して・・・。ずっと人気の外だったKBSだけど、最近はすごい。話題だったMBCの「英雄時代」も「アイルランド」も最近では視聴率が稼げないらしい。KBSで今人気なのは「오!필승 봉순영(オ!ピルスン ボンスンヨン)」と「두번째 프로포즈(二番目のプロポーズ)」私個人的にはオ!ピルスンにはまっている。オ!ピルスンと言えば、サッカーの時の「オ~ピルスン(必勝)コリア」と言う歌を思い出すんだけど、ここで出てくるのはオピルスンと言う人の名前なのだ。そこからしてコメディーなんだけど、コメディーの中に感動もあって、シリアスな部分もあって、なかなか見逃せないドラマなのだ。もちろん、韓国ドラマお決まりの、金持ち対庶民と言う設定、出生の秘密はあるんだけど、これはこれを抜きに韓国ドラマはありえないと思うので、仕方ないだろう。ピルスン役のアンジェウックがはまり役だと思う。私が遊びで持っている韓国のブログにミュージックビデオをアップしたので、良かったら見に行ってみてくださいね~。本当はメインテーマ曲のがほしかったんだけど、ないんですって。残念。
Oct 19, 2004
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ってよくあることだけど、まさかネットでそんなことがあるとは思わなかった。つい先日、この楽天でもう4年位会わなかった人と再会した。私がここで日記を始めて1年半ほど。彼女もきっと長くやっていると思う。私が彼女の日記にお邪魔するようになってしばらく経つ。その内彼女も私の日記に遊びに来るようになった。でも先日までは全く知らないネット上の"知り合い"だったわけだ。お互いの日記を行ったり来たりするだけの。彼女の日記はトップを争う人気のサイトだ。私が行くようになったのも、ランキングで上位の方にあったので、何となく覗いてみたのがきっかけだ。誰の日記もそうだけど、大体の場合、フロントページを見て、もしくは日記を一日分だけ読んでみたら、その人の日記が私に合うかどうか分かる。彼女の日記は、私に何度も行きたくなる様なそんな雰囲気があった。私はとっても無精者なので、数多くある日記を探して歩くと言う事をしない。ランキングにある中で自分が読みたいサイトを見つけると、そこだけ行ってコメントをしてくる。と言う事は、相手は誰にも人気のあるサイトの持ち主なので、わざわざ知られてない私の日記にまで来る事はまずないだろうと思ったら、来てくれるのだ、これが。(やっぱり私は見る目があるのかなぁ*^0^*)彼女はその中でも本当に人気のある人なので、まさか私の所に来てくれるとすら思ってなかった。ところが、来てくれるどころかリンクもしてくれ、そしてあるときはメッセージまでくれた。彼女は私があの私だとは思ってなかった。私は彼女はあの彼女かもと思ったことはあったけど、まさか~という気持ちの方が大きくて、彼女にはとても聞けなかった。彼女は私がSDにいた時に知り合った日本人ママだった。あるサイトでは近所に住む日本人を検索する事が出来、そこで知り合った一人だった。私の周りには、日本人で私と同じような人ってあまりいなかった。私と同じ学生なら、結婚してないか、してても子供はまだいない人たち。結婚して子供もいるような人は学生ではなかった。多分SDで会った最初で最後の学生兼ママの日本人女性だった。彼女は大学まで卒業しようとしてた。ところが突然の引越で彼女は他州に行ってしまい、学校もきちんと終わる事が出来ないまま慌しく行ってしまった。しばらくメールをしていたが、時々忙しさにかまけてメールしない事が増えてきた。あまりにもご無沙汰になったら、今度は今更メールして迷惑かしら?と心配し、もっとあとでは、突然メールして私のことまだ覚えてるかしら?と不安になった。そうこうしてるうちに、PCがウイルスでやられ、全滅。そこにセーブしてたメールアドレスは全部なくなってしまった。それでも、多くの人は自分のメールサーバーの所に残していたけど、なぜか彼女のはしていなかった。4年ぶり(もっとになるのかな)の彼女は、私が知っている彼女のまま、いやそれよりももっともっと前進した彼女だった。彼女だって思って日記を読み返したら、白色だった日記たちに色がつき音が入ってくるようだった。私はあの時の自分で止まってしまっている。毎日のあわただしさを理由に、1年前の自分となんら変わりない生活をしている。やらなきゃいけないこと、やりたいことはある。動かなきゃいけないのも承知だ。そんなぐうたらになってしまった私に、冷たい水をかけられた気がする。彼女は4年前の自分に約束した事を忘れず、4年経った今、その目的に向かって前進をしている。今になって彼女に会わせてくれた事。神様は、きっと私にしっかりしろ、昔の自分を忘れるな、と言ってくれてるのだ。(私は無宗教です、念のため)彼女がメッセージを送ってくれなかったら、この偶然はありえなかった。そうしてくれた彼女の勇気(私には出来なかった事だから勇気と呼ばせてもらうが)に本当に感謝!
Oct 17, 2004
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イパルの幼稚園で運動会があった。それでふと思い出したのが、私の姪っ子(日本在住)の幼稚園の事だ。そのこの幼稚園は運動会の準備に約1ヶ月かける。その間に行進の練習をし、リレー選手を選び、旗持ちをする子を何人かテストをして決める。まるで小学校のようだ。姪っ子は運動会の練習となるとうんざりした顔をして幼稚園に行っていた。イパルの幼稚園は先週突然今週のスケジュールに「運動会」と載せて、多分特に何も練習もせずに運動会開催となった。今週は、どんどん冷え込んでいき、運動会をやったおおといは一番冷え込む日だった。しかも場所は漢江公園。川の目の前だ。朝、やっぱりハルモニから電話が来た。「や~。今日はイパル行けないわ」と突然言う。「寒いの、外! こんなんで運動会なんて行けないよ」「今日は行かせるのやめなさい」と言われて、「アルゲッスムニダ(分かりました)」というしかなかった。え~でも寒いからって、運動会行かせないの~!!??と心の中は納得言っていない。イパルもすっかりむくれてしまった。結局はパパがハルモニに電話してくれて、とりあえず行ってみて、寒かったらすぐ帰ってくればいいんじゃないかと話してくれた。キンパップを準備して、慌しく出発。やっぱり同じような考えの親たちもたくさんいるんだろう。多分半分くらいの生徒しか集まってなかった。それでも結構お母さんたちも集まってて、楽しそうに運動会は進んでいる。練習なんてしてないから当たり前のように、みんなバラバラ、何を次するかも分からずに進行してたけど、でもまあ、アットホームな雰囲気の中、子供たちは大暴れして楽しんでるからいいやって感じだった。でもやっぱり寒いは寒い。川の傍だから余計に寒く、冷たい風が吹きまくってる。先生たちもあまりの寒さで、お弁当は各自宅で食べるように、と言いだした。ハルモニはもうすでに心配しまくり。特にホパルの事。「じゃ、もう帰ろう。」としきりに言っている。まだ競技が終わってないのに~。競技が終わり、全体で集まって、それからごみ拾い。その間も「早く帰ろう」としきりに言っている。先生にろくすっぽ挨拶もせずに車に戻ってきてしまった。帰りの車でホパリが咳をする。「やっぱり心配したとおりだ。」と心配が始まった。これで風邪を引いたら、ホパル! お前は本当に鍛えないといけないぞ!!と心の中ではつぶやいてた私。きっとハラボジもそろそろ電話してくるだろう。と思ったらやっぱり電話が来た。そして昨日ホパルの様子を聞きにパパに電話が来る。多分この冬、1回や2回くらいは子供たちも風邪を引くだろう。その時の事をかんがえると大変怖い。怖すぎる。何がって、子供が風邪でかわいそうなのよりも、その両親の反応が心配ってことが怖いのだ。昨日はおとといと打って変わっていいお天気。昨日やれば良かったのになぁ。漢江公園は人もいなくて、子供たちがもっと走り回れたら最高の一日だったのに、残念。そうそう、私もリレー競技に突然誘われて、イパルのオンマの意地をかけて走ってきた。それも一番最後(アンカーって言うんだっけ?)!!もちろん勝利! 子供たちから羨望のまなざしで見られて、ちょっと得意になったイパルオンマでした。
Oct 15, 2004
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行ってきた、ソウル大公園。平日だったので、人は本当に少なく、来ているのは団体様、幼稚園や小学校の遠足の子供たちがほとんどだった。2年前に来た時は、週末だったので、混んでいたという記憶しかない。象の電車に乗るのも、チケットを買うのも、動物を見るのも、人ごみとの戦いだった。すっかり秋が深まった動物園。並木が全部秋の色に変わって、お散歩するだけでも気分がいい、そんな日だった。入口からてっぺんのリフトのり口まで一通り見て回ったが、今日の動物大賞は以下の3者に贈りたいと思う。まずはカバの親子。ちょうど食事時間だったので、飼育のおじさんがバケツいっぱいのにんじんを持ってきていた。それぞれの名前を呼びながら、おじさんの前に並び大きな口をあけるのを待つ。アッパとオンマはすぐ来たけど、子供がなかなか来ない。来ても「こっちにおいで」と言う言葉を無視して、アッパとオンマの間に割り込んできた。えさをやりながら、おじさんは見ている人たちと話してる。実際に飼育してる人の、生の声はみんな興味深く聞いていた。 そして、2番目は象。この子は一人だけ大きな池の中にいて、その中に浮かんでいる大木を突然外に出そうと動き始めた。その長い鼻で何とか大木をコントロールしようとするが、なかなかうまく行かない。でもやっぱりぞうって頭いいのだ。一回うまくいかなかった方法ではもうやらない。あの手この手を考えて頑張っている。その内それを見に来た幼稚園の団体が「ヒム ネーラ(がんば~れ)」と声をかけ始めた。その声に応えてもうひと踏ん張り。 やっと外に出たと思ったら、又自分で中に入れて同じ事を繰り返していた。どうやら遊びだったらしい。最後の登場はクマ。何をしていたわけじゃないけど、この子のポーズに賞を贈りたい。まるで見に来る観客を迎えるように、デーンとすわりお腹をボリボリかいていた。 イパルは久しぶりに動物園、ホパルは初めての動物園に大興奮。やっぱりエバーランドじゃなくて動物園にして良かった。 そうそう、心配性のハラボジはやっぱり家を出てすぐに電話をしてきた。午後は暖かくなってきたので行って来てみますよとパパが言うと、「ちょっとみて、すぐ帰って来い。あったかいうちに帰ってこないとダメだぞ。」と念をおしてたそう。ゴメンなさい、ハラボジ。帰りはちょっと寒くなってきてしまいました。でも子供たちは元気です。
Oct 14, 2004
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チュウォとは「寒い」の意味である。暖かくなったり、冷え込んだりしながら確実に冬を迎える準備をしているソウル。昨日から又5度くらいガクンと下がり、空気はやっと透き通ってきたようだ。この季節から春まで、頭が痛い言葉が「チュウォ」だ。大韓民国ハルモニ、アジュンマのお得意の言葉。風が吹いたら「チュウォ」、子供の足が見えたら「チュッケッタ」、どこかに連れて行こうとすると「チュウォ、カジマ(行くな)」・・・・確かにソウルの冬は寒い。東京や、南カリフォルニアに比べたら、絶対寒いと思う。でもそれは真冬のこと。12月になるくらいまでは、日本の冬とそうは変わらない。でもハラボジ、ハルモニはうるさく「チュッタ」という。子供たちを外に出すな、ハラボジ宅に来る時は(徒歩でも7分くらい)車で来い、外に出る時はズボン下をはかせろ(たとえハラボジ宅まででも)などなど、アドバイスは尽きない。私は日本式に「子供は風の子元気な子」で育ったものだから、全然分からないのだ。子供はちょっと寒いくらいでいいと思っているが、その考えはハラボジ、ハルモニには虐待に当たる。寒かったら風邪を引くなんて思っているので、薄着をさせていると、外で遊ばせていると、風邪を引かせたいのかといわんばかりである。子供たちが風邪を引こうものなら、「ほら、言う事聞かずに薄着なんてさせるからだ」と言われてしまう。去年はソウルでの初めての冬だったので、とりあえず言う事を聞いた。それこそ冬眠中のクマのように家でおとなしくしていた。おかげでストレス溜まり放題だったけど。でも今年はちょっと違うぞ。ハラボジ、ハルモニが何と言おうと子供を「風の子」に育てるつもりだ。で、まず最初の関門だ。今日、実は前から子供たちをどこかに連れて行こうとかんがえていた。本格的に寒くなる前に。韓国に来てから、韓国のアミューズメントパークというものに行った事がなかったので、「エバーランド」を考えていた。しかし、このエバーランド、腹が立つほどに高い!朝買ったチケットで、終日いる事が出来ず、夜までいたかったら、又チケットを買わないといけない。イパリは動物を見たいので、ためしにソウル大公園を検索してみた。一度行った事があるが、ここはさすがに市の施設。料金はとぉっても良心的。私たちが安心していける^-^;;そこでソウル大公園に決定!と思ったら、ハルモニから電話が来た。「ヤー(韓国語ではまず最初に出てくる)、明日すっごく寒いんだって。動物園行くのやめなさい」さっきまでハルモニ宅にいた時に、その話にならないのが不思議だったんだよね。よく言わないなぁと思ってたら、思いつかなかっただけなのね・・・。そしてその10分後、今度はハラボジから電話(ハラボジは今南部の方に単身赴任している)。全く同じ事を言って、パパがただ「分かりました、行きませんよ」と反抗せずに答えたので、「じゃあそれだけだ」と言って切った。でも行っちゃうよ。寒かったら、寒くないように上着とか準備していけば良い。暖かい午後を狙って行き、寒くなるまでに帰って来れば良い。それだし、今はまだ10月! 今からこもってしまったら、私たちソウルの冬越せませ~ん。今日の最高温度17度、最低8度。まだまだ大丈夫でしょ~。
Oct 13, 2004
