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理由は書くと長くなるので省くが、3日ほど前、家のなかの「パンドラの箱」を開けないといけなくなった。そして気の進まない作業を深夜こなした。 この「パンドラの箱」と名づけたものとは、昔のホテル時代の資料やら未整理のまま箱に詰め込んださまざまな小物のことで、ダンボール箱4つもある。 それから、さらに。 今の家に引っ越したときに「とりあえず後で整理しよう」と、箱詰めして押入れに放置して約1年たった物ども。最近、押入れに子どもたちが入って、アレコレほじくりだしたので、これも何とかしようと、再び箱に詰めて机の上の子どもの手の届かないところに置いた。 もう、皆さんもおわかりのことと思います。 とりあえず箱に入れているだけなので、何も解決していない。 悪いことに子どもたちが机にのぼって、ちらほら、またいろんな小物を床に撒き散らして遊びだした。 さすがに裁縫セットの針が3本も4本も床に落ちているのを拾うと、何とかしないと本当にダメだなあと反省。 針はとりあえず(←懲りない)、高ーい本棚の上へ。後で夫が針どもを見つけて驚いていた。 ぐちゃぐちゃになって箱に突っ込まれただけの物どもが無言のプレッシャーをかけてくる(ような気がしている)。 少しずつ片付ければいいのはわかるのだが、「やりたいこと」も「やらなきゃいけないこと」もあって、一日はあまりに早く終わる。 このまま放っておけばおくほど精神状態は悪化するし、そういう性格(まじめ、だけどぐうたら)なのは変わらない。 もし酒でも飲めたら、しこたまかっくらって、何もなかったことにして寝てしまうだろう。 幸いオリオンビールなら我が家にたくさんある(もらいもの)。 よしっ!! 箱のなかの小物、1日に最低20個は整理してこう。
2006.12.28
その頃、読んだ本に、『エグザイル』(ロバート・ハリス著、講談社)がある。著者のハリスさんはかつて妻だった女性を連れて、世界を放浪したことがある。旅の途中、一時は日本に帰国したものの、夢がかなわず精神状態は悪化し、飛び出すようにして日本を出てしまう。ロクに計画も立てないまま出国したハリスさんの気持ちは、当時の私たちは痛いほどわかった。「とりあえず何でもいい。とにかくここを出よう」 私たちも心からそう思った。 韓国の両親には、突然やってきた外国人の嫁なのにも関わらず受け入れてもらい、それこそ衣食住すべてを提供してもらっている。「出たい」だなんてバチ当たりだと思ったが、こうした常識では抑えることができないほど、閉塞感は募っていたのだ。(このままではダメになってしまう) 夫も私も同じことを考えていた。「とにかく、韓国を出よう」 問題は、「ではどこへ行く?」だった。「日本に帰ってもいい。東京に戻ってもかまわない」 かつて、東京から、いや日本から出ることばかり考えていた私はそう提案した。 夫はしばらくの間、無言で考えて、やがて「やめよう」と言った。 考えをまとめるために、私たちは手帳を引っ張り出した。 私たちは一体どこに行きたいのか。まずこれをはっきりさせよう。お金、仕事、ビザなどの心配は、とりあえずおいておくことにする。 行きたい国の候補をそれぞれ挙げ、さらに行きたい気持ちの度合いを点数で書いた。二人の点数の合計が高い国が、次に行く国というわけだ。 アメリカのハワイとフロリダ、オーストラリアは高かった。カナダも結構高かったのだが、ただでさえ韓国は冬に向けて寒くなっていて、寒冷な国に行くのは気が進まなかった。 韓国にいる間に、こうした国々で働けるよう仕事を探せないだろうか。私たちは図書館へ出かけたり、インターネットで探したりした。「もし外国へ行って失敗しても離婚しないって約束して」 と夫は言った。 もちろん離婚するつもりはない。 とにかく行ってみてダメだったら、また韓国でも日本でも帰ってくればいい。働いてお金をためて、また挑戦しよう。とにかく第一歩を踏み出そうとした。 ケイファさんが、知り合いがメルボルンにいるので会ってみては、と夫に紹介してくれた。就職先の世話を頼めるかは未知数だが、相談ぐらいには乗ってくれそうだった。 とりあえず、夫に先にオーストラリアに行ってもらって住むところを探してもらうことになった。(続く)人気blogランキングへ←■□■読んでくださって感謝です!!↑ ↑ ↑現在、76位です。ベスト100位入りしました。感謝 感謝です。■□■
2006.12.15
ときどき私たちは冗談で、こうなったらもう二人でバックパッカーになろうかと言うこともあった。 もし韓国で妊娠していなかったら、その話は現実味を帯びていっただろうし、やってみればそれはそれで、多分楽しかっただろうと思う。 しかし現実には私は妊娠した。 いっそのこと、何も考えないで放浪の旅に出るかと思ってはみるものの、大きなお腹を抱えてよろよろ歩き、夫と一緒になってヒッチハイクをしている姿は何回想像しても、どう考えてもしんどそうだった。 昔むかし、雑誌か何かで読んだのだが、世界には面白い人たちがいるもので、フランス人のカップルが自転車をこいで世界を回り、旅の途中で子どもが生まれたそうだ。最初は2人で旅行し、最後は3人になってフランスに帰ったと記憶している。(何事もなせばなるもんだなあ)と能天気な気持ちになり、大きなお腹でヒッチハイクをしている自分を想像しては怖気づいていた。 とにかく子どもができてしまえば女性には、いろいろなことが降りかかる。つわりもそう。お腹がどんどん大きくなるのもそう。さらに出産、授乳と続く。やっぱりバックパッカーになるなら最初から避妊するのが無難だろう。 お腹の子どものことと、それから日本から連れてきたネコのカツラ。これがバックパッカーにならなかった決定打になった。 まさかネコに紐をつけて歩かせるわけにはいくまい。かといって、キャリーに一日中入れて運ぶのも疲れるし、カツラの方でも真っ平ごめんだろう。 カツラのことだから、ストレスのあまり脱走してしまうだろう。夫の実家に来た初日、カツラは不慣れな場所を怖がって、網戸の破れ目から脱走してしまったことがある。「ネコ連れてバックパッカーなんて無理」 というと夫は笑った。 夫も本気でバックパッカーの話をしたわけではなかった。(続く)人気blogランキングへ←■□■読んでくださって感謝です!!↑今115位です。あともうひと「押し」お願い~~GO GO ベスト100入りっ■□■
