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理由は書くと長くなるので省くが、3日ほど前、家のなかの「パンドラの箱」を開けないといけなくなった。そして気の進まない作業を深夜こなした。 この「パンドラの箱」と名づけたものとは、昔のホテル時代の資料やら未整理のまま箱に詰め込んださまざまな小物のことで、ダンボール箱4つもある。 それから、さらに。 今の家に引っ越したときに「とりあえず後で整理しよう」と、箱詰めして押入れに放置して約1年たった物ども。最近、押入れに子どもたちが入って、アレコレほじくりだしたので、これも何とかしようと、再び箱に詰めて机の上の子どもの手の届かないところに置いた。 もう、皆さんもおわかりのことと思います。 とりあえず箱に入れているだけなので、何も解決していない。 悪いことに子どもたちが机にのぼって、ちらほら、またいろんな小物を床に撒き散らして遊びだした。 さすがに裁縫セットの針が3本も4本も床に落ちているのを拾うと、何とかしないと本当にダメだなあと反省。 針はとりあえず(←懲りない)、高ーい本棚の上へ。後で夫が針どもを見つけて驚いていた。 ぐちゃぐちゃになって箱に突っ込まれただけの物どもが無言のプレッシャーをかけてくる(ような気がしている)。 少しずつ片付ければいいのはわかるのだが、「やりたいこと」も「やらなきゃいけないこと」もあって、一日はあまりに早く終わる。 このまま放っておけばおくほど精神状態は悪化するし、そういう性格(まじめ、だけどぐうたら)なのは変わらない。 もし酒でも飲めたら、しこたまかっくらって、何もなかったことにして寝てしまうだろう。 幸いオリオンビールなら我が家にたくさんある(もらいもの)。 よしっ!! 箱のなかの小物、1日に最低20個は整理してこう。
2006.12.28
その頃、読んだ本に、『エグザイル』(ロバート・ハリス著、講談社)がある。著者のハリスさんはかつて妻だった女性を連れて、世界を放浪したことがある。旅の途中、一時は日本に帰国したものの、夢がかなわず精神状態は悪化し、飛び出すようにして日本を出てしまう。ロクに計画も立てないまま出国したハリスさんの気持ちは、当時の私たちは痛いほどわかった。「とりあえず何でもいい。とにかくここを出よう」 私たちも心からそう思った。 韓国の両親には、突然やってきた外国人の嫁なのにも関わらず受け入れてもらい、それこそ衣食住すべてを提供してもらっている。「出たい」だなんてバチ当たりだと思ったが、こうした常識では抑えることができないほど、閉塞感は募っていたのだ。(このままではダメになってしまう) 夫も私も同じことを考えていた。「とにかく、韓国を出よう」 問題は、「ではどこへ行く?」だった。「日本に帰ってもいい。東京に戻ってもかまわない」 かつて、東京から、いや日本から出ることばかり考えていた私はそう提案した。 夫はしばらくの間、無言で考えて、やがて「やめよう」と言った。 考えをまとめるために、私たちは手帳を引っ張り出した。 私たちは一体どこに行きたいのか。まずこれをはっきりさせよう。お金、仕事、ビザなどの心配は、とりあえずおいておくことにする。 行きたい国の候補をそれぞれ挙げ、さらに行きたい気持ちの度合いを点数で書いた。二人の点数の合計が高い国が、次に行く国というわけだ。 アメリカのハワイとフロリダ、オーストラリアは高かった。カナダも結構高かったのだが、ただでさえ韓国は冬に向けて寒くなっていて、寒冷な国に行くのは気が進まなかった。 韓国にいる間に、こうした国々で働けるよう仕事を探せないだろうか。私たちは図書館へ出かけたり、インターネットで探したりした。「もし外国へ行って失敗しても離婚しないって約束して」 と夫は言った。 もちろん離婚するつもりはない。 とにかく行ってみてダメだったら、また韓国でも日本でも帰ってくればいい。働いてお金をためて、また挑戦しよう。とにかく第一歩を踏み出そうとした。 ケイファさんが、知り合いがメルボルンにいるので会ってみては、と夫に紹介してくれた。就職先の世話を頼めるかは未知数だが、相談ぐらいには乗ってくれそうだった。 とりあえず、夫に先にオーストラリアに行ってもらって住むところを探してもらうことになった。(続く)人気blogランキングへ←■□■読んでくださって感謝です!!↑ ↑ ↑現在、76位です。ベスト100位入りしました。感謝 感謝です。■□■
2006.12.15
ときどき私たちは冗談で、こうなったらもう二人でバックパッカーになろうかと言うこともあった。 もし韓国で妊娠していなかったら、その話は現実味を帯びていっただろうし、やってみればそれはそれで、多分楽しかっただろうと思う。 しかし現実には私は妊娠した。 いっそのこと、何も考えないで放浪の旅に出るかと思ってはみるものの、大きなお腹を抱えてよろよろ歩き、夫と一緒になってヒッチハイクをしている姿は何回想像しても、どう考えてもしんどそうだった。 昔むかし、雑誌か何かで読んだのだが、世界には面白い人たちがいるもので、フランス人のカップルが自転車をこいで世界を回り、旅の途中で子どもが生まれたそうだ。最初は2人で旅行し、最後は3人になってフランスに帰ったと記憶している。(何事もなせばなるもんだなあ)と能天気な気持ちになり、大きなお腹でヒッチハイクをしている自分を想像しては怖気づいていた。 とにかく子どもができてしまえば女性には、いろいろなことが降りかかる。つわりもそう。お腹がどんどん大きくなるのもそう。さらに出産、授乳と続く。やっぱりバックパッカーになるなら最初から避妊するのが無難だろう。 お腹の子どものことと、それから日本から連れてきたネコのカツラ。これがバックパッカーにならなかった決定打になった。 まさかネコに紐をつけて歩かせるわけにはいくまい。かといって、キャリーに一日中入れて運ぶのも疲れるし、カツラの方でも真っ平ごめんだろう。 カツラのことだから、ストレスのあまり脱走してしまうだろう。夫の実家に来た初日、カツラは不慣れな場所を怖がって、網戸の破れ目から脱走してしまったことがある。「ネコ連れてバックパッカーなんて無理」 というと夫は笑った。 夫も本気でバックパッカーの話をしたわけではなかった。(続く)人気blogランキングへ←■□■読んでくださって感謝です!!↑今115位です。あともうひと「押し」お願い~~GO GO ベスト100入りっ■□■
2006.12.14
胎児は6ヶ月で耳が聞こえるらしい。それを知った私たちはお腹の子どもに話かけるようになった。「あなたに逢うのを楽しみにしていますよ」 小さな声で言ってみる。(―――あとは、何をしゃべればいいんだろう?)「外の世界は楽しいですよ」「―――早くいらっしゃーい」「―――待っていますよー」「―――」 独り言のようでやたら照れくさいので、家人に聞こえないよう、ボソボソ小声で話す。 夫は私とは違ってもっと積極的に話しかけた。私のお腹をなでながら、将来子どもが健康で幸せで、お金持ちとなり周りから尊敬を集めるだろうという彼の願望といえばよいか祝福といえばよいかわからないが、毎回そういったことを延々と韓国語で話しかけている。 一見、平和で穏やかな日々が続いた。しかし、私たちの内面は決して穏やかではなかった。 夫の仕事は相変わらず始まっていない。(―――仕方がない) 夫は生まれてくる子どものためにも、どこかに就職しようと考え始めた。だが当時の韓国も日本と同様、不景気で就職は大変だったようだ。 夫は(どうしても働く会社がなければタクシーの運転手をしよう)と覚悟を決めた。 実際、就職活動を開始して、新聞の求人欄に目を通しては、ポツリポツリと面接に出かけて行くようになった。例えば大手企業の関連会社のクレーム対応の部署などだった。 面接には出かけたものの、(ちょっとな―――)と躊躇する会社だったのだろう。夫は断りの電話をその会社に入れた。にも関わらず、日を改めて「ぜひ来て欲しい」という電話が先方から入る。「アイゴー、だれでもいいんだね」と夫は嘆き、「そんな会社には行かないでよ」と私も言い、夫は再度、断りの電話を入れた。 夫は学生時代、成績がよかったので、義母は、「息子はなんでこんなに苦労しているのか」と泣いたそうである。 そのうち義母が「お前たちはゴミを拾う仕事をしなさい」と言い出した。義母の知り合いのおじさんがゴミを拾い、リユースやリサイクルに回す仕事をしていたので、そこからヒントを得て、これなら独立家業としてできるだろうと義母は提案したのだった。 その知り合いのおじさんの妻が義母と同郷だったらしく、夫婦で割合うちによく来ていた。おじさんの方は日焼けして、肉体労働者らしいがっしりとした体格である。明るい目つきをしていたのと、うちに来るお客のなかでは珍しく、ほとんど言葉の通じない私にも毎回話しかけてくれたのとで、不遜な言い方だが、この人だったら夫と一緒に仕事をしてもいいなと感じた。 ゴミ拾いは深夜に行う。夫は汚れてもいい格好をして軍手をはめて、私が寝ている間にこの人のトラックに乗り込んで行った。 うちの近所ではいたるところで、まだ使えそうな家具や布団などがたくさん捨ててある。後にテレビ台を実際に拾って使ったりもした。 だがゴミ拾いは簡単ではなくて、いつどこを回るかがポイントらしい。夫は1回、2回と同行して働いて、そのポイントがわかったようで、「仕事はもうわかった。ひとりでできる」と言ってきた。 中古の家具などを直して使うというのは、韓国では貧乏臭く思われているらしい。ゴミ拾いという仕事も蔑まれているようで、夫と親しくしていた同級生のひとりは「お前のする仕事じゃない。お願いだからやめてくれ」と懇願までした。 しかし、ここ韓国でも日本と同様、ゴミ問題は今後ますます深刻化していき、いやがおうでも環境の時代を迎えるに違いない。そのとき、リユース、リサイクルは新品を買う余裕がないから仕方がなくする行為ではなく、環境に負担をかけないよう意図的に選択するライフスタイルとして広がっていくだろう。 だから、これは「ゴミ拾い」などと呼んで蔑む仕事ではない。環境ビジネスとして大きく成長させようと私たちは話し合った。 この仕事にはトラックが必要なので、夫は中古のトラックを買うつもりで出かけていった。そして買わずに帰ってきた。「車屋さんに行くまでは本当に買う気だった」と夫。 買うのをやめた理由はこんなようなことだったとおぼろげに覚えている。 現金のなかった私たちはローンを組むしかないのだが、果たしてそれを返せるだけの収入があるだろうか。 またリサイクルビジネスについても夫なりに調べていて、思った以上にすでにいろいろな企業や人が手がけていることを知った。後発である以上、相当研究して、先発との差別化を図らないとビジネスとして成功させるのは難しいだろう。 ただ今でもはっきりと思い出せることがある。 もし夫が本気でこのビジネスをやろうと決めたのなら、何としてでもトラックを買っただろうし、そうしなかったには、夫なりの理由があると思ったことだ。 その理由は明確な理屈でなくて、ただ何となくという感情や感覚かもしれないが、しかしそれは無視すべきではないとも思った。 ゴミ拾いの仕事は、そのうちだれも話題に挙げなくなった。 そんなこんなで物事がうまく進まずに私たちは困っていたが、韓国の両親も困っていた。息子が妻を連れて帰国し、子どもも生まれてくるというのに、仕事がない。 私たち夫婦の問題ではあったが、両親にしてみれば他人事ではない。特に同居していたので、心配も倍増したことと思う。 義父は息子夫婦の行く末を案ずるあまり、悪いことに時々、義母にヤツ当たりをした。 夜中になると両親の部屋からは義父の怒りに満ちた声が聞こえてくる。それを聞く夫の目つきは鋭くなった。夫も義父も当時はお互いに本当に腹を立てていたのだろう。取っ組み合いになったこともある。 そして、(義父は何を怒っているのだろう、少しでも知っている単語が聞こえてこないか)と耳をそば立たせている私を見て、夫は「お腹の子どもによくないね」と心配した。 妻と子どもとの生活を自分の手で守ろう。それには新天地でもう一度やり直したい。両親にもこれ以上迷惑をかけたくない。「韓国を出よう。それもなるべく早く」 夫はそう決心を固めた。(続く)人気blogランキングへ←■□■読んでくださって感謝です!!
2006.12.13
つわりは2ヶ月ほどで終り、安定期を迎えた。 とはいえ相変わらず家事は申し訳程度に皿洗いをする程度で、ネコの世話や部屋の掃除や洗濯はみんな夫がやってくれた。買い物や料理は義母が、外でお金を稼いでくるのは義父と皆それぞれの役割があるなかで、私は本当にただの居候で役立たずだった。 当時、見た夢に、韓国にすむ妊婦の私が出てきたことは1度もない。いつも東京で一生懸命働いていた独身時代の私で、困った状況に置かれている私でもあった。 独身のとき、ある団体で編集部に在籍していた私は、自分が辞めるときに、次の担当として新しく入ってきた、自称ベテランとかいう中年男性に業務の引継ぎをした。 しかしその男性は私が辞めるよりも早く、しかも電話にてサッサと辞めてしまう。 辞めたあとは事務局長あてに1回だけ電話があった。挨拶なんかではない。「今まで団体に通った分、支払って」という内容だったらしい。 仕方なく本来なら私の手が離れているはずの会報もつくった。 他の職員は年度末の嵐のような忙しさにてんてこ舞いしており、今までお世話になった彼ら彼女らに押し付けていくのは何ともしのびなかったからである。 そんなことはもういい。だれが頼んだわけでもない。すべては自分で決めたことなのだから。 ところが当の昔に済んだはずの話なのに、潜在意識に強烈に刻印されてしまったのか、夢のなかで、私はあいも変わらずに会報をつくっている。 しかも死ぬほどイヤでイヤで仕方がない。 夢の私は毎回、直属の上司である事務局長に「○○さーん。私、もう辞めているんです。いつまで続くんですかぁ」と叫んでいるのだ。 うなされることこそなかったものの、この夢のせいで何度も目を覚ました。あまりにリアリティのある夢だった。(魂はその当時に残ったままなんじゃないか。今ここには心とからだしかない――) そのせいだろうか。どうにも生きているという実感が湧かない。 韓国では「場違いなところにいる」という感覚がいつもまとわりついていた。 しかし、このことはだれにも言わずに黙っていた。居候だったこともあり、夫に愛され大切にされていたこともあり、そのような立場で贅沢なことをぬかしてはいけないと思っていたのだ。・・・・・・・・・・・・・・・ 夫とは再び、散歩に繰り出すようになった。 外に出てみるとソウルは山を切り開いてつくった街だと実感できる。平野部にある東京の、街のずっと向こうの方に山が見える景色とは違って、山がすぐ近くに迫っている。 もともとは山だった街なので、地形は起伏に富んでいる。低い部分には商店街が賑わいをみせ、主幹道路が走り、地下鉄の駅もある。一方、山の急な斜面だった部分は住宅地となって、レンガでできた褐色の家々が立ち並んでいた。 近所のソデムング図書館へはよく出かけていった。 近所とはいっても、ゆっくり歩けば一時間ぐらいかかる。特に図書館へと続く上り坂は、ふうふう言いながらゆっくりと歩いた。ちょっと運動しただけでも、動機がしたり、汗をかいたりした。 その図書館には、確かな記憶ではないが日本語の本ばかりの本棚が10本は並んでいたように思う。全ての本に杉並図書館のスタンプが押してあった。 とにかく読む本には不自由しなかったし、本ばかり読んで静かに過ごしていた。(続く)人気blogランキングへ←■□■読んでくださって感謝です!!
