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2日ほど更新をサボってしまいましたm(_ _)m一昨日は、ちょっと忙しくて時間が取れず・・・・昨日は、急にお出かけして来ました主人の休みが金曜と土曜とひっくり返ったんで、下田の海中水族館に行って来ました我が家の大きくて手がかかる子供は、水族館好きなんで^^;もう、あちこちの水族館に行ってます。動物って生で見るとやっぱり、無意識に微笑んじゃいますね~下田海中水族館の近くで、あじさい祭りをしていたので、ここにも寄って来ました。あじさいが群生しているのが見事でしたよ。たまには、本腰いれて1日遊ばなきゃね~いつだたかなぁ~・・・割と最近ですけど、テレビで良く見かける医師がテレビでこんな事を言ってました。痛い痛いと大騒ぎして来る患者さんほど案外大した事はなくて、痛いですか?と問い掛けても曖昧な返事しかしない患者さんの方が要注意だと。大騒ぎする患者さんは、安心したくて病院に積極的に来る。でも、曖昧な返事しかしない患者さんは、自分の中に大きな不安を抱えているから、痛いとか不調をハッキリ訴えると、とんでもない病名を言われるような気がして怖いようだと言うのです。自分ではどうにも不可解で、不安で致し方なく、ようやく病院に来たこんな患者さんこそ、あらゆる可能性を考えて充分な検査と診断が必要だと言いたかったようです。実際、父は私が子供の頃から「病院好き」なんじゃないか?と思うほど、やたらと病院に行っていました。ちょっとした風邪でも行きますし、行けば折角きたんだから注射してくれなどと、医師に注文を出す始末です^^;とにかく、母や私ならそんな事くらいじゃ行かない症状でも病院に行く人でした。市から届く検診には欠かさず参加しましたしね。そんな病院好きな父が、胃の不調を訴えてもちっとも病院に行きませんでした。「病院に行って診てもらえば?」なんて、父に対してだけは言った事がありませんでしたが、この時ばかりは言いましたねぇ・・・それなのに、行かないんです。あまり食べられなくなった胃のあたりをさすりながら、こうつぶやくまでだって本人は不調を感じていたハズです。こんなつぶやきがあってから、半年してようやく重い腰を上げたんです。いつもは率先して病院に行く人が・・・・いつものノリで半年前に病院に行っていたら、手術できたかもしれません。(スキルスは発見が困難だから、運良く見つかっていれば・・の話ですけど)いつもと違うって事は、何かあるって事なんですかねぇ・・・いつもと違ってからじゃ遅いのかなぁ~
2007年06月16日
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胃癌と一言で言っても多くの場合が完治します。スキルスは全胃癌の1割程度と言われていて、単に「胃癌」と言う分には他人に言ってもさほど心配もされない時代となりました。私がお付き合いする方々は皆さん、スキルス、未分化の癌です。ですから、完治がなかなか難しいのですが、これが高分化の癌であれば、まず完治です。父のスキルス胃癌が発覚して、まずした事はご近所に隠し通す事だったと以前書いた事があります。それなのに、それなのに・・・当の父本人がバラしてしまって・・・・・・ったく余計なおしゃべりをして!!!と、母と私は父を叱ったものでした。周りの方々が皆知っている・・・そう思うと何となく体が小さくなる思いでした。ところが・・・、いざご近所にバレてしまうとですねぇ・・・・実はね、私も○○癌なのうちのお父さんも××癌なのよ主人が△△癌でねと、母や私に次々と癌告白現象が起こりました。癌って今や当たり前の病気だと言われていますが、実際ご近所にこんなにも癌患者さんがいたとは!!驚きましたさすがにスキルス胃癌の患者さんはいませんでしたが。何と言うか・・・連帯感みたいなものが生まれてきまして・・・癌患者さんやご家族は変な同情ではなく、又、多少なりとも話が通じる仲間が欲しいものなんですねぇ・・・ネット世代じゃない方々ばかりですから、尚さらそうみたいです。父のおしゃべりも役に立ったようでした^^;
2007年04月04日
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今日はとても天気が良かったので、市内から富士山の写真を撮って来ました午後から、車で山の見晴台に行って撮ってきたものですが、ちょっとかすんでしまいました富士山は気まぐれで、見えたり見えなかったり・・・子供の頃から、見慣れている富士山ですが、空気が澄んでいる今の時期の富士山は綺麗だなぁ~って、思いマス父の思い出話をもうひとつ。父は、千葉の病院に搬送した後、経口からの食事を断念し栄養は100%、IVHになりました。その前から食べ物を胃に入れると、痛がるようになっていました。胃壁を保護する薬、胃潰瘍なんかに使いますが、これを使用してもあまり効果が見られませんでしたので、100%IVHにしたのです。脳挫傷を負うと、多くの方が性格が変わると言われます。父の場合は、とても物静かな人に変わりました。何かをしたいとか、どこへ行きたいとか、何かを食べたいとか、そういった欲求を何も言いません。