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これはパパの怒りの叫び。この前の日曜日、うちのご用達のホテル、Pホテルのビュッフェに行ってきた。このPホテル、何でご用達かというと、私がかれこれ9年前にはじめてパパを訪れて韓国に行った時に泊まってから私たちの結婚式、ホパリのドルチャンチ(1歳の誕生日)までそこでやったし、ハルモニは何かしらアパートの関係で会議に使ったり色々とお世話になっている。もともとはチョンダン洞でこじんまりとやっていた小さなホテルだったけど、最近景気が良いらしく、隣に結婚式場を別に作ったり、近所のホテルを買い取ったり、どんどん大きくなっている。毎回お世話になっておきながら何だけど、このPホテルの食事というのはあまり満足したことがない。よかったといわれたのは唯一披露宴の時の食事か・・・。それは結婚する当人たちは食べられなかったので、私は味見もしてない・・・T-Tそこで今回のビュッフェ、招待券をもらったので家族全員で行く事にした。ハルモニは以前に一度行った事があって、このビュッフェは結構大丈夫だったという話だった。そこで少々期待しながら向かった。到着したのは6時。多分ビュッフェが始まってすぐだったと思う。日曜日のせいか、すでに何組か来ていた。私とパパの中ではビュッフェに来た時の鉄則がある。一番おいしいものをひたすら食べる事。色々メニューがあるビュッフェ。見た目はおいしそうに見えたり、あれもこれも試したくなるけど、取ってみると意外においしくなかったり、妙にお腹だけ膨らむ事になる。だから一番好きなものをそれだけ食べるのだ。私たちの好きなもの。それはお寿司^-^Y 韓国のホテルだからあまり期待してなかったけど、見た目以上においしかった!!種類は少なく、白身の寿司が3種類、青物が1種類、マグロ、という具合だ。マグロが一番おいしかったので、私たちはこぞってそれを食べた。まず1回目。マグロとそれ以外の寿司を満遍なく持ってくる。マグロがおいしかったので、2回目はパパがマグロのみ持ってきた。う~ん、やっぱりおいしい。という事で、3回目行った所、シェフに「マグロが相当お好きなようですね」と言われた。パパが言うには、「お前、まだ食う気か」という視線だったそうだ。やっぱり他の人にもマグロが一番おいしかったのだろう。マグロは登場するたびになくなっていく。白身の寿司たちは、寂しそうに取り残されていた。3回目のそのあとからはマグロが姿を見せなくなった。取り残された寿司たちを何とか売ろうという感じだった。まだビュッフェが始まって1時間も経ってない。そんな馬鹿な、と今度は私が登場。「マグロないんですか?」と聞いたら、布に大事そうに隠れている次の軍団の寿司の中から、分けてくれた。それ以来、マグロの姿を見ることはなかった。多分7時以降に来た客たちは、マグロの存在すら知らなかっただろう。そうやって、刺身の中ではサーモンが、ご飯類の中では一つ一つ細長い容器に入っている蒸ご飯のようなものが、人気のものはある程度出るとストップしてしまった。これがビュッフェかぁ!!というのがパパの怒りである。私たちはチケットできたとはいえ、もともと40000ウォンもするビュッフェだ。え?安いじゃん! という意見もあるかも。もともとビュッフェの相場なんて知らない。だけど、近所の燕京という中華レストランに行けば、そこも結構高いんだけど、一人40000ウォンも払ったら、おいしいものがお腹一杯以上に食べられる。それにビュッフェってもともと食べたいものを食べたいだけってものじゃないの!?これは田舎的発想なのかしら。しかもしかも・・・私たちが食べたかったのは、トロでもなくウニでもなく、ただのマグロ~!!本当にね、日本でどこだったっけ、寿司食べ放題の(まだあるのかな)・・・そこで5000円だか払って好きなだけ食べた方がよっぽどいいわ~。お寿司はおいしかったし、他の料理もまあまあPホテルにしてはよかったんだけど、やっぱり不満の残るお食事だった。パパはその夜も不満は消えない。その翌日もまだ文句言っていた。食べ物の恨みは怖いって知らないの~、Pホテルさん。明日の朝にはハルモニが支配人に文句言いに行くって言ってるよぉ~。(支配人とは長年来の知り合いなので、ケンカにはならないと思うけど・・・)今日はパパの怒りを綴ってみました。
Oct 12, 2004
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H1-bがCapにとうとう達してしまった。10月1日の事だった。去年H1-b(労働ビザ)の定員が半数に減って、しかもビザ費用が1000ドルも減額されてから、競争率が途端に激しくなったのだが、今年は本当にあっという間だった。これで来年のビザはおさらばだ。来年4月まで待ち、再来年のビザに向けて準備しないといけない。それというのも、アメリカの会社がギリギリまで動いてくれなかったのも原因の一つだが、一番痛かったのは、パパのパスポートが切れていたこと。何でギリギリまで気づかなかったのか。今でも不思議である。慌てて更新しに行ったけど、秋夕のためいつもより時間がかかり、ほんの数日違いでビザのCapが勝ってしまった。何だかこういうときに運命みたいなものを感じる。というのは、パパがなにか大きな動きをするとき、必ずこんなような事が起こるからだ。大学に編入する時は、普通絶対Dead Lineを過ぎたら受け付けないマンモス大学が、パパのケースに限り待っていてくれたこともある。今回、あと数日で間に合わなかったのも、来年アメリカに行く運命ではなかったのかと思わざるを得ないのだ。パパの今までの傾向からすると、来年行くはずならパスポートも間に合っていただろうと思うのだ。、な~んて心のどこかに、だからもっと前もって準備した方が良いよって言ったじゃん、というのもあるんだけど・・・-_-;;日本行きは、本当は私にはいいことなのだ。その間、母に会える。誰にも気を遣わず。しかし、その一方で、パパは本当に日本社会でやっていけるか、イパルは又新しい環境に入らないといけなくてかわいそうじゃないか、など不安の材料は山ほどある。一番の不安は、私たち夫婦がうまくやっていけるかということ。アメリカで私が働いていた期間に、夫婦最大の危機を迎えたことがある。私は本当に離婚しようかと思った。もうこのひととはやっていけないと思った。そしてそんな私にパパは怒り傷ついていた。私にしてみたら、その働いていた期間、本当に精神的に疲れたのだ。パパのその間に受けるだろう精神的なストレス、苛立ちを出来るだけ理解して、家では仕事の疲れなんか見せないよう、家の事は出来るだけ私がするように努めたつもりだった。でも帰ってくると見るのは、パパの怒ったあるいは無表情な顔。何を言ってもろくすっぽ返事をしてくれない。何がどうしたのか、何か気に入らない事があるのか、何もいってくれず、ただ無視されていた。だから、パパと一緒の空間が辛く、仕事疲れもあって、娘を寝かせる時につい一緒に寝てしまう事が多かった。正直言ってパパといる時間が負担だった。そんな私をパパは怒っていた。自分との時間を持とうとしない私を責めていた。これはお互いの気持ちのすれ違いだった。どっちかがもうちょっとエネルギーをつかって向き合う努力をすれば、あそこまで夫婦の関係が悪化する事はなかったと思う。問題は、パパは今でもあれは私だけの責任だと思っていることだ。私があまりにもひどかった、という。私がその間どんなに心を痛めていたかは、あまり分かってくれない。今度日本にもし行くことになったら、同じ事が起こらないか。パパがそのような事を口にしだした。「又アナタがあんな風になったら、今度は無理だと思うよ」と。私はあの時でも、自分なりに精一杯だったのだ。でもそれをパパは分かってない。パパも少し私を理解する努力をしてくれないと、絶対無理だと思うのだ。私たちの仲は、私がパパに「ああしてよ」「こうしてよ」という様な事を言ってしまったら、大変なことになる。パパにそうしてほしかったら、パパがそうしないといけないと思わせるようにしないといけない。私から言ってしまって良い事は今まで一度もなかった。今回もパパが「俺が理解しないと」と思ってくれないと難しいのだ。でも今のところ、出る言葉といえば、「アナタがずっと働いて(自分が)大丈夫かな」とか「又大変な事になるんじゃないの」などしか出てこない。私は「夫婦の仲が悪くなるくらいだったら、日本に行かないほうがマシ」と言っている。日本に行ったら、一番大変なのはパパだ。私は大変かも知れないけど、自分の国、何とでもなる。だけど、パパにとっては初めて住む国。そこでいきなり仕事もしないといけないし、何と言っても韓国でも電車バスなどを一切使ってなかったパパ、日本のラッシュの中通勤できるのかと言う不安まである。パパが強くなってもらうしかない。それだけの覚悟をして日本行きを決めてもらうしかない。韓国での嫌な事一つ一つを考えたら、日本での苦労は絶対我慢できるというけど、本当かなぁ。「辛抱する」というのは、結構韓国人には苦手な事なのだ。ああ・・・ふあん。
Oct 9, 2004
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San Diegoの時からの友だちがメールで送ってくれたのだが、とにかくおかしいので、日記に載せる事にした。家も男の子がいるけど、出来れば知りたくない事実ばかり・・・!?アメリカの元気な男の子たち(時には女の子も)の様子が伺えるようだ。 アメリカで子育てしてるお母さんたちはもうどこからか聞いた事ある話かも?25 Facts about raising boys but it probably also applies to girls. For those with no children - this is totally hysterical! For those who already have children past this age, this is hilarious. For those who have children this age, this is not funny. For those who have children nearing this age, this is a warning. For those who have not yet had children, this is birth control. The following came from an anonymous Mother in Austin, Texas. Things I've learned from my Boys (honest): 1.) A king size waterbed holds enough water to fill a 2000 sq.ft. house 4 inches deep. 2.) If you spray hair spray on dust bunnies and run over them with roller blades, they can ignite. 3.) A 3-year old Boy's voice is louder than 200 adults in a crowded restaurant. 4.) If you hook a dog leash over a ceiling fan, the motor is not strong enough to rotate a 42 pound boy wearing Batman underwear and a Superman cape. It is strong enough, however, if tied to a paint can, to spread paint on all Four walls of a 20x20 ft. room. 5.) You should not throw baseballs up when the ceiling fan is on. When using a ceiling fan as a bat, you have to throw the ball up a few times before you get a hit. A ceiling fan can hit a baseball a long way. 6.) The glass in windows (even double-pane) doesn't stop a baseball hit by a ceiling fan. 7.) When you hear the toilet flush and the words "uh oh", it's already too late. 8.) Brake fluid mixed with Clorox makes smoke, and lots of it. 9.) A six-year old Boy can start a fire with a flint rock even though a 36-year old Man says they can only do it in the movies. 10.) Certain Lego's will pass through the digestive tract of a 4-year old Boy. 11.) Play dough and microwave should not be used in the same sentence. 12.) Super glue is forever. 13.) No matter how much Jell-O you put in a swimming pool you still can't walk on water. 14.) Pool filters do not like Jell-O. 15.) VCRs do not eject "PB & J" sandwiches even though TV commercials show they do. 16.) Garbage bags do not make good parachutes. 17.) Marbles in gas tanks make lots of noise when driving. 18.) You probably DO NOT want to know what that odor is. 19.) Always look in the oven before you turn it on; plastic toys do not like ovens. 20.) The fire department in Austin, TX has a 5-minute response time. 21.) The spin cycle on the washing machine does not make earthworms dizzy. 22.) It will, however, make cats dizzy. 23.) Cats throw up twice their body weight when dizzy. 24.) 80% of Men who read this will try mixing the Clorox and brake fluid. 25.) Women will pass this on to almost all of their friends, with or without kids**********************************昨日からかなり空気の悪いソウル。今日に至ってはモヤモヤで遠くが何も見えない。汝矣島の人でも、ここに来ると空気が悪くて喉が痛くなるという。私がここに引っ越してきて、仲良くなった韓国人のママ友だちがいる。彼女もご主人、娘さんと一緒にアメリカから戻ってきた帰国組だ。子供はイパルより1才下、知り合いになったきっかけは、家も彼女のところも車を持って帰ってきたのだが、同じメーカーの同じ車種だったことだ。その頃、まだ韓国にそのメーカーの車が販売されてなかったので、何か問題があったら、どこにもって行けば直せるか分からなかった。それを聞きに行った所で仲良くなったというわけだ。言葉があまりスムーズに出ないのは相変わらずなので、忘れてきてしまったとはいえ、英語で話せるのは気持ち的に楽なものだ。彼女は結構きれいな英語を話す人で、話しやすい相手である。時々子供たちを連れて、又はイパルが幼稚園に行っている間にホパルだけを連れて遊びに行くが、一番話題になるのは幼稚園のこと。家は、私が話せないために、あまり親が関わらなくていい幼稚園に行かせている。そこはこの辺には珍しく、あまり勉強型の幼稚園ではない。結構庶民的で私は結構気に入っている。一つだけ問題は、韓国にありがちな一軒家を改造したものなので、全体的にどこもせまいし、外は本当にお庭程度だ。でもこればっかりはこの辺のどこの幼稚園に行っても大して変わらないので、あきらめるしかないだろう。彼女の子供が行っている所は、英語教育もやっている結構高めの幼稚園。最近出来た小奇麗なビルに入っており、写真を見せもらったが、すごくきれいな施設だ。彼女がそこに入れた理由は、英語をやらせたいからだ。彼女のご主人の仕事でアメリカに3年間住んでいたのだが、又3年後くらいにアメリカに行くらしい。もちろん永住するわけではないが、その時に娘が英語が問題なく話せるようにしておきたいというのだ。せっかくアメリカにいる間に得た英語、忘れてほしくないというわけだ。そのために幼稚園で英語を重点的に勉強できる所に入れたいらしく、今も転園することに頭を悩ませている。私や多くの日本人ママは、子供がバイリンガルな場合、どっちかというと母国語を忘れないようにどうしたらいいか、頭を悩ませることの方が多い。実際、イパルもアメリカにいた時はある時期ほとんど英語を使っていたが、今では90%韓国語だ。でも私が心配なのは、今度アメリカに行った時に、遅れている英語よりも、忘れてしまうだろう韓国語の方が心配だ。でも韓国人ママは、結構彼女のように英語を心配するママが多い。この辺のママの自慢と言ったら、自分の子供が英語ばかり話し、韓国語は片言しか話せないということだ。そういえば、家のハルモニですら、どうせあとで忘れてしまうんだから、ハングルを勉強させなくても良い、なんて言っている。韓国にいる20代30台の家族の何十パーセントだったか、かなりの割合で、海外移住を希望しているという事だ。以前COEXで移住フェアみたいな催しがあったとき、ものすごい数の家族、特に若い家族が押しかけてきた。もっと以前には現代デパートのホームショッピングにカナダ移住パックなるものを販売したらものの数十分で完売したという事だ。韓国語離れの韓国人たち。こんな所にも理由があるのだろうか。私は韓国語だけでなく、日本語も忘れてほしくないので、今でも時々ひらがなとか教えてるけど、果たしてこれもうまくいくんだろうか。バイリンガルの子供たちを持つお母さん方、何か秘訣を教えてください。
