すい工房 -ブログー

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氷雨(オリジナル小説)1




      -1-



  ずっと、あなたのそばに居たかった


        ◇◇        ◇◇


 細い雨が降っていた。
 音もない、質量も感じない、静かな雨だった。
 はたして雨といえるのか。

 霧のようだと感じながら、湊子(そうこ)は歩道を歩いていた。

 空は昼すぎから薄い雲におおわれ、いまも頭上に広がっている。
 朝、出社前にみた天気予報では「晴れのち曇」、降水確率30パーセントだった。

 白い飛沫(しぶき)が広がる社外の景色をみて、だれかが「天気予報、はずれたな」とつぶやいていた。  2005.3.25

 これを雨というのだろうかと、湊子は内心、首をかしげた。
 傘をささずに外にいて、ぬれねずみになる量が「雨」なのでは。

 社内の出来事をふりかえりながら、湊子は思う。

 価値観の違いから、湊子は天気予報がはずれたとは思えなかった。
 当たったとも思わないまま、家路を急いだ。

 しなければならないことはたくさんある。

 思いだすだけでため息がこぼれた。
 旅行の準備に家族への連絡。
 マンションの管理人にも家を空ける事情を話していたほうが無難だろう。
 ・・・その間の家賃も払わなければならないのだろうか。
 住まい人がいないとしても。

 考えるだけで頭痛がした。

 できれば考える行為を拒否したいのだが、実行すれば自分の首が絞まるだけだ。
 細部に配慮をめぐらせ、思いつくかぎり済ませたほうがいい。

 いつも困ったような、朗らかな笑顔を浮かべる課長を、湊子はうらめしく思う。

 ことの発端は彼の一言から始まった。

「岸谷(きしたに)さん。急で悪いんだけど、あさってから出張に行ってくれないかな」

 課長席に呼ばれて行ってみると。
 今年50歳になる課長は、いつもの困ったような笑みを浮かべて、湊子に告げたのだった。 2005.3.26

 湊子(そうこ)は耳をうたがった。

「出張? 私が、ですか?」

 課長は困ったように眉をさげ、小さくうなづいた。

「高岡(たかおか)くんが足を骨折してね。彼が行く予定だったルポに、代わりに行ってもらいたいんだ。なに、記事の概要はできているんだ。あとは写真だけでね」
「ちょっと待ってください」

 湊子は慌てて身を乗りだした。
 そんな彼女を「なに、そうたいしたことではないから」と、課長がのんびりとした声で制そうとする。

「たいしたとか、そう言ったことでなく」

 湊子はさらに身を乗りだした。
 課長は「ああ、カメラのことか」とつぶやくと、湊子の言葉をさえぎってまた話し始めた。

「手振れに強いデジタルカメラを用意するから。君の腕でも何とかなるから」
「ですから、そういったことでなくて」

 そこでようやく、課長は湊子の言葉に耳をかたむけた。

「なにか、不都合があるのかね?」 2005.3.27
「不都合もなにも。私は。記者でなく、事務員として雇われているはずですが」
「そうだね」
「でしたら……」
「岸谷(きしたに)くん」

 課長は柔和な表情をくずさないまま、おなじく柔らかな口調で静かに口を開いた。

「けれど君はうちの社にやとわれているんだろう?」
「……はい」
「そして私の部下でもある」
「…………はい」
「君はどうやら、私の言ったことが不服のようだね」
「不服とかそういったことでなく、無理です。経験がありません」
「経験なら、いい機会じゃないか。行っておいで」
「ですが」
「……一つのことが専門的にできても、いまの社会では通用しないよ」

 そういわれて、なにが言えようか。

 湊子はうなだれて「わかりました」と小さくつぶやいた。

 課長はあからさまに「そうか、そうか。よかった、よかった」と華やいだ声音で告げる。

「じゃあ、あさってから一ヶ月。取材よろしく頼むよ」
「一ヶ月!?」

 課内全体に聞こえる叫びを、湊子は思わず発していた。 2005.3.28
 本当に、何を考えているのか。

 今日の出来事を思いだすと、自然と重い息がこぼれた。

 湊子はタウン誌を扱う出版社に勤務している。
 事務専門職として、今の会社についた。
 当時、学生でアルバイトをしていた湊子に「社員にならないか」と声がかかったのだ。

 「事務職でなら」との湊子の提言を、会社側も快諾した。もとからそれ以外の職種を望んでいなかったのだ。

 また湊子がアルバイトとしてついた時期もよかった。
 事務に長けた年長の婦人が、体調不良でやむなく会社をやめることになり、専門学校卒業間近だった湊子に、白羽の矢が向けられた。

 一から新人を育てるより、ある程度ものを知った人間がいいだろう。
 会社側もそんな思惑があったようだ。
 また湊子は、二年のアルバイト暦から、社内の事情をそれなりに心得ていた。