2006.12.12
東京にいるときに52キロだった体重は、ソウルに来て一ヶ月も経たないうちに58キロに増えた。 夫の実家では歓待を受け、食べ物攻めといってもよい食生活となった。 夜、寝ようとすると膝が痛い。最初はどうしてだかわからなかったが、短期間に6キロも体重が増えたため、どうやら膝に負担がかかっていたようだ。 食べ過ぎで太ってから子どもができた。 これからも容赦なく体重は増えていくだろう。 どうやら「妊婦は二人分食べなさい」と言っていたのは昔のことで、体重が増え過ぎても妊娠中毒症などになりやすくなるため、体重管理をする必要がある、と本にある。自分に子どもができるまでは、妊娠だの出産だのはまるで未知の世界だったので、私はいちいち「へえー」と感心しながら、目を通していた。 もとの体重や体型によって増えていい体重の目安は異なるようだ。私の場合は大体10キロ前後の増加にするのがよさそうだった。 ところが、もともとの52キロに10キロを足すのか、現在の58キロに足すのかが、よくわからない。 頭の方は(ホントは52キロなんだけど―――)といった具合にまだ切り替わっていない。少しでも体重を少なく考えたい、女心とでもいうものがある。それに体調がいいのは52キロの方である。58キロもあると階段の上り下りが辛い。太りすぎである。 といって、上限を62キロとしてしまうのもどうだろうか。残すところあと4キロなんてあっという間に到達してしまいそうである。 68キロまで太ってもいいとすると、これなら猶予を与えてもらったような気がして、ホッとする。何も根拠はないが、さすがに68キロは越えないだろうな、と勝手に予想していたからだ。 いろいろ考えあぐねて、ポロシャツ先生に聞いてみるのが一番いいと思った。 どのくらいまで太っていいのかを夫に頼んで聞いてもらったが、具体的な数値は出ずに、「まあ62キロは越えると思いますよ」ぐらいの話で終わってしまった。 先生に聞いても、よくわからずじまい。大体、韓国では体重管理なんて考えるのだろうか。それさえよくわからない。 体重増加はなりゆきに任せた。結局、出産直前は64キロにまで増えた。この頃は立っているだけで地面に足がのめりこんでいきそうだった。(続く)人気blogランキングへ←■□■よろしくどうぞ ( ̄人 ̄)オ・ネ・ガ・イ♪
2006.12.11
日本でサラリーマンをしていたとき、仕事が立て込んでくると泊りで働いた。そんなときに銭湯の世話になった。お客の多くはお年寄りだった。 だが、韓国ではみんなで銭湯に行く習慣があるので、老いも若きも、時には1歳に満たない赤ん坊まで混じっている。 赤ん坊連れは大抵、お母さんとおばあちゃんが一緒で、二人で交代で赤ん坊の面倒を見ながら、自分たちも洗っている。 さすがに赤ん坊は湯船にはつけないで、大きなタライに入れたり、抱っこしたりしている。 お母さんは時々母乳を与えている。回りではみんながガンガンにすり出したアカが湯に浮いて流れているので、少し不衛生な気もする。だが、おっぱいがきれいだったら別にいいのだろう。お母さんたちは一向にお構いなしのようだ。 ほかに日本と違う点は、銭湯の中だというのにネックレス(ゴールドのチェーンが多い)をしている人がやたらといる点だ。しかも小学校低学年ぐらいの子供までもがいっちょ前にネックレスをしている。(こんなところでカッコつけてどうするの)という気もしないでもないが、私はいちいち感心して見ていた。銭湯の習慣がある国なので、見られていることを意識しているのだろうか。 ちょっとぬるめの浴槽は子ども専用となっている。子どもがバシャバシャと遊んで、洗い場の大人に湯がかかるときもあるが、かける方、かけられる方、双方おかまいなしである。 子どもがはしゃごうが叫ぼうが、どうも韓国のお母さんたちは「静かにしなさい」とはしつけていない感じであり、回りの大人も子どものやることは容認している風だった。 ちなみに「静かにしなさい」「おとなしくしなさい」はない一方、脱衣所で「早くしなさい」と子どもをせかすお母さんたちの声はよく聞いた。さすが「パリパリ(早く早く)」の国である。 サウナの隣のプールでは、中年女性が水飛沫をあげて背泳ぎをしたりしている。 また、銭湯のなかで飲食OKというのも面白かった。脱衣場では、お茶や牛乳、スタミナドリンク、ジュースといった飲料水と、サウナの熱を利用してつくったゆで卵を売っている。それらを持ち込んで飲み食いできるのだ。長時間、入浴する人たちは何か飲み物が欲しくなるだろう。 日本よりもかなりのびやかなムードで、みんな入浴を楽しんでいる。 銭湯ではたくさんの妊婦を見てきた。自分が妊婦なのでつい、ほかの妊婦の大きなお腹に目が行ってしまう。 生まれて初めて妊娠線を見たのも銭湯である。もうかなりお腹が大きくなっている妊婦さんで、下腹部からお腹へ向かって縦に赤い線がビシビシと入っている。(これが妊娠線というものか!) あまりにも迫力があったので、思わず感動してしまった。 脱衣場には全身が映る大きな鏡がある。いつも自分のお腹を眺めていたが、やや太めのオバサンが映っているだけで、7ヶ月目に入るまでは妊婦には見えなかった。 だが、身体の方は確実に妊婦だった。 妊娠中は新陳代謝が活発になるそうで、急に身体がよく汚れるようになっていた。アカスリでちょっとこすっただけで、怖いぐらいに垢がボロボロ出てくる。(汚すぎる。こんなもん義母に見せてはいけない) 私はあせった。 背中をこすり合う前に、急いで全身をこすって垢を出す。それでも背中をこすってもらうと、まだまだたくさん出てくるので恥ずかしかった。 妊婦になってからというもの、銭湯から家までの道のりも大変なものになった。それほど距離はないものの、急な坂を登っていかなくてはならない。行きはよいよい、帰りは怖いである。 風呂あがりでのぼせていることもあって、坂を登り始めると汗が噴き出してきた。心臓は早鐘のように打ち、気分も悪い。 休みながら登ろうと、階段の手すりにつかまってしゃがんでいたら、夫が見かねて私を負ぶって階段を登った。「重くない?」「全然」「58キロもあるよ」「大丈夫」 毎回こんな会話を交わしていた。夫は冗談でも重いとは言わなかった。 この頃はつわりも終わって体重が58キロに戻っていたので、かなり大変だったのではと思う。 夫の背中で感謝しながらも、私はぐったりとカエルのようにへばりついていた。(続く)人気blogランキングへ←■□■よろしくどうぞ ( ̄人 ̄)オ・ネ・ガ・イ♪
2006.12.10
1週間に1回ぐらいの割合で、家族みんなで近所の銭湯へと出かけた。 こちらの銭湯は、漢字で沐浴と書き、「モッギョッ」と発音する。ひとり350円を窓口で払い、男性は上の男湯へ、女性は地下の女湯へと行く。 私はもともと熱い風呂は苦手で、サウナもそう長くはいられない。湯船につかって、石鹸で身体を洗って、頭を洗って、また湯船につかって仕上げたところで、1時間もかからない。 ところが、義母も義妹も1時間以上はたっぷりかかるという。 初めは何で1時間以上もかかるのかわからなかった。 だが2回、3回と一緒に銭湯に行くうちに、彼女たちはアカスリをするから時間がかかるということに気がついた。 まず最初は軽くかかり湯をし、石鹸とアカスリ用のタオルで身体を洗う。次に湯船にしばらくつかり、サウナに入る。すっかり毛穴は開き汗だくで、皮膚も程よくふやかっている。それから、アカスリで全身くまなくゴシゴシとこする。 背中はお互いにこすりあう。いかにも情の国、韓国らしい習慣だと思う。義母とは、本当にハダカの付き合いになってしまった。 ところが、アカスリは慣れるまでは痛いし、すぐに肌が赤くなる。たまにするのならともかく、銭湯のたびでは刺激が強すぎて肌によくないんじゃないかとも思った。 義母には「痛いです」を連発した。 ところが韓国式に慣れると今度は、日本式のタオルに石鹸だとどうも生ぬるい。それに石鹸で洗ってもアカスリでこすれば垢が出ることがわかったので、アカスリをしないときれいになった気がしない。後に帰国することになるのだが、すぐにアカスリタオルを買い求めた。韓国と同じアカスリタオルがなかったのが不満だったほどだ。 義母が背中をこすってくれた後は、私も義母の背中をこする。だが、力加減がよくないのだろう。じきに「いいよ」と言われてしまう。 義母、義妹だけではなく、見ず知らずの人とも背中のこすりあいをした。 というのも、銭湯ではよく韓国人に間違えられて話しかけられる。 一体何だろうねと銭湯から出た後、夫に尋ねると「多分、背中を洗ってくださいって言っているんだよ」ということだった。 次からは身振り手振りでコミュニケーションをとると夫の言った通りで、相手の背中をこすると、どの人も何も言わなくてもちゃんと私の背中を洗ってくれる(ちなみに最近では知らない人同士の背中の擦り合いは段々となくなってきていて、夫も私も残念に思っている)。 アカスリをした後は、頭を洗い、湯船につかり、再びサウナへ。 義母の場合は、サウナのなかで、塩をたっぷり身体に擦り込んでマッサージをする。そんなこんなで軽く1時間は越えてしまうそうだ。 私の場合は、妊婦がのぼせてしまうのはあまりよくないかと思い、アカスリの後は、洗髪、シャワーでオシマイの1時間弱のコースである。 いつも義母や義妹よりも先にあがり、アカスリをしないですぐに沐浴が終わる夫と一緒に帰った。(続く)人気blogランキングへ←■□■よろしくどうぞ ( ̄人 ̄)オ・ネ・ガ・イ♪
2006.12.09
当時は、朝ごはんを食べながら、朝の連続ドラマを見ていた。 そのドラマには、医者の夫と彫刻作家の妻、ふたりの間には双子という家族が出てきた。そして夫には女医の彼女いて、すでに付き合っている。妻の方も師匠である作家を尊敬し、恋心も抱いているようだ。先生の方は愛弟子との結婚をまじめに考えていて、双子を手名づけている。この夫婦はまだ離婚は成立していないものの、すでに別居中という設定だ。 妻役が目鼻立ちのくっきりとした美女である。 うっかり「美人はいいなあ。結婚してももてるよ」と口走ってしまい、夫に「フーン、もててどうするの」とにらまれた。 ドラマのストーリーにも夫は結構、本気で腹を立てていた。 結婚して子どももいるのに、夫も妻も別の人と付き合ったり、好きになったりでケシカランと怒り、さらにこの夫婦が幸せになりたくば元の鞘に納まるしかないと断言した。 私は夫とは反対の考えだった。この愛情の冷めた夫婦はさっさと離婚して、お互い好きな相手と一緒になって人生を新しく創り直せばいいのだ。 なにせ、ドラマなので、そうそう簡単には離婚して、次の家庭を築いて、とは事は運ばない。 夫の彼女はなかなか彼の子どもができないので泣く。妻は妻で先生になびくそぶりを見せつつも、素直に胸に飛び込めないで、心にもないことを言ったりする。 夫は腹が立つなら観なければいいのに、ブリブリ怒っている。 夫によると、韓国には、「夫婦が別れるのは、水をナイフで切るようなもの」という意味のことわざがあり、そうそう簡単には別れられないものだし、また、離婚した女性は周りから白い目で見られるそうで、話を聞いていると(何だか昔の日本みたい)という気がした。 とはいえ、韓国も近年では離婚率が高くなってきており、冷えてしまった夫婦関係に女性がしがみつかなくなってきたということだろうか。・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 夫は夫で日本人の結婚観については驚くことがあるらしい。「日本人の女性で、夫が定年退職すると離婚したりする人がいるでしょ」「うん」「それが信じられない」「子どもを育てあげて、私はやることはやったんだから、あとは好きに生きさせてちょうだいってことじゃないの」「ええっ!!」「―――なんで?」「離婚するって決めているのに、それをずーっと心に持ったまま、何年も暮らすの?」「そうなんじゃない」「もうそれが信じられない。捨てられた男はたまらないよね」 離婚する決心を固めたのに何年もそれを黙って夫婦を続け、ある日突然、別れ話を切り出す。夫は冷水をぶっかけられる思いで聞いている―――。 そんなことができてしまう日本人女性は、夫から見ると大変怖いそうである。何を考えているのかわからないからだ。 また、こうした離婚例は韓国ではまだ受け入れられにくいと夫は続けた。 ある韓国人女性が子どもを育て上げ、夫が定年退職をした後に、「自分は夫とは性格が合わないから離婚したい」と訴訟を起こした事例があるそうだ。この女性は1審、2審と負け、日本で言う最高裁判所で勝訴した。 この事例はマスコミでも報道され、社会的問題にもなったそうだが、その背景には「女性はもっと我慢をして妻として最期まで夫に添い遂げるべし」という風潮が日本以上に強くあるためであろう。 女性は大変だ。しかしえてして韓国の女性は強い。(続く)人気blogランキングへ←■□■よろしくどうぞ ( ̄人 ̄)オ・ネ・ガ・イ♪
2006.12.08
<連載 19回目> テレビを見ていると、バラエティ番組で面白い企画があった。 国籍は不明であるが英語圏出のタレントが、タクシーの運転手に化けて、何も知らずに乗ってきたお客に、「英語でしゃべってくれ」とふる。 すでにタクシーは走り出しているので、乗客は観念して英語を話す。 後でタレントが乗客の英語力にA、B、Cとランクをつけるという内容だ。 乗客が話す内容は自由だ。「オレはビッグだ」とひたすら言い続ける人もいれば、一生懸命身振り手振りを交えて自分の仕事について説明する人もいる。 ある日、50代か60代ぐらいの、大きな色付きサングラスをかけた女性が乗ってきた。 この女性、英会話をふられても、まったく物怖じしない。 それどころか、いきなり「私は主人を永遠に愛している」だの「生まれ変わっても、また主人と結婚する」 だのと、夫をいかに愛しているかを真顔で延々と述べている。 一瞬、(この人は芸能人か)と思った。日本の中年女性だったら、こんなことはまず言わないだろう。仮にそう思っても見ず知らずの運転手さんにこんな話をするだろうか? それどころか「生まれ変わったら、この夫はもう勘弁してほしい」と言いたい人ならいるかもしれない。現にうちの母は、父の目の前だろうが常々そう言っている。どうか冗談であってほしい。 タクシーに乗った中年女性はあまりにも堂々としている。私は度肝を抜かれつつも、かっこいいと思った。 それにしても永遠に愛するといえば、一緒に暮らしだしてから、夫が同じことを言い、私に同じことを要求した。「アナタ、生まれ変わってもワタシと結婚する?」「生まれ変わったら、性格も変わっているだろうから、わからないよ」「ワタシはまたアナタと結婚するよ」「じゃあ、もしヘビに生まれ変わっていても結婚する?」「それってワタシと結婚したくないってことでしょ!!」 夫は、「ヘビが大嫌い」というハンディ(?)を乗り越えてくれるだろうか。 さて、夫はクリスチャンである。 もし教会で結婚式を挙げていたら、神サマの前で伴侶を「永遠に愛する」と誓わなくてはならない。 今好きかどうかは自信をもって言えるであろう。 だが、10年後、20年後はどうなっているか。 まして永遠となると、これはもうヒューマンスケールじゃないよなと、私は「永遠」という言葉の持つ重みの前で少々びびってしまう。 そうかといって、神前で誓うかと問い詰められて(?)、「自信はないですが」だの「保証はしないですけど」などと前置きをするのも潔くない。(結婚するということは、覚悟を決めることだ) と納得した。 ただ、私にとっては、『方丈記』にある「ゆく川の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず」という世界、万物は移り変わり行くという考え方の方がしっくりくるのである。 結婚2年目を迎えたときに、生まれ変わっても結婚してくれるはずの夫が、「もしアナタが先に死んだら、5人ぐらいの女と結婚するからね」と言っていた。 ヘビなんかに生まれ変わったら最後、絶対に選んでくれなさそうだ。 結婚5年経った今、私は生まれ変わっても夫と結婚してもいいなと思う。しかし夫婦でなくても構わない。親子でも兄弟でもいい。家族として関わっていければそれもいい。 しかしもし再び夫婦になるとしたら・・・夫よ、私を35歳になるまで放っておいてフラフラとバックパッカーなどせず、もっと早く私を見出すことだな。(続く)人気blogランキングへ←■□■よろしくどうぞ ( ̄人 ̄)オ・ネ・ガ・イ♪