2006.12.14
胎児は6ヶ月で耳が聞こえるらしい。それを知った私たちはお腹の子どもに話かけるようになった。「あなたに逢うのを楽しみにしていますよ」 小さな声で言ってみる。(―――あとは、何をしゃべればいいんだろう?)「外の世界は楽しいですよ」「―――早くいらっしゃーい」「―――待っていますよー」「―――」 独り言のようでやたら照れくさいので、家人に聞こえないよう、ボソボソ小声で話す。 夫は私とは違ってもっと積極的に話しかけた。私のお腹をなでながら、将来子どもが健康で幸せで、お金持ちとなり周りから尊敬を集めるだろうという彼の願望といえばよいか祝福といえばよいかわからないが、毎回そういったことを延々と韓国語で話しかけている。 一見、平和で穏やかな日々が続いた。しかし、私たちの内面は決して穏やかではなかった。 夫の仕事は相変わらず始まっていない。(―――仕方がない) 夫は生まれてくる子どものためにも、どこかに就職しようと考え始めた。だが当時の韓国も日本と同様、不景気で就職は大変だったようだ。 夫は(どうしても働く会社がなければタクシーの運転手をしよう)と覚悟を決めた。 実際、就職活動を開始して、新聞の求人欄に目を通しては、ポツリポツリと面接に出かけて行くようになった。例えば大手企業の関連会社のクレーム対応の部署などだった。 面接には出かけたものの、(ちょっとな―――)と躊躇する会社だったのだろう。夫は断りの電話をその会社に入れた。にも関わらず、日を改めて「ぜひ来て欲しい」という電話が先方から入る。「アイゴー、だれでもいいんだね」と夫は嘆き、「そんな会社には行かないでよ」と私も言い、夫は再度、断りの電話を入れた。 夫は学生時代、成績がよかったので、義母は、「息子はなんでこんなに苦労しているのか」と泣いたそうである。 そのうち義母が「お前たちはゴミを拾う仕事をしなさい」と言い出した。義母の知り合いのおじさんがゴミを拾い、リユースやリサイクルに回す仕事をしていたので、そこからヒントを得て、これなら独立家業としてできるだろうと義母は提案したのだった。 その知り合いのおじさんの妻が義母と同郷だったらしく、夫婦で割合うちによく来ていた。おじさんの方は日焼けして、肉体労働者らしいがっしりとした体格である。明るい目つきをしていたのと、うちに来るお客のなかでは珍しく、ほとんど言葉の通じない私にも毎回話しかけてくれたのとで、不遜な言い方だが、この人だったら夫と一緒に仕事をしてもいいなと感じた。 ゴミ拾いは深夜に行う。夫は汚れてもいい格好をして軍手をはめて、私が寝ている間にこの人のトラックに乗り込んで行った。 うちの近所ではいたるところで、まだ使えそうな家具や布団などがたくさん捨ててある。後にテレビ台を実際に拾って使ったりもした。 だがゴミ拾いは簡単ではなくて、いつどこを回るかがポイントらしい。夫は1回、2回と同行して働いて、そのポイントがわかったようで、「仕事はもうわかった。ひとりでできる」と言ってきた。 中古の家具などを直して使うというのは、韓国では貧乏臭く思われているらしい。ゴミ拾いという仕事も蔑まれているようで、夫と親しくしていた同級生のひとりは「お前のする仕事じゃない。お願いだからやめてくれ」と懇願までした。 しかし、ここ韓国でも日本と同様、ゴミ問題は今後ますます深刻化していき、いやがおうでも環境の時代を迎えるに違いない。そのとき、リユース、リサイクルは新品を買う余裕がないから仕方がなくする行為ではなく、環境に負担をかけないよう意図的に選択するライフスタイルとして広がっていくだろう。 だから、これは「ゴミ拾い」などと呼んで蔑む仕事ではない。環境ビジネスとして大きく成長させようと私たちは話し合った。 この仕事にはトラックが必要なので、夫は中古のトラックを買うつもりで出かけていった。そして買わずに帰ってきた。「車屋さんに行くまでは本当に買う気だった」と夫。 買うのをやめた理由はこんなようなことだったとおぼろげに覚えている。 現金のなかった私たちはローンを組むしかないのだが、果たしてそれを返せるだけの収入があるだろうか。 またリサイクルビジネスについても夫なりに調べていて、思った以上にすでにいろいろな企業や人が手がけていることを知った。後発である以上、相当研究して、先発との差別化を図らないとビジネスとして成功させるのは難しいだろう。 ただ今でもはっきりと思い出せることがある。 もし夫が本気でこのビジネスをやろうと決めたのなら、何としてでもトラックを買っただろうし、そうしなかったには、夫なりの理由があると思ったことだ。 その理由は明確な理屈でなくて、ただ何となくという感情や感覚かもしれないが、しかしそれは無視すべきではないとも思った。 ゴミ拾いの仕事は、そのうちだれも話題に挙げなくなった。 そんなこんなで物事がうまく進まずに私たちは困っていたが、韓国の両親も困っていた。息子が妻を連れて帰国し、子どもも生まれてくるというのに、仕事がない。 私たち夫婦の問題ではあったが、両親にしてみれば他人事ではない。特に同居していたので、心配も倍増したことと思う。 義父は息子夫婦の行く末を案ずるあまり、悪いことに時々、義母にヤツ当たりをした。 夜中になると両親の部屋からは義父の怒りに満ちた声が聞こえてくる。それを聞く夫の目つきは鋭くなった。夫も義父も当時はお互いに本当に腹を立てていたのだろう。取っ組み合いになったこともある。 そして、(義父は何を怒っているのだろう、少しでも知っている単語が聞こえてこないか)と耳をそば立たせている私を見て、夫は「お腹の子どもによくないね」と心配した。 妻と子どもとの生活を自分の手で守ろう。それには新天地でもう一度やり直したい。両親にもこれ以上迷惑をかけたくない。「韓国を出よう。それもなるべく早く」 夫はそう決心を固めた。(続く)人気blogランキングへ←■□■読んでくださって感謝です!!