「記者は向いていない」と自他ともに認めていた。
 それなのに、いまさら取材に行ってこいはないだろう。
 しかも一ヶ月など。

 期間を聞いて、湊子は一度うなずいた頭を左右に振った。

「無理です! ぜったいにムリ!」

 すると課長は、だだをこねる子供をさとすような穏やかな声で告げた。

「岸谷くん。ほかに人がいないんだ。観念してくれ」 2005.3.29
 その後、課長はつらつらと 空でほかの社員のスケジュールを読み上げた。
 全員、一ヵ月のうちに、ほかの取材等、スケジュールがたてこんでいる。
 おおげさでもウソでもなく、本当にほかに人材がなかった。

 だったら、ルポ自体、ないものにすればいいではないか。

 思いは脳裏をよぎったが、さすがに口には出せなかった。
 言ってしまうと何もかも投げ出すように思えたのだ。

 高岡にも悪いように思えた。
 高岡は、今回のルポにそなえて何年も前から資料を集めていた。

 いざルポが可能だと知ると、労働過多ともいえるスケジュール調整をこなした。
 それもルポのために、だ。

 あるとき、湊子(そうこ)は高岡に聞いた。

 何を調べているのかと。

 高岡は高揚した声音で告げた。

「祭りだよ」

「……祭り?」 2005.3.30

 湊子(そうこ)には意外だった。

 高岡は22の湊子より、5つほど年が上だ。学生時代ラグビー部に所属し、体格もがっしりしている。
 スポーツに対する興味がつよく、彼が担当する取材も、ほとんどがスポーツにからんだものだ。

 そんな高岡と、彼が眺める、古風な衣装をまとう写真が、どうしても結びつかなかった。

「一度だけ行ったんだ。数年に一度、不定期に開かれる」

 どういうことかと、湊子は首をかしげた。
 高岡は口元に笑みを浮かべるだけで、確かな答えはもらえなかった。

 いつ開かれるか、わからない祭り。

 それが今年、開かれるという。
 やっと巡った運だとういうのに、高岡は手放さなければならない結果となった。 さぞ無念だろう。

 同情はしても「かわりに私が」などの責務を、湊子は感じなかった。
 恨みもないかわりに、重圧で胸が苦しかった。

 就業時間終了後、湊子は高岡が入院する病院をたずねた。
 高岡は左足の大腿骨(だいたいこつ)を複雑骨折していた。
 しばらく安静にしたほうがいいとの診断だったそうだ。

 病室に行くと、高岡はベットで横になっていた。
 安定させるためだろう。
 ギブスの左足を吊っている。 2005.3.31

 高岡は湊子に気づくと、なんとも言えない苦い顔をした。
 表情としては笑っているのだが、わずかに歪む口の端、少し寄せられた眉間に生じた皺が、彼の本来の心情をしめしていた。

「悪いな」
 告げる高岡に「いいえ」と首をふって、湊子は「課のみんなから」と菓子折りの見舞い品を渡した。

 見舞いと、もう一つの本題をどう切り出そうかと、言葉をさがしていると、高岡のほうから口を開いた。

「課長から聞いてる。引きつぎの件だろう」
 湊子は少し目を見はったあと、小さくうなづいた。
 また高岡は苦笑し「そう硬くなるなよ」と、サイドボードに置いていたノートを湊子に手渡した。
 ほかの資料はデスクにある。引き出しの場所もくわしく伝えると、高岡は湊子にあとのことを頼んだ。

「俺はまたの機会にするよ」
 告げる声も渇きをおびている。軽い焦燥を感じながら、湊子は「わかりました」と、小さくつげることしかできなかった。

 高岡は、自分が行けないかわりに、ビデオの撮影も湊子にたのんだ。
 なんでも、祭りの期間中に舞いが奉じられるという。

 高岡がその祭りにこだわったのも、舞いが見たいがためだった。

「急な話でわるかったな」
「……いえ」
 うつむく湊子に、高岡は明るい様子で振舞おうとする。
 が、半分は失敗におわっていた。

 焦燥感がぬぐいきれなかった。

 湊子も高岡の心情がわかるから、何をいっていいのか、言葉がでてこない。
 高岡も湊子の心情をくみながら、当たりさわりのない話題を口にした。

「一ヵ月か。うちのやつら、岸谷なしでやってけるのかな。事務は全部、岸谷まかせだったからな」
「それは……。大丈夫ですよ。何かあったら、取材、終わった後にでも行きますし。それから伝票おこしますよ」 
「終わった後じゃ、まにあわないだろ」
「……え?」