2006.12.07
私たちは、日本で6年飼っていたネコのカツラも一緒にソウルに連れて来た。人見知りの激しいネコだったが、不思議なことに夫には初めから懐いていた。夫もカツラを「コドモ」と呼んでかわいがってくれた。 ソウルの街では、車の下や塀の上でのんびりとネコが寝そべっているという日本ではお馴染みの光景はついぞ見かけなかった。いたとしてもみんな野良ネコのようで、ゴミを漁っている。 ネコそのものが少ないというのもネコ好きの私にとっては寂しいが、「この泥棒ネコ!」と嫌われている野良ちゃんばかりで、愛されているネコを見ないというのはなおさら寂しい。 その一方で、イヌはよく見かけた。それもマルチーズやヨークシャーテリアといった小型犬が多い。ツメにピンクや紫のマニキュアを塗ったり、服を着せたりして、飼い主が抱っこして歩いている。 店先などでつながれている雑種もたくさん見た。一度も洗ってもらったことがないのか、例外なくどの犬も毛が薄汚れていて、どことなく貧相である。過保護気味の小型犬と違って、大切に飼われているという感じがしない。 夫はそういう犬を見るたびに指差して「あれは食用だ」という。 私たちはカツラのエサやトイレの砂を買いに、近所のペット屋を何軒も回った。いや回らざるを得なかったと言った方がいいだろう。どの店もイヌ用のものが大半であり、ネコ用は置いていないか、非常に種類が限られていたりする。 店に入るたびにやっぱりネコは韓国では人気がないのだと感じた。 ボム産婦人科のすぐそばには、車がひっきりなしに走っている大通りがある。ここでは夫がいつも「離れないで」と私の手をひいて、車の間を縫うようにして渡った。 この大通りは最寄の地下鉄駅へと続く賑わいのある通りで、その道端には、ぎっしりと食料や衣類などが広げられ、売り子のアジュンマ(おばさん)たちが座り込んでいる。 さてこの大通りに面する場所に1軒のペット屋があった。 店に入ってみると、愛想のよい、話好きのオジサンがいて、ダックスフントが店内で放し飼いにされている。 この店にはネコのエサとトイレの砂の両方が置いてあった。トイレの砂は1種類しかないが、それでも置いてあるだけほかの店よりはマシというもの。ようやく頼みの綱を見つけて私たちは安堵した。 しかし、その店も問題がなかったわけではない。 しばらくしてトイレの砂を買い求めに行くと、前回買ったものとは違うものが置いてあり、しかもそれ1種類しかない。 夫は「砂が変わったらネコが混乱するじゃないですか」と、クレームをつけて割り引きしてもらっていた。 夫は値引き交渉は億劫がらないどころか積極的ですらある。エライなあと思う。 私が妊娠してしばらく経つと、「ネコと妊婦が同じ部屋にすんでいいのか」と義母が問題視するようになった。 本で調べてみると、ネコに口移しでエサを与えたり、排泄物の始末を素手で行うのはよくないが、それほど神経質にならなくてもよさそうなことは書いてある。 不衛生な飼い方をしなければ特に問題はないだろうとタカを括っていたし、検診の際に先生に聞いてみて、先生も大丈夫だと言ってくれれば一層、心強い。 ところが、ポロシャツ先生には、「ネコはよくないです」と、ハッキリ言われてしまった。しかも義母もいる前である。 後で「聞かない方がよかったんじゃない?」と夫。 確かに。 ポロシャツ先生によれば、ネコの病気が人にうつる可能性があると言う。カツラは外ネコなので家ネコ以上にその可能性があるだろう。 そうかといって、カツラを捨てるわけにはいかない。 私はカツラに触るのをやめ、エサやりもネコのトイレ掃除も、部屋の掃除も全部、夫にしてもらった。これで妊婦とネコの同居は大目に見てもらいたい、というワケだ。 しかし、それでも義母からは毎日のように「ネコを捨てろ」「ネコは日本に送れ」と言われる。義母はもともとネコが大嫌いなのだ。 夫とのらりくらりとかわしていると、しまいには「ネコを日本に送れ。今すぐここで約束しろ。約束するか」と迫られる。義母は真剣なのだ。 こちらは居候のため、甚だ旗色は悪い。私たちは使わせてもらっている部屋から、なるべくカツラを出さないように、窮屈に飼っていた。 それもこれも仕方がない。カツラが家の中や外をうろつくのを眉をひそめて見ている義母にとって、ネコ付きの私たちとの生活はさぞやストレスに満ちていたことだろう。 悪いのはネコ嫌いの家に、ネコを連れて居候している私たちの方である。 必ずしもカツラの問題だけではなかったが、私たちは親との同居は無理だとジワジワと感じ始めていた。
2006.12.06
まだ、つわりが始まったばかりの頃、義父が「ピザが食べたいか?」と聞く。 油で炒め物をする匂いは受け付けなかったのに、ピザなんてコテコテのものが不思議と胃に入る。喜んで食べていたら、両親が子どもは男の子だろうと言う。 これは、ある妊婦がピザを食べたがり、男の子を産んだという話から来ている。 私は「子どもの性別とピザは関係ないですよ」と言いたくなったが、自分にユーモアのセンスが欠けているのかもしれないと思い直した。家族みんなで何となく楽しい団欒になっているので、まあ、いいか。 夫と二人でボム病院に検診に行くようになったときのこと。 帰宅した私に義母が何か尋ねてきた。しきりに「コチュ、コチュ」と言う。 コチュがトウガラシということはわかっていたが、トウガラシが一体どうしたのだろう? もう少し後になって、コチュとは、子どものオチンチンをも意味する単語だと知った。 義母は、「子どもにコチュはあったか?」、つまり「男の子か女の子かはわかったか?」と尋ねていたのだった。 言われてみれば、子どものオチンチンはトウガラシに似ている。コチュの色がもし緑じゃなくて肌色だったら、想像してちょっと食欲をそそらない気もする。 子どもには韓国でも日本でも通用する名前をつけたかった。名前を考えるのにこのような条件がつくので、男の子か女の子かわかった方が、考える手間は半減する。 そこで翌月の検診の際、ポロシャツ先生に性別を聞いてみたが、教えてもらえなかった。 理由は2つあって、ひとつは超音波検診で性別がわかるのは、曖昧な記憶なのだが確か6~7ヶ月ぐらいに大きくなってからだということ。このときは、まだ4ヶ月目だった。 もうひとつは韓国の産婦人科では性別を教えてはいけないということだ。韓国では女の子よりも男の子の方が喜ばれるそうで、女の子とわかって子どもを堕胎する人が出るのを防ぐためだという。 今でも女の子だからという理由で堕胎するケースがあるのかはよくわからない。だが、「特にお年寄りが、未だにやっぱり男の子を欲しがるよ」とは、夫の後輩から聞いた。 身近にも男の子を熱望した例があった。夫の父方の伯母が、男の子が欲しくて5人も産んだという。 産まれた子どもたちは全部女の子で、さすがに6人目には挑戦しなかったらしい。 女の子が5人続けて産まれる確率は、32分の1しかない。これはすごいことだ。私はそっちの方に感心した。 夫は「そんなにしてまで男の子が欲しいかねえ」と首をひねっていた。 伯母や彼女の夫が男の子を欲しがって産んだのならまだしも、彼女の舅や姑が「男の子を産みなさい」とプレッシャーをかけた結果だったとしたら―――アイゴー、私は伯母に深く同情する。 夫は男の子でも女の子でもどちらでもいいと言ってはいたが、どちらかというと女の子を希望していたようである。「女の子はかわいいからね」とよく言っていた。 私は、男の子がやって来るんじゃないかと漠然と感じていた。女の子のわが子を想像してみるが、全然ピンと来ない。 性別がわかったのは、8カ月目の検診のときだ。このときは一時帰国して実家で暮らしており、近所の産婦人科で検診を受けた。「男か女かわかったら教えてください」と言うと、「見ればわかるよ。これが証拠写真ね」 と、先生が、超音波検診のときに生殖器の部分をプリントアウトしてくれた。 それには大小の丸がひとつずつ並んで写っている。大きい丸がタマタマで、小さい丸が “コチュ”であろう。コチュの形が丸になっているのは、輪切り状態で写っているからだろうか。 私たちのところにやって来るのは男の子だった。
2006.12.04
「―――でも、先生」 義母は食い下がった。 わずかにわかる単語と身振り手振りからは「嫁はちっとも食べないし、これではお腹の子によくない」ということが伝わってくる。 私は黙ったまま下を向いた。 ソウルに来てからというもの毎日、義父と義母から「モゴ(食べなさい)」「モゴバ(食べてみて)」と言われていたので、義母の突っ込みには戦々恐々だった。 特に義母は3人いる子どもたちとそれぞれの配偶者に食べさせることに執念を燃やしているようで、私は密かに「モゴバ攻撃」と呼んでいた。 とにかく食べろ食べろと勧められる。 満腹感とともにノルマを達成しなければならない気分で椀の中身を頑張って食べたのに、空になった途端、ガサーと入れられて「モゴ」である。 早く満腹になるのを避けるために、野菜をちびちび突ついていると、「肉を食べろ」と皿に入れられる。しまいには口のなかに突っ込まれる。 遠慮しているのではない。本当にもう食べられないのだ。 だが、いくら「お腹がいっぱいです」と言ってもモゴバ攻撃は続く。 どうかすると義母は「(お前は)食べていない」と言い切ったりもする(だれの基準だろうか。もちろん義母である)。 自分の好きな量を食べるという自由が、両親と一緒に暮らすとないのである。 何の挨拶も挙式もなしに、日本ですでに入籍だけして、いきなり嫁としてソウルにやって来た私を歓待してくれるのはありがたかったが、モゴバ攻撃が毎日、3度の食事のたびにある。 ソウルに来て1ヶ月も経たないうちに6キロ体重が増えてしまい、食事の時間が恐怖になったほどである。 だが、ポロシャツ先生は「つわりの間は、みんな食べたくても食べられないんです」と援護射撃をしてくれた。 私は安堵して心が軽くなった。義母の手前、うっかり微笑まないようにする。 これで先生までも「頑張ってしっかり食べなさい」なんて言おうものなら、義母のモゴバ攻撃はますます勢いを得て、脂汗を流しながら食べ物を口の中にねじ込むしかなかっただろう。 それにしても先生はまたしても、ピシャリとした物言いで、義母は二の句がつげなかった。バトルの軍配は先生に上がった。 ポロシャツ先生は義母には結構きつかったが、私や夫には、にこやかに親身に接してくれた。 その後の妊娠生活では、韓国、日本、オーストラリアの3カ国に滞在し、それぞれの国の先生に診てもらうことになるのだが、韓国のポロシャツ先生が一番感じがよくて、好感が持てた。 しかし、ポロシャツ先生にも相性のよし悪しがあって、たまたま義母とは悪かったのだろう。 帰宅してしばらくの間、義母は毒づいていた。「病院を替えなさい」 夫には厳命が下り、次回の検診には義母は同行しなかった。 夫は病院を替えたとウソをついていたが、「新しい病院の手帳を見せなさい」と言われ、ばれてしまう。 後は何を言われても「ハイハイ」「わかりました」とのらりくらりと聞き流して、私たちは相変わらずボム病院へと通った。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・「モゴバ攻撃」などと勝手に名づけて失礼しているが、「お腹いっぱい食べさせる」というのが義母の愛情表現である。 なんでも義母が若くて、まだ義父の両親と一緒に暮らしていた頃は、ロクにご飯を食べさせてもらえず、残り物を泣きながら食べていたらしい。1世代しか違わないものの、韓国の昔の姑と嫁の関係は、私だったらとてもではないが耐えられないものだったと想像する。 胃袋の記憶とは忘れることはできないのだろう。 義父の両親はとうに亡くなっているが、今でも義母は、子どもたちや私のような嫁には絶対にひもじい思いやつらい思いをさせたくない一心で、たくさん料理をつくり、食べさせる。 しかも量が多いだけではなく、いろいろなものを手間隙かけてつくっている。 昔はどこの家でもキムチは手作りだっただろうが、今ではキムチは市場やスーパーで簡単に手に入る。お惣菜もいろいろな種類が並んでいる。 しかし夫の実家では、キムチもお惣菜も自家製が当たり前である。キムチも白菜のキムチだけではなく、魚介類を入れたキムチ、チョンガッキムチ(チョンガは大根に似ているが小型)、ムルキムチ(爽やかな酸味の冷たいスープのようなキムチ)、カクテキ(大根の角切りのキムチ)、オイキムチ(キュウリのキムチ)などいろいろな種類のキムチをつくる。お惣菜も各種あるので、卓袱台の上はいつも料理でいっぱいだった。 夏の名残りを留めたある日のこと、義母が大量にブドウを買って来た。(だれがこんなに食べるんだろう)と不思議そうに眺めていたら、大量のブドウはジュースに変わった。 義母が妊婦である私のために、そしてお腹の子どものために、わざわざ絞ってつくり、「飲んで」と勧める。 手作りのジュースは市販のものよりもはるかにおいしい。後に残らない上品な甘さである。ブドウジュースがこんなにおいしいものだと初めて知った。「料理とは愛情表現なのだ」 義母お手製のジュースを飲んで、私は当たり前のことに気がついた。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 5ヶ月目の超音波の検診では、子どもはもう人間のかたちになっているのが見えた。 産婦人科からの帰り道、私は無性にうれしくなった。 夫の手を握り締めて顔を見上げると、夫もやはりうれしそうな顔をしている。 私たちは何も言わなくてもお互いに同じ気持ちになっているのがわかった。「子ども大きくなったね」 私は毎月、血圧と体重を計り、超音波検査を受けていた。 35歳で妊娠した私は高齢出産となる。母親が高齢になるほどダウン症の子が生まれる確率は高くなるので、その検査を追加で受けるかを夫に相談した。 だが聞いてみると、即座に「しない。どんな子どもでも受け入れる」という返事が返ってきた。 夫がそう覚悟を決めているのなら安心だ。私も障害をもった子どもが来てもうれしく思うだろう。 二人で大切に育てよう。 追加検査の必要はなくなった。(続く)
2006.12.02