Oct 8, 2004
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金曜日、イパルの幼稚園は「ミンゾクノリ(民族遊び)」があった。園児たちは韓服を着て行き、幼稚園でおもちを作ったり、昔の遊びをしたりしたようだ。韓服を「シンデレラ」と呼び、着せると大喜びのイパル。着物と違って、簡単に着せられるのが好い。前の結び方がいつも分からず、同じ幼稚園に行かせるハルモニにやってもらった。 これから来週の水曜日までお休みだ。企業などは来週一杯休みというところもあるらしい。男の人と子供には楽しい秋夕。久しぶりに家族が集まり、大きい家は、本家に親戚一同が集まったりするらしい。おいしいご馳走を食べ遊べるので、パパも大好きな休暇だとよく言っていた。ところが嫁たちはそうはいかない。秋夕は嫁にとっては頭の痛い休暇。休む間もなく食事の準備をして、男や子供の世話をして、姑・義姉たちとの付き合いをしないといけない。家は親戚付き合いをしてないので、お正月も秋夕もうちの家族だけでやる。だからそういう嫁の苦労がない。準備なども全部ハルモニがしてくれちゃう。子供たちまでいると進まないから来るな、とまで言われてしまうのだ。「どうせあんたたちはアメリカに行っちゃうんだから、こんな事あまり習わなくていいわよ」と言う。どこに行ってもちゃんとやらないといけないんだ、なんて言うシオモニに比べたら、なんて天使のようなハルモニなんだろう。逆に私は少し習っておきたいんだけど、なかなかその機会がいただけないと言う、逆の副作用があるけど。秋夕には決まった料理があって、その料理がまたおいしいのだ。家はチェサ(法事)もハラボジのお母さんのしかしないので、この決まった料理って年に数回しか登場しない。中には毎月のようにチェサがあり、そのたびにこの決まった料理を準備しないといけないお家もあるので、この決まった料理をちょっとアレンジしたり苦労してる日本人ミョヌリもいるんだけど、家はその決まった料理がとっても楽しみだ。(しかも私はほとんどやらなくていい!!)でもやっぱり習いたいなぁ。そしてここにレシピを紹介したいものだ。
Sep 26, 2004
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今日はパパとイパルの誕生日。本当はパパは9月25日だけどイパルは24日生まれ。なぜ25日なのかというと、時差のせいだ。イパルはカリフォルニアで生まれた。生まれたのは24日の午後7時ちょっと前。当然Birth Certificateには24日と書いてある。日本に出生届を出した時は、そのまま24日で戸籍に載った。ところが、韓国では韓国の時間に直すのだ。24日の午後というのは韓国では25日にあたる。さすが韓国、出生日も韓国時間に直してしまうなんて!!予定日が23日だったイパルの生まれてくる日が自分と同じ誕生日だったらいいとずっと言っていたパパなので、この意外な対処に大喜びだった。「25日に生まれてたら逆にダメだったなぁ!」なんて言いながら。私は臨月に入ってだんだん「もうこのまま出てこないんじゃないか」なんて妙な心配をしてたので、一日でも早く生まれてほしかったけど・・・。5年前の今日。36時間の陣痛に私も大変だったけど、イパルも苦しかったに違いない。なかなか子宮口が開かないので、陣痛はどんどん痛くなるのに、いきめず全身で力を入れないようにこらえないといけなかった。長かったせいか、心音が下がり、まだ出てきてないイパルの頭に計測器が付き、出てきた時はもうウンチをしていた。最初の部屋もちの看護婦さんはしきりに無痛を勧めるだけで、何もしてくれなかったけど、途中から代わった看護婦さんは、無痛をしたくないという私に協力してくれ、呼吸を一緒にしてくれ、励ましてくれ、手を握ってくれた。やっと生まれたときは、自分の事のように喜んでくれてHugをしてくれた。そのまま産んじゃった私にえらく感心してくれて、勤務が終わったというのに、その後病室に移った私の所まで来てくれて声をかけてくれた。******************************今日はハルモニの計らいでイパルの幼稚園の友だちを呼び、Pizza Hutでお昼を食べ、そのあと家に子供たちが遊びに来てしばらく遊び、そのあと送りに行ったら今度はそこでイパルが又1時間くらい遊んできた。こんなによく遊んだのは本当に久しぶりだろう。あまりにも疲れたみたいで、最後はグズグズ大変だったけど、寝る時は今日もらったお人形二人を抱っこしながら寝た。お誕生日おめでとう、イパル!そして忘れられがちだけど、パパもおめでとう!今日から私と同じとしだよ、アジョシ!(パパは半年年下なのだ)
Sep 25, 2004
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韓国料理としてお馴染みの「チジミ」。パパに聞いたら、韓国ではチジミって呼ばないんだとか。なんて呼ぶのかは、忘れてしまった。だけど、このパンチャン、本当に簡単で結構お腹いっぱいの1品だ。材料はお好み次第。小麦粉に水を入れ、かき混ぜる。(かなりドロドロの程度)その中にお好みで具を入れる。家でよくやるのは、にら。ハルモニはにらだけで作るが、子供たちにあまり人気がなかった。そこで、豚肉を入れてみた。たったそれだけで、このパンチャン私に一切れも回ってこないくらい良く食べてた。肉の力って偉大なのねぇ、と思ってしまうほど。(ベジタリアンには効果ないだろうけど・・・)にらの代わりに、キムチを入れたっていいし、本当に自分の好きなものを入れて、いわゆるお好み焼きって思ったらいいと思う。家はこのパンチャン、日本のお醤油にコチュカルを少し、それから酢を少し入れたヤンニョン(たれ)を付けて食べる。 今日の昼はパパと一緒にラッポッキを作った。これはトッポッキというものにラーメンをアレンジしたものなんだけど、これが今日は大成功だった。トッポッキというのはトック(韓国のもち)をコチュジャンで甘辛くしたもので、高校生なんかにとっても人気のあるおやつメニューだ。ラッポッキも味は同じような感じ。作り方も簡単。まず、ラーメン(辛ラーメンとか安城湯麺)、ソーセージ、おでん(韓国のおでんで充分)、トック(なくてもOK))、ネギ、にんにく、コチュジャン、砂糖(出来れば黒砂糖)、水を用意する。これはお鍋のように卓上で鍋から取りながら食べるのがおいしいので、食卓でやりましょう。まずコチュジャンと砂糖とラーメンの粉スープ、水を入れる。(ラーメン二個に対して、コチュジャン大さじ2~3、砂糖大さじ1~2くらい、水はあまり多めに入れず、麺が何とか浸るかなぁというくらい、粉スープは1袋では多いかも、あまりしょっぱくならない程度に)この加減が結構難しくて、味もこれで決まる。味の雰囲気としては、甘辛。ちょ~っと気持ち甘いかなぁ位がおいしく出来ると思う。そこに麺を入れてほぐしていく。ソーセージやそのほかの材料も麺がほぐれたら全部入れてしまう。いつものラーメンよりちょっと硬めで食べ始めましょう。しょっぱかったり、水気が全然なくなってしまったら少し水を足すのもアリ。いやぁ今日のラッポッキはおいしかった^^
Sep 24, 2004
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日本行きの決心を固めたその夜、あるエージェンシーから電話が来た。韓国に来てからずっとパパは韓国のあるサイトにスカウト登録をしていた。人材を探している企業が見てスカウトできるシステムだ。登録はしていたものの、非公開にしておりそのサイトの会員になっている企業しか見れないようにしていた。そうして1年半。何も連絡もないまま過ぎていたのに、先日非公開から公開に変えたその日にエージェンシーから電話が来たのだ。そこはある紹介所で、自分たちのリストにある企業の中で、あなたにいい会社があるので、紹介したいと思うのだが・・・という話だった。話は簡単に進み、面接まで行って来た。会社は同じアックジョンにあるし、その会社はパパが興味のある貿易業の会社。面接に行ったら、そんなに悪くない雰囲気だった、という事だ。そして昨日、停滞してたビザの方が突然進みだした。アメリカの会社がのんびりだったので、今年はもう無理だろうと思っていたら、必要な書類を昨日全部弁護士に送ったというのだ。あとはこっちの書類を送るだけ。もしかしたら来年用のビザに間に合うかもしれないのだ。突然韓国での就職が可能になり、アメリカ行きも下手すれば来年に可能になり、だけど日本行きを考えてた私たち。私の心配は、やっぱり母の事。アメリカには戻りたいが、今戻ってしまったら、今度は距離的な問題で会いに行くのが難しくなる。この心配事パパにはあえて言わなかったが、パパの口から出てきた。アメリカに行ってしまったら私たちは戻ってくるつもりがない。ましてや、日本に住むチャンスはもうないと思うのだ。日本に住むなら今しかチャンスはない、とパパも思っている。パパの中ではやっぱり日本が良いんじゃないか、と思っているみたいで、心配は日本での就職だけ。でも就職できさえすれば、後々アメリカで就職を探す時にはプラスになるはずだ。両親とも韓国での就職が決まりそうになり、喜ぶかと思いきや、意外に日本行きを勧めているらしい。あとはアメリカのビザの事だけだ。初めての事だけに、ビザがいつ下りるのか、いつから渡航可能なのかなど全然見当がつかない。母の事やビザの事、仕事の事やイパルの学校の事など考えると、何をどうしたらいいのかわからなくなるけど、きっと私たちの進むべき道が自然とはっきりしてくるだろう。パパはいつも言うのだ。運命って絶対あるんだって。運命って信じますか?
Sep 23, 2004
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昨日の日記に引き続き・・・。そう、日本行きの話は以前から何度も持ち上がった。ハルモニから一度くらい日本で住んでみれば?という提案もあったし、ハラボジが聞いてきた事もあった。でも、パパがその話をするときは、両親と揉め事があった時。今回もそうだった。事の発端は、ハラボジが先週の金曜日にソウルに帰って来て、私の日本での滞在はどうだったかを聞いてきた事から始まった。その時にパパが説明の補足に、母と話せるのは多分2ヶ月くらいが限度じゃないかと思うから、家族を連れてきたかったら、遅くとも2ヶ月の間にしたほうが良いと担当医に言われたと話した事だった。今回日本に行く時に、ハルモニは家族全員で行って来いと言っていたが、母とゆっくり話すためには一人の方がいいなど数々の理由があって一人で行く事にしたのだ。それがハルモニにはもともと気に入らなかったのだろう。2ヶ月以内に又行かないといけない、という話に突然「ほら、だから言ったじゃないか。全員連れて行っておけばよかったのに、一人で行って。2ヶ月後に又行くって言うの?」と文句を言い出した。そこでパパが「もう済んだことなんだから、何度も言わないでよ、全くハルモニは・・・」と言ったのがハルモニにスイッチをONしたらしい。突然ハルモニは口調がきつく、声も大きくなった。私はフォローのつもりで「でも今回は一人で行かせてもらって本当に良かったんですよ。子供たちがいたら、母と話なんてできなかったから・・・」と言ったのがさらに悪かったらしい。私はそのあとに「今回の事本当に感謝しています」と続けたかったが、ハルモニの声に遮られてしまった。この一件で今日まで引きずっていたハルモニ。ハルモニに言わせると、自分が話してるのを遮ってまでパパが声を上げて文句を言った、そして、私までハルモニに反抗するような事を「堂々と」言ってのけた、という事らしい。全然違うのに・・・。それを聞いた時は結構悲しかった。ハルモニの事、本当に好きなので、まさかそんな意味で言ったのではないと思ってくれるかと思っていた。でも、まぁ私は仕方ない。所詮は嫁で他人だから。だけど、パパはこれが毎回の事。パパがどれだけハルモニの事、ハラボジの気持ちを考え今まで自分の人生を好きなように行かず、常に両親の気持ちを聞きながら生きてきたのに、それは絶対分かってもらえないのだ。それどころか、「この息子のせいで私はいつも悲しいんだ。母親の事を全然考えないし、一度だって私のために何かしてくれた事あるのか」と毎回言われている。私が今回がっかりしたのは、私の母のために日本に行く事が、これほど大変で難しいという事だ。あと1年生きれるか分からない母に会いに1年に2回行かせてもらって感謝しないと行けない自分がちょっと悲しくなったりしたのだ。他の日韓のカップルといえば、2,3ヶ月に1回日本に帰っている人たちもたくさんいるから、余計そう思ったのかもしれない。私の場合、遊びに行くのではないのに、と。私は心の中でひそかに思った。いっそのこと日本に行ってしまい、母に好きなだけ会いに行き、韓国の両親に日本に遊びに来てもらうほうがお互い摩擦がなくいいんじゃないか、と。母の事はさておいて、パパも同じようなことを思っていたらしい。韓国で人の目を気にしながら、両親の気持ちを気にしながら、潔く何もできないくらいなら、誰もいない日本でなんでも試してみよう、とパパが思い始めた。今日ハルモニから又二人とも散々怒られたが、今日はパパも我慢。「そうじゃないですよ~」という話がたくさんあったけど、全てハイハイと聞き流し、パパは冗談でハルモニを笑わせるまでの余裕もあった。こういう時、パパを本気で尊敬する。私が自分の母親にそんな風に言われたら、ケンカが終わったあとでも又文句を言って怒るだろう。だけどパパは一回大きな怒りが去ったら、あとは全部ハルモニの言い分を聞いてあげる。笑って冗談を言いながらハルモニの気分をよくしてあげる。自分の息子が、どんなによく出来た息子か知らないんだ、ハルモニは。でも帰りの車でパパは言った。「でも日本に行くんだ」決心は固いのか・・・・な?