 湊子は高岡の言った意味がわからず、首をかしげた。 
 高岡も、意図をさぐろうと湊子を見つめる。

「一ヶ月って、聞いてなかったか?」
「はい。聞きましたけど」
「……その間、もどれないだろ」
「……え?」
「おまえ、どうやって行くつもりだった?」
「出社後、毎日通うって……ことでしょ?」

 湊子の声が細くなる。
 いやな予感が体に浸透してきた。

 高岡はぼうぜんとしながら、言いにくそうに口を開いた。

「一ヵ月、飛騨に泊りがけって……課長に聞かなかったか?」

「………………飛騨!?」

 思わずあげた声は、病室中に響いた。

 高岡は顔をしかめ、湊子は相部屋の住人から非難の視線をあびることとなった。               2005.4.1
 あわてて湊子が課長に連絡をとると、本人は「言ってなかったか?」と気にとめたようすもない。

「聞いてません!」

 病院の公衆電話では声をあらげることもできない。湊子は声量をおとしながらも、声にとげを含んだものいいをした。

 飛騨。

 なぜ県外の、それも地方の枠を離れた地域の取材なのか。
 タウン誌とは、地元の情報発信を主とするのではないのか。

 その思いこみから、湊子は取材場所を聞くことを失念し、県内の取材だろうと考えていた。

 悪びれたようすもない課長に腹がたち、受話器を激しくおりして電話をきると、高岡のもとにもどった。

 息をあらげる湊子を、高岡は気まずい顔をしてみていた。

「なんで聞かなかったんだ?」
「そんな遠いところなんて、ふつう考えつきます!?」

 かみつく湊子に、高岡はたじろぎながら「そうだな……」と言葉をにごした。
 そのあと、「悪いな」とぼそぼそとつぶやいた。

「まさか、岸谷に頼むとは思わなくてさ。俺もルポ自体、ないものと思ってた。嫌なら断れよ。俺からも頼むからさ」

 湊子は深くうなだれた。

「無理ですよ。あの課長がきいてくれると思います?」
「……だな」

 湊子の言葉に、高岡も首をすくめるしかない。
 二人の上司は、一度決めたことを曲げることなどありえない人間なのだ。

「もういいです。覚悟は決めました」

 意を決して湊子は顔をあげた。
 気持ちを切りかえた湊子を、高岡が不安げな面持ちで見ている。

「……いいのか?」
「もう決めました」
「いや、そうじゃなくて……」

 高岡は言いにくそうに、口を動かすだけで、声がなかなか出てこない。

「飛騨と聞いてなかったってことは、泊りがけも聞いてなかったんだよな?」
「……はい」
「どこに泊りがけか……聞いてないよな」
「……ホテルじゃ……ないんですか、もしかして」

 高岡は重くうなずいた。

「地元の民家にやっかいになる予定なんだ。話もついてる」
「……はい?」
「ホテルに一ヵ月連泊なんて出張旅費、うちの課長が認めるはずないだろう。旅費は俺がもつからって話で通った話しだ。で、その話をしたら「うちに泊まればいい」と言ってくれるところがあったんだ。……大丈夫か?」

 湊子は気力を失い、ベットに顔を伏せた。               2005.4.2

 高岡を見舞った帰り、湊子は足取り重く、帰路についた。
 昼からふりだした雨をぼんやり眺めて、これまでの出来事を振り返っていた。

 急な話なので、思考と意志がうまく結びつかない。

 ぽつぽつと、雨粒が頬をうつ。
 湊子は空を見あげ、うすく広がる灰色の雲を見つめた。
 質量さえかんじない、霧のような雨から、雫とわかる粒にかわっている。

 湊子は足をはやめた。

 雨に濡れるのはキライだった。
 濡れた衣服が肌にまとわりつく感触が気持ち悪い。

 雨音があたりを侵食していく。

 湊子がマンションについたころには、雨と認識できる粒と質量で、空から雫を落としていた。

 雨はキライなのだが。

 なぜかこの時、湊子は、静かに降りつづく雨をしばらく眺めていた。
 魅入られたように、吸い込まれるように、目を離せなかった。

 なにを思うでもなく眺めながら、ぼんやりと高岡が言っていたことを思い出していた。

 彼はこう、言っていた。

「祭りは、氷雨の次の年にするんだ」               2005.4.3


     ― 2 ―


 飛騨山脈。
 北アルプスとも言われ、富山県、長野県、岐阜県にまたがって連なる山脈である。
 標高二千メートルから三千メートルの山々が連なり、日本アルプスの一つに数えられている。