ですから、「食べる=痛み」の図式が出来上がっている父にとって、食事を止める事は苦には見えませんでした。ところが、食事を完全に止めてからこんな事がありました。口腔の清潔を保つために歯を磨こうと、歯ブラシを口に入れた途端、ガチガチとものすごい勢いで歯ブラシの柄を噛みだすのです。プラステックの柄を、力の加減無しに噛むのです。父は70歳という年齢ながら、歯は全て自前の歯で、見事にはえ揃っています。綺麗な総イレバに負けません。力の加減なしに硬いプラステックの柄を噛むと、歯が欠けてしまう恐れがあります。看護師さんに相談すると、医療用のハプラシを渡されました。これは、柄の部分が面貌のように固い紙で出来ていて、その先にブラシと言うよりもスポンジが付いています。歯を磨くというよりも、歯を拭くといった感じです。ですが、これも又、ガチガチとすごい力で噛みだします。下手をすると、こちらの指が噛まれそうな勢いなんです。危険だと言う事で、父の口腔管理は水ですすぐだけとなりました。少しばかりでも、経口から食べ物を摂取していた頃は、こんな事は無かったのです。ちゃんとベッド上とはいえ、普通に自分で歯磨きをしていました。「食べる」という行為は、人間の本能の一つだと言われますが、「食べる」という行為より「噛む」という行為が本能なのではないか?とさえ思いました。病気が進行すると、残念ながら食事が困難になる事が少なくありません。腸閉塞が原因で、飲み込む事が難しくなる事があります。そういう患者さんや、食道癌で食道を切除したような患者さんは、食べ物を口に含み「噛んでは吐き出す」という行為をします。せめて口の中だけでも味わうという事が目的なのですが、この「噛む」という行為が精神的な安定をもたらすのではないか?と思っています。実際、噛んで吐き出していますという患者さんを何人か知っています。決して、恥ずべき行為ではなく、これは人として普通の事なのです。
2007年02月11日
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ここ数日、父の話と平行して「転院の憂き目」の話を書いていますが、中には、高度先進医療機関でありながら、ずっと同じ病院で最後まで過ごした患者さんもいます。こういう患者さんは、私からみると、正直とぉ~ってもうらやましい!!のですが、当の患者さんやご家族、今はご遺族となってしまった方々は、ご自分達が私がうらやんでいるような状態だって事、全然気づいていません・・・転院を促される情けなさ、そして、転院先を探して、ことごとく病院から断られる辛さ・・・ようやくOKが出るのが、老人病院と呼ばれるような病院という現実・・・そんな思いをされなかった事、正直、うらやましいです。
2007年02月10日
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思い出しついでに、今日も父の事を。昨日書きましたように、無理して苦労して、やっとこさ癌専門病院に連れて行ったのですが、そこですぐさま言われた言葉が寝たきりの人に抗癌剤治療はできませんし、必要ありませんこれです・・・・これは主治医から言われた言葉、そのままです。気持ち的には、断崖絶壁を歯を食いしばって登り、ようやく着いた先だったんです。心も体もお金も無理して・・・もう、無理の3乗です。脳外科で嫌な思いをしても、とにかく本来の病院に連れて行けば光が見えるはず・・・そう、信じ込んでいました。それが、主治医にこうあっさり見捨てられるとは・・・・また、20万円かけて帰るのかなぁ~そんな事、思ってしまいました。何のためにこんな無理と苦労して、ここまで連れて来たのだろうかと、情けなくて情けなくて・・・・そんな情けない思いで、全身の力が抜けている時にもう転院の話です。転院先が見つかるまで、ここで面倒をみますから、早く転院先を見つけてください。あの理想のホスピスに入院していた、スキルスの患者さんと同じです。常に満床の病院。日本全国から、この病院には患者さんが訪れます。根治、もしくは治療成果が期待出来る沢山の患者さんが、ベッドが空くのを首を長くして待っている病院です。それが望めない患者は、ベッドを空けてあげねばなりません。これが、高度先進医療機関が担う役割ですから。あの理想のホスピスを有する病院とは、違う病院ですが、共通しているところは高度先進医療機関であるという点です。より良い治療が受けられ、最新の設備が整い、癌治療に長けている癌専門医が揃っている病院、という点も共通しています。そして、ここにもホスピスが存在しているという点も。ですが、父もあの理想のホスピスで転院を促されたスキルスの患者さん同様、理想は掴めませんでした。
2007年02月09日