Sep 21, 2004
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以前の私には「日本」という選択はなかった。韓国人の夫と日本人の私、そしてアメリカで生まれた二人の子供たち(名前は韓国名のみ)のこの家族、日本でやっていくのはとても難しいんじゃないかと思っていたのだ。一番の理由は、やっぱり夫のこと。日本にはいろんな人がいる。日本とアジア、という風に分けて考え、「アジア人」を見下したり、日本人であることに優越感を持って「アジア人」と接する人たちも決して少なくない。日本もアジアなのに変な考え方だ。見た目はほとんど変わりない韓国人だけに、同じような姿形をした(見た目は日本人のほうが小さくて細くて劣っているように見えるかも)日本人に、そのような扱いを受けるとしたら、それはとても屈辱的じゃないかと思うのだ。あまりそのような経験をしてほしくない。もっと言ったら、そのような経験をして、今ある日本に対する(決して悪くない)感情を台無しにしたくない、というのが正直な気持ちだ。だけど、最近日本に行ってもいいかなぁなんて思い始めた。アメリカ行きは、来年のビザにはもう間に合わないだろうという事で再来年に延び、もうしばらくここにいる事になった私たち。だけど、ここで何をするんだろう。ビザ的には私も働ける。だけど韓国語をきちんとできない私、しかも看護婦しか能のない私が、この年で自信を持ってできることはない。パパも韓国の会社社会に入りたくないと学院を始めたが、おかげで社会生活がほとんどない。何よりも、私たち二人が「自分たちのの力」ですることができない今の状況がとても嫌なのだ。30台の大人として、二人の子供の親として、しなきゃいけないこと、したいことは、ほとんどハラボジ・ハルモニにされてしまっている。大変でも自分たちでやってみたい。失敗しても、貧しくても、自分たちの力で試し、責任を取りたい。その思いがとうとう頂点まで達してしまった。続く・・・
Sep 20, 2004
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すっごく昔の話になるけど、パパと私が結婚しようとした時の話。ある女の子の日記を読み、書こうと思った。突然その時のことを思い出したのだ。それは、まだ私たちがアメリカにいた時のこと。私たちは94年から付き合い始めた。私は韓国人と付き合うって言う事はとっても負担だった。だってとっても真剣に見えるから。すっかり日本人の若者だった私は、付き合ってみて縁があれば結婚っていう感じで考えてたけど、韓国人って最初から結婚を意識してるように見えた。それ位男女が付き合うことに関して真面目だったのだ。(今は違うらしいですが)だから私がパパと付き合おうと思ったときは結構覚悟して決めた。生半可な気持ちではいけないと思いながら付き合い始めたのだ。パパはとりあえず私の「脚」が気に入って、どうしても彼女にしようと思っただけで、先の事は何も考えてなかったというけど、付き合い始めてからずっと24時間ほとんど一緒にいた私たちは、当たり前のように将来もずっと一緒にいるものだと思っていた。だけど結婚となると少し話は違った(らしい)。私は何の疑いもなく私たちの先には結婚があると思っていたけど、パパはその辺シビアだった。日本人との結婚は難しい、というのが彼の言い分だった。まず親が承知しないだろうという事、たとえ結婚する事になっても日本人が韓国に住むのはまず不可能、住むなら国籍も名前も変えて韓国人にならないといけない、そんなことを言い出した。何も知らない私は、自分が日本人である事を全て消さないと無理なんて・・・!!とかなりショックを受けた。自分を全て否定された気がした。そんな彼を好きになってしまった事を後悔し、そういう事を分かっていながら、私に付き合おうと言ってきた彼の事を恨んだ。最初から付き合わなければ良かったのに。彼にそう文句言ったこともある。彼は言った。「だって仕方ないよ。そんな事考える前にもう好きだったんだから」彼は付き合い始めた頃から、私の母と話したがった。母は最初戸惑いながらも彼のことを認めていた。(留学に行く前には「ブラックと中国人と韓国人は連れてこないで」などと思いっきり人種差別なことを言っていたのだが)母は何となく娘が将来の相手を決めたんだと分かっていたようだったので、何も言わなかった。ところが、彼の両親は私が彼女だという事なんて全然知らなかった。私はあくまで語学学校で知り合った日本人の友達だった。少なからず不満があったけど、韓国の両親を心配かけたくないと言われれば、何もいえなかった。付き合いが長くなればなるほど、彼以外の人と付き合うことも考えられず、かといって私たちが結婚できるという事も自信がなくなってきた。母はだんだん結婚しないの?みたいな話をするようになる。私は「まだよくわかんないよ」と力なく答えた。彼は自分の学校が終わって、しばらく働いて35歳くらいになったら結婚できるかな、なんて言うけど正直言って期待してなかった。私の中では遅くとも30までには結婚して子供を産んで・・・なんて考えてたので、結婚どころか、子供も全部無理かも、なんてかなりブルーだった。でもある時、結婚とかどうでもよくなった。ふてくされてそう思ったんじゃなくて、本当にどうでもよくなったのだ。しなくてもいい、彼といれればなんて思ったのだ。だから彼に言った。「私別に結婚しなくて良いよ。その代わり一緒にずっといてよね」でもちょっと怖かったのは、彼の両親がそろそろ彼に相手を、なんて考え始めた事。何も知らない両親は、彼にお見合い相手を見つけ始めてた。「大丈夫だよ」というけど、韓国でなら本人の意思と関係なく、親の決めた人との結婚もありえる、とその時の私は分かっていた。だんだん両親の結婚に対するプレッシャーが強くなってきた。「誰か決めて結婚しなさい」って感じで、もう逃げようがなかった。ずっと避けてきた難関。彼の中では、私とずっと一緒にいたい、だけど両親を失望させたくないという両方の気持ちで引き裂かれそうだった。日本人との結婚、これは両親にとって人生の中で最大の失望だったかも知れない。両親とも、特にお母さんの方は、嫁に対する夢がたくさんあった。いい大学を出て、いい家庭のお嬢さん。嫁のお父さんが息子の将来の力になってくれる家庭。経済的に豊かである。娘のように一緒に買い物をしておしゃべりができるお嫁さん。私はどれも当てはまらなかった。だから私のことを話したら、どれだけ両親ががっかりするか目に見えてる。しかも賛成してくれるわけもなかった。だけど話さないと、多分他の誰かと結婚する事になる。パパの一大決心だった。まずは、お父さんへの電話。話をその方向に持っていき、「実は結婚を考えている人がいる」と話した。誰だ?という質問に、「日本人のこっちに勉強に来てる人」と答えると、お父さんは気が狂ったのかと言いたげ笑い、それでも「本当なんです」と続けると、黙って切ってしまった。それ以来、しばらくはその話になると切ってしまう、という状態だった。彼の話は一切聞かない、両親ともそうだった。何ヶ月その状態が続いただろうか・・・。ある時彼が私に言った。「アボジがあなたにメール送るって。聞きたい事があるって。」その日にお父さんからメールが来た。英語で書かれたそのメールは質問状のようだった。彼と結婚したいと思っているか。韓国で暮らせる自信はあるか。どのくらいの覚悟をしているか。などなど・・・。私は、できるだけ自分の気持ちに忠実に、誠実に書いた。私の気持ちがこれで充分伝わるとは思わなかったけど、これは自分に与えられた最初で最後のチャンスのような気がしたので、精一杯の気持ちで答えた。数日たって、お父さんから電話が来た。「お前が決めたんだから、そうしなさい。」お父さんはそれから今まで一度も私との結婚のことについて、本当に何も言わない。結婚式で色々意見が食い違ったりした時も、その他私が日本人のために不便なことが生じた時も、何も言わなかった。お母さんはそういうわけにはいかない。お母さんの頭の中では、「私の言う事聞かないで勝手に決めちゃって。」という不満があるし、私のことも「仕方ないから」嫁として認めてくれているのもある。だけど娘のようにかわいがってくれている。私の家族のために心を痛め、私に何か不便な事があったらいつでも一緒に立ち向かってくれる。だけど、いつも「本当は娘のように楽しくおしゃべりできる嫁がほしかったのに」と言う。でも結婚して、あまりにも簡単に家族と認めてもらえたので、結婚前の大反対はなんだったんだろうと思ってしまうこともある。日本人にはちょっと分かりにくい感情。家族という事が何よりも大切な国。一度家族になってしまうと、今まで他人だったのが不思議なくらい近くなる。それを情ととるか、干渉ととるかは本人次第。これから結婚を考えてる日韓カップルの人たちへ。日韓に関わらず、国際結婚って思っているより大変なものです。思っている以上の反対にあう事も、そのために二人の関係まで危うくなる事もあるでしょう。だけど、一つ忘れないでほしいのは、何が大切かという事です。あなたに一番大切なのは何でしょうか。もし、それがあなたの一番大好きな彼であるなら、家族の反対も、その間のお互いの意見の不一致も、実は小さな付属物でしかないんです。結婚をゴールにしないで、一緒にいる事をゴールにしてみてください。今すぐの結論を見ないで、ずっと先の二人を見つめてみてください。多分、あきらめないですむ事もあると思うんです。アジャアジャ ファイティング!!最後はえらそうな日記になってしまいました。気を悪くされたらごめんなさいね^^
Sep 13, 2004
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飛行機に一人で乗ったのは何年ぶりだろう。少なくとも子供ができてからは初めての事だ。子供が一緒だと目に入らないものが、一人でいると良く見える。何にもすることがない2時間ちょっと。仁川空港までは順調だったのに、チェックインでものすごく時間がかかった。大した客数でもないのに、ともかく一人一人に時間がかかる。一向に進まない列にちょっと飽き飽きしながら並んでいると私たちの目の前には女の人が二人、一人は小さな子供を連れいた。二人は韓国語で話してるが、ちょっと妙だった。一人はまぎれもない韓国人。でももう一人は、すごく上手なんだけど、すごく日本人っぽい発音。最初は韓国語の上手な日本人かと思った。でもパスポートは韓国のもの。きっと在日の人かなぁなんて勝手に思いながら眺めてた。その子供がすごい。多分ホパルより何ヶ月かお兄ちゃんかな、という感じ。この子がともかく落ち着かない。もちろん、この年の男の子なんてじっとしてるわけないんだけど、本当にどこでも行ってしまう。お母さんが捕まえると、おお泣きしながらすり抜け、又消えてしまう。かなりの激しさに、隣にいたパパに「この親子同じ飛行機じゃないと良いな」なんて冗談で言っていた。ところが機内に入って「あ~あ」。まさしく隣がその親子だった。その子は相変わらず動き回っている。離陸する時ですら、じっとしてなかった。母親が何とか膝に座らせようとほとんど力ずくで押さえつけるが、ますます逆上し大泣きするだけ。母親は周りをとても気にしてた。あまりうるさくしたら迷惑なんじゃないかと。子供は本当にうるさいんだけど、その母親の気持ちがとっても分かったので、私も隣からあやしてみたり、気をそらしてみたり、色々トライしてみたけど、一瞬しか効果ない。まさに離陸という時は、母親が結局膝に無理やり座らせた。子供は母親の腕をつねった。母親はその子供の腕をつねった。子供が痛くて放すまで。やっとシートベルトのサインが消えて、子供は本格的に動き始めた。おかげで、席にはほとんどいなかったが、食事の時間になって戻ってきた。母親の食べる余裕なんかない。子供は自分に来た離乳食(何で離乳食だったのか分からないけど)には興味なく、隣の私の食事に手を出そうとしてきた。そのたびに母親が恐縮する。そんな中、母親は自分のためにビールを頼んだ。それを後ろの方に隠しながら飲んでいる。そして飲み終わったコップについてる泡を子供が一生懸命吸っていた。あまりにもびっくりして、「おいしいの?」と聞いてしまった。すると母親が「好きなんですよ、ビール。1本くらい飲んじゃうんです。本当はいけないんだけど、飲ませるとおとなしくしてるから、ついあげちゃうんですよね。飲んでもちょっとテンションあがる位かな。」と言った。ビール1本。これには本当にびっくりした。それと同時に、この子の落ち着きのない事、すぐかんしゃくを起こす事が、ビールと少なからず影響してるんじゃないかと思ってしまった。所々びっくりさせられる親子だったけど、まぁ子供が迷惑かけるのはお互い様。ホパルも今度飛行機のる時はどんな迷惑をかけるか分からない。帰りの飛行機では、日本人のダンナさんと韓国人の奥さんカップルや、韓国に留学に行く日本人などを見かけた。韓国に入国する時の入国審査も又時間がかかった。もちろん、外国人用というのは時間がかかると思うんだけど、それにしても流れが悪い。日本の外国人用より窓口はたくさんあるのに、動かないのだ。やっと私の番になって窓口に進むと交代で来たおじさんに「あ~やってられない。全然やる気ないよ、こんなの」と言っていた。そういいながら、パスポートを眺め、コンピューターを眺め、外国人登録証を眺めている。多分全部やる気をもってみれば、2,3分もあれば終わりだろうが、優に5分はかかった。今回はお迎えなし。パパが教えないといけない授業があるので、私が一人で都心ターミナルまで行かないといけなかった。今まで何回も往復してるけど、一人でバスで行くのは初めて。どこでチケットを買うのか分からずウロウロ。外の乗り場横で売っているのをみるが、どこの売り場で買えば良いのか分からずウロウロ。ちょっとやさしそうな顔のおじさんの所に行く。乗り場を聞くと、すぐ横だった。チケットを買って荷物をバスの下に入れてもらおうと待つ。人が何人かいたので、きっと順番だろうと黙って待ってたら、誰も動かないので、恐る恐る前に出てみると「そんなとこでだまーって立ってるから、分からないじゃないか」とニコニコ笑いながらおじさんが私の荷物を持っていった。あ~、韓国に戻ってきたんだな、とその時実感した。都心ターミナルからはパパの車で。運転する事15分くらいなのだが、クラクション鳴らす事数回、文句言う事数え切れない位、そして極め付けにはタクシーの運転手と窓を開けての大喧嘩。ますます韓国に戻ってきた事を実感したのだった。
Sep 12, 2004