 学生時代に習った知識を思いだしながら、湊子はその場にうずくまった。

 肩が上下に動くほど息があがっている。
 膝がわらって、歩こうにも力がはいらない。
 額には粒となった汗が浮かんでいる。額だけでなく体中汗ばんでいた。

 荒いだ息のまま、湊子は顔をあげ、行く先を確認した。

 目の前には石段が続いている。
 来た道を振り返ると、前と同じ数の石段があった。

 のぼり続けるにも引き返すにも、同じ数の石段をどうにかしなければならないのか。

「あー、もう。休憩、休憩!」

 湊子は石段に腰を下ろし、ペットボトルのお茶に口をつけた。
 持ってきてよかったと思いながら、周囲を見渡す。

 石段の左右は杉林がつづいている。
 幹はどれも大人が腕で輪をつくるほどの大きさであった。
 樹齢三十年はくだらないだろう。

 高さも相当あり、真上を見上げると、かなたにてっぺんらしきものがどうにか見える。

 杉の大木に囲まれ、石段は鬱蒼とした雰囲気が宿っている。

 静かだった。
 静寂が耳に痛いほどだ。
 風がかすめると、枝と尖閣状の葉が揺れた。

 さわさわと聞こえる音にも静けさがにじんでいるように思えた。

 呼吸が整うと、湊子は先に続く石段を見上げた。

 この先に、祭りの主催場となる神社があり、高岡が約束した宿主もいるという。
 その人物をたずねて、湊子は石段を登っていた。               2005.4.4