2006.12.13
つわりは2ヶ月ほどで終り、安定期を迎えた。 とはいえ相変わらず家事は申し訳程度に皿洗いをする程度で、ネコの世話や部屋の掃除や洗濯はみんな夫がやってくれた。買い物や料理は義母が、外でお金を稼いでくるのは義父と皆それぞれの役割があるなかで、私は本当にただの居候で役立たずだった。 当時、見た夢に、韓国にすむ妊婦の私が出てきたことは1度もない。いつも東京で一生懸命働いていた独身時代の私で、困った状況に置かれている私でもあった。 独身のとき、ある団体で編集部に在籍していた私は、自分が辞めるときに、次の担当として新しく入ってきた、自称ベテランとかいう中年男性に業務の引継ぎをした。 しかしその男性は私が辞めるよりも早く、しかも電話にてサッサと辞めてしまう。 辞めたあとは事務局長あてに1回だけ電話があった。挨拶なんかではない。「今まで団体に通った分、支払って」という内容だったらしい。 仕方なく本来なら私の手が離れているはずの会報もつくった。 他の職員は年度末の嵐のような忙しさにてんてこ舞いしており、今までお世話になった彼ら彼女らに押し付けていくのは何ともしのびなかったからである。 そんなことはもういい。だれが頼んだわけでもない。すべては自分で決めたことなのだから。 ところが当の昔に済んだはずの話なのに、潜在意識に強烈に刻印されてしまったのか、夢のなかで、私はあいも変わらずに会報をつくっている。 しかも死ぬほどイヤでイヤで仕方がない。 夢の私は毎回、直属の上司である事務局長に「○○さーん。私、もう辞めているんです。いつまで続くんですかぁ」と叫んでいるのだ。 うなされることこそなかったものの、この夢のせいで何度も目を覚ました。あまりにリアリティのある夢だった。(魂はその当時に残ったままなんじゃないか。今ここには心とからだしかない――) そのせいだろうか。どうにも生きているという実感が湧かない。 韓国では「場違いなところにいる」という感覚がいつもまとわりついていた。 しかし、このことはだれにも言わずに黙っていた。居候だったこともあり、夫に愛され大切にされていたこともあり、そのような立場で贅沢なことをぬかしてはいけないと思っていたのだ。・・・・・・・・・・・・・・・ 夫とは再び、散歩に繰り出すようになった。 外に出てみるとソウルは山を切り開いてつくった街だと実感できる。平野部にある東京の、街のずっと向こうの方に山が見える景色とは違って、山がすぐ近くに迫っている。 もともとは山だった街なので、地形は起伏に富んでいる。低い部分には商店街が賑わいをみせ、主幹道路が走り、地下鉄の駅もある。一方、山の急な斜面だった部分は住宅地となって、レンガでできた褐色の家々が立ち並んでいた。 近所のソデムング図書館へはよく出かけていった。 近所とはいっても、ゆっくり歩けば一時間ぐらいかかる。特に図書館へと続く上り坂は、ふうふう言いながらゆっくりと歩いた。ちょっと運動しただけでも、動機がしたり、汗をかいたりした。 その図書館には、確かな記憶ではないが日本語の本ばかりの本棚が10本は並んでいたように思う。全ての本に杉並図書館のスタンプが押してあった。 とにかく読む本には不自由しなかったし、本ばかり読んで静かに過ごしていた。(続く)人気blogランキングへ←■□■読んでくださって感謝です!!
2006.12.12
東京にいるときに52キロだった体重は、ソウルに来て一ヶ月も経たないうちに58キロに増えた。 夫の実家では歓待を受け、食べ物攻めといってもよい食生活となった。 夜、寝ようとすると膝が痛い。最初はどうしてだかわからなかったが、短期間に6キロも体重が増えたため、どうやら膝に負担がかかっていたようだ。 食べ過ぎで太ってから子どもができた。 これからも容赦なく体重は増えていくだろう。 どうやら「妊婦は二人分食べなさい」と言っていたのは昔のことで、体重が増え過ぎても妊娠中毒症などになりやすくなるため、体重管理をする必要がある、と本にある。自分に子どもができるまでは、妊娠だの出産だのはまるで未知の世界だったので、私はいちいち「へえー」と感心しながら、目を通していた。 もとの体重や体型によって増えていい体重の目安は異なるようだ。私の場合は大体10キロ前後の増加にするのがよさそうだった。 ところが、もともとの52キロに10キロを足すのか、現在の58キロに足すのかが、よくわからない。 頭の方は(ホントは52キロなんだけど―――)といった具合にまだ切り替わっていない。少しでも体重を少なく考えたい、女心とでもいうものがある。それに体調がいいのは52キロの方である。58キロもあると階段の上り下りが辛い。太りすぎである。 といって、上限を62キロとしてしまうのもどうだろうか。残すところあと4キロなんてあっという間に到達してしまいそうである。 68キロまで太ってもいいとすると、これなら猶予を与えてもらったような気がして、ホッとする。何も根拠はないが、さすがに68キロは越えないだろうな、と勝手に予想していたからだ。 いろいろ考えあぐねて、ポロシャツ先生に聞いてみるのが一番いいと思った。 どのくらいまで太っていいのかを夫に頼んで聞いてもらったが、具体的な数値は出ずに、「まあ62キロは越えると思いますよ」ぐらいの話で終わってしまった。 先生に聞いても、よくわからずじまい。大体、韓国では体重管理なんて考えるのだろうか。それさえよくわからない。 体重増加はなりゆきに任せた。結局、出産直前は64キロにまで増えた。この頃は立っているだけで地面に足がのめりこんでいきそうだった。(続く)人気blogランキングへ←■□■よろしくどうぞ ( ̄人 ̄)オ・ネ・ガ・イ♪
2006.12.11