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昨日日本から帰ってきた。短いような長いような滞在だった。母と会い、主治医と話し、弟夫婦と話し合ってきた。おかげでものすごい寝不足。おまけに、帰ってくる便は朝一番だったので、もうフラフラだった。母は元気そうだった。前より太ったし、顔色も良かった。だけど、話がほんとうに分かりづらくなった。食べさせると、口の中に食べ物が残るようになった。あんなに嫌がっていたオムツをしないといけなくなってしまった。麻痺が進んでいる。それは本当にそうなんだ、といろんな場面から分かった。まず、口周りや舌の動きが悪くなったため、言葉がうまく話せない。食べても舌が回らないので、食べたものが口の中にくっついてしまう。トイレに行って、座っていられなくなったので、オムツになってしまったと聞いた。先生からの話を伺った。7,8月でむせる事が突然増えたという。むせる事で気管支に入ってしまい、肺炎を起こすと命取りになってしまう。人工呼吸器を使わないといっている母にとっては、一番避けたい事なのだ。だから、先生としては8月中に胃ロウを作りたかったらしい。とりあえず頑なに拒否してる母には、まだしなくていいよといったらしいが、本当だったら今にでもしたい事らしい。そして先生は、そろそろ一度母と「肺の筋力が低下した時。本当にどうするか」再確認をしておいた方がいいと言われた。どんな決断をしても家族はあとで「本当にこれでよかったのだろうか」と思うものだ、だけど本人の意思を確認しできるだけそれに沿った決断をしたときは少なくとも「本人の意思に添えた」と思う事ができる。後悔しないためにも、一度話し合う方がいいと言われた。先生と話したあと、母の所に戻ると「先生何だって?」とすかさず聞いてきた。「胃チューブの話だよ」と答え、これがいい機会かもと母と話す事にした。「多分OO(弟)とは話にならないだろうし、私はあさって帰っちゃうから、今話すんだけどさ」と切り出し、胃ロウのことをまず話してみた。母は茶化してしまい、「その時考えるわ」なんて言う。私は何で今そうしないといけないのか、そうしないとどうなるのか、等など事細かに説明した。母はそんな私を見て、まるで看護婦さんみたいとでも思ったみたいで、又笑ってる。「分かったわ。」と言い、「でも、やだ」とにやっとした。でも最後は真剣な顔で言った。「わたしね、死ぬの怖くないよ。覚悟してる。私の人生、悔いはないのよ。」「最後まで機械を使って生きたいくないの。」私は、思いつく限り母に言ってみたつもりだった。今拒否してもいずれ食べられなくなって結局チューブを入れないといけなくなるかもしれない。それまで待って、肺炎になるリスクを作るより、今してしまえば、未然に防げるんだよ、チューブ入れたからって食べられなくなるんじゃないんだよ・・・言う言葉、言う言葉何だか空回りしているようで、何を言っても「私はこれだけでも自分の力でやりたいの、それで死んじゃっても仕方ないのよ」という母の言葉の前では、何の力もないように見えた。帰ってから、弟夫婦と話した。弟は先生から「これさえ予防できれば、進行自体はとても遅いから、1年、2年長く生きられるかも知れない」と言われてるのに、こんな事で失いたくないという気持ちは変わらなかった。だから、弟にもう一度母を説得してみなさいと言った。もしそれでも母の気持ちが変わらなかったら、その時は「勝手にしろ」とか言わず「分かった」と受け入れてあげないといけないんだよ、と。弟はもう少しで泣きそうだったように見えた。この年で、誰も頼る人もいなくて、こんな事を考え決定しないといけないなんて・・・重過ぎる、そう思った。そのあと、パパとも電話で話した。パパは言った。「あのね、そんな風にお母さんの気持ちばかり気にして自分の気持ちを言わないでいたら、あとで後悔するよ。お母さんは病気でも貴方たちの親なんだよ。子供に責任があるの。それに、貴方たちは、お母さんに子供としての気持ちを伝えたって良いんだよ。言わなかったら絶対後悔するよ。それでもお母さんがいやだって言ったら、それは仕方ないでしょ。」あまりにも淡々と言うパパは、まるで他人事を言ってるようで、つい「パパには分からないよ」と言いそうになった。それっぽい事を言ってしまった。だけど、パパの言う事も分かった。私は母を失いたくない、そう伝える事は悪い事ではないんだと思うようになった。翌日、あまり時間がない中、母に言った。「私さ、これから行かないといけないところあるから、言うんだけどね。胃のチューブのこと、お母さんの気持ちは分かったけど、もう一度考え直してみてよ。お母さんはこんな風に生きてるのもう嫌だって思ってるかもしれないけど、私はお母さんにいつでも会いたいの。もっと長生きしてほしいの」母は声を殺して泣いた。泣かせたくないから言わないでいたけど、でも泣かせてしまった。弟が又あとから母と話すだろう。母がどう思って、どう判断するか、分からない。もう生きることにそれほど執着しなくなってしまった母は、私の理解を超える所に行ってしまった気さえするのだ。「生きていてほしい」これは完全な家族のエゴだ。だけど、やっぱり生きていてほしい。その先に明るいゴールがないのに、こんな事言って苦しめてはいけない、という思いと一緒に、一日でも多く母の顔を見ていたいし、子供たちの成長を見届けてほしいと思うのだ。
Sep 10, 2004
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最後に母に会ってから半年。私の母は今病院にいる。(もう一人のハルモニ)私の中で、母に会わずに頑張れるリミットが半年何だって事がここ1年ほどで分かってきた。といっても、病気がこれほど深刻化してからの話。以前は1年ぶりでも、会わずにいても、電話で話してれば大丈夫だった。でも今は電話で話せない。母は舌が思うように動かず、聞き取るのも大変になってきた。話せなくなってからというもの、母に会いたいという思いが病気のようになってしまった。元気だった頃は、日本に帰るたびに仕事帰りの母と待ち合わせたり、迎えに行って、一緒にご飯と食べたり、ショッピングをしたりしていた。最近この辺を歩いている母娘、まだ結婚してないか、子供がいないくらいの娘とその母親が仲良く歩いてるのを見ると、無性にその時が恋しくなる。もう二度とできない事。そう思うと、涙が出るくらいその時を取り戻したくなる。最後に母に会って半年。やっと日本に行かなくて良いの?という話が持ち上がるようになってきた。そう言われるまでは、なかなか行きたいと言えない。もちろん母に急変があれば別だけど、なるべく義両親から話が出るまで待つ。気持ちよく行かせてもらうために。最初は、子供二人を連れて行って来ようかと思った。パパは仕事で行けない。子供を連れて行けば、1週間くらい入れるかなという考えだった。でも私たちには帰る場所がない。子供二人を連れて行くなら、どこか泊まる場所を確保しないといけないくて、しかも誰も助けてくれる人がいないのに、病院と泊まる場所の往復、必要な買い物などなどやるには、私も大変だけど、子供たちにもかなりの負担になるんじゃないか、とパパが言った。確かにパパの言うとおりだ。今回は母と話す時間が必要だ。麻痺が進んでいる母は、とうとう食事の飲み込みが難しくなってきたそうだ。食べる時にむせる事が多く、これがひどくなると肺炎になってしまい、命取りになる事もある。先生からは胃にチューブを通す事を勧められたらしい。弟にその話が行き、先生と二人、母のところに行って説得した所、母は大泣きしながら、絶対に嫌だ、自分で食べられるとわめいたそうだ。先生はあきらめ顔、弟はそんな母に怒っていた。私は母の気持ちも弟の気持ちも分かる。母は怖いのだ。もうすでに手も足も動けず、首もあまり動かない。表情もこわばったままだ。食べ物を噛んで飲み込むという作業は、数少ない母の「自分でできる事」なのに、それまで諦めてしまうのは、とても怖いのだ。肺炎なんかで母を失いたくない、と弟は思う。それなのに、子供のように泣き喚いて冷静になれない母を見て、どうする事もできない弟は、腹が立って仕方ない。弟は悔しいのだ。今回子供を置いて一人で行く事にしたのは、そんな母と少しの時間でも向き合ってゆっくり話したいからだ。4日間しかないが、できるだけのことをしたい。母は私に心を開いて話してくれるだろうか。私は母の力になる事ができるだろうか。
Sep 4, 2004
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昨日とうとうドラマ「フルハウス」が終わってしまった。これは文句なしのハッピーエンド。このドラマの女の子、この子を見て「韓国の女の人」を連想したわけではないんだけど、でもある部分「これがハングックヨジャ(韓国の女の人)だよなぁ」なんて思ったところもある。韓国の女の人は、ともかく気が強い。そうじゃない人ももちろんいるだろうが、やっぱり気が強いイメージがある。たとえば、旦那さんに何か言われたら、とりあえず文句を言い返す。最初から素直にハイなんてのはない。彼氏や夫じゃなくても、男の人とご飯を食べるんだったら絶対おごり。重い荷物やドアの開け閉めは男の仕事。町を歩いてると、きれいに着飾った女の子の隣やちょっと後ろを、あまりさえない格好してる男の子が一生懸命大きな荷物を抱えて「ついていく」光景をよく見かける。なんだぁ、韓国って女の人の方が強いのね、とそんな様子を見ながら思ってしまいがちだが、でも実はそうでもないのだ。韓国の女の人は気が強い。だから普段は文句も機関銃のように出てくるし、男の人に反抗ばかりしてるように見える。ところが、自分がとんでもない失敗をしてしまったり、相手の男の人を本当に怒らせてしまった時、自分の手に負えないことがおきてしまった時、韓国の女の人は本当に弱い女になってしまう。とにかく泣いて泣いて、すっかり力を失くしてしまう。その人がいなかったら自分は何もできない、そんな女の人になってしまうのだ。日本の女の人は違う。あまり面と向かって男の人に機関銃のようにまくし立てないし、何か言われたらとりあえずはハイって言う人も多いと思う(心の中でどう思っていようと^^)。自分の彼氏とか夫でなかったら、ご飯をご馳走してもらおうなんてそこまで思わないし、重い荷物も自分のものだったら自分が持つのが当たり前なんて思う。そして、何かあった時、日本の女の人は我慢する。自分で解決しようとする。あまり相手に泣いて「何とかしてよぉ」なんて泣きついたりもしない。韓国の女の人が日本の女の人よりずっと強いと思っていたが、実はそうではなかった。日本の女の人の方が断然強い。そして、それは男の人に「怖い」とまで思わせるようだ。特に韓国の男の人には、女は多少わがままでも困った時や大変な時には自分を頼って「あなたしかいないのよ~」と言ってほしいところがある。でも、日本の女の人は、とりあえず我慢して一人で切り抜けようとする。辛いところを見せないようにする。そして、心のどこかでは、こんな風に文句を言わずに我慢してる自分のことを分かってほしいと思う気持ちがあったりもするのだ。韓国の男の人にとって、日本の女の人はどこか「ミステリアス」で「難しい」女の人らしい。韓国の女の人は、ある意味とっても分かりやすい。嬉しい時は大はしゃぎ、悲しい時は泣き喚き、怒るときはものすごい形相でもう二度と会いたくないんじゃないかってくらい怒りを表す。それは多分、相手に自分の気持ちをしっかり分かってほしいから。だから、すごい勢いで怒っていても、それがその関係の終わりってわけではないのだ。(本当に終わる時には意外に静かだったりする)日本人の私は、それができない。大声をもし上げても、相手にさらに大きな声で言い返されたら、もうひるんでしまう。我慢して自分の中で処理しようと思う。最初は、そんな自分を理解してほしいし、してくれるべきだと思ってた。でも最近はそう思わなくなった。そうなったら、なぜか周りが察してくれるようになってきた。私の周りが日本人化してるのかな。それにしても、私も一度は韓国の女の人みたいになってみたいものだ。***もちろん、そうじゃない韓国の女性も日本の女性もいることを前提での日記です。これがすべての韓国の女の人ではないのであしからず***
Sep 3, 2004
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韓国ではドラマとともに主題歌も大ヒットでした。下の住所に行けば、オリジナルサウンドトラックが聞けます。聞いてみてくださいね。http://cafe169.daum.net/_c21_/pds_down_hdn?grpid=oHmj&fldid=G7n&dataid=29&grpcode=lia0ju99&realfile=%C6%C4%B8%AE.asx
Aug 31, 2004
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この前ある掲示板で、マスコミの「銀に終わりました」という報道が気になる、と言っている人がいた。私は日本にいないから、これだけメダルラッシュの日本が今、どんな風に報道されているかとか全然知らないんだけど、その書き込みを読んでもっともだと思った。金で当たり前、銀は負けの意味。特に金を期待されている選手が銀メダルを取ったりしたら、そんな言葉になるんだろう。銀メダルは世界で2位の意味で、負けの意味ではないのに。本当にすごい事のはずなのに。先日韓国の女子ハンドボールの決勝戦をやっていた。延長戦を2回重ねた結果同点。結局最後はPK戦になってしまった。そんなに頑張っていたのに、最後のPKで2回ゴールをミスして結局負けてしまった。本当に残念な試合だった。本当に金が取れそうだったから、見ていた韓国民はもちろん、私も思わず頭を抱えてしまうほどだった。(アパートのあちこちから叫び声が聞こえてた)きっと怒っている韓国人もたくさんいただろう。負けた選手たちに。でも、その直後のアナウンサーはこう言った。「選手たちは、負けたんではありません。銀を勝ち取ったんです。選手たちは本当によくやりました。」と。もちろん日本のアナウンサーたちも「選手たちはよく頑張りました」と言うだろう。だけど「銀を勝ち取った」って言えるだろうか。このアナウンサーのコメントは素敵だなと思った。ちょっと頭に血が上っていた私を冷ましてくれ、反省させてくれた。オリンピックに出れる事自体がすごい事。メダルが取れたらそれが何色でも本当にすごい事。私は韓国戦しか見れなかったけど、素敵なドラマを見せてもらった。韓国が金を取って、愛国歌が流れたら、私までジーンと来た。日本の選手も韓国の選手も本当にお疲れ様。そして素敵なものをたくさん見せてくれてありがとう。
Aug 29, 2004
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私が韓国のラーメンデビューをしたのは、アメリカに留学した時。留学してすぐ仲良くなったパパとパパが仲良くしてた韓国人グループが食べさせてくれた。デビューラーメンは日本でもお馴染みの辛ラーメン(シンラーミョン)だ。「辛」とあるだけあって、本当に辛かった。そんなに辛いのにさらにキムチと一緒に食べるなんて、口の中が火を噴きそうだった。それからは韓国のラーメンに病み付きである。もう日本のラーメンは食べられない。時々「塩ラーメン」とかカップラーメンを食べたくなるけど、基本は韓国のラーメンだ。家がよく食べるのは安城湯麺(アンソンタンミョン) 辛ラーメン ノグリ(韓国式うどん) ジャパゲッティー(ジャジャンミョン) パルドのビビンミョン 特に夏にはまるのはビビンミョン。しかもパルドが一番おいしいらしい。ビビンミョンというのは冷麺(ネンミョン)の一つで、スープがなく、辛いヤンニョンで混ぜたものだ。冷麺のレストランでも冷麺ではなくビビンミョンを必ず食べるほど大好きなので、インスタントもやっぱりビビンミョンが一番。目玉焼きを焼いて、ビビンミョンの上に載せて食べます。最初の語学留学を終えて、1年お金稼ぎのために日本に帰ったときにはまったのは「ノグリ」。韓国のラーメンが恋しかったのもあるし、パパに会いたかったのもあるけど(その頃は若かったなぁ)、仕事を終えて帰ってきたら、日本で買ったまずいキムチと一緒にノグリを食べて、自分を慰めてた。韓国には日本のようにラーメン屋さんってない。ラーメンといえば、インスタントなのだ。もちろん中華レストランに行けば、坦々麺とかあるけど、日本のようなラーメンは食べられない。その代わり、インスタントラーメンはどこにも登場する。夜食、キャンプでのメニュー、軍隊・・・。驚いたのは、ラーメンがスナック代わりになる事だ。ラーメンをそのまま砕いて、粉スープをまぶしてスナックのように食べる。これ、ドラマでもよく見かける。一度やってみたけど、やっぱり私にはあまりおいしくなかったかなぁ。見てたらおいしそうだったんだけど。