 両腕にはボストンバックを3つ、抱えている。
 一つは湊子の私物、もう一つは仕事用の資料、最後は高岡に頼まれた、デジタルカメラやビデオカメラが入っている。

 一ヵ月という滞在期間の長さから、湊子が目的地に到着してのち、マンションから荷物が届く手はずになっていた。

 心配していたマンションの件も、不在の間、妹が住むということで解決した。

 相談すると、自分が一ヵ月住むと喜んで手をあげた。

 へんなところで無頓着な妹にあとをまかせるのは、正直気乗りしなかったが、このさい背に腹は変えられない。

 二部屋のうち、湊子が自室として使う部屋に入らないこと、人を呼ばないこと、湊子が家を開けた状態を保つこと。等の条件をつけ、一か月分の半分の家賃で話をつけた。

 妹に連絡すれば、すでに準備は整えてある湊子の私物を送るようになっていた。

 必要最低限の荷物に抑えたはずだが。
 こんなことだとわかっていたら、すべて宅配にしたのに。

 うらめしく思いながら、湊子は上方へ続く石段を見上げた。

 行く先を伝え、案内してもらったタクシーから降りたとき、湊子はわが目を疑った。

 本当にここなのか、間違いないのかと運転手に尋ねると、へんなものを見るような、訝しげな視線を受けた。

「このあたりで『多谷之淵(たやのふち)』と言ったらここだけだが」

 湊子はしばらく呆然としていた。
 目の前には小高い山がある。

 かるく百段以上はあるだろう。
 山の背には上方に続く石段が長々と続いていた。               2005.4.5

 ここが人の住むところだろうか。
 湊子は、車を発進させようとするタクシーの運転手を呼びとめて、再度、確認した。

「本当に、ここに『多谷之淵』さんが住んでいるんですか」

 返されたのは呆れた視線だった。

「なにを言ってるんだ。『多谷之淵』はここの呼び名だ。……あんた、なにも知らずに来たのかい? ここにいるのは塚島(つかじま)さん。多谷之淵を守ってきた人たちだよ」

 もう、何を言っていいのか、わからなかった。
 彼の言っていることが理解できない。

 タクシーは、困惑する湊子を残して発進した。
 立ちのぼる土煙を呆然と眺めながら、湊子はその場に立ちつくしていた。

 高岡は、一ヶ月、お世話になる宿主を『多谷之淵』と言った。
 確かにそういった。
 そこに厄介になればいいと。

 湊子が見舞いに訪れた翌日、先方と連絡をとりあって「もし、湊子がよければ」と話をつけてくれた。
 断るわけがなかった。

 『多谷之淵』と聞いて、珍しい名だと思ったが……どうやら違ったようだ。

 タクシーの運転手の様子をみるに、この山の名前か、地域の名だろう。

 肝心なことを教えてくれなかった高岡を恨みつつ、いまだ呆然とした思考で目の前に続く石段を見つめる。

 タクシーの運転手は、人は住んでいないと言わなかった。
「塚島」という人たちがいると言った。

 どちらにしても、この石段を登らなければならないのか。

 しばらくすると、湊子は意を決して三つのバックをかかえた。

 ゆっくりでいい。とにかく、上に行ってみよう。

 それから十分。
 湊子は山の中腹で力尽き、現在にいたっていた。               2005.4.6

 石段に腰をおろしてしばらくすると、あがっていた呼吸も落ちついた。
 汗もひいた。髪をゆらすわずかな風が心地いい。

 湊子はペットボトルのふたを閉めた。
 このまま座りこんでもどうしようもない。

 続く石段を見上げ、先に進む決心をする。
 湊子がバックに手をかけたときだった。

 突然、後頭部をはたかれた。

 驚いて振りむくと同時に、子供の甲高い笑い声が聞こえた。
 見ると、5、6歳ほどの少年が、おかしそうに笑っていた。

 しかしそれも、湊子の顔を見たとたん、笑みは消え、こわばった。
 黒目がちの大きな目を見開いて、湊子をみつめる。
 湊子も状況が理解できず、少年を見ていた。

 双方がさぐるように見つめていると、湊子の背後から駆ける音が聞こえた。
 振り返ると同時に声がとんでくる。

「正彦(まさひこ)!」

 少年の名だろう。叫びは悲鳴にちかく、険しい表情をはりつけている。

「茜(あかね)ねーちゃん!」

 茜、と呼ばれたのは二十代前半ほどの女性だった。
 肩まで伸びる髪を一つにまとめ、Tシャツにジーンズと、快活そうに見えた。               2005.4.7

 少年は彼女のもとへ走ると、その後ろに身をかくした。

「……だれ?」

 と、湊子を見て女性にたずねている。
 人見知りするのか、湊子と目があうと、さらに女性の後ろに姿をかくした。
 それでも顔半分だけのぞかせている。
 気にはなるらしい。
 瞳にはわずかながら興味の色が見てとれた。

「正彦!」と女性は少年をいさめながら、湊子に顔を向けると、遠慮がちに頭をさげた。

 つられて湊子も立ち上がり、会釈する。

「あの、この子……なにかしませんでした?」
「だって、茜ねーちゃんと思ったんだもん」

 叱られるよりさきに、少年は言い訳をする。結果、自分の所業を自ら明かしてしまった。

 女性は血相を変えて湊子に謝り、何をされたのか問いただされた。
 湊子は「たいしたことではないから」と気にしていなかったのだが、彼女の気迫におされ、頭をたたかれたことを白状した。

 寸分おかず、スパンとこぎみのいい音が生じる。

「何してんの、あんたは!」

 少年は「いて~」といいながら、頭をかきむしっている。
 軽い音だったので、実際に痛みはないのだろう。

 すいません、と女性は何度も頭をさげた。
 湊子は「気にしないでください。たいしたことないんですから」を何度も繰り返す。
 そんなやりとりが何度か続いて、双方おちついたころ、少年が女性のジーンズをひいて「帰ろうよ」と訴えた。

「ちょっと待ってなさい」

 少年をせいして、彼女は小首をかしげた。

「……それで、こちらに何か用でしょうか」

 好機とばかりに湊子はたずねた。

「あの、こちらに多谷之淵さんというお宅は……」
2005.4.8
 湊子は言いかけて、言葉をとめた。

 彼女は「多谷之淵さん?」と訝しげな表情をのぞかせている。

「……塚島さんのお宅は、このあたりでしょうか」
「……ええ」

 うなづいたものの、怪訝な面持ちはきえない。
 湊子の様子をうかがっている。

「私、高岡のかわりに来たもので――」
「ああ、高岡さんの!」

 とたん、はじけるように華やかな笑みを浮かべた。
 同姓の湊子さえ、息をのむ、引力のある笑みだった。

「話は高岡さんから聞いてます。よかった。これから迎えに行こうとしてたんですよ」

 言うなり、湊子が抱えるバックの一つを、するりととり、自分の肩にかけた。

 湊子は慌てた。
「いいんです、自分で持って行きます」とのばす。

 これから無料で宿を提供してくれる相手に、これ以上甘えるのは気が引けたのだ。

 しかし伸ばした手は空をきる。
 湊子の手をかわして、彼女はいたずらを考えついた子供のような笑みを浮かべた。

「いいのいいの。この子のお詫び」

 ぽんと少年の頭をたたいて、彼女は階段を上り始めた。

「やめろよ」

 言って、少年はまた頭をかきむしる。頭に触れられるのが嫌なようだ。

 上へ向かう彼女をみて、湊子は戸惑った。

「あの」と思わず声をかけると、彼女は立ち止まってふりかえった。

「家って……」
「ああ。そこよ。このてっぺん」

 階段の先をさし、あっけらかんと言い放つ彼女の言葉に、湊子は深くうなだれた。
2005.4.9
 息も絶え絶えにたどりついたさきに、拓けた庭が広がっていた。
 石灰石の大粒の砂利を敷き詰めた、赴きある庭だった。

