青藍(せいらん)な日々

青藍(せいらん)な日々

人生はゲーム


1 もし、生き方が分からなくなったら
<1日1日を楽しく考える人間>
 お釈迦さまがじきじきに説かれた教えに基づいて、「生命」という問題について考えてみましょう。命とは何なのでしょう。また、人間が生きているとうことはどういう意味を持つのでしょう。さらにそうした疑問を踏まえた上で、では我々はいったいどう生きればいいのでしょう。そのことを、具体的に皆さんの個人的な立場から問いかけてみれば、「これからどうすればいいのでしょうか? どんな生き方が正しいのでしょうか?」ということになりますね。それらをぜんぶまとめて、「命」あるいは、「生命論」としてこれから説明していきたいと思います。
 ここでは、仏教とか宗教的な話ということではなくて、できるだけ宗教という枠から離れてお話したいと思います。なぜなら、宗教ということになると、私たちには反論できないものになってしまうからです。
 ここで扱うのは「生命論」「生きる論」です。だから自分の生き方にいろいろと役に立つ可能性がありますので、読者の皆さんと哲学してみましょう。私は哲学者ではありませんので、皆さんもいっしょに哲学者になってもらいたいのです。
はじめに「生きるということはどのような意味があるか」というテーマについて、哲学的 に考えてみましょう。私たちはほんとうに生きているのでしょうか? ここで一応、皆さんは生きていると決めることにします。では「生きている」ということはどういうことでしょうか。毎日、私たちは目が覚めたら起きる、ご飯を食べる、寝る、そして起きている間はまたいろいろなことをしているわけです。ふだん、皆さんは朝起きてから自分の行動を考える場合、何か意識的に特別なことをしていますか? 自分にとって重大事と言えるようなことを何かしていますか。実際、皆さんがしていることを動物に例えて言うならば、ただ餌を探しているだけなのです。朝起きてから餌を探し回り、見つけたところでそれをもらい、食べて、寝ているのです。我々が朝起きてからしている大事なことというのは、結局そのための仕事を言うのでしょう。仕事をするということは、お金をもらうためにしているのです。それもご飯を食べたり、家賃を払ったり、必要な服を買ったりするためにやっているのです。 私たちが生きているということで、それ以外に何かしているでしょうか。朝起きてから「今日は何をしているのだろう、何のためにこれをしているのだろう」
と自分のことをよく考えてみてください。私たちはだいたい七十パーセントの時間を、仕事やご飯を食べたり、体に必要な服を得るために使っています。それで少し時間に余裕が出ると、私たちはたちまちつまらなくなってしまうのです。
 そのつまらないと思うとき、私たちはどうするのでしょうか。例えば、テレビでも見ようとか、ゴルフにでも行こうとか、あるいはカルチャーセンターにでも行って教養でも身につけようとか、そのようにいつも何かをしていたいんですね。ですから余った時間というのは、ほんとうはつまらないのです。それで、その時間をなんとかしなくちゃと思っているのが本心なのです。 それでは、もう一度考えてみましょう。もし何もすることがなければ、私たちは「もうやることは何もない」と思って、すごくつまらなくなります。それでは、反対に人生がつまらなくないとき、つまり充実しているときというのはどのようなときでしょうか。
それは、何かやることがたくさんあるときなのですね。例えば、朝早く起きて仕事に行かなくちゃとか子どもの面倒を見なくちゃとか、ペットの世話をしなくちゃなどと、いろいろやることがあるときは、楽しくて充実しているのです。しかし、それもたくさんありすぎると、かえって過労になり、体を壊したりするのです。よくサラリーマンがすごくストレスがたまり、問題になったりしますね。また子どもの面倒を見ているお母さんたちもストレスがたまり、神経質になって、時には子どもを虐待したりしてしまうこともあります。そうなると今度はもう少し暇があったほうがいいかななどと思ったりもするものです。
 いったいそれではどちらがいいのでしょう。もしやることがあればあったで、それはやりきれなくて大変苦痛でつまりません。一方、やることがない場合も退屈でつまらないのです。