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父の事を書いていたら、思い出した事がありますので、思い出しているうちに書いておきます。脳外科から、本来の癌専門病院(千葉県)に転院した時、脳外科医から色んな指示が出ました。うちの車はワンボックスカーなので、父を寝かせたまま搬送できます。ですが、脳外科の主治医は救急車で、それも看護師を同乗させた方が安心だからと看護師さんも同乗させるようにと言われました。神奈川から千葉まで、民間の救急車を頼むと経費は30万円くらいします。この金額には驚きましたあまりにも高額なので、この病院の事務の方に相談したら、介護タクシーを利用する方法を教えられました。これでも、17万円くらいでした。この他に往復の有料道路代がかかります(うちの場合、往復で約1万円)。数時間、同乗をお願いするだけで看護師さんへ支払う金額は2万円でした。この看護師さんは、この介護タクシーと契約している看護師さんで、脳外科の病院とも、がん専門病院とも関係がありません。父がお世話になっていた癌専門病院は、高度先進医療機関で、自治体によっては、こういう病院への搬送に関して補助金が出るそうですが、うちの場合はこれに値しませんでした。当日は介護タクシーに父、母、私、看護師さんが乗り、帰りを考えて介護タクシーを追いかける形で主人が家の車で付いて来ました。実際、介護タクシーで父を乗せて、看護師さんをお願いしての搬送という形で千葉の病院へ参りましたが、これなら、うちの車で充分だったこれが、正直な感想です。搬送中、父はおとなしく寝ていましたし、別段、何ら問題も起こりませんでした。同乗した若い看護師さんは意味無く、ただ同乗しているだけ・・・途中、な~んにもしませんでした。何もする必要が無い方が、良いんですけどね。途中脱水症状が出るといけないので、栄養点滴をしながらの移動でした。IVHのポートを埋め込んでいた訳ではないので、腕に刺しながらの移動でしたが、腕の静脈に刺しているだけですから、抜けてしまってもさほど心配もありません。まぁ、これは結果論で問題なく搬送できたから、こんな風に言えるのかもしれませんが・・・今ごろ疑問ですが、もし問題が起きた場合、看護師さんが出来る事は今の制度上、限られています。脳外科の病院とも、癌専門病院とも関係のない看護師さんは、誰に指示を仰ぐ事になったのかなぁ?それにしても、搬送代は高いです
2007年02月08日
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今日は隣町の梅林へちょっと散歩に行って来ましたいつものように、急に主人が休みになったので。ここは、広範囲に散らばって梅林があり、先に見える梅を見ながら歩いていたら、駐車場まで帰りは1時間!!って所まで歩いちゃいました^^;しだれ梅は、満開はまだまだこれからみたいだったので、又行こうって思ってマス。この中では本当に数少ない色付きの梅でした。もう、殆どがこの白い梅。もう少ししたら、真っ白な広大な梅の海になります。昨日はちょっと私個人の過去の愚痴で、大変失礼致しました^^;こんな活動を始めてから、患者さんご自身が医療関係者だったり、ご家族が医療関係者だったり・・・そういう立場の方々とも出会って参りました。で、この方々は正直に専門外(担当外)なので、スキルスの事も抗癌剤治療の事もよく知りませんこう、言われます。私たち患者サイドは、医師や看護師さんは病気の事、薬の事、治療の事、何でも知っていると思い込んでいるようなトコがあります。けれど、実際はそうでもなさそうです。それぞれ専門があって、これを外れると誠に失礼ながら、私の方が知っているような事もあります。私はコレしか知りませんけどね。実際、Y先生は癌の事しかわからないって、ハッキリ言われますし、同じ癌であっても例えば、脳転移を疑えばご自分でMRIの画像を見て、念を入れて脳外科医の見解も聞かれます。癌専門病院でもなく、突如、救急車で脳外科に運びこまれた癌患者であった父は、もうここでは特異な患者です。そこにいるスタッフは、もう専門(担当)外の方ばかり。癌患者、それもレアなスキルスなんて初めての患者だったかもしれません。時間が経った今は、つい言葉がきつくなってしまってすみませんでしたこんな言葉を言えば良かったかな・・・そんな思いもあります。あの頃は頭に血が上ってしまって、周りの人を気遣うなんて、とても出来なかった自分がいた事を今ならちゃんと認められます。でも、薬の把握だけはして欲しいと思いますけどね。
2007年02月07日
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昨日は知子さんの転院の話を書きましたが、父も3つの病院を渡り歩きました。と、言っても父の場合はある意味特殊ですが。(父の闘病記は左のフリーページに書いてます)3つの病院と言っても、その中の一つは救急車で脳外科です。突然、貧血で倒れた父を市内の病院に救急車で運びました生まれて初めて救急車という物に乗りましたが、まぁ乗り心地の悪い事!!ガタガタと足元の振動は伝わってくるし、これって鉄板剥き出しなの??って思いました。乗用車じゃなくて、これじゃ貨物車だよなぁ・・・大都会では、ドイツの高級車のマークが入った救急車が存在してますが、この神奈川県とは名ばかりの田舎では、そんなものありません。車内では救急隊員が、搬送先の病院と無線で連絡を取ります。この時、救急隊員は父の病名をわざと「cancer」と言いました。これは本人が告知を受けていない場合を考慮したのだと思います。本当にドタバタで、父は癌ではなく脳挫傷で命を落とすところでした。