 湊子は石段を登りきると、その場に膝をついた。
 息もあがって呼吸がきついが、それより何より、膝が笑ってまともにあるけそうにない。

 そんな湊子に茜は苦笑した。

「慣れない人はみんなそうだから」

 そういって、湊子が所持した荷物を家屋に運んでく。

 やっと上りきった湊子にたいして、茜の運搬は二度目だった。
 最初の荷物を運び終わって、二個目の荷物を運んでいるところだ。

 苦も感じない、息が上がった様子もない。
 湊子が素直な賞賛を口にすると、彼女は苦笑した

「だれも初めは同じよ」

 いったい、どれほどの時を経れば、彼女のように苦になくこなせるのだろう。

 一度考えた疑問を、湊子は頭を振って払い出した。

 彼女のように、苦になく過ごせるまでこの地にとどまる。
 そんな長い期間、滞在するなど考えたくもなかった。

 正彦も塚島の人間らしく、息があがるそぶりものぞかせず、茜と共に荷物を運んでいる。
 本人は役に立っていると胸を張っているが、はたから見る分には荷物にぶら下がる小動物のように見えた。

 息苦しいなかにも、湊子にはその光景がほほえましく映っていた。
2005.4.10
「でもよかった。高岡さんの代わりの人が女の人で」

 湊子は一休みにと案内された縁側に、茜と並んで腰を下ろした。
 出されたお茶を口にすると、ほっと体の疲れがとれるように感じる。

 茜の隣には正彦が座っている。
 退屈そうに足を空に揺らしながら、その自分の足を眺めていた。

 側から離れるなと、茜にきつく言われているのだ。

 聞けば正彦は、通っている幼稚園を抜け出して帰ってきたのだという。

「ほら、一人で帰れたよ」
 得意満面の正彦に、茜は「ばか!」と容赦ない声をたたきつけた。

「危ないからダメだって、あれほど言ったでしょ! お父さんにきつく叱ってもらうからね!」

 とたん、しぼんだ風船のように、正彦は小さくなる。
 茜は正彦に自分のそばから離れないように、きつく言いつけた。

 正彦は現在、素直に守っている。
 つまらなそうな表情をはりつけてだが。

「このあたり、同じ年頃の女の人って少ないから」

 茜は二十三だと自分の年を明かした。
 湊子も二十二と、自分の年を告げる。

 年が近い。と、茜の表情はさらにはなやいだ。                  2005.4.11
 茜は改めて「園田 茜」と自らの名を明かした。
 園田、と聞いて、湊子はわずかに眉をよせた。

 この邸宅の住まい人は「塚島」ではないのかと思ったのだ。

 湊子の微弱な表情の変化をよんで、茜はおどけたように首をすくめた。

「じつは居候なの」

 なんでも、押しかけて居座っているのだという。

 湊子は思わず正彦に目をむける。
 さっしのいい茜は、湊子の意図をくんで慌てて首を横にふった。

「この子は、ここの家主の子供なの。断じて、私の子供じゃないから。ときどき子守をしてるのよ。それに私、未婚よ?」
「オレだってヤダよ。アカネねーちゃんがお母さんだなんて。おこってばっかだもん」
「怒らせてるのはあんたでしょ」
「オレがねーちゃんのめんどうみてんじゃん。まいごになったの、たすけたのオレだろ?」
「あれは! あんたが山の中に入っていくから悪いんでしょ! 出入り禁止されてる場所なのに! そりゃ、道を知ってれば迷子にもならないわよね!」
「なんだよ。せっかく助けてやったのに!」
「正彦が悪いことしなかったら、私だって迷わなかったわよ!」