<退屈を喜び、トラブルを歓迎せよ>
 そこでやることがない場合は、、退屈でつまらないものですから、それでまた何か大変なことをしてトラブルを起こしたりします。やることがある場合も、人間関係や仕事やいろいろなことで失敗をして大変な問題を起こすのです。いずれにしても人生というのは、だいたいそのようなものなのですね。
 ですから、生きているということは、失敗するということでもあります。何かトラブルを起こすことが生きていることなのです。もし「そうではありません」と言えるのであれば幸いなことですが、客観的に哲学的な立場から見ると、生きているということは、トラブルを起こすことなのです。ですから、もし皆さんがこれからトラブルを起こしたとしても、それほど気にする必要はありません。
 生きていることの結果は、退屈でつまらなかったり、あるいは大変なことのなるかのいずれかなのです。なぜなら、私たちはいつもすごい不安に侵されているからです。ですから、何をしていても不安でつまらないのです。それが生きているということですし、お釈迦様はそのことをおっしゃっているのです。

<人間だれでも無知からの出発>
 朝起きるべき時間に起きないで、約束の時間も守らず、お風呂に入るべきときにも入らないで、また納税のとき納期を遅らせたり、交通ルールを破ったりして、思う存分怠けて自由にしてみたらどうなるのでしょうか。もし、まったくモラルも何もない生き方をしたのならば、そこで人生は終わりなのです。
 ということは、どんなにつまらない人生であっても、人間というものは徹底的に頑張らなければ生きてはいけないということなのです。いくら現在の日本が豊かで、物にあふれ、何の不自由もない幸福な国で平和であっても、ラクには生きていけないのです。さらにほかの国々では、お金はあっても平和がないとか、平和があってもお金も物もなくて貧しいとかいうように、なかなか日本のように幸福な条件はそろっていないのです。ところが、ぜんぶそろっている一見幸福な日本でさえ、必死で頑張らなくては生きていけないのです。
<人間はいいことだけを記憶する動物>
 私たちはなぜこうして苦しみながらも、生きていたいのでしょうか。それは、この自分の生きている人生に何かいいことがあったから、または幸福感を得たことがある、そういう経験なり体験をきちんと記憶しているからなのです。ほんのちょっとしたいいことでも経験したのなら、私たちの頭の中に強烈に印象づけられて、忘れられません。それが心のプログラムなのです。
 一方、私たちは苦しみというものを、それは日常茶飯事の当たり前のこととしてあまり気にしていないのです。辛いことは毎日起こっていて、それを気にしていると自分自身の精神状態も大変なことになりますので、気にしないようにしているわけです。そして、まれにいいことがあると、それだけは覚えておくのです。そのように、私たちの人生においては、いいことがまったくないわけではなく、たまにはいいことがあります。しかし、そのことさえ仏教哲学の立場から分析すれば、何の意味もないことなのです。
 皆さんは、今までの人生の中でどのくらい大変なことがあったでしょうか。どのくらいの苦しみがあったでしょうか。また、どのくらい幸福なことがあったでしょうか。客観的に思い起こしてみてください。そのことによって、一つ発見できることがあります。それは、「私の人生はよかった。幸福を感じました」という確実な事実は少ないということです。むしろ大変だったということのほうが多いはずです。ところが、人間の記憶というものは逆転しやすいのです。心というものは大変な悲劇のほうを忘れ、わずかな楽しみのほうをよく覚
えているのです。
 私たちは頑張らなくては生きていられませんし、頑張らなければ死にます。ですから頑張らなくてはいけないのですが、その頑張るということに何か深い意味があるのでしょうか。