Aug 25, 2004
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いつも来てくださるSAKUZOさんのリクエストでコンナムルのナムルの作り方を紹介しようと思いつつ今日になってしまった。それというのも、ナムルの作り方でちょっとハルモニに確認しようと思っていたのに,ちょっとした事でスネちゃったのだ。「コンナムルのことちょっと教えてください~」と言える雰囲気でなく、昨日やっとそんな空気になって、聞いてみた。もともとコンナムルって結構使える食材で、ナムル以外にもスープにも良く使う。辛いものも辛くないものもあるので順番に紹介。まずは辛いナムル1.コンナムルを良く洗って、簡単に茹でる。(蒸してもOK)2.茹で上がったら、砕いてみじん切りにしたにんにく、コチュカル(一味唐辛子)、ミウォン(味の素)、カンジャン、白ゴマを好みの量入れて和える。3.カンジャンがない場合、塩でもできる。塩の場合、茹でなくて、そのまま塩漬けにしてフニャフニャにして水分を出し、水を切って2番のようにする事も可能。 辛くないナムル1.コンナムルを洗って水を切り、鍋にごま油を引いてその中に洗ったコンナムルを入れる。中火でふたを閉めてしばし待つ。2.ふたから湯気が上がってきたら一回開けてかき混ぜる。そしてにんにく、ミウォン、カンジャンを入れてもう一度ふたを。(カンジャンは少し多めにしても大丈夫、火は少し弱めます)3.水を足す。(スープも飲めるのでコンナムルが浸るくらい入れてます)4.さらに湯気が上がるまでふたをする。5.味を見て(もう一回カンジャンを入れて味を付けないと味がないかも)、最後にごま油をもう少し入れる(ハルモニによるとこれがおいしさの秘訣とか)6.器に盛る時に最後に白ゴマを振って出来上がり。 酸っぱいナムルもあるんだけど、どうやらハルモニはそれを作らないみたいで、家の食卓には登場しない。でも今度レシピを聞いてみよう!コンナムルのスープユッケジャン1.ユッケジャン用の肉って言うものが韓国にはあるのだけど、韓国人スーパーに行ったらどこでも売ってるはずです。スープ用の牛肉のかたまりです2.鍋に水だけでまず沸かし、沸いたらそこに肉をそのまま入れます。3.あまり弱火にせず、適当に沸騰した状態で茹でます。4.肉に箸を通し、すっと通るようになったら火を止めて肉を出す。5.肉はやけどをしない程度に冷まして、手で裂くか、ナイフで細かく切ります。(肉の筋に合わせて一口大に)韓国料理で出てくる細長い肉、あの感じです。6.肉に、にんにく、白ゴマ、カンジャン、コチュカル、ミウォンを入れて混ぜる。(味はかなり濃い目にしても大丈夫)7.再び鍋に火をつけ、沸騰させ、その中にさっきの肉を入れる8.しばらく沸騰させ、味を見る。(味が弱い場合が多いのでこのときにもう少しカンジャンを足す)9.最後に洗ったコンナムルと長ネギ(ちょっと大きめにカットしたもの)を入れ、ひと煮立ちしたら、火を止める。10.家は子供用に肉を和えるときにコチュカル抜きのものを少し作り、別の鍋で辛くないスープを作ります。コンナムルグック(正式名かは不明)1.鍋に水を入れて、ミョルチ(煮干)でだしをとる。(日本でだしをとるときより、全然多めに入れる)2.だしを取れたら、ミョルチは取り出し、カンジャンとミウォンで味を付ける。3.洗ったコンナムルと大きめに切った長ネギ、スライスしたにんにく、コチュカルを入れてひと煮立ちさせる。4.辛くない用に家では、コチュカルを入れる前に子供たちのものを取り分けます。(ハルモニ曰く、コチュカルは入れるときに入れないとおいしくないそうだけど・・・)こんな感じ。後で写真も入れる予定です。(全部は無理だろうけど・・・)どうでしょうか~。SAKUZOさ~ん。お役に立ててたら幸いです。ところで、日記の方の名前のところにリンクを貼るのってどうやってやるんでしょうか。どなたか教えてください。
Aug 24, 2004
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娘っていうものは、パパを奪い合うライバルだって聞いたことあったけど、家のイパルはそんなことないだろうなんて根拠もなく思っていた。もともとイパルはすごいママっ子だったので、いつもママの味方…のはずだった。ところが、最近というかここ1年くらい、何かにつけてパパの味方をする。たとえば、パパと二人で何かを話してて、「これじゃないよ~」とか「それは違うよ~」という話になったとき、突然イパルが口を出してくる。「アッパガ マジョ~。クチ~、アッパ~(パパが合ってるよ、そうでしょ、パパ)」という感じで。最近はそれもエスカレートしてきて、言葉はさらに続く。「コバ~、オンマ。オンマヌン エックスヤ。アッパ ドングラミ(ほら、ママ。ママはペケ、パパはマルだよ)」それだけでもムカつくのに、最近のイパルは嫉妬もする。パパが寝転んでいる横や座っている近くに行って、私が一緒にいると、イパルが飛んでくる。「オンマ!そこに座っちゃダメ!パパはイパルッコ(イパルのもの)よ!」ナニ?パパはママのでしょ、とちょっとカチン。私がそこで言い返す。「いいでしょ~。パパと一緒にいたって。ママもパパが好きなんだから」というと、「ママが、パパはママのって言っちゃったら、イパル一人でどうするの~。怖いじゃん~。パパはイパルのなの!!」と、半分泣きながら、半分怒りながら言う。突然そんなモードだから、私もびっくりしつつなんだか頭にくる。「パパはママと結婚したのよ!ほら、写真見てよ(結婚式の写真)。イパルとパパのあんな写真ある?ないじゃん。だからパパはママのなの」なんて低レベルな事まで言ってしまうときもある。半分は泣きべそかきながらそんなことを言うイパルがおかしくて仕方ない。でも時々、ママは来ないでとかパパと一緒にいちゃダメなんていわれると、かなりムカつくのだ。何でムカつくのか。それはパパが取られるからじゃないんだと最近分かった。パパを取られる嫉妬じゃなくて…(そんなことで娘に本気で嫉妬したらまずいだろうけど)ずっとママっ子だったイパルが、最近ではママの味方になってくれないこと、ママよりパパがもっと好きなんだって気がすること、そこにムカついてるらしい。本当に小さいことでなんだけどね。それでもいつもは「ママ~」とベタベタしてきてうるさいくらいなんだけどね。私も自分勝手なものだな。で、そのバトルの中イパルは絶対ほかの部屋に走っていってサメザメと泣く。普段ではあまりみない泣き方。私もたまには「分かった、分かった。パパはイパルッコだよね」と言ってあげればいいんだけど。どうしても「仁義なき戦い」に突入してしまうのだ。これを書いてちょっと反省。
Aug 20, 2004
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今日はきゅうりとなすがある。これでおかず2品獲得!辛いので、子供たちには辛くない子供用を一緒に作るつもり。韓国料理には欠かせない調味料がある。家庭によっても違うんだろうが、英子ハルモニのレシピによると;カンジャン(韓国の醤油)、白ゴマ、ごま油、ミウォン(味の素)、コチュカル(一味唐辛子で代用できます)きゅうりはしょうゆ味と塩味とあるけど、個人的には醤油の方が好き。ただ水分が出てくると水っぽくなっておいしくないので、食べるとき食べる分だけ作るほうが良いかも。1.きゅうりは好きな大きさに切る(私は斜め輪切りにします)塩味がいいときは、角切りにして塩を振りかけてしばらくつけます。水が出てきたら水切りを十分する。2.にんにくをみじん切りにしたもの(きゅうり1本に対してにんにく2,3かけら位)、白ゴマ、ミウォン(ほんの少し、入れなくても良い)、醤油味の場合カンジャン(しょっぱいので味を見ながら)、コチュカル(好みの量)をきゅうりと一緒に混ぜる。3.器に入れて出来上がり。 ナスはちょっとだけ時間がかかる。でも特に夏にはおいしい一品。1.丸ごとが縦割りに二つに切って蒸す。(お箸が簡単に通るくらい)2.蒸したら、簡単に冷ましてお箸などで縦に細かく引き裂く。3.にんにく、白ゴマ、コチュカル、ミウォン(少々)、カンジャン、ごま油と一緒に混ぜる。4.器に入れて出来上がり。 すごく簡単でしょう!? でも一回食べたら結構病みつきになります。にんにくは包丁の持つところのお尻の方で、叩き潰してからみじん切りにしたほうが味が出るそうだ。それから混ぜるときは手で材料をもむように混ぜて、味をしっかりつける。カンジャンはハルモニいわく、韓国でも手に入れるのが難しいとの事。スーパーとかで売ってるのはおいしくなくて食べられないんですって。カンジャンにもいろいろ種類があるので、間違えるとぜんぜん違うカンジャンを選んでしまうんだとか。日本にいたときに母にどうしても食べさせたくて、カンジャンがないのでウェカンジャン(日本の醤油)で代用してみた。ウェカンジャンはチョーソンカンジャンに比べると甘いので、家の家族の味ではないんだけど、食べられないことないです。カンジャンが手に入らなかったら日本の醤油で代用するのもアリかなと思います。コチュカルが入ると辛いので、子供たちには途中から抜き取ってコチュカル抜きを上げてます。(ハルモニがみたら目を丸くするでしょう)今日はオリンピックサッカー韓国対マリ戦だ!最近はずっと韓国戦ばかり見てるせいか、日本チームより親近感があったりして、というか日本代表選手の顔と名前が一致しない…デーハンミングック! チャチャッチャチャッチャッ
Aug 17, 2004
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毎日外廊下から漢江を行ったり来たりする遊覧船に乗ってみたいなぁと思っていたけど、ついにこの前の水曜日乗ってみた。その日は本当はパパの高校時代の友達で私も留学先で一緒の学校に通ったことのある人の家族とエバーランドに行くはずだった。日本でディズニーランドにひどい時年7回行った事のある位テーマパークが好きな私だけど、韓国に来てから一度もそういうところに行った事なかったので、子供にかこつけて私が実は行ってみたかった。だけど、あまりにもすごい暑さ。1歳から4歳までの子供4人を連れて行くのはちょっと酷だと思った。ロッテワールドなら室内だから涼しいのでは、と思い計画を変更するが、どこかの掲示板でそこもハンパない暑さだと言う人がいた。かえって室内だからエアコンの効果がないともっと暑く感じるかも知れない。結局計画はどんどん夜に向かい、夕ご飯を食べて、遊覧船に乗ろうという話になったのだ。夕ご飯にはスンデを食べた。これは韓国の腸詰だ。蒸したものもあるし、それを使ったスープもある。どっちも注文して初めてのスンデグックを食べてみた。実はこの料理、パパがとっても苦手だ。スンデは好きらしいがスープになったらとても食べれなかった、と話してたことがある。どんなひどい料理なのだろう、とかなり興味津々で食べてみた。私は結構大丈夫だった。ソロンタンみたいな感じで、だけどもっとコクがあるというかクセがあるというか。パパは豚肉があまり好きではないので、(においがダメらしい)スンデグックになるとそのちょっと肉のにおいがするのがダメみたい。イパルは初物いつも敬遠するくせに、この日は友達がいたせいか一人でよく食べてた。ホパルはスープは嫌がったが、スンデの蒸したものを良く食べた。そして遊覧船へ。チャムシルというところから乗る。一周してくるコースと汝矣島まで行く片道コースとある。私たちは一周コースにした。どちらも大人7000ウォン。平日の夜なのに、遊覧船は満員で、デッキも室内もいっぱいだった。それでもデッキに出て夜風にあたる。ソウルは夜景が一番だと誰でも言う。昼は空もきれいじゃないし、あまり見るものがないが、夜の漢江の景色はちょっとしたものだ。川を渡る大橋は一つ一つ個性のあるライトで照らされ、漢江の汚い水は夜の暗闇でただ黒く光るだけになる。 あっという間の1時間だった。熱帯夜の中、夜風が本当に気持ちよかった。でもやっぱり難点も。まずはタバコを吸う人がいたこと。1時間くらい我慢してほしかったなぁ。(これはわがままでしょうか)それからあちこちのカップルのチュー。小さな子供たちの目の前でまるでタイタニックになりきったカップルたち。チューは降りた後車の中でやってほしいな。アメリカにいたらあまり人前のチューってされても気になららない。外人が人前でチューするのは当たり前って思うからかも。だけど、韓国や日本で目にするとなぜか嫌らしい気がして仕方ない。まぁ、そんな所は目をつぶれば悪くないひとときだった。でもパパが次の日突然言った。「昨日さ、あの後なんだか匂いがずっとまとわりついててなんだろうと思ってたんだ。なんかごみの匂いみたいにくさいの。それからよく匂ってみたら漢江の匂いなんだよ!サイテー」鼻のアレルギーがあるパパだけど、なぜか臭い匂い(子供のオムツの匂いとか犬の糞の匂いとか)とガスの匂いは人一倍敏感だ。漢江の匂いってごみみたいな匂いなのぉ、と何も気づかなかった私は結構ショックだった。
Aug 13, 2004
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先週末のこと。単身赴任中のハラボジがソウルに帰ってきた。ハラボジがいるときは夕食を一緒に食べるのが普通なので、パパと私とホパリが夕方からハラボジ宅に行った。イパルはハラボジに連れられてすでにハラボジ宅に行っていた。お家に入ってみるとハルモニしかいない。「アボジは?」とパパ。イパルを連れて、チョンダン洞のアパート(パパが学院をやっている所)にエアコンの修理の人が来るので行ったという。パパは「いやな予感がするなぁ、アボジの運転で行くなんて」なんて冗談交じりに言っていた。私たちは夕食前にちょっと行くところがあったので、ホパルをハルモニに預けて、出ようとしていた。ハルモニの車はエアコンがあまり効かないから、ハラボジの車で行こうか、と言いつつハラボジとイパルが着くころ下に降りてみた。本当にタイミングがいいというか…。私たちが下に着いたころ、ちょうどハラボジたちも着いて車を駐車したところだった。私たちは目を見張った。ハラボジの横でイパルがシートベルトをしてちゃっかり座ってるではないか。私たちは常日頃、子供たちが前の席に座ってはだめだときつく言っている。イパルにも言い聞かせてるし、ハラボジハルモニにもいつも言っていることだ。韓国ではチャイルドシートが義務になっていない。それでもアメリカでせっかくつけた習慣を守りたかったけど、家族で動くときチャイルドシートが2台入ると家族全員で乗れないため、結局使わなくなってしまった。その代わり、といって言い訳にならないんだけど、運転中は座ること、助手席や後部席の真ん中には座らないことなどをきつく言い聞かせている。特に助手席にはエアバッグがあるので、子供は絶対乗せてはいけないんだと言っていた。なのに!ハラボジったらそんなことすっかり分かりつつイパルを助手席に乗せたのだ。しかもパパが「子供を前に乗せちゃだめだって言ってるじゃないですか」とハラボジに言ったら、「ケンチャンタ(大丈夫だよ)」と一言。「安全ベルトもさせたし」ととんでもないことを言っている。ハラボジに、しかも外で叱るわけにはいかないパパがイパルに「アッパガ アンデンダ グレッチ(パパがダメだって言っただろう)」と矛先を変えたらイパルは「前に座りたいって言わなかったよ、ハラボジが後ろに座ったら見えないから前に座りなさいって言ったの」と言い出した。もっと立場のなくなったハラボジ。パパはその後何も言わず、自分の車に向かった。私が後ろを振り返ると、そんなパパの様子を気にしながら家に戻るハラボジとイパルの姿が見えた。後からハルモニに聞いた話によると、家に入りながらハラボジが「ばれちゃった、ばれちゃった」と言っていたらしい。「どうしたんですか?」と聞くハルモニに告白して、さらにハルモニに怒られたそうだ。それ以来、パパからもハラボジは言われっぱなし。「これからはイパルとハラボジ二人っきりでは車で出かけないでくださいね。ハラボジの運転は危なっかしいから心配だし、ダメだって言うことも守ってくれないし。」特に運転がハルモニより上手じゃないといわれるのがとってもいやなハラボジ。鼻でフンと笑いながら「何言ってるんだ」とちょっと引きつりを見せてる。