「産まれたての赤ん坊に泣き声をあげさせるのに昔は叩いたじゃない。どうもそれがトラウマになるらしくて、叩かない方針の病院があるよ」 夫の友人のドンヨンさんがそう言って、産婦人科を紹介してくれた。彼の子どももその病院で産まれたそうだ。 当時、ドンヨンさんは、地下鉄の駅からやや離れた商店街でアイスクリームの店を構えていた。 彼の店は家から図書館に行く途中にあったので、私たちはしょっちゅう立ち寄っては、新作やらお勧めやらを、妊婦だというのにお腹が冷えるほどごちそうしてもらっていた。 教えてもらった病院は、ボム産婦人科という。家から歩いて30分ほどのところにあった。 市販の妊娠判定検査薬で陽性と出た翌週、義母と夫と3人でボム産婦人科へ出かけた。 院内は清潔で、待合室のシートのほとんどは人で埋まっていたので、端っこの方に腰をおろした。お腹の大きな女性、子ども連れの女性が大半を占めていたが、付き添いの男性も2~3人来ている。 待合室で血圧や体重を計り、数値を看護婦に記録してもらう。 尿検査と血液検査も受ける。 超音波検査を受けると、白い小さな丸が見えた。 この時期は胎児ではなく、胎芽というそうだ。芽というにふさわしい、命の芽生えである。白くて小さな丸は、胎芽が入っている嚢(ふくろ)だそうだ。 胎芽の大きさは小指の先ほどしかないものの、母親をゲロゲロにし、ウツ状態に陥らせている。つわりはうらめしかったが、母体に与える胎芽の影響力には感心した。 担当医は40代の働き盛りだろうか。やや下がり目で目と目の間が少し離れているのが、人の良さそうな印象を与えた。白衣ではなくポロシャツを着ていたので、どうも先生らしく見えない。 この先生と義母はどうも相性が悪かったようだ。 義母は、つわりでロクに食事もとらない私を心配していた。 妊娠前までは自家製の朝鮮人参酒を、私が喜んで飲んでいたので、「朝鮮人参酒は飲ませていいですか」 と聞いたらしい。義母は、私の身体を慮って、そう質問したのだろう。 ところが、先生が、酒やタバコは控えてくださいという話をした直後だったので、「私は、酒はダメだと言ったんですよ」 と、ピシャリとはねつけた。 帰宅後、義母は結構ムカッ腹を立てて、ブツブツこぼしていた。 翌月も3人で検診に出かけた。 この頃、わが家での会話には『ヘモグロビン』という単語がしばしば登場した。ここで言う『ヘモグロビン』とは市販の妊婦用の栄養補助食品を指す。 力なく部屋に閉じこもっている私を見て、義母は『ヘモグロビン』を摂れば元気になるのではと考えていたそうだ。 義母がポロシャツ先生に相談したところ、「まだ早いです。必要ありません」という返事がかえってきた。「―――でも、先生」 義母は食い下がった。(続く)
2006.12.01
夜になって夫は帰宅した。 久しぶりに落ち着いた口調で、「アナタ、人を許したことある?」と聞いた。「ある」と答えて、具体的に話した。 話し終わると、夫が「ワタシを許してほしい」 と言った。 一気に心が軽くなるのを感じた。本当はこの一言で十分だったが、それでも一応確認する。「離婚したくないの?」「したくない」 仲直りをするのは、あっけないほど簡単で、このときはほんの一瞬でカタが着いた。心を開いて正直になればいい。私たちにとって一番いいこととは、雨降って地固まることだったのだと、初めてスッキリする思いだった。 夫は「ワタシのもの」と言って、私を抱きかかえた。そして、裁判所で何があったかを話してくれた。 韓国での離婚手続きは、離婚届のような書類を提出するだけではなく、本当に双方に離婚の意思があるかを裁判所が確認するらしい。 私の場合、韓国語が通じないので通訳が必要だ。裁判所に通訳を頼むと7万ウォン(約7000円)ほどかかる。 ということを、夫も裁判所に来て初めて知った。 私を日本に返すための諸々の費用を用意したはいいが、通訳費までは計算外で少し足りない。飛行機のチケット代を別にすると、確かサイフのなかには5万ウォン(約5000円)しか入っていないはずだ。 そこで何と、夫は通訳費を値切ることにした。「私は現在、失業中でとても困っているし、明日は妻が日本に帰るので、どうしても今日中に手続きをしなくては妻が困る」と泣きついた。明日帰るというのはウソである。 しまいには「妻の通訳なら私がやるから」と粘ったらしくて、それについては、さすがに当事者の夫はダメだと却下されたらしい。そりゃあ、そうだろうと思う。 こんなことを夫は延々と懇願していたわけで、どうりで担当者が困った顔をするはずである。 さらにびっくりするのは、担当者が「わかりました。5万ウォンで通訳してもらいますから」と折れてくれたということだ。夫と話をしている途中、彼は何回も内線電話をかけて労をとっていた。 何かにつけて融通が利かない日本と違って、韓国は「頼めば何とかなる」というところは確かにある。だけど、ここは裁判所、公的機関。そこまでやるか普通!? 私は再び韓国が好きになった。 話を戻すと、通訳費を5万ウォンにしてもらった後、夫は書類作成にかかった。 だが思い出してみると、裁判所は夫の知らない間に移転していたため、タクシーを使っている。 だから5万ウォンではなくて、4万8000ウォンほどしか持っていない。妻も多少のお金は持っているはずなのに聞いてみると、カバンを替えたからサイフを持って来なかったと言う。「やっぱり4万7500ウォンにならないですか」夫は担当者に、おずおずと声をかけた。 せっかく5万ウォンで手配をしてくれた担当者もさすがにブチ切れた。「冗談じゃない。ここは、お店じゃないですよ!!」「―――」「とにかく5万ウォン揃えてから来なさい!」 担当者に相談した時点で、裁判所で値切るなんて、あなたが初めてだの何だのと散々言われて、ただでさえ夫は顔から火が出るような思いをしている。 ははあ、それで書類を破ったのだな。 いろいろなことが初めてわかって楽しくなってきた。 裁判所の担当者にとって、今日の離婚しそこねた夫婦の一件は珍事だっただろう。これもまたおかしくなってきた。 それにしても今日はいろいろな偶然が重なった。 私がカバンを替えてサイフを家に置いていく。 裁判所が移転していたのでタクシーに乗る。 せっかく値切ったのにまだお金が足りない。 あまりに絶妙なタイミングである。 神サマが「お前たちはまだ夫婦でいなさい」と意図しているのか、子どもの運がよほど強くて自分が堕されないようにしたのか、何か私たちの意思を超えた力が働いていると確信した。 夫とは二人で「あー恥ずかしい」と言いながら、フトンのなかで笑い転げた。 さらに、夫が「お父さん、すごくかわいそうだった。びっくりしたのに外に出られない」と思いだし笑いをした。「ウッ」と義父の真似をして、ふざけている。もうだめである。義父には悪いと思ったが、笑いを止めることはできない。 夫婦喧嘩はすべてカギをかけた私たちの部屋のなかで行われていた。なんとなく二人のムードが険悪だなとは両親も感じていたとは思うが、夫は離婚するとまでは話していなかったという。 義父はトイレにこもっている最中に、いきなり息子夫婦の離婚宣言を聞いたのだ。 韓国の両親、日本の両親(私は離婚して帰国するという相談をしていた)には、心配も迷惑もたんまりとかけたが、このときは二人で笑いながら幸せな気分を共有していた。 夫婦喧嘩は犬もくわない、と言うではないか。 離婚騒動の後も、しばらくつわりは続いた。 魚のチゲ(鍋)を食べた後、ほかの家人は何ともないのに、私たち夫婦だけが揃って気分が悪くなり、吐いてしまったことがある。 すると夫が「妻への愛情が深いと夫もつわりになる」と言い出した。「そんな話は聞いたことがない」と私が驚くと「韓国ではそういうよ」 本当に韓国でそんな言い伝えがあるかどうかは、よく知らない。 ただ、つわりとは言えないだろうが、感受性の高い夫のことだ。私の気分や体調を敏感に感じ取って一緒に具合が悪くなったり、吐いたりしたのだろう。特に私たちの場合は、一日中、一緒に過ごしていたので、そういうことも起きやすかったと思う。 14週、15週目あたりから、吐き気のかわりに食後の強烈な胸焼けに苦しむことになる。だが、2ヶ月近くに及ぶつわりから解放されるのは間近だった。(続く)
2006.11.30
2階に上がり、奥のカウンターに担当者がいるようだった。 夫は担当者を相手に長々と話をしていた。 何の話かは知らないが、夫は穏やかな口調ながらも粘り強く交渉しているようだし、担当者はとても困惑している様子だった。 横で立って待つのがしんどい。よっぽど後に並べてあるイスに座ろうかと思ったが、当事者なので我慢して立っていた。 しばらくして話が終わると、夫は書類を作成し始めた。自分と同じ文章を書くよう私に指示したが、手書きのハングルなので読みづらい。 1字1字、確認して書きながら、(こんな調子で一体、何時までかかるんだろう)とぼんやり考えていると、夫が突然、「アナタ、お金持ってる?」と聞いてきた。「ちょっと待って。あっそうだ。カバンを替えたからサイフがないんだ」 夫の目がいきなり吊り上った。「サイフはいらないって自分で言ったじゃない」「アナタが日本人だから通訳がいる。5万ウォンに安くしてもらったのに、お金が足りなかった」 夫が力なく、つぶやくように言う。 私の方は頭が回っていない。何のことだかまったく理解できなかった。 夫がいきなり書類を破り捨てる。何だか激怒しているようだ。階段を降りると、ものすごい形相で「アナタ、絶対にワタシと離婚して!!」 と言った。 内心(そんなにいちいち言わなくても離婚するんだって)と目をむく私を、夫は「お前ひとりで帰れ」と言いながらタクシーに押し込めた。 家には義母がひとり。義父は出かけたらしく姿が見えない。 義母が心配そうに「ジョンホンが嫌なの?」と聞いてきた。義母の韓国語は理解できたが、自分の考えを話すことができない。「いいえ」というのが精一杯である。 試しに「He hates me」(彼は私を憎んでいる)と言ってみたが、どうも通じてないようで、義母は再び同じことを聞いてきた。「ジョンホンが嫌いなの? ジョンホンにお金がないから?」「いいえ」「赤ちゃんが嫌いなの?」 この言葉を聞いて私は号泣した。「泣かないの」と言いながら義母が私の肩を優しく抱き、蒸しパンのような韓国ではポピュラーなおかしをくれた。 泣きながらそれを食べた。(続く)
2006.11.29
さらに1~2日経っただろうか。朝、急に夫に「出かけるから支度して」と言われた。 離婚の手続きのため、これから家庭裁判所に揃って出かけるのである。 夫ははっきり家庭裁判所とは言わなかったような気がする。とにかく当時の私はどこに行くのかまったく理解していなかったし、知りたいとも思わなかった。 サイフやらパスポートやら印鑑を旅行用のポーチに詰めると、夫が「カバンを替えろ」と言う。理由を聞くということは夫と会話をすることである。それも億劫なので黙って従う。 裁判所へ出かけるには、ポーチはちょっとカジュアルすぎると、夫は思ったらしい。そう言えば、行きのバスのなかで気がついたことだが、夫はネクタイを締めていたのだ。 サイフはいらないと言うので、替えたカバンのなかには入れなかった。 夫は私を連れて家を出るときに、ちょうどトイレにこもっていた義父に「離婚の手続きをしに裁判所へ行ってきます」と声をかけたらしい。 私は夫の韓国語が理解できなかったので、いつものように「タニョオゲッスムニダ(行ってまいります)」と声をかけた。 義父は「ウッ」とうめいたものの、何せ用足し中なので外には出られない。 久しぶりに外出して歩いたり、バスに乗ったりした。そして地下鉄のホームのイスに一度座ると、気分が悪くなって立つことすらできない。1本見送って、何とか次に来た電車に乗った。 地下鉄ではヘロヘロになったが、外に出てしばらく歩くと、ある建物の敷地内に街路樹が植えられている。街路樹を仰ぎ見ると、急に元気が出てきた。あたかも木々がいいエネルギーをたくさん出して、私を応援してくれているように感じた。 これから離婚して日本に帰ろうというのに、このとき初めて韓国を(ああ、いい国だ) と心から思った。 目当ての建物が見つからないらしく、夫はその辺を何度も歩き回り、人に聞き、タクシーを拾った。 タクシーで揺られているうちに、先ほどの清涼感は吹き飛んで、再びつわりで苦しむ妊婦に戻った。 裁判所に入るときに、夫は固い口調で「アナタが先に入れ」と言った。 後で聞くと、夫は、私に本当に離婚する意思があるかを確認したかったという。 だが、このときの私には夫の意図を汲むことなどできない。だいたい目の前の建物が何かすらよく理解していなかったのだ。「どっちが先に入ろうが、そんなことはどうでもいいじゃないか」 と夫の前をズンズン歩いていった。
2006.11.28
晴れの日は、11月だというのに暑い沖縄。汗かくのでクーラー入れてます。アイゴ~~
2006.11.27
翌日、いきなり夫にこう宣言された。「お金をあげるから日本に帰りなさい」「―――」「子どもを産むお金をあげるから日本に帰りなさい」「―――」「アナタとワタシ、アナタと韓国、アナタとこの家、すべてが合わない」「ジョンホンはどうするの。日本に行くの?」「韓国に残る」「―――離婚したいの?」 離婚という言葉を聞くと夫は黙ったが、その翌日は離婚したいと言ってきた。「なんで離婚したいのか説明してくれないと納得がいかない」「アナタが納得するしないは、ワタシには関係ない」 こんな感じで話がかみ合わない。 だたでさえつわりで頭がよく回らない。夫との人間関係が悪化してからは夜も眠れないので頭痛がする。夫と喧嘩をする気力もないので、壁の方を向いてじっと横たわる。 私のそんな態度が、いかにも人を無視しているように見えたらしい。夫の怒りはますますエスカレートしていった。 多分、夫にしてみれば初めのうちは、私に「傷つけてごめんね」と謝って欲しかっただけなのだろう。 だが、一回、堪忍袋の緒が切れると、怒りが怒りを呼んで夫は容赦なく暴言を浴びせかけた。 私は最初の2~3日は異を唱えていたが、やがて私たちの関係はもう修復はできないだろうと諦めてしまった。そして離婚に同意した。 こんな些細なことで離婚するなんて残念だったが、すでに(私たちにとって一番いいことであれば、どんなことでも受け入れる)ことにコミットしている。 離婚が本当に一番いいことかどうかは疑問だったが、相手に結婚生活を続ける意思がない以上、破綻した関係にしがみついて何になろう。そんなことをしても夫も私も幸せになれないのは明白だった。 とにかく帰国してゆっくり休みたかった。 壁に向かって砂袋のように横たわっていた私は、帰国の準備をするためにノロノロと起きあがった。 スーツケースに詰める服と、とりあえず韓国に置いていく服とを分けて、たたむ。2日間かけて持ち物を整理し、帰国の準備を整えた。 持ちきれない衣類や書籍は後で日本の実家に送ると夫は約束したが、捨ててもらっても構わなかった。 さらに1~2日経っただろうか。朝、急に夫に「出かけるから支度して」と言われた。 離婚の手続きのため、これから家庭裁判所に揃って出かけるのである。(続く)
2006.11.27