日本でサラリーマンをしていたとき、仕事が立て込んでくると泊りで働いた。そんなときに銭湯の世話になった。お客の多くはお年寄りだった。 だが、韓国ではみんなで銭湯に行く習慣があるので、老いも若きも、時には1歳に満たない赤ん坊まで混じっている。 赤ん坊連れは大抵、お母さんとおばあちゃんが一緒で、二人で交代で赤ん坊の面倒を見ながら、自分たちも洗っている。 さすがに赤ん坊は湯船にはつけないで、大きなタライに入れたり、抱っこしたりしている。 お母さんは時々母乳を与えている。回りではみんながガンガンにすり出したアカが湯に浮いて流れているので、少し不衛生な気もする。だが、おっぱいがきれいだったら別にいいのだろう。お母さんたちは一向にお構いなしのようだ。 ほかに日本と違う点は、銭湯の中だというのにネックレス(ゴールドのチェーンが多い)をしている人がやたらといる点だ。しかも小学校低学年ぐらいの子供までもがいっちょ前にネックレスをしている。(こんなところでカッコつけてどうするの)という気もしないでもないが、私はいちいち感心して見ていた。銭湯の習慣がある国なので、見られていることを意識しているのだろうか。 ちょっとぬるめの浴槽は子ども専用となっている。子どもがバシャバシャと遊んで、洗い場の大人に湯がかかるときもあるが、かける方、かけられる方、双方おかまいなしである。 子どもがはしゃごうが叫ぼうが、どうも韓国のお母さんたちは「静かにしなさい」とはしつけていない感じであり、回りの大人も子どものやることは容認している風だった。 ちなみに「静かにしなさい」「おとなしくしなさい」はない一方、脱衣所で「早くしなさい」と子どもをせかすお母さんたちの声はよく聞いた。さすが「パリパリ(早く早く)」の国である。 サウナの隣のプールでは、中年女性が水飛沫をあげて背泳ぎをしたりしている。 また、銭湯のなかで飲食OKというのも面白かった。脱衣場では、お茶や牛乳、スタミナドリンク、ジュースといった飲料水と、サウナの熱を利用してつくったゆで卵を売っている。それらを持ち込んで飲み食いできるのだ。長時間、入浴する人たちは何か飲み物が欲しくなるだろう。 日本よりもかなりのびやかなムードで、みんな入浴を楽しんでいる。 銭湯ではたくさんの妊婦を見てきた。自分が妊婦なのでつい、ほかの妊婦の大きなお腹に目が行ってしまう。 生まれて初めて妊娠線を見たのも銭湯である。もうかなりお腹が大きくなっている妊婦さんで、下腹部からお腹へ向かって縦に赤い線がビシビシと入っている。(これが妊娠線というものか!) あまりにも迫力があったので、思わず感動してしまった。 脱衣場には全身が映る大きな鏡がある。いつも自分のお腹を眺めていたが、やや太めのオバサンが映っているだけで、7ヶ月目に入るまでは妊婦には見えなかった。 だが、身体の方は確実に妊婦だった。 妊娠中は新陳代謝が活発になるそうで、急に身体がよく汚れるようになっていた。アカスリでちょっとこすっただけで、怖いぐらいに垢がボロボロ出てくる。(汚すぎる。こんなもん義母に見せてはいけない) 私はあせった。 背中をこすり合う前に、急いで全身をこすって垢を出す。それでも背中をこすってもらうと、まだまだたくさん出てくるので恥ずかしかった。 妊婦になってからというもの、銭湯から家までの道のりも大変なものになった。それほど距離はないものの、急な坂を登っていかなくてはならない。行きはよいよい、帰りは怖いである。 風呂あがりでのぼせていることもあって、坂を登り始めると汗が噴き出してきた。心臓は早鐘のように打ち、気分も悪い。 休みながら登ろうと、階段の手すりにつかまってしゃがんでいたら、夫が見かねて私を負ぶって階段を登った。「重くない?」「全然」「58キロもあるよ」「大丈夫」 毎回こんな会話を交わしていた。夫は冗談でも重いとは言わなかった。 この頃はつわりも終わって体重が58キロに戻っていたので、かなり大変だったのではと思う。 夫の背中で感謝しながらも、私はぐったりとカエルのようにへばりついていた。(続く)人気blogランキングへ←■□■よろしくどうぞ ( ̄人 ̄)オ・ネ・ガ・イ♪
2006.12.10
1週間に1回ぐらいの割合で、家族みんなで近所の銭湯へと出かけた。 こちらの銭湯は、漢字で沐浴と書き、「モッギョッ」と発音する。ひとり350円を窓口で払い、男性は上の男湯へ、女性は地下の女湯へと行く。 私はもともと熱い風呂は苦手で、サウナもそう長くはいられない。湯船につかって、石鹸で身体を洗って、頭を洗って、また湯船につかって仕上げたところで、1時間もかからない。 ところが、義母も義妹も1時間以上はたっぷりかかるという。 初めは何で1時間以上もかかるのかわからなかった。 だが2回、3回と一緒に銭湯に行くうちに、彼女たちはアカスリをするから時間がかかるということに気がついた。 まず最初は軽くかかり湯をし、石鹸とアカスリ用のタオルで身体を洗う。次に湯船にしばらくつかり、サウナに入る。すっかり毛穴は開き汗だくで、皮膚も程よくふやかっている。それから、アカスリで全身くまなくゴシゴシとこする。 背中はお互いにこすりあう。いかにも情の国、韓国らしい習慣だと思う。義母とは、本当にハダカの付き合いになってしまった。 ところが、アカスリは慣れるまでは痛いし、すぐに肌が赤くなる。たまにするのならともかく、銭湯のたびでは刺激が強すぎて肌によくないんじゃないかとも思った。 義母には「痛いです」を連発した。 ところが韓国式に慣れると今度は、日本式のタオルに石鹸だとどうも生ぬるい。それに石鹸で洗ってもアカスリでこすれば垢が出ることがわかったので、アカスリをしないときれいになった気がしない。後に帰国することになるのだが、すぐにアカスリタオルを買い求めた。韓国と同じアカスリタオルがなかったのが不満だったほどだ。 義母が背中をこすってくれた後は、私も義母の背中をこする。だが、力加減がよくないのだろう。じきに「いいよ」と言われてしまう。 義母、義妹だけではなく、見ず知らずの人とも背中のこすりあいをした。 というのも、銭湯ではよく韓国人に間違えられて話しかけられる。 一体何だろうねと銭湯から出た後、夫に尋ねると「多分、背中を洗ってくださいって言っているんだよ」ということだった。 次からは身振り手振りでコミュニケーションをとると夫の言った通りで、相手の背中をこすると、どの人も何も言わなくてもちゃんと私の背中を洗ってくれる(ちなみに最近では知らない人同士の背中の擦り合いは段々となくなってきていて、夫も私も残念に思っている)。 アカスリをした後は、頭を洗い、湯船につかり、再びサウナへ。 義母の場合は、サウナのなかで、塩をたっぷり身体に擦り込んでマッサージをする。そんなこんなで軽く1時間は越えてしまうそうだ。 私の場合は、妊婦がのぼせてしまうのはあまりよくないかと思い、アカスリの後は、洗髪、シャワーでオシマイの1時間弱のコースである。 いつも義母や義妹よりも先にあがり、アカスリをしないですぐに沐浴が終わる夫と一緒に帰った。(続く)人気blogランキングへ←■□■よろしくどうぞ ( ̄人 ̄)オ・ネ・ガ・イ♪