この山場が治まり命の危険性が治まってから、父の血液データを持参して癌の主治医のもとを訪れました。血中蛋白が異常に低く、とても抗癌剤治療なんて出来る状態ではないので、TS-1服用中止の指示が出ました。今思えば、TS-1の服用を開始して8ヶ月が過ぎる頃であり、薬剤耐性も出来初めていたように思います。食事の都度、胃痛を訴えるようになっていましたから。脳外科に入院の際、服用中の薬は病院側が管理するので、預からせてくださいと言われていたので、全ての薬を正直に病院に渡していました。「TS-1服用中止」の指示は、口頭でも脳外科の担当スタッフに伝えましたし、癌の主治医から手紙も預かってきましたから、これも渡しました。それなのに、担当看護師がTS-1を父に飲ませようとした事があります。父は前頭葉を損傷し、こんな言葉は使いたくありませんが「痴呆」のようになり、食事も排泄も、一人では出来なくなりました。会話も成立しません。そんな患者でしたから、薬も誰かが飲ませなくてはいけませんし、自分で判断できる状態ではありませんでした。たまたま、昼食に間に合うように母と私が病院に出向いた時が、まさに担当看護師がTS-1を飲ませる直前でした。急いで、制止しTS-1の服用は中止だと、癌の主治医から指示が出ています。ちゃんと他の担当看護師さんには伝えましたが!!つい、言葉がきつくなりました。すると、この看護師はだって、お薬だからちゃんと飲まないとこう、言ったのです。もう、目が点・・・・癌だって多種多様、抗癌剤となるともう恐ろしいほどの種類があります。それら全てを把握するなんて到底無理で、おまけにここは脳外科、癌に対して多くは望みませんが、預かって管理すると言った以上は、預かった全ての薬が何であるのか、把握しておくべきではないでしょうか?この後、別の看護師さんが謝りにきました。確認のため、ケータイに電話を入れたのですが、出られなかったのでこう、言われましたけど丁度運転中で出られませんでした。車を止めてかけ直したのですが、大代表に繋がり、ここではどこからの電話かわからないと言われ、もう病院はすぐそこだったので、病室に走って行ったらこうなっていた・・・という訳です。死亡症例が無い抗癌剤は無い!と言えるほど、危険な薬剤です。使用に慣れている医師ですら、「怖い物」という思いをどこか抱えています。この後、この看護師さんは私を見る度に明らかに不機嫌そうでした。何かにつけ、また、娘さんからクレームがつくといけませんから、先に聞いておきますこんな言い方をされました。私自身が、この看護師さんには嫌な思いをさせてしまったのでしょうけれど・・・
2007年02月06日
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昨日は初めて写真を入れてみましたら、案外好評みたいですいまいち、取り込み方がわからなくて四苦八苦しました。何故、今まで写真を入れなかったのかと言えば、やり方がわからなかった!!というだけで、単なるPCオンチなんです先日、主治医と合わなくて最後に不満をぶちまけてしまった患者さんのご家族の話を書きました。医師は優秀な医師ですし、たまたまこの方と合わなかっただけかもしれません。人ですから「相性」もありますから。ですが、対応がまずかったという点は否めそうもありません。医師も人、特に癌患者さんばかり沢山対応していますと、残念ながら「死」という別れは避けられません。心のこもった医療を志しても、何十人、何百人に対して心は砕けないでしょう。自分の精神を守る手段で、事務的な言い方になるのかもしれません。かくいう、父の最期の主治医もこの主治医と同じようなタイプでした。脳挫傷を追い、前頭葉に損傷を受けた父は「寝たきり」状態になり、その後無理して苦労して、市内の病院から、本来お世話になった癌専門病院に搬送したいきさつは、左のフリーページに書いています。手を貸せば歩ける父を「寝たきり」と家族は認めたくなかったのですが、病院に到着してすぐに診察したこの主治医は寝たきりですね、寝たきりの方に癌治療は出来ませんし、必要ありませんろくに診もせずに、迷いもせずに簡単に言いました。必死な思いで連れて来たというのに、この言葉には打ちのめされました。そして、転院を薦められ・・というより余儀なくされ、命を預けた病院に手の平を返された思いでした。その後、感染症から転院できなくなり最後までの約1ヶ月間この病院で過ごしました。入院期間なんて短いに越した事はありませんが、この1ヶ月という入院期間はこの病院の冷たさだけを感じた訳ではありませんでした。主治医は相変わらず事務的でしたが、必ず一緒に回診にくるレジデントの2名の医師のちょっとした心配りに救われました。今でも忘れられないレジデントの医師の言葉があります。主治医は患者である父の様子しか尋ねませんが、このレジデントの医師は徹夜で付き添う家族の体調にも声をかけてくれました。患者さんの具合はどうですか?と、主治医。ご家族さんの体調も大丈夫ですか?と、レジデントのM田先生。1ヶ月もいると、こんな救われる思いもあるものです。ですが、先日他界した患者さんの場合は、入院期間が5日です。入院期間が短い事は、患者さんにとってもご家族にとっても良い事だと思いますが、ただ病院や医師の冷たさばかりを感じてしまう時間になってしまいました。それが、とても残念です。