新婚生活は楽しくもあり、同時に貧困との戦いでもあった。 金がなくていいことなどない。 だが、私たちの場合は、貧乏だったおかげで、たったひとつだけいいことがあった。それはあるとき、貧乏すぎて離婚できなかったことだ。 破局はつわりがもっとも苦しいときに訪れようとしていた。 当時は毎日、鬱々としていてロクなことは考えていない。 ある日、一体、どこの国で出産するのか、ふと考えてみると、(日本に帰国して産むほどの貯えもないんだから、ここ韓国しかないではないか) ということに思い至った。(言葉の通じない韓国で産むなんて冗談じゃない!)(これというのも夫が働かないから悪いんだ) 暗い怒りがじわじわとこみ上げてくる。 夫は、声も立てずに涙だけ流している私を心配して声をかけた。 ところが、私から「お金がないから日本で産めない」と泣きながら訴えられたので、自分ひとりが責められているように感じた。 その後、謝るわけでもなくフォローもしない私に対して、夫は次第に腹が立ってきたようだった。 一方、私には、腹立たしいのと同時に、(何もかもが停滞している。このままでは二人ともダメになってしまう) というあせりもあった。(私たちにとって一番いいことが起きますように。どんなことでも受け入れます) 神サマと言ってもいいし、天の意思と言ってもいい。人間を見守っている偉大な何かに向かって本気で念じて眠りについた。 とにかくこの状況を変えるためなら、どんなことでも辞さない覚悟だったのだ。 翌日、いきなり夫にこう宣言された。「お金をあげるから日本に帰りなさい」(続く)
2006.11.25
しかし、つわりで一番辛いのは、匂いや音といった外部からの刺激ではない。それ以上に鬱々とした感情や思考能力の低下の方がしんどかった。 妊娠する前は、夫とよく二人で出かけたり、図書館で日本語の本を借りたりして楽しい時間を過ごしていたが、一転して外出したり読書をする気力がなくなってしまう。食事やトイレ以外は電気を消した暗い部屋のなかでぐったりと横になることが多かった。「ユキエ、最近、会話が少ない。私たちはもっと話し合わないと」 つわりになってしばらくして、夫は優しく子どもを諭すように言った。(そんなに話をしていないかな?) 自分が無口になっていることすら気づかなかったので、夫の提案は心外だった。 だが、いざ何かを話そうとしても、何を話せばいいのか、どう言えばいいのか、まるでわからなくなっている。言葉に羽が生えて頭の中から逃げていったようだ。(話すって頭を使うもんだなあ) 話すといっても、日常生活で普段、何も意識しないでしゃべっている、ごくありきたりの会話である。こんなことすら困難になってみると、身体も心も健康ということは、実はすごいことだとわかる。 この頃、夫は自分で事業を立ち上げようと、生みの苦しみを味わっている最中だった。 日本では、夫と一緒に仕事をしたいという韓国人経営者やビジネスマンが何人かいた。留学ビザを配偶者ビザに切りかえれば、日本で働くことはできた。 だが、いずれは自分で事業を興したいという夫に、私は強く勧めたのだった。「人の事業に乗っかるよりも自分の好きな仕事を始めたら。言葉で不自由しない韓国で」「妻がそこまで言うなら」と夫は、経営者たちの申し出を断り、ソウルに戻ってきた。 夫は昔携っていた旅行会社や留学の手続き代行会社を自分で興したかったのだが、私たちに元手はない。そこで初めのうちは、いろいろな会社の営業を代行して資金をつくろうとした。 同級生であるアイスクリーム屋のドンヨンさんと組んで、夫が営業を担当しようという話が持ちあがった。 彼とはしょっちゅう会って打ち合わせをしていたが、アイスクリームではなくて製造する機械を売って欲しいと要望されたり、冬にどうやってアイスクリームを売っていくのかドンヨンさん自身があまり詰めていなかったりで、魅力的な話には発展していかずに、この話からは結局降りてしまった。 何度も重ねた話し合いに実りはなく、時間がばかりが経つうちに夫も焦ってきたのであろう。「ワタシは何をすればいい?」とよく聞くようになった。 最初のうちは二人で話し合ってきたが、つわりに突入すると、考えが上手くまとまらないし、話をするのも億劫になってきた。「自分の好きなことをすれば?」とばかり、突き放した態度になっていった。 夫は口には出さないようにしていたようだが、内心では(韓国に戻らない方がよかった。日本で仕事をする機会はあったのに) と後悔しているようだった。 私は私で、自分の仕事を立ち上げようと決めた割には、何をすればいいのかわからないなんて情けないなあと、失望し始めていた。 家にいたってこれといってすることがない。 二人とも朝は遅いため、義母に何度も「起きろ起きろ」とせっつかれて、ようやくフトンから這い出る。朝食を食べたあとは漫然とテレビをつけて横になる。夫には、夜、時々友達から電話がかかってくるので、彼だけ出かけたりした。 夫の顔つきは、険しくなっていった。一見、ゴロゴロ横になってテレビを見ている夫だが、内心では苦しんでいる。しまいにはノイローゼになるんじゃないか。 これで妻が明るければ、夫はまだ救われただろうし、頑張れたかもしれない。だが、私は妊娠早々つわりでふさぎ込んでいる。 つわりの間は、イライラしたり、気分がふさいだりすることは、よくあるそうで、私は自分の場合は怒りっぽくなるんじゃないか、と思っていた。 ところが、予想は外れて、過去10年分ぐらいの涙を流したんじゃないかと思うほど、ほとんど毎日メソメソと泣き続けた。今思い出してみても、あの頃、泣いていた理由は自分でもはっきりわからない。そういう気分だったとしか言いようがない。 一方、夫は私が泣くのをとても嫌がっていた。理由を聞いてもはっきりとした答えは返ってこない。(自分と結婚したことを妻は後悔してるんじゃないか) 当時の夫にはそんな不安がまとわりついていた。 彼にとって仕事も家庭もどうすればいいのかわからない、大変な時期に突入してしまった。
2006.11.24
匂いの次に悩まされたのが、音である。特にドアの開閉、人の話し声に敏感になった。 ある日、義父は機嫌が悪かったらしく、ピシャッと音を立てて自分の部屋のガラス戸を閉めた。 たったそれだけのことで私は飛び上がるほど驚き、鼓動は早くなる。信じられないことに、汗がどっと流れてきた。 この瞬間、私の願いは、(匂いも音もない国に行きたい)に変わった。 それにしても、この世は、なんて刺激に溢れているのだろう。今まで、どうしてそれに気づかないほど鈍感に、のほほんと生きてきたのだろうか。 匂い、大きな声や音のほかに、冷蔵庫の冷気も許せなくなった。冷蔵庫のドアを開けるたびに、肺腑のすみずみまで冷えていくようだった。そして毎回くしゃみが出た。「人工的な冷気は人間の身体をダメにする」 直感的にそう思った。 今までは鈍感すぎてわからなかっただけに違いない。 私は冷蔵庫を人体破壊機として憎悪した。極力ドアを開けないよう、そして開ける場合は冷気が身体にかからないように気をつけた。 ふと、日本にいる友人の涼子さんを思い出した。 彼女は直感が鋭い。本人は肯定しないが、彼女の言動から察するに霊感があるのだと思う。 加えて恐ろしくデリケートである。人込みに出ては体調を崩し、働いては体調を崩していた。 外出するときは、常に清め用の塩(それも天然塩と決まっている)を持参し、出かける前には「オーラバリアーをつくるといいのよ」である。 彼女にとってこうしたことは日常化していたが、傍で見ていていると何だか大変そうだった。(涼ちゃんの境地に一歩近づいたかも) 過敏になってみて、世の中の刺激と折り合いをつけるのは、なかなか大変だということがよくわかった。もし過敏な神経に鋭い直感や豊かな感受性がもれなくついてくるとしても、選べるものなら、人並みに鈍感で生きやすい人生を、私は選ぶだろう。 とにかく、つわりはもういい。一刻も早く終わってほしい。 楽しみは、一日一日が経過することしかなかった。その分、つわりが終わる日に近づくからだ。 実際に、つわりが終わると、冷蔵庫はどう見てもただの冷蔵庫に戻り、人体破壊機ではなくなった。(続く)
2006.11.22
(連載 7回目) つわりは妊娠がわかった翌日に突然やってきた。 部屋から出ると廊下に置いてある炊飯器が湯気を立てている。そのご飯の匂いにウッと気分が悪くなって、慌てて部屋に戻った。 理由を知っている義母が笑っている。 つわりがこんなにも突然やってくることに、私は驚いた。 つわりは、妊娠8週目あたりから始まると本にあるが、個人差があって早い人は5週目からだそうだ。私の場合は5週目から始まったので、3週間分、損した気分だった。 ご飯の匂いを皮切りに、炒め物の油の匂い、肉や魚の匂い、洗濯物の匂いなどが許せないものになった。初めて吐いたのは冷蔵庫を開けたときだ。 韓国にはキムチ専用の「キムチレンジャンゴ(キムチ冷蔵庫)」という代物があるほど、キムチやキムチ料理は欠かせないお国柄である。 実家の冷蔵庫も御多分にもれず、中身の半分ぐらいはキムチやキムチ料理で、ただでさえ強烈な匂いがこもっていた(と書くと誤解を招きそうだが、つわり以外のときは吐き気を催す匂いではない)。 つわりは空腹になると余計、気分が悪くなるらしい。だが、そんなことは後になって本を読むまで知らなかったから、食べたら余計気持ちが悪くなるような気がして、3度の食事以外はなるべく食べずに我慢していた。(匂いのない国に行きたい―――) 部屋のなかに閉じこもったまま、鬱々と本気でそう考えた。 油を使った料理、肉類は受け付けなくなってしまい、夫は私の食べそうなものをアレコレ、スーパーで買ってきた。ギンパと呼ばれる韓国風の海苔巻、パン、ヨーグルトと、なぜかカレーは大丈夫だった。 便秘がちになったときはアロエジュースが効き目があった。 こんな食生活だったので1ヶ月もしない間に体重が4.5キロも落ちた。 後で知ったことだが、夫は産婦人科の先生に「5キロ体重が落ちたら、すぐ来てください」と言われていた。病気の可能性や、入院する可能性もあるからだ。病院に行く一歩手前だったのだ。(続く)
2006.11.21
ケイファさんの彼女の母に、旅行に行くことが事前にわかってしまったらしい。 彼女の母は娘に何回も電話をかけた。 しかし彼女は電話に出ない。 業を煮やした母は彼氏であるケイファさんに連絡をとろうとした。 ケイファさんは、同級生の妻を通じて彼女と知り合っている。 母親は、その同級生の妻に電話をかけて、ケイファさんの電話番号を教えて欲しいと頼んだが断られたという。 そんな経緯があって、友達4人で旅行したという既成事実をつくるために、私たちを呼んだのだろうか。それとも多い方が楽しいと考えたからなのか。そのへんはちょっとわからない。 とにかく旅の写真には3人、4人で写っているので堂々と親にも見せられる。メデタシメデタシである。 しかし、正直言って、母が電話をかけまくるなんて「なんじゃそりゃ」と思った。 彼女の母にしてみれば、結婚前の娘が彼氏と外泊なんていい気はしない、というのはわかる。 だが、ケイファさんも彼女も30歳を過ぎている。恋愛に責任はつきもので、それは本人が持つべきなのだし、持つのが大人なのだ。 親が子どもをもう少し大人扱いをしてもいいのではないだろうか。大体、電話して何をのたまうつもりだったのだろう。要は「するな!」とか、そんなことだろうか。 ここ韓国に日本人の感覚や感性を持ち込んでも仕方がないのだが、「ウーム」と言いたくなる。 韓国の親子関係は日本のそれとはずいぶん違うようだ。 もちろん、親子関係なんてどこの国でもいろいろある。家庭によって違うと言えばそれまでなのだが、韓国に来てみると今まで身の回りでなかったこと、聞いたことがないことがワラワラと起きている。それも日常的に、だ。 一言で言えば、親の介入が多い。というより多すぎる。「親の方が子離れしていないんじゃないか」 と私は見ているのだが。 夫と結婚して間もない頃、私たちは東京で暮らしていた。 夫は結婚の話を電話で両親とやりとりしていたのだが、この頃から韓国と日本とでは何か違うなと感じていたことのひとつに、親子間で「サランヘ(愛している)」と言い合うことが挙げられる。 最初に聞いたときは、心底ギョーテンした。 そういう私にも夫の親に「サランヘ」と言う機会があった。 夫は義母と電話でやりとりをしている最中に、私に受話器を渡して、「『サランヘヨ(愛しています)』と言って」 と横でせっついたのだ。 会ったこともない義母にいきなり「愛しています」かい! 本気かよ!? 夫は日頃、冗談やダジャレばかり言っているので、このときも冗談だろうと聞き流そうとすると、何度も「言って言って」とせっつく。 もしかして夫は本気かもしれない。 言われた通りに「サランヘヨ」と言ってみる。受話器の向こうはちょっとの間、無言だったが、やがてポツポツと韓国語が流れてくる。 すぐに夫に受話器を戻した。私にしてみれば重い言葉を発しているのだが、通じているのかいないのかよくわからない。 韓国語の「サランヘ」は、日本語に訳すと「愛している」なんだろうけど、日本語の愛しているよりはややカジュアルな表現で、「大好きです」ぐらいのニュアンスで言っているのかもしれない―――もっともこれは私の勝手な想像である。 それにしたって、成人した子どもに向かって親が言う、あるいは子どもが親に言うかなあ。「愛しています、お父さん」「愛しています、お母さん」 ウーム。またしても、うなってしまいそうだ。
2006.11.20
妊娠がわかったのは8月の中旬だが、上旬には夫の友人であるケイファさんとその彼女(後に妻となった)と私たちの4人で、カンチョン(江村)というところへ遊びに出かけている。 夜は酒を飲んで、ほとんど不眠で過ごし、翌日サイクリングに出かけたりしていたが、その時すでに生命は宿っていたことになる。 それはさておき私たちは計画的に4人で遊びに行ったわけではなかった。 ある夜、私たちが近所をブラブラ歩いていると、夫の同級生であるケイファさんにばったり会った。 世間話をしているうちに、彼は彼女と遊びに行くんだ、と言う。 彼女がいること自体、ほかの友人には広めていないらしくて、内緒にしてほしいということだった。 私が冗談で「外泊?」と日本語で聞くと通じたらしい。とんでもないといった感じで「ノー!、ノー!」と手を振った。 しばらく経ってから、ケイファさんから夫に「お前たちも一緒に来い」と電話がかかってきた。韓国ではよくあることだが、急な話である。 私は野暮なことをしてはイカンと思った。「せっかく彼女と行くんだから2人で行けばいいじゃない。私たちが行ったら邪魔だよ」 こちらは気を遣って遠慮しているのに、ケイファさんからは何回も誘いの電話が入る。 そこで、現地集合ということで急遽、私たちも出かけていった。 カンチョンに到着したのは日が暮れた後である。暗くてケイファさんの彼女の顔はよくわからなかったが、化粧っ気はなく知的な雰囲気が伝わってきた。 夜道を4人で散策する。道の両側には観光地らしく食堂やゲームコーナーなどが並んでいて、これらを一通り見た後、宿泊施設へと入った。 ケイファさんは、マンガをどっさり持ってきていた。 夫によると、当時(2002年)30代前半という夫の世代では、恋人といえども婚前交渉はしないか、おおっぴらにはしないという奥ゆかしさがまだ残っているらしい。とはいえ、最近では韓国の恋愛事情もずいぶん変わってきているそうではあるが。 ケイファさんも、好きな女性の隣で高いびきかいては眠れないだろうから、長い夜をマンガを読んで過ごすつもりだったのだろう。こんな重いものを持ってきて、ご苦労様と言いたくなった。 今回は私たちも参加して、4人でほとんど寝ないでしゃべっていたので、マンガの出番はほとんどなかった。 そこではケイファさんたちの旅行には、ちょっとばかりすったもんだがあったと聞いた。 ケイファさんの彼女の母に、旅行に行くことが事前にわかってしまったらしい。(続く)