2006.12.09
当時は、朝ごはんを食べながら、朝の連続ドラマを見ていた。 そのドラマには、医者の夫と彫刻作家の妻、ふたりの間には双子という家族が出てきた。そして夫には女医の彼女いて、すでに付き合っている。妻の方も師匠である作家を尊敬し、恋心も抱いているようだ。先生の方は愛弟子との結婚をまじめに考えていて、双子を手名づけている。この夫婦はまだ離婚は成立していないものの、すでに別居中という設定だ。 妻役が目鼻立ちのくっきりとした美女である。 うっかり「美人はいいなあ。結婚してももてるよ」と口走ってしまい、夫に「フーン、もててどうするの」とにらまれた。 ドラマのストーリーにも夫は結構、本気で腹を立てていた。 結婚して子どももいるのに、夫も妻も別の人と付き合ったり、好きになったりでケシカランと怒り、さらにこの夫婦が幸せになりたくば元の鞘に納まるしかないと断言した。 私は夫とは反対の考えだった。この愛情の冷めた夫婦はさっさと離婚して、お互い好きな相手と一緒になって人生を新しく創り直せばいいのだ。 なにせ、ドラマなので、そうそう簡単には離婚して、次の家庭を築いて、とは事は運ばない。 夫の彼女はなかなか彼の子どもができないので泣く。妻は妻で先生になびくそぶりを見せつつも、素直に胸に飛び込めないで、心にもないことを言ったりする。 夫は腹が立つなら観なければいいのに、ブリブリ怒っている。 夫によると、韓国には、「夫婦が別れるのは、水をナイフで切るようなもの」という意味のことわざがあり、そうそう簡単には別れられないものだし、また、離婚した女性は周りから白い目で見られるそうで、話を聞いていると(何だか昔の日本みたい)という気がした。 とはいえ、韓国も近年では離婚率が高くなってきており、冷えてしまった夫婦関係に女性がしがみつかなくなってきたということだろうか。・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 夫は夫で日本人の結婚観については驚くことがあるらしい。「日本人の女性で、夫が定年退職すると離婚したりする人がいるでしょ」「うん」「それが信じられない」「子どもを育てあげて、私はやることはやったんだから、あとは好きに生きさせてちょうだいってことじゃないの」「ええっ!!」「―――なんで?」「離婚するって決めているのに、それをずーっと心に持ったまま、何年も暮らすの?」「そうなんじゃない」「もうそれが信じられない。捨てられた男はたまらないよね」 離婚する決心を固めたのに何年もそれを黙って夫婦を続け、ある日突然、別れ話を切り出す。夫は冷水をぶっかけられる思いで聞いている―――。 そんなことができてしまう日本人女性は、夫から見ると大変怖いそうである。何を考えているのかわからないからだ。 また、こうした離婚例は韓国ではまだ受け入れられにくいと夫は続けた。 ある韓国人女性が子どもを育て上げ、夫が定年退職をした後に、「自分は夫とは性格が合わないから離婚したい」と訴訟を起こした事例があるそうだ。この女性は1審、2審と負け、日本で言う最高裁判所で勝訴した。 この事例はマスコミでも報道され、社会的問題にもなったそうだが、その背景には「女性はもっと我慢をして妻として最期まで夫に添い遂げるべし」という風潮が日本以上に強くあるためであろう。 女性は大変だ。しかしえてして韓国の女性は強い。(続く)人気blogランキングへ←■□■よろしくどうぞ ( ̄人 ̄)オ・ネ・ガ・イ♪
2006.12.08
<連載 19回目> テレビを見ていると、バラエティ番組で面白い企画があった。 国籍は不明であるが英語圏出のタレントが、タクシーの運転手に化けて、何も知らずに乗ってきたお客に、「英語でしゃべってくれ」とふる。 すでにタクシーは走り出しているので、乗客は観念して英語を話す。 後でタレントが乗客の英語力にA、B、Cとランクをつけるという内容だ。 乗客が話す内容は自由だ。「オレはビッグだ」とひたすら言い続ける人もいれば、一生懸命身振り手振りを交えて自分の仕事について説明する人もいる。 ある日、50代か60代ぐらいの、大きな色付きサングラスをかけた女性が乗ってきた。 この女性、英会話をふられても、まったく物怖じしない。 それどころか、いきなり「私は主人を永遠に愛している」だの「生まれ変わっても、また主人と結婚する」 だのと、夫をいかに愛しているかを真顔で延々と述べている。 一瞬、(この人は芸能人か)と思った。日本の中年女性だったら、こんなことはまず言わないだろう。仮にそう思っても見ず知らずの運転手さんにこんな話をするだろうか? それどころか「生まれ変わったら、この夫はもう勘弁してほしい」と言いたい人ならいるかもしれない。現にうちの母は、父の目の前だろうが常々そう言っている。どうか冗談であってほしい。 タクシーに乗った中年女性はあまりにも堂々としている。私は度肝を抜かれつつも、かっこいいと思った。 それにしても永遠に愛するといえば、一緒に暮らしだしてから、夫が同じことを言い、私に同じことを要求した。「アナタ、生まれ変わってもワタシと結婚する?」「生まれ変わったら、性格も変わっているだろうから、わからないよ」「ワタシはまたアナタと結婚するよ」「じゃあ、もしヘビに生まれ変わっていても結婚する?」「それってワタシと結婚したくないってことでしょ!!」 夫は、「ヘビが大嫌い」というハンディ(?)を乗り越えてくれるだろうか。 さて、夫はクリスチャンである。 もし教会で結婚式を挙げていたら、神サマの前で伴侶を「永遠に愛する」と誓わなくてはならない。 今好きかどうかは自信をもって言えるであろう。 