気ままなデジカメ片手の散歩路

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神田界隈 お玉が池


北辰一刀流「玄武館」といえば 神田お玉が池。


司馬遼太郎の「街道をゆく(36)」* の -神田界隈- を読んだら
お玉が池を 探しに行っちゃった・・・。


*部分は 司馬遼太郎「街道をゆく(36)」から引用抜粋しました。

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調べてみたら お玉が池は 現在の神田岩本町あたりにあったらしい

神田川にかかる 浅草橋のひとつ上流の橋「美倉(みくら)橋」から
靖国通りを渡って 岩本町に入っていきました。


美倉橋



橋上から浅草橋を  そして 川面を見たら!

でっか~い鮒が ゆったりと泳いでいた!
ゆうに体長1メートルはあったね。
イヤ ホントの話しですよ。
撮影出来なくて残念!



本題に戻って 「お玉が池」探しにいきましょう!
おおまかな地図によると 跡に今は「お玉稲荷」が残るのみと。

通りすがりの人では 知るわけないと
古くからやっていそうな 八百屋さんに尋ねたら 親切に教えてくれました。


行ってみると やっぱり 大きなビルの間に
ひっそりと小さな「お玉稲荷」(これじゃ 聞かなきゃ分かりません)



お玉稲荷

お玉が池は 上野の不忍池より大きな池だったが
江戸後期に 神田山(駿河台)を 削って埋め 住宅地となったそうで。
(神保町 駿河台下 小川町 岩本町などは 湿地帯だった)

一気に 新しい施設や住居が建設された(まるで お台場か品川か?)


その中に 千葉周作の「玄武館」があった。

*父・忠左衛門は 岩手の気仙沼できこえた剣客だった。
 彼は 若い息子・周作の天分をみて 江戸へ出ることを決心。
 (身分固定の時代 学問か医学か武術に傑出しなければ
  社会的な身分上昇の機会がなかった)

 父・忠左衛門は馬医者としていい腕があったので
 まず 江戸の手前 松戸で生計をたてながら 周作を町道場に通わせた。
 そこで さらに上達した周作は 小野派一刀流の中西忠兵衛にあずけられ
 ついに 神田で道場を開けるようになった。

 その後 水戸藩に召し抱えられ 隆盛を高めていった。  
 弟子には全国から 例えば
 土佐の坂本竜馬 出羽の清河八郎(藤沢周平の『回天の門』の主人公)
 薩摩の有村次左衛門(桜田門外の変)など  皆 幕末を駆け抜けていった。




「玄武館」の跡




「武尚文右」の碑

「学問か医学か武術に傑出しなければ社会的な身分上昇の機会がなかった」
とありましたが まさしく 剣道の道場とともに

儒学者や漢学者の「学問所」や 蘭方医による「種痘所」なども
ぞくぞくと 新設されたそうで・・・やがて

(当時ここでは 武術家と学者の間の交流も盛んだったそうです)


現在の 大学街や病院 そして本屋街へとつながっている。

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実は 「玄武館」の碑を探すのに 地元とおぼしき方に尋ねたら
ちょと待てと 数軒先のご近所の人を引っぱって来た

ふたたび 尋ねてみると 「あなた 調べもの? ヘエ じゃ ちょっと待って」
しばらくすると 立派な小冊子(フルカラー32Pですよ)を手に

『変わりゆく---あのまち このまち』岩本町東神田懐古録
八町会で今年まとめたばかりの ページをめくりながら いろいろ教えてくれました。


感謝です! もうひとつ感謝!
(だって その小冊子 ぼくに長期にわたって無料で貸してくれたから)


ひとつ残念なのは 先程の碑が残る 「千桜(ちざくら)小学校」は 廃校になった。





でも 今なら 「碑」を見学する人には 公開されています。


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