2006.11.19
ディープな韓国 妊娠する3ヶ月前に、私たちは東京からソウルへと来た。 ソウルに来たばかり頃、街は興味深いことで溢れかえっていた。 最初は視覚的なことが大半である。 例えば、街を歩けば迷彩服を着た軍人を普通に見かける。軍服も驚きだが、服には名前を縫い付けている。恥ずかしくないんだろうか。いや、でも彼らは軍人だし。 教会がやたらと多くて、夜になると屋根の十字架に縁取られた赤や緑のネオンが輝いて賑々しい。ドラキュラは絶対入国できないだろう。 道端では、おばちゃんたちが座りこんで、衣類や食品、日用品を売っていて、いかにもアジアっぽい。逆に言えば日本はアジアっぽくないように感じた。 車の大半が埃で白っぽくなっていて、あちこちボコボコと凹んでいる。韓国人は車を大切にしないのか? 夫によると、韓国の方が日本よりも運転は荒いし、事故も多いので車がボコボコになるらしい。 そういったことだった。 次第に視点は人間関係へと移っていく。 最初に感じたのは、身体接触がやたらと多いことだった。 夫は日本に留学していたので、家族と会うのは1年と数ヶ月ぶりである。とても懐かしかったのだろうが、ふと台所に目をやると、夫は義母の背中から抱きついている。(―――もしかしてマザコンと結婚したか!?) ついマジマジと見てしまった。 だが、夫と義兄がお互いの手を握りしめあいながら話しているのを見ると、韓国では相手の身体を触りあうのが普通なのかも、という気もしてきた。 街へ繰り出せば、大人の女性同士が手をつないで歩いている。男性同士というのは稀であるが、女性だったらごく普通である。しかし私にとっては軍人を見たのと同じぐらい衝撃的な光景だった。 さらにすごいのも見た。 1回しか見たことがないので、韓国でもさすがにあまりない例かもしれないが、男子高校生が中年女性にまとわりつくように甘えながら歩いていたのだ。 あたかも子犬がじゃれついている感じなのだが、なにせ女性よりも図体のでかい高校生なので、可愛くも何ともない。もう目を疑ってしまった。 もし日本で同じ光景を目の当たりにしたら、中年女性と若い愛人のカップルだと勘ぐることはあっても、間違っても親子だとは思わない。 しかしここ韓国では親子である可能性は大である。 身体接触が日本よりもふんだんな国なのだから、日本にいるときの感覚でマザコンと決めつけて気持ち悪がってはいけない、とは思う。 とは言え、ついつい目はそっちへ行ってしまうし、見ていると大人の女性が手をつなぐこと以上に馴染めなかった。「―――ディープな人たちだ」 こんなベタベタした人間関係にこれから先、馴染めるだろうか。 はっきり言ってあまり自信はなかった。
2006.11.18
当時、夫の実家のトイレは、家の外にある、いわゆる「ぼっとんトイレ」だった。トイレの右には物置がつながり、全体が長屋のように見える。 トイレの左脇は畑になっていてカボチャやトウガラシをつくっている。 カボチャのつるは、トイレ・物置の屋根全体を覆うように伸びていて、大人の頭より大きなカボチャが屋根の上でゴロリゴロリとなっている。 夏の強い日差しがカボチャに照りつけていた。 私は妊娠判定検査薬とプラスチックのコップを持ってトイレにこもった。 コップに受けた尿に10秒ぐらい浸してみたら、たちどころに縦すじが浮かび上がってきた。あまりにハッキリとした結果がすぐに出たので、少々面食らう。「本当に子どもが出来たよ」 約束通り妊娠判定検査薬を渡すと、夫は、真顔でため息をついた。妊娠判定検査薬を片手に何度もため息をつく。 昨日まで子ども、子どもと喜んでいたのに、今は嬉しそうには見えない。「アイゴー」 アイゴーは韓国にいると、本当によく聞く言葉だ。 人が亡くなったときなどの最大級の嘆きの表現でもあり、日常生活のなかの悲しいときも呆れたときも、アイゴーである。驚いたときやつまづいたりしたときは、アイゴッ!になる。夫はため息をつくようにアイゴーの語尾を長くのばした。「―――本当にお父さんになってしまった」 どうやら急に責任を感じているらしかった。 私の方というと、(まあ、私も夫も子どもがつくれる身体だということだ)と淡々としていた。 夫が妊娠判定検査薬を、玄関先に出てきた義母にも見せていた。キャップはつけたが使用後である。とても恥ずかしかった。「今日から家事はやらないで。ワタシが全部するからね」 夫はそう言って私を抱きしめた。(それよりも、今、妊娠しているということは) 夫の腕のなかで私は計算していた。 多分7月末か8月に入ってすぐに受精したはずだ。 私たちが何も知らない間に、受精卵は密やかに2分割、4分割、8分割と卵割していって、子宮のどこかにへばりついたのだ。そして遺伝子という設計図通りに着々と背骨やら心臓やらが出来つつあり、やがては人間が出来あがる。 これは実に神秘的なことなのだが、実際にそう感じたのはずいぶん後になってからである。 とにかく私たちのところに子どもはやってこようとしていた。
2006.11.17
■子どもが出来た(1) 2002年の8月は生理が来なかった。毎月ほぼ同じ日に始まっていたが、少し遅れているのかもしれない。 ここはソウルにある夫の実家。 私は、日本に語学留学に来ていた韓国人男性と結婚して、2ヶ月後には二人とネコ1匹とで韓国へ渡った。 子どもはいつできてもいいやと思っていたが、毎月規則正しく生理はやってくる。(そんなにすぐにはできないものなんだな。もしかしたらずっと夫と二人かもしれない) 夫と二人だったらバックパッカーになって旅行三昧の生活になるだろうし、それはそれで楽しいだろうとお気楽に考え始めた頃だった。 始まるべき日に「来ないね」と言うと、 「子どもが出来たようなんですよ」 と夫は嬉しそうに笑った。 翌日も翌々日も、私は同じことを夫に告げたが、夫も同じことを言って笑った。 ちょうど1週間後の朝、今度は身体がだるくて起き上がれなくなった。(これは本当に子どもが出来たのかもしれない)。 にわかに子どもが現実味を帯びてきた。 早速、夫が薬局で妊娠判定検査薬を買って来た。尿をつけて、妊娠していたら丸窓に縦すじが出る。日本のと同じようなものだ。 妊娠判定検査薬の尿を浸す部分にはキャップをつけられるのだが、使用後は何となく汚い感じがする。(こんなもん結果がわかったら、すぐ捨ててしまおう)と思っていたら、すかさず夫が、「ワタシにも絶対見せてね」 と先手を打った。 一瞬、心を読まれているんじゃないかと思った。 夫は割合、勘がいいところがある。
2006.11.16
プロローグ 情熱的に楽しく、自分らしく生きよう。 3年前、そんなことを考える韓国人男性と日本人女性が東京で出会った。 この2人はお互いのインスピレーションに従い、結婚した。 この韓日夫婦はあくまで、「楽しく生きるなどと甘いことは言ってはいけない」という社会通念に徹底的に挑戦し、旅行のような楽しい人生を築き上げようと試みた。それが夫のジョンホンと私である。 もともと夫も私も、自分の背中には翼が生えていて好きなところに飛んでいけると信じているようなところがあった。 旅行のように楽しい人生を追及しようと決めたとたん、私たちには楽しくないことも困難な状況もやってきた。 心も身体も疲れてしまい、生きることがどうでもよくなったときすらある。 飛んでいこうとすれば、ときには墜落して痛い目にも遭うということだ。 だが墜落することも翼を持つものの特権とばかり、私たちは諦めなかった。 結果的に、私は、結婚生活を開始した東京を離れ、韓国・ソウル、オーストラリア・ケアンズ、日本・岐阜、再び韓国・ソウル、日本・沖縄とあたかも旅行のように国内外を転々とすることになってしまった。 そのつどさまざまな出会いと別れが用意されていることを知った。 私たち夫婦の人間関係も旅行のようだった。 さまざまな局面でお互いに相手の新しい面を発見しては、移り変わっていった。 人は考えて行動するように見えるが、その考えの基底には必ず何かしらの感情がある。 例えば不安や恐れ、憎しみといったネガティブな感情に基づくのか、喜びや勇気、安心、愛情といったポジティブな感情に基づくかで、考えは大きく変わる。 考えが変われば、その人の行動も、ひいては人生が大きく変わっていくだろう。 生きていれば、選択や決断の連続だ。 特に私たちの旅行人生では、選択や決断を迫られる場面は多かった。 だったら、不安や心配、憎しみに基づく選択をするのではなく、喜びや勇気、安心、愛情の方を選ぼう、と決めた。それには自分の感性やフィーリングが大切だった。 もし神様に白紙を目の前に与えられて、ここにあなたの好きな絵を描いていいんだと言われたとき、人はどんな気持ちがするだろうか。 今までやりたかったことを始めるとき、 考えてもいなかった人生が展開していくとき、 もっと大きな責任を自分の人生で引き受けようとするとき、 慣れ親しんだ環境を出て未知の世界に足を踏み入れようとするとき、 そんなときはいつも白紙を与えられているような気がする。 そしていつもハッと目を覚ますような新鮮な感動がある。 一人旅が途中からたくましいパートナーが加わって二人旅になり、やがて子どもが生まれて四人旅になった。 これからどこに向かうのか、白い紙を神様からもらった子どものような気持ちでいる。 たとえ墜落を経験しても翼を持ち続ける人たちが一人でも増えることを願って、人生と言う白紙に夢や喜びを表現する人たちが一人でも増えることを願って、 この旅行人生の記録を載せていこうと思います。
2006.11.15
次男は現在2ヶ月半。3日ぐらい前から、うんちがゆるくなりオムツかぶれでお尻が赤くなった。小児科に行って下痢止めを処方してもらう。託児所の先生が、「オムツかぶれの薬を病院で出してもらって」と言うのだが本当に病院を回っている時間がない。そう訴えると、「お茶で拭くといい」と託児所。お茶には殺菌効果もあるから、それもそうかもしれないなあと思いつつお茶拭きはしなかった。さて幸い下痢止めが効いて、うんこの回数が減った。おしりを拭いたあとはタオルでポンポン軽く拭いてシッカロールつけて、乾燥させてあとは自然治癒。オムツかぶれが痛々しかったので、治ってきて嬉しい。
2006.02.11
久しぶりに楽天に帰ってきました。去年の11月30日に次男を出産。入院の前日も出勤。請求書を発行し、入院中も給与計算でベッドの上で電卓を叩いておりました。さてさてヘルプに来ていた実家のジジババが「疲れた」と言って1月末に帰り、同じく1月末に1年間フロントで働いてくれたコが辞めてしまいもおおお、てんてこ舞いの忙しさ。3ヶ月目に突入した次男もさっそく託児所に預けています。まだ小さい子なので、なんだかカワイソーーーと思いつつ。で、出勤。夕方に子供2人の面倒を見て、子供たちが寝付いてから家事という生活です。夫は深夜にならないと帰れないため、育児と家事が双肩にズッシリ。しかし不眠不休でも結構人って死なないものです。はああ。喜んでいいものやら。そうそう。サジーってな栄養補助剤を最近飲んでいるのですがこれは効きますよ。過労な人たちにお薦めです。今日は団体様が入っているので、託児所、保育園に預けた子供たちを、夫の後輩宅にそのまま連れて行って再び預けて、働いておりますだ。もういっそのこと韓国のハラボジ、ハルモニが子供たちの面倒を見てくれないかなあ。この日記のテーマを今後何にするか迷っているところです。韓国にいるときは、韓国暮らしだったんですが。沖縄暮らしのネタ、ホテル暮らしのネタって愚痴になったり、沖縄県人の悪口になりそうだし。うーむ。沖縄県人ってあまり(全然?)働いてくれないんだもん。新米経営者の苦労話って、誰か読みたいですか?希望者あれば書きます。ははは
2006.02.10
沖縄では、「あんれまあ」という苗字に出くわすことがあって、なかなか楽しい。 スタッフ、お客様、関係者、営業マンなどなど、いろいろな人に会う機会も多いからだろう。 沖縄の人から見たら、コレの何が珍しい?と思う苗字もあるだろうが、私のような内地の人には、聞きなおされるのでは? とか、内地では、印鑑ちょっと手に入りにくいだろう? みたいな苗字があるので紹介します。■漢字で書けますか?キャンさんアハゴンさんヨナミネさんジャハナさんアニヤさんヤギさん■読めますか?我那覇さん喜友名さん我如古さん銘苅さん江州さん真玉橋さん■読めるんだけど沖縄で多いなあと感じる苗字島袋(しまぶくろ)さん大城(おおしろ)さん平良(たいら)さん照屋(てるや)さん下地(しもじ)さん仲本(なかもと)さん宮城(みやぎ)さん比嘉(ひが)さん あ、この苗字は宮古島出身だな、とかあるんですよ。 まだまだ続く。パート2を書かねば。
2005.08.17
もしも理由もわからずに突然、15年間も監禁されてしまったら? という設定の映画を観た。 それが『Old boy』というタイトルの韓国映画だ。 映画のしょっぱなは、ある中年男がだらしなく酔いつぶれて警察のお世話になっているところから始まる。 その酔っ払いは、オ・デスという名前で、デスなどという名前が韓国でよくあるものなのかを夫に聞いてみると珍しいという。「死」を予感させる響きである。 さてデスには、今日が誕生日だという幼い娘がいるらしい。家に電話をいれ、これから帰ろうというときに拉致された。そして、そのまま15年間、どこだかもわからない狭い一室に閉じ込められる。 酒を飲み、喧嘩もし、決して優等生ではないデスだが、監禁されるいわれはない。だが悪いことはさらに続いて、部屋のテレビでは、デスの妻が何者かによって殺され、嫌疑が自分にかかっていることを知る。 蟻が体内から出てくる幻覚を見たり、何度も自殺を試みるデスだが、監禁生活11年目にして、ここから脱走して自分をこんな目に合わせた人物に復讐を誓う。 念願かなって脱出したデスは執念深く真実をつきつめていく。 そしてようやくたどりついたのは、デスが高校生のときの、ある夏の日の記憶だった。 その日、デスが目にしたものとは? そしてデスが、何気なくしゃべったことが、同級生の女の子とその弟の一生を大きく変えてしまい、デスはある人物に深く恨まれることになる(まったく予想もつかない相手に、知らない間に深~く深く恨まれるというところがコワイ)。 と、話はここまできて15年間監禁された説明がつく。 ところが、デスは監禁され、家庭を崩壊させられただけではなく(それだけでも悲惨なんだけど)、さらなる罠にはめられていて、実の娘と――――――してしまうハメになる(具体的には観てのお楽しみにしておきます)。 しかし恨まれる理由はそれらしくあるのだが、二重、三重の巧妙な罠を手間隙かけてハメて、しかも15年も監禁するかしら? というのが観終わった後の正直な感想だ。 デスを恨んでいたある人物とは、心臓の手術を受けていて、リモコンでいつでも心臓を止めることで自殺できるようになっていて、(この人、精神のどこか異常なんじゃないか)とか(実は余命いくばくもない人か?)と思わせる。 映画は闘争、拷問などのショッキングなシーンが続き、目が離せないので、最後まで観てしまった。 あとなぜ『Old boy』というタイトルなのかもわからなかったが、もしかして韓国語でちゃんと観たらわかるのかも?