だが、10年後、20年後はどうなっているか。 まして永遠となると、これはもうヒューマンスケールじゃないよなと、私は「永遠」という言葉の持つ重みの前で少々びびってしまう。 そうかといって、神前で誓うかと問い詰められて(?)、「自信はないですが」だの「保証はしないですけど」などと前置きをするのも潔くない。(結婚するということは、覚悟を決めることだ) と納得した。 ただ、私にとっては、『方丈記』にある「ゆく川の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず」という世界、万物は移り変わり行くという考え方の方がしっくりくるのである。 結婚2年目を迎えたときに、生まれ変わっても結婚してくれるはずの夫が、「もしアナタが先に死んだら、5人ぐらいの女と結婚するからね」と言っていた。 ヘビなんかに生まれ変わったら最後、絶対に選んでくれなさそうだ。 結婚5年経った今、私は生まれ変わっても夫と結婚してもいいなと思う。しかし夫婦でなくても構わない。親子でも兄弟でもいい。家族として関わっていければそれもいい。 しかしもし再び夫婦になるとしたら・・・夫よ、私を35歳になるまで放っておいてフラフラとバックパッカーなどせず、もっと早く私を見出すことだな。(続く)人気blogランキングへ←■□■よろしくどうぞ ( ̄人 ̄)オ・ネ・ガ・イ♪
2006.12.07
私たちは、日本で6年飼っていたネコのカツラも一緒にソウルに連れて来た。人見知りの激しいネコだったが、不思議なことに夫には初めから懐いていた。夫もカツラを「コドモ」と呼んでかわいがってくれた。 ソウルの街では、車の下や塀の上でのんびりとネコが寝そべっているという日本ではお馴染みの光景はついぞ見かけなかった。いたとしてもみんな野良ネコのようで、ゴミを漁っている。 ネコそのものが少ないというのもネコ好きの私にとっては寂しいが、「この泥棒ネコ!」と嫌われている野良ちゃんばかりで、愛されているネコを見ないというのはなおさら寂しい。 その一方で、イヌはよく見かけた。それもマルチーズやヨークシャーテリアといった小型犬が多い。ツメにピンクや紫のマニキュアを塗ったり、服を着せたりして、飼い主が抱っこして歩いている。 店先などでつながれている雑種もたくさん見た。一度も洗ってもらったことがないのか、例外なくどの犬も毛が薄汚れていて、どことなく貧相である。過保護気味の小型犬と違って、大切に飼われているという感じがしない。 夫はそういう犬を見るたびに指差して「あれは食用だ」という。 私たちはカツラのエサやトイレの砂を買いに、近所のペット屋を何軒も回った。いや回らざるを得なかったと言った方がいいだろう。どの店もイヌ用のものが大半であり、ネコ用は置いていないか、非常に種類が限られていたりする。 店に入るたびにやっぱりネコは韓国では人気がないのだと感じた。 ボム産婦人科のすぐそばには、車がひっきりなしに走っている大通りがある。ここでは夫がいつも「離れないで」と私の手をひいて、車の間を縫うようにして渡った。 この大通りは最寄の地下鉄駅へと続く賑わいのある通りで、その道端には、ぎっしりと食料や衣類などが広げられ、売り子のアジュンマ(おばさん)たちが座り込んでいる。 さてこの大通りに面する場所に1軒のペット屋があった。 店に入ってみると、愛想のよい、話好きのオジサンがいて、ダックスフントが店内で放し飼いにされている。 この店にはネコのエサとトイレの砂の両方が置いてあった。トイレの砂は1種類しかないが、それでも置いてあるだけほかの店よりはマシというもの。ようやく頼みの綱を見つけて私たちは安堵した。 しかし、その店も問題がなかったわけではない。 しばらくしてトイレの砂を買い求めに行くと、前回買ったものとは違うものが置いてあり、しかもそれ1種類しかない。 夫は「砂が変わったらネコが混乱するじゃないですか」と、クレームをつけて割り引きしてもらっていた。 夫は値引き交渉は億劫がらないどころか積極的ですらある。エライなあと思う。 私が妊娠してしばらく経つと、「ネコと妊婦が同じ部屋にすんでいいのか」と義母が問題視するようになった。 本で調べてみると、ネコに口移しでエサを与えたり、排泄物の始末を素手で行うのはよくないが、それほど神経質にならなくてもよさそうなことは書いてある。 不衛生な飼い方をしなければ特に問題はないだろうとタカを括っていたし、検診の際に先生に聞いてみて、先生も大丈夫だと言ってくれれば一層、心強い。 ところが、ポロシャツ先生には、「ネコはよくないです」と、ハッキリ言われてしまった。しかも義母もいる前である。 後で「聞かない方がよかったんじゃない?」と夫。 確かに。 ポロシャツ先生によれば、ネコの病気が人にうつる可能性があると言う。カツラは外ネコなので家ネコ以上にその可能性があるだろう。 そうかといって、カツラを捨てるわけにはいかない。 私はカツラに触るのをやめ、エサやりもネコのトイレ掃除も、部屋の掃除も全部、夫にしてもらった。これで妊婦とネコの同居は大目に見てもらいたい、というワケだ。 しかし、それでも義母からは毎日のように「ネコを捨てろ」「ネコは日本に送れ」と言われる。義母はもともとネコが大嫌いなのだ。 夫とのらりくらりとかわしていると、しまいには「ネコを日本に送れ。今すぐここで約束しろ。約束するか」と迫られる。義母は真剣なのだ。 こちらは居候のため、甚だ旗色は悪い。私たちは使わせてもらっている部屋から、なるべくカツラを出さないように、窮屈に飼っていた。 それもこれも仕方がない。カツラが家の中や外をうろつくのを眉をひそめて見ている義母にとって、ネコ付きの私たちとの生活はさぞやストレスに満ちていたことだろう。 悪いのはネコ嫌いの家に、ネコを連れて居候している私たちの方である。 必ずしもカツラの問題だけではなかったが、私たちは親との同居は無理だとジワジワと感じ始めていた。
2006.12.06