2007年01月26日
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父のスキルスが発覚した2001年秋、当時、親類縁者、親しい知人に癌患者がいなかったので、癌という病気に初対面だった私は、とてもナーバスになってました。母も同じです。まず、私達家族が気を使った事と言うと、ご近所にバレないようにする事でした。手術の為の入院時、主人、母、私、そして患者である父の4人で車で病院へ向かったのですが、当然帰りは父を病院においてきますので、3人になります。この光景を近所のオジさんがしっかり見ていまして・・・・いらぬお節介でこの間、旅行かばんを持って4人で出かけたのに、帰りはお父さんはいなかったね。入院でもしたの?こんな事を言ってきました旅行でも行ったの?ならまだしも、いきなり急所を突いてきました母、はすっとぼけてそんな事は無いわよ。家にいるけど。って、聞き流してました。もう、癌告知されたばかり、感情はトゲトゲでビンビンだって言う時だったので、もう家族皆ムカつきましたねぇ・・・このオジさんの発言には!!で、父が退院してきて、山あり谷ありでしたが事実を告知され、3週間~1ヶ月くらい落ち込みモードに入り、その後開き直ってしまった話は何度か書いておりますが、開き直った頃にこのオジさんの話をしました。怒るかと思いきや、本人はふぅ~んと頷くだけ・・・ちょっと拍子抜け・・・それから少しして、このオジさんが庭に出ている時に父は自分から話しかけに行きました。自分は胃癌である事、手術したけどそのまま閉じた事など、自分からベラベラと話し始めてしまったんですよ。この時は我父ながら呆れましたねぇ・・・もう~余計な事は言わないで良いのにぃ・・・・ってね。だって、家族は必死に隠していたんですよ、それなのに!!そしたら、このオジさん、明らかに視線が泳ぎました・・・視線を泳がせた後に、言葉は忘れましたが父を励ますような事を言いました。社交辞令とも取れそうな言葉でしたが。で、父はこの時、全く邪気の無い笑顔を返したんですよ、このオジさんに。今度は我父ながら、天晴れ!!って思いました。なんだか、もう心の中の霧がす~って晴れていくような気持ちになりました。わだかまっていたのは、私の方で父はそうじゃなかったようです。今の私なら、もっと父の気持ちを汲む事が出来るのに・・・・・・って、これ、peeさんに言われた言葉なんですが。今のひろりんさんなら、きっとひろりんさんのお父さんも、もっと幸せな時間を作れたでしょうに・・ってね。生意気言ってごめんなさい、だって、私が今そうだから・・・そんな風に言われた事がありました。父に対して出来なかった事で、今なら出来る事・・・気付かなかったけどpeeさんが教えてくれました。
2007年01月11日
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年末、年始にも関わらず多くの方にご覧頂いているようで、誠にありがとうございます怠慢な私は元々皆勤賞は狙ってはいませんでしたが、年始早々に昨日はブログをサボってしまいました^^;メールのお返事を優先していますので、更新が無い時はその時間をメールに当てているのだと思って下さいませ。さもなくば、どこかへ出かけちゃったか・・・です^^ついつい・・・ケータイを覗き込んでしまうんです。そろそろpeeさんからメールが来る頃だって、感覚で覚えているんですねぇ・・・どうしたのかな?って思って、こちらからメール入れてみようかな・・・って丁度思う時分なんです。来るはずもないメールなのに・・・頭と感覚って違うモノなんですね。題名のステイゴールドって競馬ファンならご存知だと思います。何年か前に引退したサラブレッドです。サラブレッドは大抵は500キロを超える馬体ですが、ステイゴールドは450キロ程度の華奢な馬体。冠が付く大きなレースには何故か勝てずに、最強の無冠馬と言われた馬です。昨年、イジメを苦に自殺した少年が「ディープインパクトの子供に生まれ変わって強くなりたい」っていう内容の遺書を残した事がありました。だけど、私はステイゴールドのような生き方がしたいです。医師でもなく、看護師でもなく、ソーシャルワーカーでもなく・・・何の冠も付かない、BMI値18の華奢な体格で最強の無冠これが私のこの数年来持ちつづけている夢。夢は大きく、厚かましく~ですだけど、ステイゴールドってサンデーサイレンス産駒の馬で血統は素晴らしいんですよねぇ・・・これは私と大違いです少しずつ「患者さんの話」も加えていきますね。
2007年01月05日