2005.08.15

7日(日)は、国際通り(県庁のそばの、お土産屋さんが並んでいる通り)でイベントがあるらしいと聞いて、どんなイベントかも知らずに、家族3人で出かけてみると、1万人が参加するというエイサーのお祭りだった。 通りを埋め尽くす、エイサーの踊り手たち。このなかには老いも若きもというか、子供も混じっているので、踊りそのものはそんなに揃っていなかったりもするのだが、それもご愛嬌。 一生懸命踊る子供たちはかわいい。 列を揃える作業服姿のおじさんも、踊り手に混じって、ニンジンを太鼓のバチ替わりにふりふりエイサーに参加していた(写真がないのが残念)。 団体ごとに衣装が違っていて、その種類の多さに夫は驚いていた。 私の方はというと、衣装があまりに内地のそれとはかけ離れているので、やっぱり沖縄は日本とは別の国だったんだなあ、ここは琉球だなあと感じた。 「足先が分かれていて面白い」と夫。 韓国には足袋みたいなものってなかったっけ。 踊り手の女の子と、うちのガキンチョ 頑張る子供たち。父兄が横で見守っています。自分の子供が参加していたらさぞやうれしいだろうなあ。
2005.08.09
テーマ「子育て奮闘記」にしてみましたが、うちはあまり奮闘していません。はははは。 現在、日中は保育園だし、つわりのときは韓国のハラボジ、ハルモニに育児をお願いしてしまったし。うちは相当楽させてもらってるのかもしれない。 韓国に預けるのも、連れて帰ってくるのも夫がひとりで全部やってくれた。 飛行機代もかかったが、夫は文句ひとつ言わない。 やっぱ楽だなあ。 子どもが韓国から戻ってきてからは、思った以上に楽しい生活です。 預ける前は寝かしつけが本当に大変で、子どもがいない間は一日の半分以上は寝たきりという生活だったので(つわりのためですよ)、子どものいる生活に適応できるか実は少々不安だったのでした。 韓国ではトイレのしつけが開始されていて、トイレに座らせると、もう自分でおしっこしてくれます。 子どもの話すことばの8割りは韓国語になっています。2ヶ月の韓国生活で大分覚えてきたようです。 さて育児バトンが来たので、その返事をここで紹介します。Q.お子さんは何歳(何ヶ月)?性別は? 2歳3ヶ月の男の子です。Q.生まれたときの感想は?「かわいい」 生まれたてはもっとブサイクなのかなと思っていたので。帝王切開のため頭のかたちも丸くて変形していなかったから、かわいく見えたかも。Q.ウチの子のココが1番ってトコはどこですか? 何だろう? どんな子なのか、どんな子になっていくのか、まだよくわからないです。親だから、自分の子はかわいく見えるけどねえ。Q.最後に、将来どんな子に育ってほしい? 素直な子 元気で私たち夫婦より長生きしてくれたら、それでいいかな。夫の方が子どもに対する希望が多いようです。
2005.07.07
昨日、夫が子供を連れて帰るため、韓国へ行きました。飛行機の席があれば、夫と子供が明日沖縄に帰ってきます。子供とはほぼ2ヶ月ぶりの対面です。電話の向こうでは韓国語をしゃべっています。とはいっても「オンマ、シャエエエエエ!」と、どなっていて、これは「オンマ、サランヘ!」のつもり。風呂はイヤだも韓国語でしゃべっているそうです。韓国の両親には、お疲れ様でした、です。感謝、感謝しかしハラボジが手放したくなくて、また泣くかもしれません。下は最近の子供の写真
2005.06.25
沖縄は見事に雨が降り続いています。 ニュースでは那覇市の小中学校は午前中で児童、生徒さんたちを帰しているとか。 前線が沖縄の上を停滞しているんですが、降り方たるや、内地出身の私からすると、もう台風なみ。強風をともなって横殴りの雨です。 今朝はついにロビーで雨漏りしました。しかもいつも雨漏りしないところから滝のように水が落ちてくる。2階の広いベランダには雨水がいっぱいで池のようになっていました。排水が上手くいっていなかったみたい。で、2階の廊下にも一部溢れたり、1階のロビーに雨漏りしていたようです。 男衆が水をかき出し、排水管のつまりを直したところ、10分ぐらいでロビーの雨漏りは止まりました。ホッ。 県内の高校野球の選抜試合も雨の影響を受けて、開会式が延期しました。このホテルにもいくつかの野球部さんの予約があったのですが、急遽、延期です。野球部員たちは短くなった日程で試合を消化しなくちゃいけないので、忙しくなるんじゃないかしら。皆さん部活も勉強も頑張ってください。 こんな天気のなかでもシュノーケリングに出かける人はいるそうです。 このホテル内にカウンターを置いているダイビングショップの人に、こんな天気じゃ商売あがったりでしょ、というと、そうなんだけど、それでも今日、お客さんが入ったというので、驚きです。 さすがに船は出ないので海辺から入っていったそうです。内地からの旅行者で、帰る日程が決まっているから、やむなく決行したそうな。 海はにごっていて、あまりよく見えなかったそうで。旅行者には本当に残念な天気でした。 地下の居酒屋の社長いわく。「泊港で船が転覆しとった」 短期間に大量の雨が降ったからか、強風のためか。ひょえ~ もう早く雨やんで欲しいです。
2005.06.17
ホテルにはお客さんだけではなく、営業マンもたくさんやってきます。 飛び込みで営業だけではなく、電話での営業も結構あるのですが、昨日は久しぶりにムカつく営業マンの対応をしました。 なんでもうちのコピーの機種を聞き、シャープだと言うと、「うちが扱うコピーを使えば、今後紙やらトナー代が一切無料になる」という。 今あるコピーは支払いが終わっているか、リースの期限が切れているかで、コピーそのものにお金はかかっていません。紙やトナーだけ買い足して使っていましたから、いくら消耗品がただになるからといって、新しくコピーを導入する必要もないので、電話の向こうの営業トークにはあまり魅力を感じていなかったのです。 でもまあ検討の余地はあるなと思って、正直に「うちには営業の電話やら飛込みが多くて忙しくて対応が大変。御社のパンフなり商品説明があれば、とりあえず送ってもらえませんか」と伝えました。 そうしたら予期せぬ返事が・・・「送料はウチ持ちですか?」 はあ? で、自分はこのへんの地域を回っているから会って説明をするという。 言った本人は気づいてないかもしれないけど、「お前の時間より送料の方が大事なんだよ」と、相手は受け取りますよ。これじゃあ。 驚きのあまり思わず笑っちゃいました。「資料を送っていただかなくても、来ていただかなくても結構でございます」と、あしらっておきました。 こちらも夫や自分自身がいつ営業に回るかわからない身。 そして営業マンも感情のあるひとりの人間だということは承知しているので、営業マンに対して無下に冷たくあしらったことはないのですが、それにしても営業マンには相手の忙しい時間を割いてもらっているということは念頭に置いてもらわないと。 しかし若い人はなかなかそこまで気がつかないのかなあ(私も30代で若いつもりなんだけど)。 うちのスタッフも、旅行会社からホテルのパンフを送ってくださいと頼まれて、送料は元払いですか? 着払いですか?って私に聞いてきたからね。 着払いなんかで送ったら相手が気を悪くするよ。資料請求はすべて「来てください」という気持ちを込めて、うちが送料を負担して送ってね。 と教えました。言えばわかるみたい。でも言わないとわかんないみたい。 若いスタッフは自分の子供だと思って愛と忍耐をもって教えます。 でも相手のことを考えない営業マンは即バイバイだな。
2005.06.14
今までは自分が金欠で困ってきた人生だったけど、ここでホテルの仕事をしてからは私たち以上にお金に困っている人をたんと見てきました。 前借するスタッフも何人かいるし。 家賃等の支払いにキュウキュウとしている様子なので、大抵は前借を許可するのですが、給料分以上の前借は、さすがに断りました。 給料自体が「0円」ではその人も生活できないだろうし、さらに次の給料から引くということで貸しちゃって、もし逃げられたらその分、ホテルの損失になるしね。 回りの関係者も、チョビチョビ金を借りた人、ドーンと金を借りた人もいて、返済が滞れば、こっちが催促電話ですわ。メンドクサ・・・ さてさて。 私も夫も、今いるスタッフにはとても感謝しています。まじめな人ばかりが残ったり、新たに参加してくれたりして、沖縄に来た当初に比べれば、スタッフの仕事のクオリティーややる気は著しく改善されました。 感謝の気持ちを表明するためにも、スタッフのみんなに潤ってもらいたい、楽しい思い出を増やしたい。 お金儲けに関して私を支えてくれる一冊があるので紹介します。 『クリエイティング・マネー』 サネヤ・ロウマン と デュエン・パッカー 共著 高木悠鼓訳 マホロバアート出版 マホロバアートのHPは http://mahoroba-art.co.jp 著者のひとりサネヤは、オリンという霊と交信するチャネラーです。彼女たちのHPもあります(英語)。 http://www.orindaben.com 状況に流されるのではなく、宇宙を豊かさ、自分が豊かさの源であることを思い起こして、人は意図的に、そして豊かに生きることができます。 と、高次の霊が人類を応援している内容です。 本書には、多額のお金が入ってきたと想像することで、お金のエネルギーを身につける遊びが紹介されています。 金額が上がるにつれて、ある時点で不愉快になる場合があると書かれています。 私の場合は億単位でした。 例えばロトが当たったとして、億単位のお金が入ってきたら、夫が遊んで使っちゃって、働くのをやめるのではないか。そういう心配が出てきたのです。 お金に関して私は夫に不信感があったのです。これが浮き彫りになった。 次に夫は賢くお金を使うだろう、と信頼することを選ぶと、億単位のお金が入ってくると想像しても、楽しく感覚を遊ぶことができました。 さらに、どうして夫に不信感があったのかを考えて見ると、私には、お金を得たり、生活水準を上げるためには「たくさん働いて苦労しなくてはならない」 という信念があったためでした。 この信念のために、今まで私は長時間ドロドロ働かざるを得ない状況ばかり続いてきたのかしら?? 自分の好きなことをすることを薦めているのですが、往々にして人は好きなことをするのに抵抗したりするそうです。 私などは、いろいろ言い訳をしてやらなかったりするので、本書の「自分の欲しい物事を実現させるためには、それを創造することを決意することです。別の言葉で言えば、欲しいものを自分が得ることは、自分にとって重要であり、すすんでそれを得ることに一定量の思考とエネルギーを注ぐことを決心するということです」 なんてくだりは、ずきっと響きますね。しかし決して説教くさい本ではありません。そこがまた、本書のいいところです。
2005.06.13
うちのホテルは24時間フロントがいます。 8年間、深夜0時から朝9時までフロントを勤めてくれたO君が先月末に辞めました。 きっかけは勤務中の飲酒。 深夜、ひとりでフロントに立つという仕事は、昼勤にはないストレスも抱えていたと思うんだけど、そうかといって酒飲んでいいはずがない。 彼の場合は勤務中にビール飲んで、寝てしまう。ベロベロに酔っていれば、早朝出勤する厨房担当にちょっかいを出したり、いたずらをしたり。こんなことが何回もあったので、私たちの代になってからは、かなりきつく叱ってきたのですが、どうも効果がなかったようで。 先月末に酒を飲んでロビーのソファーで寝ているのを夫が発見。 叱ったところ、辞めてもいいんだ、部屋を明け渡す、と言ったらしい。 O君はホテルに住んでいるので、辞めて部屋を出ることになります。 その日の夜から深夜のフロントには夫が立つようになりました。 しかしO君は一向に出て行く気配がない。 それで、これからどうするの? と聞くと、やっぱり出て行くという。給料日が翌10日支払いなので、10日までは部屋代を払うから、ここでのんびりして給料をもらってから出て行くんだそうです。 部屋代を払わせるのも悪いから、出る準備に3日、4日かかるならそう言ってほしい。こちらは部屋代を取らないで待つから、と言っても、払ったほうがこちらも割りきれるから楽だと言い張るので、そうすることにしました。 さてさて。O君はパチンコに狂っていて、給料の前借はしょっちゅうで、借りた金はパチンコにつぎ込むという生活を何年も送っていて、それを止めさせようとする私とは、よくぶつかっていました。 先月は珍しくパチンコで儲けて、よっぱらった日には40万円ほど持っていたらしい。数日後、私がどうするのと聞いた時点では20万円ぐらいに減り、さらに3日ぐらい後にはどうもなくなったようで、辞めたあとなのに「前借させてください」 と頼んできた。 夫は、もうスタッフではないから貸せないと断り、もし仕事を続ける気があるなら受け入れるから、もう一度よく考えなさい。そして辞めるかどうかを明日の夜9時に話し合いましょうと伝えました。 O君は、酔ったときに辞めると言ったきり、夫になんで辞めたいのかちゃんと説明していなかったので、再確認のためでした。 しかし翌21時になっても来ない。 さらに次の朝、O君からは「前借させてください。荷物をつめるカバンを買いたい」と再度お願いがあったので、もういいやで貸しました。 辞めたいなら辞めるって言えばいいのにね。そういう話し合いはぶっちぎって、なんか言ってくるとしたら、「前借させて」しかないんだもん。 義理がないわあ。 仕事とは関係ないんですが、5月末は、ソウルに預けている子供を連れて帰る予定でした。 ところが夫が韓国に行く前日に、酔っ払い事件が起きて、そのまま夫は韓国に行けなくなり現在に至っています。
2005.06.07
つわりでうちの2歳児の世話が大変になってきました。夫に任せていたのですが、夫も仕事と育児で過労気味。夫婦二人して「だれか助けてくれ」という状態になってしまい今月の4日に、子供をソウルのハラボジ、ハルモニのところに夫が預けに行ってきました。で、夫だけ翌日日本にとんぼ帰りです。子供はソウルで元気に暮らしているようです。私はそのほうがうれしいのですが夫は「泣きもしないでちょっとカワイクナイ」とか。子供の心配はあまりしていないんですが特にハルモニが疲れるんではないか、ということが心配。育児もせず、仕事もほとんどせず、もっぱら引き継ぎのみ。お休みをたくさんもらえて、恵まれていると思います。
2005.05.11