まだ、つわりが始まったばかりの頃、義父が「ピザが食べたいか?」と聞く。 油で炒め物をする匂いは受け付けなかったのに、ピザなんてコテコテのものが不思議と胃に入る。喜んで食べていたら、両親が子どもは男の子だろうと言う。 これは、ある妊婦がピザを食べたがり、男の子を産んだという話から来ている。 私は「子どもの性別とピザは関係ないですよ」と言いたくなったが、自分にユーモアのセンスが欠けているのかもしれないと思い直した。家族みんなで何となく楽しい団欒になっているので、まあ、いいか。 夫と二人でボム病院に検診に行くようになったときのこと。 帰宅した私に義母が何か尋ねてきた。しきりに「コチュ、コチュ」と言う。 コチュがトウガラシということはわかっていたが、トウガラシが一体どうしたのだろう? もう少し後になって、コチュとは、子どものオチンチンをも意味する単語だと知った。 義母は、「子どもにコチュはあったか?」、つまり「男の子か女の子かはわかったか?」と尋ねていたのだった。 言われてみれば、子どものオチンチンはトウガラシに似ている。コチュの色がもし緑じゃなくて肌色だったら、想像してちょっと食欲をそそらない気もする。 子どもには韓国でも日本でも通用する名前をつけたかった。名前を考えるのにこのような条件がつくので、男の子か女の子かわかった方が、考える手間は半減する。 そこで翌月の検診の際、ポロシャツ先生に性別を聞いてみたが、教えてもらえなかった。 理由は2つあって、ひとつは超音波検診で性別がわかるのは、曖昧な記憶なのだが確か6~7ヶ月ぐらいに大きくなってからだということ。このときは、まだ4ヶ月目だった。 もうひとつは韓国の産婦人科では性別を教えてはいけないということだ。韓国では女の子よりも男の子の方が喜ばれるそうで、女の子とわかって子どもを堕胎する人が出るのを防ぐためだという。 今でも女の子だからという理由で堕胎するケースがあるのかはよくわからない。だが、「特にお年寄りが、未だにやっぱり男の子を欲しがるよ」とは、夫の後輩から聞いた。 身近にも男の子を熱望した例があった。夫の父方の伯母が、男の子が欲しくて5人も産んだという。 産まれた子どもたちは全部女の子で、さすがに6人目には挑戦しなかったらしい。 女の子が5人続けて産まれる確率は、32分の1しかない。これはすごいことだ。私はそっちの方に感心した。 夫は「そんなにしてまで男の子が欲しいかねえ」と首をひねっていた。 伯母や彼女の夫が男の子を欲しがって産んだのならまだしも、彼女の舅や姑が「男の子を産みなさい」とプレッシャーをかけた結果だったとしたら―――アイゴー、私は伯母に深く同情する。 夫は男の子でも女の子でもどちらでもいいと言ってはいたが、どちらかというと女の子を希望していたようである。「女の子はかわいいからね」とよく言っていた。 私は、男の子がやって来るんじゃないかと漠然と感じていた。女の子のわが子を想像してみるが、全然ピンと来ない。 性別がわかったのは、8カ月目の検診のときだ。このときは一時帰国して実家で暮らしており、近所の産婦人科で検診を受けた。「男か女かわかったら教えてください」と言うと、「見ればわかるよ。これが証拠写真ね」 と、先生が、超音波検診のときに生殖器の部分をプリントアウトしてくれた。 それには大小の丸がひとつずつ並んで写っている。大きい丸がタマタマで、小さい丸が “コチュ”であろう。コチュの形が丸になっているのは、輪切り状態で写っているからだろうか。 私たちのところにやって来るのは男の子だった。
2006.12.04
「―――でも、先生」 義母は食い下がった。 わずかにわかる単語と身振り手振りからは「嫁はちっとも食べないし、これではお腹の子によくない」ということが伝わってくる。 私は黙ったまま下を向いた。 ソウルに来てからというもの毎日、義父と義母から「モゴ(食べなさい)」「モゴバ(食べてみて)」と言われていたので、義母の突っ込みには戦々恐々だった。 特に義母は3人いる子どもたちとそれぞれの配偶者に食べさせることに執念を燃やしているようで、私は密かに「モゴバ攻撃」と呼んでいた。 とにかく食べろ食べろと勧められる。 満腹感とともにノルマを達成しなければならない気分で椀の中身を頑張って食べたのに、空になった途端、ガサーと入れられて「モゴ」である。 早く満腹になるのを避けるために、野菜をちびちび突ついていると、「肉を食べろ」と皿に入れられる。しまいには口のなかに突っ込まれる。 遠慮しているのではない。本当にもう食べられないのだ。 だが、いくら「お腹がいっぱいです」と言ってもモゴバ攻撃は続く。 どうかすると義母は「(お前は)食べていない」と言い切ったりもする(だれの基準だろうか。もちろん義母である)。 自分の好きな量を食べるという自由が、両親と一緒に暮らすとないのである。 何の挨拶も挙式もなしに、日本ですでに入籍だけして、いきなり嫁としてソウルにやって来た私を歓待してくれるのはありがたかったが、モゴバ攻撃が毎日、3度の食事のたびにある。 ソウルに来て1ヶ月も経たないうちに6キロ体重が増えてしまい、食事の時間が恐怖になったほどである。 だが、ポロシャツ先生は「つわりの間は、みんな食べたくても食べられないんです」と援護射撃をしてくれた。 私は安堵して心が軽くなった。義母の手前、うっかり微笑まないようにする。 これで先生までも「頑張ってしっかり食べなさい」なんて言おうものなら、義母のモゴバ攻撃はますます勢いを得て、脂汗を流しながら食べ物を口の中にねじ込むしかなかっただろう。 それにしても先生はまたしても、ピシャリとした物言いで、義母は二の句がつげなかった。バトルの軍配は先生に上がった。 ポロシャツ先生は義母には結構きつかったが、私や夫には、にこやかに親身に接してくれた。 その後の妊娠生活では、韓国、日本、オーストラリアの3カ国に滞在し、それぞれの国の先生に診てもらうことになるのだが、韓国のポロシャツ先生が一番感じがよくて、好感が持てた。 しかし、ポロシャツ先生にも相性のよし悪しがあって、たまたま義母とは悪かったのだろう。 帰宅してしばらくの間、義母は毒づいていた。「病院を替えなさい」 夫には厳命が下り、次回の検診には義母は同行しなかった。 夫は病院を替えたとウソをついていたが、「新しい病院の手帳を見せなさい」と言われ、ばれてしまう。 