<生きていくほんとうの目的>
 次に「生きる意味」ということを考えてみましょう。生きているということには、何の意味があるのでしょうか。
 よく子どもたちに、「あなたは、大きくなったら何になりたいんですか」と聞いてみたりしますね。しかし、子どもたちはだれもそのことを分かってはいません。でたらめに思いついた子とを言うだけです。それはパイロットであったり、お嫁さんであったり、時として漫画の主人公であっったりと、何の根拠もない、ただそのときに興味を持ったことをいいかげんに言うだけです。そして、もし子どもの興味が変わればそれもすぐに変わってしまうのですから、ほんとうのところ彼らは何も分かっていないのです。
 そこで、同じく私たちも、「自分は何のために生まれてきたのかを、ほんとうに分かっていますか?」と自問自答してみてください。しかし、いくら聞いてみても、私たちが死ぬときになってもそれは分からないでしょう。これはしかし実に不思議なことですね。私たちは生きてはいますが、何のためにこの世に生まれてきたのかということは分かっていないのです。

<「生き延びゲーム」を楽しもう>
 私たちの生命は、生まれるということから始まります。おなかの中に生命として現れた瞬間に私たちは、「あなたはこのために生まれました。ですから頑張ってください」とすばらしい目的をいただきます。そして、そのことを皆さんもよく知っていることで、知らない人はおりません。またその目的を、動物はよく知っています。それは「死ぬこと」なのですね。
生まれた瞬間に私たちが確実にいただくことは「死」なのです。このことは皆さんもよく知っていると思います。ですから、私たちは死ということを全うすればいいのです。
しかし、私たちはそこでちょっと問題を作るんですね。人間だけではなく、どんな生命で も、「もう少し死ということを先に延ばせたらどうだろう」と考えるのです。「生まれたのですから、あなたは死ぬべきです」と、どんな生命でも生まれた瞬間に死という現実を平等に受けるのですが、そのとき人間だけは、「どうせ死ぬのだから、もう少しあとで死にましょう」と、確定しているはずの死を少しでも先に延ばそうとするんですね。そこに問題が生ずるのです。
だれもが平等に、確実に獲得している「死」をそのまま受けとめてしまえば何の問題もないのに、どうせ死ぬのだから、それはあとでもいいのではないかなどと考えて、そこで不確かなことをやろうとするのです。 それがふつうの人間が考えている「生きる」ということなのですね。そのように私たちが生きるということは、どうにかして死を少し延ばしてしまうことなのです。そのことに人間は躍起となって生きているのです。 なぜ、赤ちゃんは一生懸命おっぱいを飲むのでしょうか。なぜ、私たちは一生懸命いろいろなことをしているのでしょうか。それは死ぬということをもう少し、あと1分でも延長しましょうということなのです。しかしそれは、悪いことではありません。皆さんは、今でもよく頑張ってきましたし長寿も悪いことではありませんので、できるだけ延ばしてみることを考えてみましょう。
皆さんはゲームセンターにあるゲームを知っていますね。あれと同じように、私たちの人生もゲームみたいなものです。あれと同じように、私たちの人生もゲームみたいなものです。ところで、あのゲームは必ず私たちが負けるようにプログラムしてあります。百円や二百円を入れてゲームをやっていると、1分か2分以内で必ずゲームオーバーになるようにできているのです。もし百円を入れて4、5時間たってもゲームオーバーにならないと、商売にならないんですね。ですからコンピューターのプログラムを作る人は、的がどんどん出てきて数え切れないくらいの敵があちこちから出てきて、結局こちらがやられてゲームオーバーになるようにできているのです。
 そのように、人生の場合も、上手な人々は命を延ばすこともできますし、下手な人は早く終わってしまうのです。例えば、仕事で失敗したり、奥さんと喧嘩をしたことを理由にお酒を飲んでアル中になり、肝臓や腎臓などを痛めて早死にしたりすることがあります。また、麻薬などを使って早く人生を終わらせる人もいます。そのような人は、生きることが完全に下手な人々なのですね。早く終わってしまうのですから、それは人生の失敗作なのです。また、銀行マンなどになって、お金の計算やいろいろなことを間違えて穴をあけ、何億円も
損をしたりする人もいます。そのようなとき、ほかの国の人でしたら逃げてでも生きていきますが、日本ではすぐに自殺してしまいます。そのような人は、完全に人生ゲームが下手な人なのです。
私は暗い話ばかりしているかもしれませんが、生きるということはそのようにゲームなのです。ですからすごく慎重にゲームをやらないと、すぐにゲームオーバーになって負けてしまいますから大変なのです。この場合のゲームオーバーということは死であって、それは決まっていることなのです。しかし、どうせ死ぬのだからといって無気力になるのではなく、頑張ったほうがいいのです。でももし頑張ったとしても、そのことに特に意味があるわけでなく、ただゲームに勝ったというだけなのです。人生はまったくのゲームなのですから。
例えばゲームの機械で高得点を出したとしても、それでどうにかなるのでしょうか。別に何にもなりません。もし、高得点を出して機械に名前を入れてもらったとしても、次の人がさらに高い点数を出した場合は、自分の名前は消されてその人の名前が残るたけなのです。
 そのように、私たちも人生に成功した人々の名前を覚えていますね。夏目漱石とかバッハとか、科学者の世界ではニュートンとかアインシュタインとかがよく知られていますが、アインシュタインであっても、相対論を発見したから死ぬことはないなどということは不可能なのです。彼も私たちと同じく老人になり、不自由でいろいろな苦労をしながら死んでいきました。
 そのようなことで、「生きるということは、ただ死ぬことをちょっと先へ延ばすことだけである」ということを覚えておいてください。