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お正月の三が日くらいは、病気の話はお休みしておきましょ書きたい!!って思う内容は溢れ返ってますけどね~我が家のお正月は特にイベントはなし!です。と、言うのも元旦こそは主人はお休みでしたが、大晦日も今日もシ・ゴ・ト・・・仕事と言ってもこんな時期ですから、挨拶まわりと言いましょうか・・・ですから、元旦はテレビ見て、レンタルでDVD借りて、近所の神社にお参りに行って、PS2でゲームして・・で、終わってしまいました父が存命の頃は、お客さんも来ていたものですが今はこちらが挨拶に行く立場です。それも未だ行っていませんが^^;初夢・・見ました。ちゃんと覚えています。主人がいて、Y先生がいて、他に何人かの白衣を着た医師らしき男性がいて・・・・「陽子線治療」について話合っていました。1クール200万(確か、このくらいの値段)の治療です。国内では数える程の施設でしか出来ません。なんじゃ、この夢は!!そもそも、陽子線治療はスキルスには関係ないし・・・鷹も富士もなすびも出て来なかったなぁ~
2007年01月02日
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昨夜は久しぶりに股関節痛で夜中に唸ってしまいました冷え込んだのと、大晦日に料理で立ちっ放しだったのがきいたのかなぁ~2007年となりました。この年を迎えたかった患者さん、当然迎えられると思っていた患者さん・・・・そんな方々の事をずっと胸に、今年も頑張ってみようかと思います。この数年・・・、毎年懇意としていた患者さんとお別れがあり、毎年喪中のような思いです。ですが、トチローさんや、winkiさんのご主人、masbooさんの奥さん、Y.Kさんの奥さん、そして他にも5年経過された患者さんだっています。そして、何より今は姿は無くても見えなくても、私の中にはちゃんといてくれますからね。今日も朝には富士山が綺麗に見えました。peeさんが本当にひろりんさんと一緒に富士山を見たいそう言った富士山です。私と一緒に富士山を見た夢を見たのだそうで・・・・・・・って事は私、神奈川に行ってたのかなそんな事も書いてありました彼女の常に不安に揺れ動いていた気持ちを思うと、きっと他にもそんな思いを抱えている患者さんが沢山いるのだろう・・・と思います。少しでも、そんな気持ちを軽く出来る人になること・・・私の今年の夢です。皆さん、頼りないヤツですが今年もどうぞ宜しくお願い致しますm(_ _)m
2007年01月01日
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いよいよ大晦日!このクソ忙しい時に更新しても、誰も見る人はいないだろうとは思いつつ、年の終わりの節目でもあるので、ちょこちょこと更新しておきます。今まで、私がお付き合いしている患者さんやご家族で、Y先生のセカンドオピニオンを受診した患者さんのその後の経過報告はY先生にして参りました。残念ながら、悲しい報告も何度となくしてきました。そして、今回・・・・peeさんもY先生のセカンドオピニオンを5月に受診しておりましたので、peeさんの訃報もメールで報告致しました。Y先生の病院は電子カルテですから、すぐにどういう病状の患者さんであったのか先生にはわかります。悲しい報告の後に今年は私にとっても、しんどい年であったと追記しました。すぐに返信を頂きました。先生にしては珍しく長いメールでした。まぁ、長いと言ってもさほど長くはありませんが、その中に来年も宜しくお願い致しますという、年末の慣例句でもある言葉がありまして・・・・社交辞令とも言える言葉ですが、先生の中には社交辞令というモノは存在していないので、これは文字そのままの意味なんです^^;来年も・・・・かぁ~・・・・大恩ある先生がそう言うのであれば、先生もこの病気に対して懲りずに根治、延命に努力されている事だし、来年もお付き合いしますかぁ~支えてくれる方も増えてきましたしね
2006年12月31日
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本来は今日がクリスマスなのに、さっき行ったスーパーではもうクリスマスムードが冷めてましたねぇ・・・うちもこれと言ってイベントはないのですが、必ず毎年12月25日はスパークリングワイン(シャンパンじゃないのが悲しい)を飲んで、クラッカー鳴らして夫婦二人で笑いこけるのが恒例です^^;何せ初デート、そしてプロポーズされた記念日なんで(普通、初デートでプロポーズなんてしないよなぁ・・・と今ごろ気付く私)もう20年も大昔の話ですが。15年くらい前になるのかなぁ・・・主人が薬物性の肝炎で8ヶ月も入院した事がありまして・・・あの頃を思えば、特別なイベントなんていらないって思うようになり・・・それ以降はもうめちゃ手抜きクリスマスですそうそうちょっと前、女優の藤原紀香さんの婚約の話題がテレビで盛り上がっていたけど、これを見ていた主人が藤原紀香さんのようなタイプは大嫌いだと言うんです。で、次から次へと出てくる嫌いなタイプの女性名前・・・米倉涼子、杉本彩、三船美佳・・・・皆さん、美人のナイスバデーの方ばかり・・・・そんな主人に惚れられた私って・・・???何かへこむなぁ~今年のクリスマスは、ちょっと前だけどpeeちゃんが大きなツリーとのツーショット写メを送ってくれたのが嬉しかったな貴女がいてくれるから、私は頑張れるんだよ~どれだけ、peeちゃんに暖かな思いを頂いているかわかりません。この間のDr.コトー診療所の最終回で、コトー先生が言っていた言葉、「患者さんから元気を貰っている」この言葉の意味がとってもわかります。そして、この回でナルミ先生が言っていた「それは、単なる自己満足と偽善だ」と、いう言葉も身に染みました。自分に言われている気がして・・・そうかもしれない・・・とも思いました。年末が押し迫ってきて、年内の更新もあとどれくらい出来るかわからないけれど、書きたい思いは沢山あってPCに向かう時間があるだけは更新するつもりで~す。
