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2017.02.13
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カテゴリ: 歴史
今回ご紹介するのは増田長盛、合戦時は大和郡山20万石でした。五奉行の一人。


合戦時
伏見城攻めには自ら参加し、重臣・福原清左衛門をして城内に籠る甲賀衆に寝返りを促し、落城に導いている(甲賀郡志)。
大津城の戦いには一門の増田作左衛門を陣代として軍勢を派遣し、増田勢は大津城の湖水方面から城壁を越えて乗り込み攻撃した。同城の戦いではまた、家臣・中村金六が敵方の勇士・浅見藤右衛門と組み打ちし功名をあげた。
しかし、一方で家康に三成の挙兵を内通し、また三成の資金援助要請も渋るなど対東軍への保身工作も講じている。
9月15日に行われた関ヶ原の戦いには参加せず、毛利輝元とともに大坂城守備部隊として西の丸に兵3,000を率いて駐屯。

合戦後
戦後の9月25日、出家して謝罪し、9月27日に大坂城西の丸にて沙汰を申し渡され改易となる。その身柄は高野山に預けられた。後に高野山を出て岩槻城主・高力清長預かりとなる。慶長19年(1614年)8月、家康より召喚され大坂方への和睦の仲介を依頼されるもこれを断る。元和元年(1615年)、尾張藩主・徳川義直に仕えていた息子の増田盛次が長盛との相談の上で義直の了解を取り大坂夏の陣で尾張家を出奔して豊臣氏に与したが、戦後この責任を問われ自害を命じられた。享年71。墓所は埼玉県新座市の金鳳山平林寺。当初、騎西郡金重村にあった平林寺に葬られたが、松平信綱によって平林寺が移転された際、新座郡野火止に移った平林寺の境内に移された。明治年間、子孫が墓石を再度移転している。

一族のその後

嫡男 大阪夏の陣で西軍に属し自害

増田長勝
庶長子 弟盛次とともに叔父長俊の養子となる。子孫は現存する。

増田新兵衛 -
三男 盛次の同母弟。長盛が高野山へ赴く際同道した。その後、増田本家の家督を相続した。

合戦後も一族は生き延びたようである。

関ケ原合戦の勝敗を喫したキーパーソンの一人ではあるが、積極的に西軍に属していれば増田一門のその後は大きく変わっていたことは間違いないであろう。


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Last updated  2017.02.13 11:48:22
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