<何でもやさしく考えるべきである>
豊かでない国は、いくら年をとっても食べていくためには仕事をし続けなくてはなりません。ところが豊かな国の場合も、子育てが終わり、退職してラクに年金暮らしをしているからといって、毎日朝から晩までこたつに入ってお茶を飲んだりお菓子を食べたりしていると、私たちは早死にしてしまいます。しかし、おしゃれをしたり、カルチャーセンターなどに行って勉強したり、社交ダンスやエアロビクスなどをしていると、すごく刺激があって気持ちよく生きていられます。そういう行為は少しでも寿命を先に延ばすことに役立ちます。そうやって生きるということがベストだと思っているのですから、それほど真剣に人生というものを考える必要はないのです。人生とは、そのように非常に簡単で単純に考えるべきことなのです。
 ですから、人生というのはそのように簡単で単純なものであると思って、すごくリラックスして明るく楽しくこのゲームをやってみてください。しかし、先ほども言いましたが、ゲームオーバーになるようにプログラムされているので、必ず死はやってきます。もし、死ぬのは嫌だと考える人がいるならば、その人ほど頭の悪い人はいません。その人は、ミミズやアメーバよりも劣ります。なぜならどんな生命であろうとも必ず死ぬのですから、死ぬのが嫌だと思うことは無駄なことなのです。死ぬことを嫌だと思うのではなく、むしろ楽しい人生ゲームによって死ぬことを少し先に延ばしてみることなのです。
 日本の現代社会にある問題のすべては、生きていることがすごくいみのあることだと思っていることにあります。勉強をしていい大学に入ったり、一流の会社に入ったりすることこそ人生だと思ったりするのです。ですから子どもも親の期待に応えようとして頑張りますし、またそうでもしなければ親に叱られるかもしれないと思ったりして生き地獄を作ることにもなるんですね。しかし、世の中にある知識、宗教、仕事、科学などはそのすべてが死ぬことを少し先に延ばすための仕掛けであって、ただのゲームなのです。ですから、仕事や子育て、家庭の問題、社会の問題などはただのゲームだと思って気楽にやればいいのです。 「死ぬ」という事実を認めて、それまでの人生を楽しくゲームすればそれでいいのです。そうすれば、自殺などしなくてもすむのではないでしょうか。
 皆さんにとって人生は意味のあるものだと思っていながら、なぜ人はすぐに自殺をしたりするのでしょうか。そのようなことはバカらしいことなのです。ちょっと学校でいじめを受けたから、先生が自分の話を聞いてくれなかったから、あるいはちょっと失敗したからといってすぐに自殺をしちゃうんですね。そうではなく人生はゲームなのですから、相手が話を聞いてくれなかったからなどといって物おじするのではなく、もし言いたいことがあるのであれば相手がだれであろうとも自分の意見を堂々と言い、強引にでも自分の話を聞いてもらったりして、生きていけばいいのです。
 人生を重大事に考えて、東大やほかの有名大学に入らなければならないなどと思うことは、それこそ大切な人生を無駄にする大きな社会問題です。そのような大学に入ったとしても、それほどよいことはありません。むしろ、大学に行かなかった人々のほうがしっかりと生きています。たとえそのような大学に言ったとしても、何とはなしに年をとって結局おじいさんになって死んでしますだけなのです。
人生はゲームなのですから、楽しんでそのときそのときにベストを尽くしたほうがいいということなのですね。死ぬということは確実なことですから、それが分かれば逆に頑張れるはずです。
命があと一年しかないと分かれば、一日中、家でゴロゴロしてお茶を飲んだり、おせんべいばかり食べていようとは思えなくなります。もし風邪を引いてしまえば、「今日はもったいなかった」と思ったりするのです。そして、残された毎日を有意義に過ごすことができるんですね。ですから、「死」ということをポジティブに見たほうがいいと思うのです。