Aug 12, 2004
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行って来ました。行くまではどうなる事かと心配だったけど、何とかなっちゃうものだ。一番あれこれ心配してたのはハルモニ。あまりにも毎日考えすぎて、行く前日には疲れきってる始末。あれもこれも必要と荷物はどんどん増えていくし。ハルモニの心配は食べ物と寒さ。渋滞になる事は予想されてたので、車中で食べるものの準備、山だから寒いという信念のもと特に子供たちの服の準備についてはうるさかった。ハルモニの最近の言葉は「ホクシ モルニカ(もしかして分からないから)」それでもミニバンをレンタカーして、荷物を積んで、昼から出発。途中までは本当に渋滞で、子供たちがキレちゃわないか心配だった。普段だったら40分ほどで行ける所まで、今回は3時間。そこまで行くと少し流れが出てきた。空はご覧のような青い空!ずっと青い空に飢えていた。入道雲もくっきり見えて、久しぶりに空を見た気がした。走る道の横には常に川が流れてる。同じ漢江なのに水の色が違う。どんどん景色は田舎風景に変わっていく。その中でとんでもない車に出会った。ボロボロのトラック。後ろはオリになっている。どんな動物がいるのかと思えば、赤毛の犬。そんな小さなトラックに大きな犬たちが6匹入れられていた。この犬たちはペットのためではないのは、韓国にいる人なら誰でも知っている。愛犬家族の我が家としてはとっても嫌な可哀想な風景を見てしまった。1時ごろソウルを出て、ソラク山のホテルに着いたのは夜の8時過ぎ。休憩を途中2回ほど入れたほかはずっと走りっぱなしだったパパ。お疲れ様。子供たちはあまりグズグズ言う事もなく、結構悪くないドライブだった。ホテルはハラボジの会社の系列のホテルなので、スイートルーム二つが用意されていた。まるで新しい家に遊びに来たような気分なのか、子供たちはおおはしゃぎ。 翌日は早速ソラク山に行ってみる。ホテルから徒歩で30分くらいで山の入口に着くという。最初は歩こうと思っていたが、ここで頑張って着いた途端愚図られたら困ると思い、タクシーで行く事にした。車を持っていく事は無理だった。とにかくここもすごい渋滞なのだ。みんな入口まで車で行こうという考え。駐車場は限られているため、車が渋滞するのだ。入口まで行ったところで駐車できるかも保障はない。タクシーもあまりの渋滞に「歩いた方が早いですよ、料金もどんどん上がっちゃうし」と降ろしてくれた。山とはいえ、暑い!まだご飯を食べてなかった私たちは中の食堂に入る。子供たちを先に食べさせ、私たちは山菜ビビンパを食べる。パパ以外はソラク山の事何も知らないので、パパのリードのもと歩き始める。だけど、あまり遠くへは行けない。ホテルで一人寝ているゴモがいるからだ。ある散策コースに入って少し歩いてみる。さすが山だけあって木陰は涼しかった。イパルは途中リスを見つけて大興奮。San Diegoにいるとき当たり前にみたリス。その時はイパルはあまり関心がなかった。今あそこにいたら、発見するものがたくさんあってイパルも楽しいだろうに。勉強家のハルモニは木や脇に立っている説明書きを一つ一つ全部読みながら進む。散策コースはどこも2時間前後のコースだ。滝があったり見所はたくさんあるらしいけど、どこも見れないまま戻る事となった。でも、その前にどうしても行かないと行けないところが。橋のふもとを流れる渓谷。水は信じられないくらい透き通っている。イパルも期待してるし、どうしても水に入らないで帰るわけにはいかなかった。水は冷たかった!凍っちゃうかと思うくらい。外のあっつい天気と冷たい水。足だけ入れててもどんどん体が涼しくなるような気がした。ホパルは足だけでは満足できず、体がどんどん下に下りていく。オムツまで濡らして水を楽しんだ。本当はもっと色々回りたかったけど、ホテルに戻る事に。帰りはチューチューと吸える氷のアイス(?)、何て言うんだっけ・・・とにかくそれをチューチューしながら帰ってきた。帰ってきてシャワーをし、江原道に来たら、フェ(刺身)を食べないと、という事で食べに行く事に。でも知らない店に行くのはちょっとキケン。なので、親戚がやっているという所に行く事にして、その店を知ってるおばさんに電話をする。場所を聞くとパパは「遠いなぁ」と言った。だけど、おばさんったら「そんな事ないわよ!車で30分くらい行けば着くわよ」と言うのだ。それを信じて出発。ところが道は合ってるだけどいつまでも着かない!30分どころか、1時間近く走っている。もうそろそろかな、というところですごい渋滞になった。結局あきらめて帰ってきた。もうすぐだとしてもその渋滞を見たらとても行けないと思ったのだ。仕方なく近くのレストランでヘムルスンドゥブを食べる。パパはハルモニと刺身大好きの私にフェを食べさせたかったのに、がっかりしてたけど、こんな時は食べなくて正解かも。あたっちゃったりしたら大変だからね。翌日にはホテルビュッフェ朝食をとって出発。行きよりさらにひどい渋滞。8時間くらい運転をしてやっと見慣れたグレイの空を見る。立ち並ぶビルを見ながら「帰ってきたんだ」と思った。子供たちは到着するまで3時間くらい寝てくれちゃったので大助かりだった。他の家族みたいに満喫した旅行はできなかったけど、ゴモがいるために今までどこにも行けなかったハルモニを連れ出せた事が今回の目的。気分的には「We made it!」という感じだ。
Aug 6, 2004
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韓国に移り住んで1年と3ヵ月。初めての旅行です。行き先は国内ではとってもメジャーなソラク山。パパは何度も行った事あるらしいが、ウリハルモニが今まで一度も行った事ないらしい。というのも、病気で寝たきりのパパの姉がいるためだ。ソラク山といえば、誰でも一度は行った事あるとても有名な所だそうで、これはどうしても連れて行かなければ!と行く事になった。ハラボジは相変わらず仕事のため、ハルモニとゴモ(パパのお姉さん)、私と子供たちだけで行く。ハルモニの愛犬タムシリはパパの友だちの獣医さんの所に預ける事になった。今夏休み真っ盛りの韓国ではソラク山に行くのにかなりの渋滞が見込まれる。小さな子供と寝たきりのゴモを乗せて長時間のドライブはかなり心配だったけど、一か八かだ。多少無理してでも行かないと、ハルモニもう二度といけるチャンスがないかも。そんなわけで、あまり渋滞にならない事を願いつつ行ってきま~す。
Aug 2, 2004
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韓国では、とかソウルでは、と言うには私があまりにも近所以外どこも知らないので、ここアックジョン近辺では、としておこう。とにかくこの辺には、日本で言ういわゆるスーパーがない。食品の調達と言うと、百貨店(デパート)かもしくは、Eマートなどの大型スーパーに行くしかない。日本人のしかも庶民の私には、デパートで食品を買うと言う行為がどうしても贅沢な気がして仕方ない。スーパーの方が安いし、回転も早いから新鮮なんじゃないかって気がするし。なので、目の前のギャラリアの食品売り場よりも橋を超えてEマートに行く方が気分的に楽なのだ。ところが英子ハルモニの意見は違う。ペッカジョン(百貨店)の方が良いというのだ。価格は多少高めかも知れないが品物が良く、しかも買えばポイントがついたり、商品券がもらえたりする。セールをする時に賢く買い物をすればその辺のスーパーより安く買えることもある。ペッカジョンで買えば、袋詰めから荷物の運搬までしてもらえるし、客層も違うと言うのだ。最初っから大型スーパーが嫌いなハルモニは時々Eマートに行くとやっぱりダメだと言って帰ってくる。一度ハルモニ一人で行ったことがあったけど、人はごった返し、客は大きなカートを自分勝手に通りの真ん中に残したまま行ってしまうし、やりたい放題。挙句に会計をした後のパッキング。Eマートは、会計の後にダンボールを自分で組み立ててパッキングする仕組みになっているが、ハルモニにはそれが難しい。すっかりあきらめて、車のトランクに全部放り込んで帰ってきたよ、と言っていた。確かにハルモニには厳しい所かも知れないなぁと思った。人がいつもいっぱいなのは、本当に嫌なんだけど、ここに行くと食品以外のものも見られるから、私は結構楽しい。小さい時から安い物の中から安物に見えないものを買ってくるのが好きな母を見てきて、自分もその傾向があるので、いわゆる「掘り出し物」を探しに行くような気分になるのだ。Eマートには洋服も売っている。見たら、結構かわいい子供服もあるようだった。すぐ汚して、すぐ小さくなってしまう子供の服なんて安く買って毎年買い換える位の方が良いと思ってるので、こんな所で買えば経済的なのに、なんて思ってしまったが。ハルモニはその服を見ながら「結構大丈夫な服もあるのね」と言いつつ、「だけどイパルにこういうの着せて幼稚園に送れないでしょ。他の子がみんなベネトンとか着てくるのに」と締めくくった。そう、ここはそういう所。大人も子供も着てる服で判断されちゃったりする大変住みにくい所。子供たちは高いブランドの服を着て、パーマや茶髪にして、カメラ付の最新の携帯を持って歩いてる。それにしてもアックジョンは住みにくい所だ。スーパーもないし、いわゆるマツキヨみたいなドラッグストアもない。何を買うのもペッカジョン。何だか騙されたような気がする。ここら辺じゃなくても日本人妻たちは、ふつう日本にこまめに帰って日本で必要なものを買って来る。それはやっぱり韓国どこにいても、意外に買い物が不便であまりお得なショッピングができてない気がするからじゃないかしら~と思ってしまった。不思議なのは、ベネトンだミキハウスだとブランドで固めて、安物を着てたら相手にしてもらえないこの辺でも、日本で買ってきた服(それこそ長崎屋とかユニクロ服でも)だったら人気があったりする。やっぱりこれからも日本で買ってくるのが一番賢い買い物なのかもという結論に達したのだ。
Jul 27, 2004
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昨日見たテレビ番組で、又日本での韓流ブームについてやっていた。というのも、先日韓流スターと言われるタレントたちが来日したからだ。いやぁすごかった。あまりのすごさに、かなり引いてしまった。何がすごかったって、日本人ファンたちの様子。キャーキャーとわめき、さめざめと泣き、もう手は洗いません!とカメラに叫び・・・。それもこれも10代の若い女の子たちがそうしてるなら、あまり引かなかったかも。あ~若いのねぇ、なんてそのパワーをうらやましくすら思ったかもしれない。だけど見てたら、ほとんどが20代後半からオバサンと呼ばれる世代の女性たち。これがぺ・ヨンジュンとかウォンビンだったら、少しは理解できたかも。彼らは日本であまりにも有名だから。だけど今回来日した韓流さんたち、日本でそんなに有名なのでしょうか。何だか、韓国のタレントだったら誰でも今日本に行ったら大騒ぎのような気さえする。これが日本のタレントだったら、いくらオバサマキラーのタレントでも、オバサマたちこんな強烈な反応をしないだろう。外国人だから違った魅力を感じて、しかも日本に来たとなったら興奮するのは、分からないでもない。それにしても! オバサマたち。韓国でテレビを見ているこっちとしてはかなり恥ずかしい。番組のMCは韓国のタレントたちが日本でこんなに人気で光栄だなんて言ってるけど、テレビの前で見てる一般の韓国民たちはどうなんでしょうね。英子ハルモニは、自分と似たような年代のオバサマたちが、まるで少女のようにキャーキャーしてる姿を見て目を丸くしてる。これが日本の一般アジュンマ・ハルモニではないですよ~といいたいところだけど、一部が全部に見えてしまうのがテレビの力。きっと日本のイメージはかなり変わってしまっただろう。韓国ドラマに興味を持つのも、韓国に関心を向けるのも、ハングルを習うのも大いに結構だ。そうやって日韓がお互いに関心を持てば、韓国に住む日本人たちももっと住みやすくなるかもしれない。だけど、見た目やマスコミに踊らされて韓国の全てが良い、素敵と勘違いして、後からがっかりしないでほしいなって思う。韓国も他の国と変わらない、外国の一つだ。というか、ある部分は日本人には最悪だったりするし、いくら隣の国でも異国だから全然意識的に違う事もある。私は韓国に住み始めてまだ1年とちょっとしか経ってないけど、一日に韓国って韓国人ってサイテ~と思うこと(特に車に乗っていると)何回もある。これだから韓国人って嫌よねって思うこともたくさんある。だけど私は韓国も韓国人も好きだ。文句を言いながら、だけどどうしても憎めない何かがある。それが韓国の魅力だと私は思っている。韓国アジュンマの代表選手ともいえるうちのハルモニにいたっては、私は心のそこから愛している。ハルモニへの愛情は、この先どんな事があっても変わることがないと思うくらいだ。今韓国ドラマだ、韓流スターだって「熱を上げてる」人達にはどうか熱だけで終わらず、いつか「愛情を持って」ほしいなと思うのだ。そうしてこそ、言われている日韓の交流が成り立つんだと思う。何だか今の韓国ブーム、日本ブームはあまりにもどこにでも現れちゃって、かえってもろさを感じたりする。そのもろいブームの中熱狂しているファンなんかを見てると、何だか空しくて馬鹿馬鹿しく見えてしまうのだ。(ファンの人達ごめんなさい)きっと韓国の文化を通して、本当に韓国のいい所も悪い所もひっくるめて愛情を感じてる人達もいるだろう。そんな人達はもっと増えてくれたらいいなと願っている。日本に来る韓流よりもっと素敵な韓国の俳優さんたちもたくさんいる。本当に興味を持ったら、韓国の中に入ってきてぜーんぶみてほしいな、それでも大好きって言ってほしいな、と自分もまだまだ未熟なくせに思ってる今日この頃だ。
Jul 23, 2004