 湊子の存在をわすれたように、正彦と湊子の口争いは続いている。
 どうしたものかと湊子が戸惑っていると、邸宅の奥から足音が聞こえてきた。

 板間のきしむ音を耳にして、湊子は音のほうに顔を上げると、白い神祇(じんぎ)姿の男性が立っていた。

 年は三十代ほどだろうか。
 ふと動かした視線が湊子とかち合う。

 湊子とまともに目があうと、彼は驚きに眼を開いた。
2005.4.12
「お父さん!」

 正彦は叫ぶなり父親のもとへ駆けよる。
 慌てて靴を脱いだので、一つは裏に返り、一つは縁側から離れた場所へ飛んでいった。

 茜は彼に会釈すると、さりげなく正彦の靴を整えていた。

 飛びついた息子を見て、彼は湊子を見たときとまた別の驚きを顔に浮かべた。

「早かったね、帰るの」

 嬉々とした息子と違い、父親は戸惑いをにじませている。

「話し合いがすぐ終わったんだ。それより……どうして正彦が帰ってるんだ? まだ帰る時間じゃないだろ」

 あ、と、そこでようやく正彦は、自らの失態に気がついた。
 帰宅した父親に飛びつくのではなく、身をひそめるべきだった。

「私が迎えにいったの。岸谷さんが来るっていうから、迎えに行ったついでに正彦をひろって行ったから。……もしかして、余計なお世話でした?」

 正彦は驚いて茜を振り返った。

 茜は声なくかすかに口を動かし「こんどだけだからね」と告げていた。

 茜の言葉で疑念は払拭されたようだ。
 ほっとした表情を、父親はのぞかせた。

「いや。助かったよ。……てっきり、抜け出してきたのだと思ったから」

 茜は「まさか」と苦笑する。そのぎこちなさに、父親は気づいていないようだった。

「それじゃあ、この人が……」

 今度は関心が湊子にうつった。

「そう。高岡さんの代わりに来てくれた、岸谷湊子さん。……この人が家主の塚島静雄(しずお)さん。正彦のお父さんよ」
「初めまして。よろしくお願いします」

 礼をとる静雄を見て、湊子は慌てて立ち上がると姿勢を正した。

「岸谷湊子です。こちらこそよろしくお願いします」

 緊張しきりの湊子に、静雄は軽い笑みを浮かべた。              2005.4.13
 ここまではきつかったでしょう。と、静雄は湊子をねぎらった。

 あいまいに言葉を濁すと、静雄は苦笑をたたえる。

「けど心配いりませんよ。あの石段を登るのも、必要なときだけでしょうし。別の仮住まいを用意してますので」

「え?」と湊子と茜の驚く声が重なった。

 二人は互いに顔を見合わせたあと、茜が問いかけた。

「どういうこと? 高岡さんの代わりに来たんでしょう? だったらここに住むってことじゃないの? 高岡さんがそうする予定だったんだから」
「そのことは高岡さんと相談したんだが……」

 そこでふと、静雄は言葉を止めた。
 視線の先には、湊子が持ってきた三つの黒バックがある。

「……荷物、ですか」
「いえ、これは……まあ、一部です」
「これが全てではないんですね」

 湊子の言葉をきいて、静雄は安堵した表情を浮かべたものの、すぐに怪訝な面持ちに変わる。

「高岡さんから、聞いてませんか」
「……何を、でしょうか」

 湊子も不安になった。
 軽い既視感(きしかん)が脳裏をかすめる。
 このような場面は幾度か経験した。
 いい出来事などなかった。

「たしかに、高岡さんはここで生活する予定でした。あの石段も本人は承知の上です。けれど、代わりに来られた岸谷さんには……女性だということもありますし、負担が大きいだろうと、麓の空き家を借りてそこに住むよう、話をつけていたのですよ。あなたを心配した高岡さんの頼みでもありました。……本当に、お聞きになってませんか?」

 うなだれる湊子に、静雄が再度確認する。
 湊子は力のない声で肯定した。              2005.4.14

「私も一応、女なんだけど」
 茜がつぶやくと
「おまえは立場が違うだろ」
 と静雄はいさめた。

 茜はすねたように口をとがらせている。

「扱いも、なんか違うし」

 静雄は困ったように眉根を下げた。
 どうしたものかと言葉をさがしていると、父の神祇(じんぎ)服を息子の正彦がひいた。

「ねえ、兄ちゃんは?」
「ああ、康則は酒屋に寄ってくるから、もう少し遅くなる」
「じゃ、オレ迎えにいってくる!」

 とびだす正彦のえりくびを、静雄がつかんで引き止めた。
 勢いをそがれ、また首がしまったこともあり、正彦は目をつりあげて父をみた。

 正彦が言うより先に「だめだ」と強く言いわたされる。

「お前はおとなしくしてろ。ほおっておくと、鉄砲玉なんだから」
「兄ちゃん見つけたら一緒に帰ってくるよ!」
「どうだか。脱走常習犯の言うことなんて信じられないが。今日だって抜け出したんだろ?」             2005.4.15
 ばれていた。
 そうわかると正彦は青ざめて立ち尽くした。

 勢いよく茜を振りかえり、声をあげる。

「ばらしたな!」
「……バカ」

 茜はため息をつくと同時に、顔に手をあてた。
 反論を想像していた正彦は、思惑と違う状況に違和感を覚えている。

 その肩に父、静雄の両手がかかった。

「その話はあとでゆっくり聞こう」

 顔は笑みが宿っているものの、声は限りなく低い。
 正彦はわけがわからず、半分だけ父をかえりみた。
 状況が思わしくないことはわかるらしく、かすかなおびえがにじんでいる。