<あなたの人生を哲学してみると>
 ところで、すべての生命が持っている「不安」というのはどこから生じてくるのでしょうか。私たちは、いつもこの問題に苛まれています。私たちは、常に安定したいと思っているのです。にもかかわらずこの不安がどこから生まれてくるのかといえば、死ぬことから生まれてくるんですね。生まれた瞬間に、同時に死という事実にも直面するので、すべての生命が不安なのです。例えば、結婚をしても旦那さんが浮気をするのではないかと思って不安になりますし、仕事はあっても会社が倒産するのかもしれないと思って不安になったり、不安はいつでも皆さんにあるのです。ですから、私たちは楽しむためではなく、その不安をなんとかしようと思って頑張っているというのが現実です。それが苦しいんですね。
 ではどうすればその不安をなくせるのでしょうか。不安は「死」ということから出てきます。ですから、どうせ死ぬのだからと思って覚悟することです。
 会社は倒産するかもしれませんし、しないかもしれません。また、リストラで自分の首が飛ぶかもしれませんし、そうでないかもしれません。でも、そのようなことはどうでもいいことなのです。私たちの人生は不安でないという部分は何もないのですから、不安を消そうとしてもそれはまったく無意味で無駄な抵抗です。不安を消そうと思うと、生きることはさらに苦しくなりますから、ただその時々やるべきことを楽しく、しかも精いっぱいやることです。不安は決して消えませんので、すべてのことはゲームであって、成功しても失敗しても同じだと思えばいいのです。トラックの運転手さんであろうがパイロットであろうが、まったく同じです。どちらも死ぬときには死ぬのですから、困る必要はないのです。
 そのようなことで、人生は不安であることを認め、子どものときに持っていたあの生命のエネルギーをまた甦らせ、そのつど、しっかりと生きていただきたいと思います。毎日の知恵を絞り、工夫して生きていかなくてはなりません。すばらしく生きたからといって、何かご褒美が出るわけではありませんし、もし名前を残したとしても、それも時間の経過とともに忘れられますので、大したことではありません。私たちのこともどんどん忘れられるのですから、生きることをそれほど真剣に考えることもないのです。にこにこと笑顔で生きていればいいのです。「どうせ死ぬのだから」というあの子どもの哲学的な言葉を思うならば、真剣になることは何もないのです。
 お釈迦さまは、「世の中にある真理は四つです」とおっしゃっています。その中でも実際の事実は二つしかないのです。
 一番目は、「存在はDukka(苦)である」ということです。すべてのものは空しいものであり、苦であり無常であるという事実です。すべては空しいものであって、無常なものであって、変化するものであって、それほど大した意味はないという教えなのです。
 ところが、すべては無常なのですが、人間は愚か者ですから、それが嫌なのですね。死にたくないのです。生き続けていたくなるのです。ですからDukkaがどんどん延びてしまうのです。生まれたということは、死ななくてはいけないということを意味するのです。しかし、それは嫌だといって、「八十年間は頑張ります」などと思うから、八十年間苦しみを味わうことになります。さらに「百二十歳まで頑張ります」と思えば、その間生きていくためにはいろいろに工夫をしなければなりませんので、その分Dukkaが延びるだけなのです。Dukkaが延びるということは、生きていたいという希望があるから、なのです。
 二番目はTanha(渇愛)です。これは渇いている状態のことです。いつものどが渇いていて、これではちょっと満足できないという状態のことです。皆さんは、いつもその状態でいるのではないでしょうか。なぜなら、もう完ぺきで完全だと思っている人はいないからです。お金があるといっても、完ぺきにお金に満たされていると思っている人はおりませんし、また勉強にしても、完ぺきに勉強したのでこれ以上一冊も本を読む必要はありませんとは、だれも思っていないはずです。
 そのように、私たちにはいつでも、「もっとやりたい、もっと生きていたい」というエネルギーがあるのです。