2006年12月25日
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この間のDr.コトー診療所を見ました。コトー先生の元アシスタントである看護師のあやかさんが、乳癌で東京の病院で手術を受ける準備をするという話。病気の説明を受けるためと、同意書に署名のために父親が上京。そこで、父親は最新の設備のある大きな病院で、腕も確かだと言う娘の主治医と初めて会います。病気の説明を聞きながら、この父親はこの敏腕の医師に心が開けない自分に気付きます。そして、この父親は出来れば島の小さな診療所でコトー先生に診て貰いたいと思うのです。大きくて最新設備があって、敏腕な医師に診てもらう。これって普通は願ったり叶ったりのはずですよね。でも、そうは思えない父親・・・ここに人間の原点があるように思いました。人が本来求めるもの・・・命を預ける相手に求めるもの・・・それは、何も最新の治療や設備だけではありません。父が最初に診て貰った医師は、本当に消化器外科医の中では有名で権威のある医師でした。けれど、プライドの高さも超一流でした。セカンドオピニオンを受けたいと申し出た時、ご自分の経歴を延々と話されました。私がこの医師の履歴書が書けそうです^^;子供の頃からいかに勉強し、努力し、某有名私大の医学部を出て今の地位を築いたかを聞かされました。そして、自分がいかに偉い医師であるか、このあたりの他の大きな病院に行って聞いて回ってきたら良いとまで、言われました。この時、主人は怒りましたねぇ・・・いきなり自分の椅子を蹴って立ち上がりました^^;急いで、袖を掴んでなだめましたよ。さすがに、手を出すような事はしませんけどね、主人は柔術の黒帯ですからこれは絶対にしません。そんなことしたら捕まる~どんなにこの先生が偉くても、この人に父の命を預けるのは嫌だと、ドラマ中の父親のように思ったものです。
2006年12月16日
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昨日は久しぶりに午後から出かけました。毎月1回は東京ドームに足を運んで騒いでおります^^;父譲りの巨人ファンなので、いつもライト外野席で観戦してます。毎度同じような席に座るので顔なじみが出来ました。若いご夫婦で小学校低学年の女の子を連れて3人でいつも来ています。三人揃って白いユニフォーム着て、このご家族の笑顔が何とも癒し~なんです。で、いつも帰り間際に挨拶して帰るのですが、これが合言葉のようになりました。「次はいつ来ますか?」月に5回は来ているご家族なので、私達が行く時は必ず来ています。私が「○月○日に来ます」って答えると、必ずこの若いご主人は「うちも来ます!!じゃ、又お会いしましょう~!!」って笑顔で言うんですよ。私はこの「又、お会いしましょう」という言葉が好きです。そう言ったのに、もう会えなくなってしまった方が沢山いるから、当たり前の言わば社交辞令のような言葉だけれど、暖かくて好きなんです。この病気と関わってから、こんな当たり前の言葉が胸に染みてくるようになりました。先日、私が落ち込んだ日記を書いたからかな・・・ある患者さんがこんな言葉を見つけて送ってくれました。「あなたがうまれたとき まわりのひとは笑って あなたは ないていたでしょう。 あなたが 死ぬときは あなたが 笑って まわりの人が泣くような 人生を過ごしなさい」たまたま目にした言葉だそうです。「じんときました」って、書いてありましたが・・・本当にそうですね。結局、またまたまた・・・患者さんに慰めて頂いてます。ありがとう・・・
2006年10月04日
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4年前、父が他界した時・・・その数日後に静岡の七滝温泉に行きました。北海道から来てくれた二人の叔父を、折角遠方から来てくれたのだからと、私の従兄がまぁある意味「接待」を計画したのです。七滝温泉には、水着で入れる数種の温泉があり、従兄夫婦、二人の叔父、私達夫婦の6人で行きました。「喪に服す」と言う言葉がありますが、明らかに不謹慎とも思える行動ですよね。こんな観光地に遊びに来ている人間が、まさか数日前に父親を亡くしたなんて誰も思わないだろうなぁ・・・なんて、ぼんやり思いました。亡くしたのは私にとっては父親ですが、二人の叔父にとっては実の弟であり、実の兄。計画した従兄にとっては、父親のような存在の叔父にあたります。このちょっとした旅行に参加した人たちは皆、心底父を愛してくれた人達です。心から涙をこぼした人達です。一緒に温泉に入り、時に声を出して笑い合い・・・皆揃って「不謹慎」しました。この面子で遊びに行っても、笑っても、許される行為のような気が致しました。最初、計画を立てた従兄には「えっ?こんな時に?」って思ったけれど、気を紛らわすには良かったのかも・・・そして、今・・・先日頂いた患者さん方からのコメントで、また同じように思えそうです。
