ひたすら本を読む少年の小説コミュニティ

本と少年



第二部



車の運転は十分練習した。

家の庭でアクセルとブレーキの簡単な練習を幾度となく重ねた。

何回か公道にも出てみたが、簡単だった。

僕には分からないが、ハンドルを握った瞬間からそれは分かっていた。

だが、スピードが速い。

今まで僕が出せるスピードの上限は、せいぜい自転車で坂を駆け下りるくらいだった。

たった2,30キロのスピードでも速く感じる。

父親が運転している車に乗っていたときはそんなことは全く感じなかった。

最初は誰も通らない午前中に街中をゆっくり走っていた。

そのとき、僕に運転を教えてくれていたのは吉沢さんだった。

彼は本屋の店員だった。

正式な店員ではなくアルバイト。

いつもつまらなそうに店番をしている。

彼の働いている本屋は古びた古書を扱っている、いわゆる古本屋だ。

古本屋といっても、毎週ちゃんと少年誌や雑誌は店の前に置いてある。

毎月9日になればジャンプのコミックは置くし、17日になればマガジンの漫画も多少なりと置かれている。

一見ただ本を羅列して置いてあるように見えるのだが、どこどこの本がどのくらいで買われ、どのくらいの収入が入ってくるか、事細かに計算し、収益を上げているのだ。

本屋で渡すブックカバーまでちゃんと計算する。

本屋の売り上げは、本が売れてから決まる。

売れるまで本は、ただ棚に置いてあるだけ。

売れなければ、本を発行をした会社に戻す。

売れたとしても、400円の本だとたった数十円程度。

本屋は難しいのだ。

だが、古本屋はそんなことはない。

安く仕入れ、売れたときには高い収益を取る。

100円で仕入れた本を400円で売るのだ。

300円の利益から、光熱費や、人件費などを差し引いても本屋よりは高い収益になる。

本屋の店員はたった二人。

未だにそろばんで計算する骨と皮しかないような黒縁の眼鏡をかけた老人と、アルバイトの吉沢さんだ。

店の名前は「太平堂」

会話もない二人がやっていたその古本屋を僕は13歳の頃見つけた。

この町に引っ越してきて何日か経った時だった。

友達も、気になる女の子も、前の町を出るときに切り捨て、誰も知らないときだった。

春休みだったのもあって、何もすることがなく、単なる暇つぶしとして外を散歩していたとき、この店が目に留まったのだ。

看板が傾き、支えている柱は歪み、中に入ると埃の臭いが鼻につき、床は軋み、奥には肘を突いて本を読んでいる店員がいた。

10歳の頃に、宮部みゆきの「火車」を読んでから僕は宮部みゆきにはまり、それと同時に、文字の美しさを知った。

漫画よりも、映像よりも、文字は鮮やかに何でも表現する。

古書や、世間一般で知られている著名な作家人が書いた作品は完璧に置かれていた。

ただし、カバーはボロボロ。

ページのインクは消えかかっているのもあった。

太平堂で川端康成や、夏目漱石を買い込み、読み漁る。

太宰治も読んだし、三島由紀夫も読んだ。

それぞれ時代を反映している。

言葉遣いも町並みも。

親や、家族の愛など。すばらしく描かれている。

僕は太宰治の「トロッコ」が好きだった。

主人公の少年の置き去りにされた時の心情が、そのころの僕と合致した。

夕焼け。

地平線に落ち行く真っ赤な太陽。

トロッコから伸びる長い影。

森は一層深みを増し、空は夜の世界に支配される。

線路伝いに転々とほのかな明りがともり、消え行く人々。