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漢方薬の事を韓国語では漢薬(ハンヤク)と言う。韓国にはいわゆる医者、病院のほか、漢方の病院があり、漢医師がいる。日本みたいにクリニックの外来に漢方外来とかあるのとは全然違う。イパルが熱を出して以来、なかなか食欲がなく、今いちパワーがないので、漢医院に行ってみよう、とハルモニが言い出した。確かにこれと言う症状があるわけでもないし、病気と言う感じでもない、だけどいつものイパルじゃないこの状態、ふつうの病院に連れて行っても「異常なし」と言われてお終いだろう。こんな時って漢方なのかな、と思い、連れて行くことにした。その漢医院はハルモニが20年通っている所だそうだ。どこの漢医院もそうだけど、そのドアの外まで漢方の匂いが漂っている。さすがに口には出さないけど、私にはオエ~という匂いだ。イパルにいたってははっきり口に出して「臭い~!!」と言う。ハルモニはその匂いをかぐと、「あ~ハンヤクのいい匂い!」と言う。薬は体にいいのよ~という事を言い聞かせるために言ってるのかと最初は思ったけど、どうやら本当にいい匂いだと感じるらしい。ところで漢医院での診察は、ちょっと違う。聴診器とか機械類は使わない。(治療では使うこともあるみたいだけど)問診・どこがどうなのかと患者に聞き、触診・脈を取り、お腹を診察する。お腹のある部分を押して音がなったとの事。それは胃が弱ってるからだ、と言うことでそのための処方をされた。チョコレートが大好きと言ったイパルに、先生が「これからはチョコレートよりご飯がおいしくなるよ」と言った。イパルは「チョコレートがおいしいよ」と答えたけど、果たしてその漢薬の成果は…。いや、しかし漢薬って高い! 健康保険が利かないので、自費だから仕方ないけど、5万ウォンだって。処方された薬はハルモニが持って帰った。私、煎じ方知らないからね。習わないといけないんだけど。それからハルモニがせっせと漢薬を煎じて持ってきてくれる。あまり苦くないので、薬好きなイパルは素直に飲んでくれている。飲ませるために「ほら、全然大丈夫。飲めるよ~。」なんて何でもないもののように口をつけて見せるけど、内心とってもまずくて私には飲めませ~んって感じだ。韓国では妊婦さんも漢薬を嫌って程飲まされるらしいけど、ただでさえ嫌な匂いは最悪なのに、トンでもない話だ。韓国で妊婦さんしなくて良かったと心から思う。ハルモニが時々鶏肉をテチュというものと高麗人参で煮込んだものを作ってくれるが、これも私にはちょっときつい。鶏が好きだという私のために作ってくれるのもあるので、ありがたく頂くけど、できれば高麗人参とか入れないで~って思ってしまう。ハルモニはその香りがたまらないと自分で作って大喜びなんだけど。これはやっぱり漢方薬を飲んできた人と飲んでこなかった人の差だろうか。ハルモニに散々漢方薬を飲まされてきたパパもやっぱり葛根湯を水なしで飲めちゃうほど漢方に強い。漢薬っていい匂いだと思いますか?ちなみにイパルは最近ご飯を食べるようになってきたように思う。これは漢薬の威力かな。相変わらずチョコレートがもっと好きだけど。
Jul 21, 2004
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もう一人のハルモニ、それは日本にいるばあばの事だ。韓国では母側のハルモニの事をウェハルモニというけど、イパルに分かりやすいように、小さい頃から日本のおばあちゃんはばあばだった。ばあばは、今病院にいる。5年以上前から左腕がおかしくて、日本に帰ったときに知り合いの先生に紹介状を書いてもらって大学病院に連れて行って、手術をしたり、リハビリをしたが、全然効果なし。診断されていた頚椎管狭窄症としてやるべき治療をしているのに効果が全くなく、それどころかどんどん麻痺が広がっていっているのが私には納得がいかなかった。とうとう左足も右腕も何となく調子悪くなった時、母ももう一度同じ病院を受診することを決めた。そこの担当医は母親が更に悪化していることにびっくりしていたらしい。そこで新たな手術を勧めた。私は他の病院でセカンドオピニオンをもらうことを勧めたけど、日本ってアメリカみたいに簡単じゃない。違う病院に行けば同じ検査をもう一度はじめからやらないといけないのだ。費用もかかるし、痛い検査も沢山ある。母は同じ先生にもう一度託すと言った。私はその時ホパルを妊娠中、日本に行ってあげたくても行けなかった。そして母は言った。「だって今度の子くらいはちゃんとこの腕で抱っこしたいのよ。」イパルの赤ちゃんの時は左腕が麻痺のため、抱っこホルダーでくくりつけて抱っこしてた。今度こそ両手でしっかり抱っこしたいというばあばの気持ちが痛かった。そして、二度目の手術。この時の手術の方が大変だったため、入院1ヶ月した後も自宅で療養になってしまった。今までもしていた仕事もできなくなり、母の姉が通って介護してくれる毎日。それでも散歩に行ったりしていたらしい。ところが、電話で話すたびに、どんどん話し方がおかしいのに気がついた。舌がもつれてはっきり話せないのだ。脳の方に異常があるのだろうか、と心配になったが、それは病院の方で検査して異常なしと言われたらしい。それでも、電話で話すたびに話しにくくなる母、相変わらず麻痺は進行している様子だし、病院にもう一度行くように勧めるがとても連れて行けないとおばに言われた。おばの通いの介護も限界に来た。母もすっかり寝たきりになり、自分でトイレに行こうとして転倒することが多くなったらしい。あるとき、自分で起き上がれず、ドアに向かって助けを求めて叫んだ。そうなるまで、何も言ってくれなかった母。私を心配させないように、一言も言ってくれなかった。6ヶ月になるホパルだけはおいていけず、二人で日本に飛んでかえった。すっかり変わり果てた母の姿。母は170センチの大柄な人だ。だけど、やせちゃって小さくなってしまった。お化粧やおしゃれを欠かさなかった母なのに、顔は転倒したときに傷だらけになってしまった。今まで聞いたことない大きな声で母は大泣きした。私は泣きながら「ごめんね」しか言えなかった。できることなら日本に帰ってきて母の身の回りの世話をしてあげたかった。何も考えず、自分勝手に帰ってきてしまおうか、そうすべきじゃないかと何度も思った。とりあえず2週間の短い滞在の間に、区の保健士さんに会い、母が受けられる全ての介護福祉に関する手続きをした。事情を説明して、母に必要な介護が受けられるようにお願いした。担当の保健士さんは、とても親身になってくれて、母のライフスタイルに合わせて調節してくれた。韓国に帰ってくるときは、後髪を引かれる思いだったけど、2週間オンマなしで我慢してるイパルがとうとう泣きながら私を呼んでいたと聞いて、帰らないわけにはいかなかった。その後、私のいない間に、母はもう一度しっかり診断してもらう必要があると保健士さんから言われ、検査入院をすることになった。私もこの頃から、ある病気を疑い始めてできることならもう一度しっかり診て貰いたかった。母は診断をすることと、又しなければいけない検査の数々にすっかり怖がってしまい、泣きながら抵抗したらしい。でも往診医の説得で、検査を受けることにした、と聞いた。診断の結果、頚椎管狭窄症ではなく、私の恐れていたALS(筋萎縮性側索硬化症)だった。進行性の神経難病で、治る事はない。発症後3~5年で肺の筋肉まで麻痺し、人工呼吸器をつけないと死に至る病気だ。その診断がついてから、母はそのまま入院中だ。診断されて母はどんな思いでいるんだろう、夜病院のベッドで一人寂しく泣いてるんじゃないかとか、いろいろ考えては眠れない夜を過ごしていた。やっと日本に数日帰れることになり、今度はイパルと二人で帰ってきた。本当に数日しかいられなかったので、母とゆっくり話す時間もなかったけど、家にいた時よりはすっきりした姿で、隣の患者さんと仲良くなったり、元気な時の母を思い出すような姿が見られた。母が一番愛しているイパルの顔を見れて、「夢のようだった」と言っていたらしい。先生の話では、後1年で肺機能が麻痺するだろうという事だ。母は人工呼吸器を使うことを拒否してる。私の心は又落ち着かなくなった。帰りたい。母のそばにいたい。子供たちをいつも見せてあげたい。いろいろ考えた。だけどあまりにも厳しい。私のために家族の犠牲が大きすぎるのだ。あまりにも苦しい状況に、私の昔から慕ってるおばさんが言った。「今できることをすればいいのよ。無理をして日本に来てくれても、私だったらうれしくないな。かえって申し訳なくて悲しくなるかも。お母さんも同じ気持ちだと思うのよ。」と。今でも心は苦しい。母のそばにいれなくて辛い。こんな親不孝の自分が、自分が選んだ人生が嫌になったりする。でも一つ救われることがあった。2度目の手術から母となぜか折り合いが悪くなって、連絡をすっかりとらなくなっていた私の弟が、再び母の人生に戻ってきたのだ。今は、弟が母の全般の面倒を見てくれ、弟の娘がイパルの代わりにばあばの心を慰めてくれているだろう。、私にはもう日本に帰る家はない。帰るところと言ったら、母のいる病院、か。夏の間に、ばあばに会いたいと言い続けてるイパルと一緒に、又日本に行くつもり。できればホパルも一緒に。日本にももう一人のハルモニがいる事を忘れてほしくないから。
Jul 15, 2004
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ソウルはここのところずっと雨。雨じゃなかったら、どんよりした天気。太陽はもう何日も見てないような気がする。外廊下から見える漢江は毎日くすんでいて、川の水は雨のせいか泥色に濁っている。朝起きたら、すがすがしい澄んだ空気の代わりに、誰かが朝の一服をしたタバコの匂い。昼間は車の排気ガス、夜はまたタバコのにおいがどこからか届く。梅雨の前は、雨が降った翌日だけは空気がきれいでほっとしたものだけど、最近は雨が降っても降らなくても同じ。喉がガラガラするし、鼻炎のアッパとイパルの鼻は調子が悪い。下の子以外は、何だか元気が入らず覇気がない。あ~、San Diegoの青い空と澄んだ空気、まぶしいほどの陽射しが恋しくて仕方ない。*************************************************最近の韓国の一番の関心事がWell Beingだそうだ。あるテレビ番組では、どのようにWell Beingを心がけているかを放送していた。大抵の人のWell Beingとは、健康なことである。そのために食事と運動に努力をする。たとえば、食事は肉類を避け、野菜中心。野菜は無農薬、有機農野菜を採る。運動はジムに行ったり、ジョギングをしたり。そういえば、最近うちの目の前の漢江の散歩道にもジョギングをしたり、ローラーブレーダーやサイクリングをしにわざわざ遠くから来る人が増えた。その番組ではある夫婦の生活が紹介されていた。ご主人の方がかなり太っていたらしく、ダイエットを成功させ、それ以来現状を維持するべく努力をしているらしい。野菜中心の食事に、コーヒーをやめて緑茶。下半身浴をして発汗をし、運動のためにジムに通う。ご主人の生活は、韓国でのWell Beingの見本のような生活だ。だけど、その奥さんの方は、ご主人のために食事を考え、ドリンクを用意し、全てにおいてサポート役。奥さんの健康のための時間って全然ないように見える。Well Beingって韓国では健康であることが全てのように考えられているけど、本当は健康はある一部分でしかない。Beingとは存在のことだ。人として、家族として、社会人として満足のいく存在でいられること、これがWell Beingのはずだ。スーパーに行けば健康食品コーナー、テレビを見れば栄養剤や、ジムの機械の販売などのCM、モンチャン(スタイルが良くて一番!な事)なる言葉もはやっていて、小学生までがモンチャンになるんだと体を鍛える始末。健康は大事だ。だけど、心のWell Beingはどうなんだろう。今の私たちに必要なのはこっちの方だと思うんだけど…。
Jul 12, 2004
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私は赤ちゃんは母乳で!のポリシーを持ってる。と言っても、人により事情ってものがあるんだから、あくまでも私の育児のポリシーだ。だから、二人の子供を母乳で育ててきた。下の子はまだ卒乳もできていない。母乳って結構大変だ。赤ちゃんが生まれたら自動的に出るようになって、すべて順調なわけではない。夜寝れなくて、昼に1時間ごとの授乳で全然自分の時間と言うか家事の時間がなくても、3ヶ月は辛抱しないと。もちろん中にはもっと順調に簡単にできる人もいるだろうが、私はそんな感じだった。ところで、韓国のシオモニ(姑)たちは、赤ちゃんにミルクをあげたくなる傾向にあるみたい。昔はミルクってすごく高価なものだったとか。だから母乳よりミルクの方が"高級"に見えるのかな。とにかくママが一生懸命母乳で育てようとしてるのに、ミルクを上げろ、足りないからミルクを足せ、と横からアドバイスが来るので、母乳育児が難しい。日本から来たミョヌリ(嫁)たちは結構そのシオモニのミルク攻撃にストレスを感じる人が多い。日本人ママはやっぱり母乳が一番、できれば母乳だけでやっていきたいと思ってる人が多いから余計そうじゃないかなと思う。かくいう私も、二人目の時はハルモニから相当のストレスをもらった。韓国のオンマたちは出産後もハルモニに預けて社会活動をする人少なくない。昼間、アパート周辺には若いママより、おばあちゃんたちが赤ちゃんをおんぶしながら散歩してる姿を良く見かける。ミルクを上げたいハルモニと外に出たいオンマ。その中でも、やっぱり母乳と言う人もいるんだろう。アッパの友だちの奥さんもその一人らしい。彼女は先月お産をしてまだ1ヶ月も経っていない。今回二人目を出産したんだけど、一人目の時母乳があまり出なくてミルクで育てたらしい。で、今回こそ母乳でと思うらしいんだけど、やっぱり順調ではないとか。でも、まぁ1ヶ月なんてまだまだ順調に出ずに苦労するママの方が多いかも。1時間ごとの授乳で、もしかして足りないかもなんて思いつつ、ミルク足した方がいいのかな、でも母乳で頑張りたいな、なんて葛藤しながら。夜も何回も起きないといけないし、そうやってあげればあげるほど、母乳が順調になっていくわけだ。だけど、彼女。昼間も自分のしたいことあったりするから、ミルクを上げて寝かしちゃったり、夜はまとめて寝てほしいからやっぱりミルク上げちゃう。だから、あまり順調じゃなくても仕方ないんだけど、それは嫌らしい。韓国にはホルモンを注射することで母乳を出す方法があるらしい。日本でもあるのかな。でも、あったとしてもマイナーな方法でしょう?普通育児のサイトなんかの掲示板を見たら、マッサージをしたり、食事を工夫したり、そうやって努力をするママが大半だもの。ホルモンを注射なんて、私にはちょっと信じられない解決方法だ。ホルモン注射をした鶏の卵とか、鶏肉とかでも消費者としてはできれば避けたいものだ。なのに、生まれたばかりの赤ちゃんに上げる母乳のためにホルモン注射?もちろん、赤ちゃんに影響がないからそんな方法が病院でできるのかもしれないけど、あまりにも不自然。なんだかとっても短絡的な気がして、結構この話はショックだった。タイトルに書いたようにこれが韓国の方法だと言うわけじゃないけど、韓国人って基本的に待つのは苦手だ。特に病気関係。風邪をひいたら、こじらさない限り、1週間もすれば何も薬を飲まなくても治るものだ。だけど、韓国人にはこの1週間が待てない。風邪をひいたら、病院に行って注射してもらう、と言うのが基本的な方法。風邪に効く薬ってないのに、何の注射をしてもらうのかかなり疑問なんだけど、その注射で治るというか回復するらしい。このホルモンの注射も同じ感覚なのかなぁと思ってしまったのだ。母乳だって、時間がかかる人が多い。その間はいろんな努力や工夫をしてなんとか頑張るのだ。それなのに、注射でさっさと解決しようと思ってしまう辺りが、韓国人らしい発想だなぁと思った。もちろん韓国人のオンマだって普通に母乳頑張っている人もたくさんいるだろう。その人達にはこんなタイトルでごめんなさいね!! ただとっても"パリパリ"な韓国的方法だと思ったので、こんなタイトルになっちゃった。ところで、ウリハルモニの感想は、"モッテッタ~"だ。日本語にしたら、どんな感じなんでしょう?誰か私の代わりに通訳してくれませんか?その人の行動が駄目だなぁと思ったときに使う言葉なんだけど・・・。
Jul 8, 2004
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