しろねこの足跡

しろねこの足跡

つめあと10~12



 私の言葉に、かすかに反応したユウさんが発した言葉に私は仰天した。
「あのヒトが、いたんよ。みたんよ。声が、聞こえた気がして。庭にでてみてたんだけど・・・」

 だって、ユウさんが指差す向こうに、固まっていたのはグレシマだった。

 やばいやばい。警報発令。とにかく、家に入れて風呂に入れないと、肺炎になっちゃうよ。あー、あと民生委員のひとと、ケアマネさんに連絡しなくちゃ。あー、もう私親族でもないのに。

 気づいたらでっかい声で叫んでいた。
「リオさんー。いるなら庭に下りてきて、助けてよー。」
 ちょっと窓をあけて、リオさんが顔をだした。一目見て事態を把握した、リオさんはあっという間に庭に下りてきて、ユウさんをかるがると抱き上げ、3号室に連れ帰った。
「大丈夫、なんとかなるよ。」

 だらりとさがったユウさんの手に、小さな引っかき傷がついていた。
「グレシマがやったのかな?」
 おびえて上目遣いにこちらを伺っているグレシマに、私は手を差し伸べた。
「おいで、悪いと思っているなら許してあげるよ。おまえもびっくりしたんだよね。」

 グレシマは、ゆっくり近づいて、そっと私の手のひらに顔を擦り付けた。

 後悔と罪悪感。
 動揺と安堵。

ユウさんのところにはすで往診の医者が呼ばれ、点滴をされていた。結構熱が出ているらしい。

「場合によっては入院かもって。」
「そう・・・リオさんありがとう。」
「しばらく、元野さんもいれて交代で様子みないとな。ま、元野さんにはあまり期待できないか。」
「あー見えても、結構優しいからなんか協力はしてくれると思いますよ。」

 しばらくの沈黙のあと、リオさんが不意にまじめな顔をして言った。

「朝灯さんはどうして、僕を呼んだの?救急車呼んだほうが合理的だと思うけど。」

 私は、困った。どうしてだろう。そうするのが正しいような気がする。でもあの時は、リオさんしか浮かばなかった。

「安心したかったのかもしれません。リオさんに大丈夫って言って欲しかったかもしれません。」

 きっとそう。あのとき一番大変な状況にいたのは私だったんだ。恐かったんだ。ユウさんが、どうにかなってしまうんじゃないかって。リオさんが大丈夫っていえば、そんな気がするような気がした。
 リオさんはすこし、難しい顔をして目を伏せた。奥二重の切れ長の目。うつむくとさらりと流れる前髪。

 重い沈黙が流れた。
「あの、深い意味はなくて、男手がほしかったっていうか・・・」

 リオさんは、優しく笑った。
「僕を頼りにしてくれて、うれしかったですよ。こんな僕でも誰かに必要とされた瞬間ですから。ユウさんのこと、みんなで助け合いましょう。」
「はい。あした役所に相談に行ってきます。」

 庭はすっかり暗くなっていた。
 ネコたちは、じれながらご飯をまっている。
 ネコたちが沈黙しているとき、何を考えているのだろう。
 グレシマはいつのまにかいなくなっていた。

ユウさんの状態はよくない。やっぱり肺炎になりかけているようだ。週明けには入院かもしれない。

 あの日、ユウさんはグレシマに何をみたんだろう。あの人が、っていってたな・・・仏壇のあの若く精悍なご主人を見たのかな。霧煙るような雨のなかのグレシマの幻影は、どんなにかすらりとした立ち姿にみえたのだろうか。

 雨後あとの土庭は蒸し暑い、湿気が地面から青臭く立ち上ってくる。窓を閉めようとしたとき、庭に小さなネコの足跡をみた。誰かきたんだ。

 上からゆっくりとしたヴァイオリンの音色が響いてきた。シチリアーノ。物悲しくも激しい曲。
元野さんの弾く音色はいつも、胸をぎゅうとつかまれるような切ない曲ばかり。いつも、ぼーっとしていて、悪がきっぽい人だけど、なんだか悲しみを込めている。
 しばらく聞き入っていると、かすかに縁の下からニャアという声がした。

グレシマとハチだった。
 お互いを必死に毛づくろいして、おでこを擦り付けあっている。目を閉じて、喉を鳴らし、気持ちよさそうに肉球を広げている。


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