家々からは家族が話し合い、笑いあう声が聞こえ、外の屋台などには人があふれかえる。

妖艶な着物の女性がすぐ側を通っていくのだけれど、誰も僕には気がつかない。

泣きたい気持ちをこらえ、鼻を懸命にすする。

草鞋を捨てる。

邪魔だ。

思い切り走るが、不思議と疲れない。

砂利道が僕の足を擦っていく。

立ち止まると一瞬にして僕が夜の世界に引きずり込まれてしまう焦燥感と切迫感。

頭の中は、掃除機が逆流したかの用にいろいろな想いが吐き出される。

懐かしい町の光が夕闇に映し出されている。

止まることなく僕は町の門を走り抜ける。

知り合いの町の女たちは不思議な顔で僕を見るが、僕は誰にもかまわない。

懸命に走り、家の障子を思い切りあける。

母が泥だけの僕を見て口をあけたまましゃもじを落とす。

僕は泣く。

隣の家を通り越し、3軒となりの家まで十分聞こえる声で喚く。

町の人々は何事かと家に入ってきて僕を取り囲む。

誰が訊いても僕は答えない。

答えられない。

言葉にならない不安と絶望と・・・。

12歳の僕には抱えきれない気持ちを抱いたことは、語彙が少ない僕には話すことが無理だった。

「トロッコ」は僕の心情だった。

僕としての見解だけれど、最近の作家の本には時代が何も書かれていない。

ただの文字の大量生産。

まぁ、今の時代ではしょうがないことかもしれない。

しかし、僕の心情を、言葉ではいえない何かを語ってはくれないのだ。

とりあえず、吉沢さんと僕はそこで知り合いになった。

本を買いに行けば吉沢さんがいた。

たわいもない話をいくつか話し、そして本を何冊か買って帰る。

吉沢さんは、長い髪を後ろに束ね、綺麗な顔立ちをしていた。

華奢な白い腕で、いつも本を読んでいた。

細いのとは違う、華奢な体。

彼が僕に運転を教えてくれたのだ。

僕が運転したいことに彼は気づいたのだ。

それは運転免許の本を買ったとき。

当たり前といえば当たり前なのだ。

しかし、以前から僕は彼と通じる所があることを確信していた。

だから、一言彼にどうして運転したいのか、と聞かれただけで全てを彼に話した。


「僕は僕の考えを君に押し付ける気はない。君が望むことなら望んだことをしてあげるし、望まないことは気づかないフリをするだけだ。ただし、僕だって生きているのだから君の生きることに対しての意見は言わせてもらう。それでいいなら僕は手を貸すよ。」

と、渡辺さんは言った。

「わかった。」

と、僕は言った。

それから練習が始まった。





2ヶ月で大体の運転はできるようになった。

学校があったが、家の近くだったため、すぐ帰ってすぐ練習した。

親がいないときは、庭で練習していた。

ある日、渡辺さんを乗せ、海岸線を走っていたとき、彼は言った。

「僕はもともと出来が悪いんだ。
生まれてきたときから僕はねじが一本外れていた。
普通の人が10できるとすれば僕は1しか出来なかったんだ。
運動も体のつくりが少しおかしいせいで出来なかった。
小学校の頃は体育の時間は教室から見ているだけ。
好きな子が出来たって、自分の中で、自分の存在を普通の子より劣っていると決め込んでいたから話すことも出来なかった。
学校に行く以外、外には一切出なかった。
まぁ、学校には中学の途中から行かなくなったけどね。
そんな内にいる僕と外の世界を繋いでくれるのが本だった。
あのころは本にかじりついて読んでたよ。
君が買っていった本は全部僕は読んだよ。
その頃は、君みたいにとにかく本を読んだんだ。」