関東圏でこれを読んでくれているYさん、Kさんへ。 メールどもどもです。 ま、一回幽霊屋敷を見に遊びに来てください。 綺麗にしつつはあるのですが、まあ、まだこんなレベルでごんす。 最近、フロントスタッフのTさんが「大きい金庫のある部屋、何か臭くないですか」と言い出した。 私はよくわからなかったのだが、彼女によると「もしかして、どっかでネズミが死んでいるのでは?」 ということで、メンテ(お掃除)のチーフのIさんにも聞いて見ると、その可能性はある、という。 昨日は夫が先頭に立ち、メンテチームも動員して、スタッフ部屋の荷物を外に出して大掃除をした。 以前、私とフロントの男の子とで要らない物は随分処分して整理したのだが、さすが掃除のプロのメンテチームが入っただけはあって、本当に綺麗にしてくれた。感謝感謝です。 幸い、ネズミの死骸は出てこなかった。 本当にネズミが原因だったら、スタッフの健康に関わる一大事だった。 それにしても異臭の原因はなんだったのだろう? 霊がいると変な匂いがしたりすると本で読んだ記憶があるので、密かに(霊?)と考えているのだが・・・ お客さんに見える場所から綺麗にしているので、見えない場所やお客さんを入れない部屋は、まだまだすさまじい物置のままである。 良い運気を呼び込むにはまずは部屋等を整理整頓して清潔にするのが基本のキ。 とはいえいっぺんに大量のゴミを出せば処理代もかかるので、ちょっとずつ今までのゴミに混ぜ込んで処理し続けるしかない。 ゴミ処理業者を呼んで、これからは粗大ゴミをちょっとずつ出すことを話し、値引き交渉もした。 うちは極力、出ていく金を節約している。だから滅多に外部の業者には頼まないでスタッフたちでやっている。みんな通常業務の合間を縫ってやっていることもあり、実力不足等もありで、そうそうすぐには物事は進展しない。 例えば水道関係、電気関係は夫が修理しているのだが、最近はすっかり体調が悪くなってあまり進んでいない。 今度は自分がつわりであまり働けないし。 こうしたことが歯がゆい感じもするのだが、仕方がない。 ようやく私は「待つ」ということを覚えたような気もする。それもただ待つだけではなくて「信じて待つ」(この場合、年内にはホテルが見違えるように綺麗になること)ことが大事だし、それにはそれ相応の精神力が必要で、必要なら身につけるしかない、と思うに至った。 話は変わって、厨房に出るネズミを何とかしようと、ダスキンさんを呼んで駆除の相談をしたことがある。 ダスキンさんに聞いた話だが、ネズミが死ぬと本当に臭いらしい。 餌で毒殺する駆除方法が簡単ではあるのだが、見えない場所でネズミが死んでしまい、死骸を探せなかった場合、いつまでも臭いが残るので、毒殺は薦められないと言う。 で、どうするかというと、夜中、厨房の床一面に粘着テープを敷き詰め、早朝にそれを回収するそうだ。一回でネズミがかかるとは限らないので、通常は何回かやるらしい。 金額を聞いて、とりあえずはお断りした。 今は市販のネズミ用の粘着シートとネズミ捕りの罠で対応中です。
2005.04.21
独身時代、東京で暮らしていたときは、普段気にもとめもしなかったパチンコ。 自分自身がパチンコを一切やらないし、周りにも問題を起こすほどそれにのめり込む人は皆無だった。 パチンコ屋さんは儲かるそうだから、ビジネスという視点では多少は興味はあったが、自分にパチンコ屋を経営する才覚があるわけでもないし、むろん野望もない。「世の中うまくやっている人(パチンコの経営者)はいくらもいるもんだな」と思うにとどめていた。 しかし沖縄に来てホテルの仕事をしてからというものパチンコは、間接的に大いに関係のある存在になってしまった。回りに迷惑をかけるほどのめり込んでしまった人たちを何人か見たり聞いたりしているからだ。 ホテルから歩いて5分もしないところにパチンコ屋が2件ある。このうちの賑やかな通り沿いにある1件に、かつてうちに泊まっていたSさんが通っていた。 8年ほど前、Sさんはこのホテルのフロントで働いていた。 なんとホテルの宿泊客と結婚し、福岡に渡ったはいいが、離婚して故郷の沖縄にもどってきた。 親とは絶縁状態だったらしい。 それで親元には帰らず、ホテルに戻ってきて、長期滞在者としてすむことになった。結婚前はホテルの当時の支配人とつきあっていたこともあり、その人の好意で考えられないほど安い家賃ですむことになった。 Sさん本人の話によると、人にお金を貸したがために自分が借金を抱え込むハメになったそうだが、本当だろうか? Sさんは精神状態の問題で働けないと周囲にいいまわり、市役所に手続きもとって生活保護を受けていた。 それで、毎日せっせとパチンコ屋に通った。 カード会社からはSさんあてに手紙ががんがん届き、おかしな電話も多かった。「Sさんはそちらの従業員ですか?」という内容だ。確かに昔は働いていたそうだが何分8年も前だし、勤務先をこのホテルにして金でも借りたのだろう。 フロントで忙しく働いているときに、わけのわからん電話もはっきり言って迷惑だった。「何がなんでもSを呼び出せ。今すぐ部屋のドアをお前が叩いて来い」なんてのもあった。 生活保護を受けていてパチンコ通いというのは信じられないが、まあ私の知ったことでもないし、家賃を払っている以上、ホテル側が口を挟む問題でもない。 ホテル経営者として私たちが頭を抱えていたのは、Sさんの家賃が安すぎたことで光熱費などを考えると利益を出すどころかこれじゃあ赤字かも。 私たちは値上げ交渉をしたところ、Sさんはホテルを出るということになった。 それでお金がない、生活費がないと涙を流してSさんは夫から金を借りた。 夫も貸さなきゃいいのに泣いて頼まれて4万円貸してしまった。 Sさんがホテルを出るということで、Sさん、市の生活保護の関係者、私たちの3者が話し合いをすることになっていた。 どうもSさんは親元には帰れない事情(どんな事情か?)を市に訴えていて、市から「次の安く住めるところが決まるまで、ホテルにSさんを置いていただけないだろうか」という依頼を受けていたのだ。 市の担当者が来ているというのに、Sさんは出かけていない。私たちだって事前に市からアポが入ったから、時間の都合をつけて待っているというのに。 夫はパチンコ屋へすっとんでいき、Sさんの首根っこをつかまえて帰ってきた。「生活費がないと泣いて頼むから貸したのに、パチンコとは何事だ」 夫はすごい形相で机を叩いて怒り、Sさんにただちに借りた4万円を返せと迫った。 そのときSさんがもっていた3万円は巻き上げた、イヤ、返済させた。 1万円はとりっぱぐれたが、それはまあいいや。 市の担当者もパチンコと聞いて顔色が変わった。「あなたは親元に帰るしかない」とその場で宣告した。 それで、なんとその日に引越しをするからと市は引越し業者に連絡し、本当にみるみるうちにSさんのチェックアウトが決まってしまった。 こうしてSさんとは縁が切れることになった。 ちなみにだが。 引越しもすんなりとはいかなかった。 部屋のドアを市の担当がたたいても何の反応もない。 合鍵で開けてみると、Sさんがコンコンと眠っている。 多分、睡眠薬を飲んだのだと思う。遺書めいたものも置いてあって、それは市の担当が預かり、私は読まなかったので内容は不明のままである。 救急車がやってきて、その後、麻薬の可能性がないかどうかを確認するために警察までやってきた。 ほかのお客さんから何があったかしつこく聞かれ、困った。 荷物の運び出しは予定通り粛々と行われた。 立ち会いで部屋を始めて見たのだが、動物を飼ってはいけないはずのホテルだったにも関わらず、ケージでウサギを8羽も飼い、4方の壁はウサギの糞尿だらけ。床はすべてゴミで埋め尽くされ、かつてテレビで見たゴミ屋敷というものにソックリで、部屋は異臭を放っていた。 Sさんは最初から死ぬつもりはなかったというのが、まわりのスタッフの反応で、翌日には意識を取り戻し回復に向かいつつあるという報告を市から受けた。 最初、この日記のタイトルを「パチンコで滅亡しつつある人」としたが、別にパチンコのせいで滅亡?したというより、Sさんの考え方や生き方が破滅的だったのだろうと思い直して、今のものに変えてみた。 あの手この手で同情を引くことで回りをコントロールしようとしてきたSさんだが、世間もそうそう甘くはないということである。
2005.04.16
ホテルの仕事をやっているといろんな出来事があります。今日は以前、長期宿泊されたお客さんのことで警察が聞き取りにやってきましたので、午前中はその対応でした。名刺に知能犯係とあるので、「詐欺でもやったのかしら」と思って聞いてみるとどうも会社の金を使い込んだとか。そのお客さんは長期滞在でしたが今年の1月分は滞納。なんかおかしいなってホテル側も思っていたわけです。しばらくしてお父さんと名乗る人が電話で「息子はちゃんと家賃を払っているか」と聞いてくる。電話で聞かれても本当にお父さんかどうかわからないし内心困ったな、「あまりお客さんのプライバシーに関わることはお答えできないんですが」などと言っていたら、翌日にはフロントにやってきた。顔を見たらお客さんにそっくりで、(あ、これは本当のお父さんだな)と滞納の件を話したら、翌日にお父さんが支払い、翌々日には、「息子は故郷(離島)に帰った方がいい」ということでチェックアウトしていきましたよ。とこういうことが2~3日で片付いて、しばらーくたって警察沙汰です。どうも、そのお客さんはパチンコにはまっていた・・・という噂も聞いたことがあるんだよね。パチンコで人生おかしくなっちゃった人は沖縄に着てから何人か見ています。これもホテルの仕事をしているからだと思うんですが。そんなに、はまっちゃうもんなんですかね。パチンコにはまったく興味がない私には理解できない世界です。
2005.04.14
自分が妊娠したからというワケではないですが、うちのホテルのフロントで働いてくれる人を募集中です。妊娠が発覚する以前に地元の求人情報誌に募集広告だして先日の日曜日に掲載されたばかりです。今、続々と?? 履歴書が届き、問い合わせの電話が入っているところ。都会でバリバリ働いていて疲れてしまい人生を見直して新天地で仕切りなおそうという人が来てくれるとうれしいです。・指示しなくても自分で考えて動いてくれる人・パソコンが使える人・一緒に幽霊屋敷を改造していってくれる意欲的な人求めています。まずはメールを送ってみてください。ひやかしはよしてね。あ、今は幽霊屋敷というほどキタナクなくなってきました。でもゴキブリとネズミはまだいるわ(泣)。
2005.04.12
沖縄に来て驚いたことはいくつかあるけど、そのなかのひとつが「子沢山」だった。まちを歩けば、子供3人連れなんてのは普通。どうかすると4人連れもいる。さすがに4人ともなると「普通」ではないだろうが、それにしても珍しくはない。身近にも4人の子持ちを何人か見ている。地下1階で居酒屋を開いている社長さんは長男家族と同居しているのだがすでに長男夫婦には4人の男の子たちがいる。社長曰く。「また生まれるでよ。さすがにいい加減にしろって怒ったサ」さぞや大変であろう。「大変なんてもんでない。子供たちが暴れてベッドなんて全部割れとる」・ ・・5人目は今年の夏にやってくるそうである。なんでみんなこんなに産むのか、何人かに聞いてみたところ親や親戚が近所にいて子育てを手伝ってくれる、とか物価が安いから育てやすい、とかそれらしい理由があがってくる。フムフム。しかし私は、南国のおおらかな気質が関係していると見ている。なににつけても「ま、いいか~」というノリである。あと回りも「産め産め」と、多産系にとって居心地のよい?環境となっている。うちも子供がひとりしかいないものだから、「最低3人は産んでみなさい」スタッフにもお客にも、何人もの子育て経験者からそう言われた。だからというワケではないのだが、私たちに第2子がやってくることが3日前発覚してしまった。はああああああ~(こんなハズでは・・・)。これはきっと沖縄の水とか空気とかが子供ができやすくなっているに違いない。沖縄の呪い、もとい! 祝福なのである。
2005.04.12
沖縄にすんで半年過ぎました。沖縄の人と仕事をしているワケなんですが、沖縄の人の仕事ぶりって荒っぽいな~と常々感じております。荒っぽくない人も、もちろんたくさんいるんですがね。社名入りの封筒がそろそろなくなってきた頃に印刷の営業マンがやってきたので見積もりをお願いしたんですよ。そのまま音沙汰なく、しばーらくしてから、いきなり箱をフロントにガンッと置いて「お待たせしました」って言うんですよ。オイッ!!私が頼んだのは見積もりだよ!いきなり刷るか? 普通!?もちろん、相手の非を指摘してから安~く安~く買い叩きました。ぶはははははは。この手の話はまだまだありますが、続きは後日にします。
2005.04.09
久しぶりに自分の日記を見てみました。脱韓後は沖縄の某島の某ホテルの経営を夫と共同でやっております。猫の手も借りたいほどの忙しさ。ガキンコは手がかかるし。・・・のため、どこまで日記できるかわかりませんが面白おかしく続けていきます。ホテルネタも書くので、どこのホテルかはふせておきます。リバーサイドのホテルとだけ書いておきます。ふふふ
2005.03.16
【臨 時 休 業 の お 知 ら せ】 急なんですが「沖縄で働かないか」という話が持ちあがり、どうも本当に行ってしまう流れに乗っています。 あさって、PCを含め家財の多くを日本に送る予定です。 日本での生活が落ち着くまでは、このHPも臨時休業です。 もし書き込みをいただいても、すぐにお返事ができないかと思いますが、何卒ご容赦くださいませ。 一応、沖縄生活が落ち着いたら再開する予定です。
2004.10.21
ミリミリ(前もって)日本行きの準備をしようかなと思います。 したがいまして日記の更新はもうあまりできません。 よく遊びに行くHP回りは、パソコンを船便で送る日まで続けますが、読み逃げになっちゃいそう。m(_ _)m ご容赦! 根が面倒くさがりで仕事人時代は大抵忙しかったから、外国に行くときは、いつも前日か当日に荷物詰めでした。 でも今はチビがいるので、短期集中も難しそうだわ。 夫が私以上に場当たり的なので、妻がミリミリの見本を見せようと思います!? それでは、しばらくの間、ごきげんようです。
2004.10.20
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