後は何を言われても「ハイハイ」「わかりました」とのらりくらりと聞き流して、私たちは相変わらずボム病院へと通った。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・「モゴバ攻撃」などと勝手に名づけて失礼しているが、「お腹いっぱい食べさせる」というのが義母の愛情表現である。 なんでも義母が若くて、まだ義父の両親と一緒に暮らしていた頃は、ロクにご飯を食べさせてもらえず、残り物を泣きながら食べていたらしい。1世代しか違わないものの、韓国の昔の姑と嫁の関係は、私だったらとてもではないが耐えられないものだったと想像する。 胃袋の記憶とは忘れることはできないのだろう。 義父の両親はとうに亡くなっているが、今でも義母は、子どもたちや私のような嫁には絶対にひもじい思いやつらい思いをさせたくない一心で、たくさん料理をつくり、食べさせる。 しかも量が多いだけではなく、いろいろなものを手間隙かけてつくっている。 昔はどこの家でもキムチは手作りだっただろうが、今ではキムチは市場やスーパーで簡単に手に入る。お惣菜もいろいろな種類が並んでいる。 しかし夫の実家では、キムチもお惣菜も自家製が当たり前である。キムチも白菜のキムチだけではなく、魚介類を入れたキムチ、チョンガッキムチ(チョンガは大根に似ているが小型)、ムルキムチ(爽やかな酸味の冷たいスープのようなキムチ)、カクテキ(大根の角切りのキムチ)、オイキムチ(キュウリのキムチ)などいろいろな種類のキムチをつくる。お惣菜も各種あるので、卓袱台の上はいつも料理でいっぱいだった。 夏の名残りを留めたある日のこと、義母が大量にブドウを買って来た。(だれがこんなに食べるんだろう)と不思議そうに眺めていたら、大量のブドウはジュースに変わった。 義母が妊婦である私のために、そしてお腹の子どものために、わざわざ絞ってつくり、「飲んで」と勧める。 手作りのジュースは市販のものよりもはるかにおいしい。後に残らない上品な甘さである。ブドウジュースがこんなにおいしいものだと初めて知った。「料理とは愛情表現なのだ」 義母お手製のジュースを飲んで、私は当たり前のことに気がついた。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 5ヶ月目の超音波の検診では、子どもはもう人間のかたちになっているのが見えた。 産婦人科からの帰り道、私は無性にうれしくなった。 夫の手を握り締めて顔を見上げると、夫もやはりうれしそうな顔をしている。 私たちは何も言わなくてもお互いに同じ気持ちになっているのがわかった。「子ども大きくなったね」 私は毎月、血圧と体重を計り、超音波検査を受けていた。 35歳で妊娠した私は高齢出産となる。母親が高齢になるほどダウン症の子が生まれる確率は高くなるので、その検査を追加で受けるかを夫に相談した。 だが聞いてみると、即座に「しない。どんな子どもでも受け入れる」という返事が返ってきた。 夫がそう覚悟を決めているのなら安心だ。私も障害をもった子どもが来てもうれしく思うだろう。 二人で大切に育てよう。 追加検査の必要はなくなった。(続く)
2006.12.02
「産まれたての赤ん坊に泣き声をあげさせるのに昔は叩いたじゃない。どうもそれがトラウマになるらしくて、叩かない方針の病院があるよ」 夫の友人のドンヨンさんがそう言って、産婦人科を紹介してくれた。彼の子どももその病院で産まれたそうだ。 当時、ドンヨンさんは、地下鉄の駅からやや離れた商店街でアイスクリームの店を構えていた。 彼の店は家から図書館に行く途中にあったので、私たちはしょっちゅう立ち寄っては、新作やらお勧めやらを、妊婦だというのにお腹が冷えるほどごちそうしてもらっていた。 教えてもらった病院は、ボム産婦人科という。家から歩いて30分ほどのところにあった。 市販の妊娠判定検査薬で陽性と出た翌週、義母と夫と3人でボム産婦人科へ出かけた。 院内は清潔で、待合室のシートのほとんどは人で埋まっていたので、端っこの方に腰をおろした。お腹の大きな女性、子ども連れの女性が大半を占めていたが、付き添いの男性も2~3人来ている。 待合室で血圧や体重を計り、数値を看護婦に記録してもらう。 尿検査と血液検査も受ける。 超音波検査を受けると、白い小さな丸が見えた。 この時期は胎児ではなく、胎芽というそうだ。芽というにふさわしい、命の芽生えである。白くて小さな丸は、胎芽が入っている嚢(ふくろ)だそうだ。 胎芽の大きさは小指の先ほどしかないものの、母親をゲロゲロにし、ウツ状態に陥らせている。つわりはうらめしかったが、母体に与える胎芽の影響力には感心した。 担当医は40代の働き盛りだろうか。やや下がり目で目と目の間が少し離れているのが、人の良さそうな印象を与えた。白衣ではなくポロシャツを着ていたので、どうも先生らしく見えない。 この先生と義母はどうも相性が悪かったようだ。 義母は、つわりでロクに食事もとらない私を心配していた。 妊娠前までは自家製の朝鮮人参酒を、私が喜んで飲んでいたので、「朝鮮人参酒は飲ませていいですか」 と聞いたらしい。義母は、私の身体を慮って、そう質問したのだろう。 ところが、先生が、酒やタバコは控えてくださいという話をした直後だったので、「私は、酒はダメだと言ったんですよ」 と、ピシャリとはねつけた。 帰宅後、義母は結構ムカッ腹を立てて、ブツブツこぼしていた。 翌月も3人で検診に出かけた。 この頃、わが家での会話には『ヘモグロビン』という単語がしばしば登場した。ここで言う『ヘモグロビン』とは市販の妊婦用の栄養補助食品を指す。 力なく部屋に閉じこもっている私を見て、義母は『ヘモグロビン』を摂れば元気になるのではと考えていたそうだ。 義母がポロシャツ先生に相談したところ、「まだ早いです。必要ありません」という返事がかえってきた。「―――でも、先生」 義母は食い下がった。(続く)
2006.12.01
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