そこまで言うと、彼は煙草に火をつけた。

助手席の窓を開け、煙を外に吐いた。

苦笑い。

「ホントは煙草なんか吸っちゃいけないんだけどね。
医者に止められているんだ。
検査すればすぐばれる。
でもね、あそこでただ店員をやっていると、本は読めるんだけどストレスが溜まってくるんだよ。
そう、どうしようもない集積が僕に溜まっていく。
毎日毎日、僕はあそこにしか存在していないんだ。
生まれたときからそうだった。
君にはわからないかもしれないけど、同じ毎日と言うのは本当に怖いものなんだ。
外から除外された。
外から隔離された気分になってくる。
一体、時は進んでいるのだろうか。
もしかしたら、僕は起きもせず、寝る事もせず、外からは必要ともされず、ここで本を読むことしか出来ないのだろうか。
あそこにいるのは年老いたおじいさんだろう?
僕には、若者の流行も本に載ってる程度しか知らない。
同じ世代の人たちが何を考え、何を食べ、どうやって恋しているかは、僕にはわからない。
僕は僕なりの考えしか出来ないし、こんな体だから就職も出来ない。
もちろん、制度的のおかげで大会社が受け入れている場合もあるだろうけれど、僕は自分が障害者だとは思っていない。
今はね。」

また、タバコを吸い、窓の外に吐いた。

白い煙は一瞬にして後ろに、景色に溶け込んでゆく。

「さっきも言ったけど、これは障害だって一時は思ってたさ。」

彼は言い訳のように付け加えた。

そして、頭を横に振った。

「だけど、本を通して、考えが広がった。
だから、今は僕は僕だってはっきり思ってる。
ま、さっきの話に戻るけどさ。
本を読んでばかりだったある日、無性に僕は外に出たくなったんだ。
どうしても、本で読んだ景色を具体的に見てみたいと。
美しさを見たい、と。
見たときには必ず、より、本の深みがわかるだろう、とさ。
でも、僕が行動できる距離には限界があった。
この体のせいでね。
そこで、僕は君と同じように免許が欲しくなったんだ。
車だったら、ガソリンを入れればどこまでも行けるだろう。
途中でやばくなっても、予兆というものが僕は分かるから病院にすぐ行ける。
そして、18になったころ、親に頼み込んで―それまで僕は親に本しか頼んだことがなかった―了解してもらった。
そして免許を取ったんだ。」

僕は運転に集中している。

「だから、僕は君の気持ちが良く分かる。
だけど、僕は君ほど健康じゃなかったから、君のような無茶は出来なかったんだよ。
とにかく僕は嬉しかった。
車に乗ってどこまでも行けたんだ。
夢だったんだよ。
僕の。」

小さな夢だろう、と渡辺さんは笑った。

僕は何も言わなかった。

運転に集中しているフリをした。






時々、彼は店の置くの今に老人がいないとき僕を招き入れ、標識の意味を教えてくれた。

大体のことは2,3回やれば僕は覚えることが出来る。

そんなとき、渡辺さんは素直に、君は頭がいいんだね、と言った。

事故もないまま、僕らは4ヶ月練習した。

そして、4ヵ月後に練習は終わった。








後部座席には3日分の食料と水が入ったリュック。

ウエストポーチ。

その中に入っている札が綺麗に収まった財布。

眼鏡とコンタクトケース。コンタクトの液。

2枚の無地のTシャツとジーパン一本。

車のキー。



夏の夜。

海岸線を走るひとつの車。

どこまでも続く、この世の終焉まで立ち続けるだろう無口な街灯。

海は黒い。

何もかも呑み込んでしまう。

恐ろしい口元をこちらに向けて、光だけでなく僕まで呑み込む気だ。奴は。

僕のほかに車は通っていない。

見るとすれば時折対向車線を走り去る車だけだ。

目がくらむほどのライト。

そのときは流石に毛穴から冷や汗があふれる。

海は、小さい頃一度だけ来た。


顔の無い母親と顔の無い姉と顔の無い父親。

そして海岸の端で一人存在する車椅子の包帯の男。


オレンジ色の光が、道を照らす。

草木は静かに、海の風に揺れる。

ガードレールを突き破れば、そのまま崖へと落ちていくだろう。

場違いなカモメが漆黒の夜を飛び回る。

海の向こうに灯台の光が見える。

今は11時か。

車についているライトアップされた時計が時間を知らせる。

運転をしてから2時間が経った。

そろそろ着くはずだ。





渡辺さん。

僕は今あなたを必要としています。


どうか、僕を救ってください。

どうか。



第三部は こちら


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