<人生は苦しく、空しいものである」という発想>
 不幸型思考から幸福型思考へ
自分の人生がある程度安定して幸福な状態になってくると、そこには反現象として不安というものが生まれてくるのです。
 私たちは不安という状態なしには生きていられません。どんな状態でいても、その背後には大きな不安という恐ろしい鬼がついているのです。その鬼を追い払うことはできないのです。
 そのように、どんな状態であろうとも不安という状態は消えませんから、私たちは何とかして安定したいと思い、必死で努力します。
 人生は苦しみであるということは、どういうことなのでしょうか。
人間にはいろいろ希望がありますが、それらの希望があるために苦しみは生まれるのです。確かに、いつも「今日はこれとこれをやって、明日はこれをやろう」というような目的や希望があれば、だれもが元気で頑張れます。しかし、それと同時にそこには大きな落とし穴もあるのです。なぜなら、希望というのはなかなか思いどおりには実現しないからです。我々の希望が実
現できるのは、ごくまれなことなのです。たとえ希望が実現したとしても、次はどうなるのでしょうか。その実現したはずの希望も必ず去っていきます。どんなものであろうが得たものは必ず消えていくのですから、そのことによって人間はさらに苦しくなります。そして最終的には、「苦しみ」というものしか残らないのです。
 結局、私たちは、生まれたときから死ぬときまで苦しみというものにつきまとわれて、決してそれから逃げることはできません。このことはごく当たり前のことであり、普遍的な真理なのです。

<プラスマイナス=ゼロは正しいか>
 そこで言いたいことは、「得をするということは、損もする」という法則を理解し、いつも落ち着いていてくださいということです。たとえ一つの商売ですごく得をし、次の商売に手を出したところで失敗しても、「まあ、そんなもんです」と思うことなのです。常にありのままを受けとめる冷静さが必要であり、髪が抜けるほど悩んだり、白髪になるまで悩むことはないのです。

<真実を見る目をどんどん養おう>
 幸福の道は「落ち着き、冷静」ということに尽きます。
 ほんとうの幸福感とうのは、すべての人間に体験できるものでなければなりません。それは、先ほど申し上げました「落ち着き」ということから味わえるものなのです。いつもイライラしないで落ち着いていられれば、幸福は体験できます。

<クールこそ心の最高の状態である>


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