「自分でばらして……」

 ため息をつく茜。
 正彦はいまだ事情がわかっていない。

「冗談で言ったんだが。まさか本当とはな」

 静雄の言葉に正彦は青ざめた。

「うそついたの!?」
「ちがうよ。カマをかけたんだ」

(……違うの?)
 思わず湊子は胸のうちで疑問をつぶやいた。
 ウソをつくのもカマをかけるのも、同意義だと湊子は思うのだが。

 静雄の表情と口調は柔らかかった。ただ、声が異様に低かった。

 のちに聞いたが、それは静雄が怒っているときに見せる現象だという。
 正彦もわかっているから、おびえていたのだろう。

 からからと引き戸を開く音が聞こえたのは、そんなときだった。

 同時に「ただいま」との男性に声も聞こえた。

「康則(やすのり)兄ちゃんだ!」

 逃げるように、正彦はとんでいく。

 静雄は振り切られた手を、名残惜しそうに数度、握りしめていた。              2005.4.16

 しばらくすると、廊下の軋みとともに足音が聞こえてきた。

 その音を間近に感じるころになると、廊下奥の曲がり角から男性の姿が見えた。

 年は二十代半ばといった様相か。
 紺のTシャツにジーンズと、茜同様、行動向きの軽装だった。
 手には二本で一きびりにしてある一升瓶を持っている。
 アルコールのようだった。

 正彦も戻ってきた。男性にくっついて。
 正確な情景を告げると、正彦は男性の背後にかくれて、父をうかがうように顔の右半分をのぞかせている。

 事情を知らない彼は、正彦の行動をいぶかしげに見ている。
 正彦は彼のジーンズを強くつかんでいた。

「おかえり。……よかった。あったんだな」

 静雄の言葉に彼は軽くうなづいた。

「店の人が呆れてた。『一日どれくらい呑むんだ』って」
「だろうな」

 静雄はゆかいそうに肩を揺らした。

「でも事情がわかると納得したろう」

 彼はうなづく。

「『おつとめご苦労様』って、一本おまけしてもらった。もう一本は台所に置いてあるから」

 そこでちらりと、湊子に目をむけた。

「酒屋の店主、気前がよくなったなぁ」とつぶやいていた静雄も、彼の視線の意味を感じとって、湊子に目をむけた。

 湊子は立ったまま姿勢をただし、軽く頭を下げた。
 つられて向こうも頭を下げる。

「こちらは岸谷湊子さん。高岡さんの代わりに来てくれた方だよ。……岸谷さん、こいつは荒木康則(あらき やすのり)。茜と同じく家の居候」

 居候?
 と、頭の中で疑問符が浮かんだが、湊子は静雄の紹介にあわせて礼をとり「岸谷湊子です。よろしくお願いします」と、今日何度目かになるおなじセリフを口にした。               2005.4.21

 つられて康則も頭を下げた。

 かと思うと、湊子を頭のてっぺんからつまさきまで見た。

 ぶしつけな視線だった。

 湊子は驚いてわずかに目を見はる。
 見間違いだろうか、勘違いだろうか。

 そうも考えたが「ふうん」と小さくつぶやいた康則の声を聞いて確信する。

 間違いない。
 品定めしたのだ。

 面食らって、言葉がでてこなかった。

 初対面の人間に、失礼極まりない態度をとられたのは初めてだった。

 当惑する湊子に気づく様子もなく、当の本人は再び静雄に顔をむける。

「香さんは?」
「掃除に行ってるよ。……そうだ。岸谷さんを送ってくれないか? 帰りに香を拾ってきてくれると助かるんだが」

 話を聞くと、湊子に用意した空き家を、静雄の奥さんである香が、掃除に出ているのだという。

 康則はあからさまに顔をしかめた。
 しかし静雄に頼みこまれ、しぶしぶ引き受ける。
 正彦もついていくと意気込んでいる。               2005.4.22

「正彦をなだめすかすのも、お前のほうが上手いからな」

「え? 私は?」

 目を丸くする茜に、静雄は苦笑した。

「正彦と一緒だろう」

 自分の頭をつつきながら言うと、茜は機嫌を損ねてそっぽむいた。

 結局、康則が送るということで落ち着いた。

 湊子が持ってきた黒のバックを、湊子が一つ、康則が二つ持つようになった。
 湊子が二つに手を伸ばすと、康則が横からかすめとったのだ。

 自分が持つと進言したのだが、さっさと歩き出した康則には聞こえなかったようで、彼は振り返ることもなかった。

 先をゆく康則に、湊子は静雄と茜に礼をしてから彼の後につづいた。

 正彦は湊子に興味津々で、側から離れなかった。
 名前は何というのか、年齢は、どこにいるのか、何をしているのか。

 湊子にまとわりつきながら、次々と質問を浴びせてくる。
 一つ一つ、丁寧に答えながら、湊子は前を行く康則が気がかりでならなかった。

 康則との距離は開いている。
 追いつこうとするのだが、正彦の歩幅に合わせているため、思わしくいかない。

 距離が開いたら声をかけようと、康則の背を幾度も見ていた。               2005.4.23








------------------------------------------------------2005.4.23                        (続く)



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