2006年09月27日
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(すみませ~ん、18日に記載したデータに誤りがあり、19日に書き直しました父は癌発覚後も普通に市の検診を受けた事をうっかりしてました)今日、たまたま母が引き出しの整理をしていたら父の健康手帳なる物が出てきた。毎年、市が行っている健康診断を父は4月に受けていた。出てきた手帳は、病気が発覚する年からさかのぼって3年のもの。これを見ると白血球が明らかにおかしい。 平成11年 白血球 6100 12年 白血球 4800 13年 白血球 4700(この半年後にスキルス・ステージ4判明) 14年 白血球 2900(TS-1服用5ヶ月経過、1年前より体重10キロ減少)先週テレビでスキルスをテーマにした番組があったが、それによるとスキルス胃癌は普通の胃癌の進行度の6倍の早さだという。癌という病はそれなりの大きさになるまで、何年もかかっている。スキルスがいくら進行が早くて速さが6倍だと言っても、数ヶ月で出来るとは思えない。と、なると・・・父の場合、一体いつから癌が出来て体に悪さを働いていたのだろうか?白血球の数から異常を感じて、もしかしたら「癌」???と思ったとして、どうしただろうか?恐らく、人間ドックを受ける程度の事しかしなかったと思う。実際、毎年受けていた肺癌検診では異常なしの検査結果が出ています。スキルスが発覚した時点でも、大腸には転移も浸潤も無かったから、当然大腸の検査をしても問題なしだったハズ。胃カメラも、先日書いた通り綺麗なピンク色。幽門部に出来ていた、こぶのような物もこれ自体は癌ではないと、二人の消化器の癌専門医に診断されています。つまり、何かおかしいぞ・・・と思ってもどこにも癌は発見出来なかった・・・と言う事になるのでは?腫瘍マーカをオーダーすれば(反応が出ない人もいます)、????の疑問が出たかもしれないけれど、腫瘍マーカだって沢山種類があるし、反応が出たとしても検査で見つからないスキルスには一体どうすれば良いのか・・・もしかして、もしかして、父の場合、あの幽門部の腫瘍が「通過障害になるから切除しましょう」となったとしたら?この程度なら内視鏡で切除出来る可能性が高いように思う。その組織検査でもすれば、スキルス発見!!になったかも???手帳一つ見て、色々と考えてしまった日になりました。
2006年09月18日
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今日は栗拾いをしました。と、言っても行楽に出かけた訳ではなく、母方の実家が小さな栗林を持っているのです。栗の木が25本くらいあります。特に手入れもせず、農地として届けている土地を有効活用?しているだけなのですが。放っておくと、栗がただ落ちていくだけ、もう誰も見向きもしなくなってしまいました。叔父が見かねて拾っていますが、売る訳でもなく拾った栗の活用に悩む有様~そんな栗を毎年父が拾っては、友達宅に届けていました。初物だし、この友達のお孫さんがすごく喜ぶので。父が他界してからは、毎年私が父の代わりに栗を拾い、この父の友達宅に母と届けるのが恒例となりました。この父の友達は、父の病気を知ると時折奥様と我が家へ父を訪ねてくれた人です。季節の折々の風物詩の絵をご自分で描いた心和む絵葉書を送ってくれたり、ご夫婦で千羽鶴を折ってくれたり・・・・そんな暖かなこの方の思いに、こんな形でずっと接していきたいと思いまして・・・届けた時は残念ながらお留守だったけれど、お礼の電話がきました。私はちょっとだけでも父を思い出してくれた日になってくれたのが、嬉しかった。
2006年09月16日
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父の最初の入院は40日間。約20センチ切って縫っただけなのに、今思うと長かったような気がします。胃全摘、ルーワイ法で代替胃を作る予定でした。もうこの時、胃は既に狭窄していて食事は摂れるものの、少しずつしか摂れない状態。牛の胃袋じゃないけれど、小さな胃が二つ繋がっている感じでした。腹膜播種が手術時に確認され、腹腔内にマイトマイシンという抗癌剤を直接撒いただけで閉じました。今も当時の胃カメラ写真がありますが、幽門部に大きなこぶのような突起がありますが、そのこぶすら綺麗なピンク色です。スキルスは胃壁に潜り込む特徴がありますが、胃内部の写真を見る限り癌は見当たりません。潰瘍もありません。開腹時、せめて原発巣である胃だけでも切除してもらうべきだったのか・・・今でも悩むところです。と、私が悩んだところで当時の主治医は既に切除する気はなく、ただ「このまま閉じます」と言っていましたが。そもそも、胃癌という診断は受けてはいましたが、スキルスという説明があったのは手術前夜。説明のため呼び出された時間は19時だったのに、実際は21時を過ぎていた。なぁんにもわからないまま朝を迎え、宜しくお願いします・・・っていうしかなかったのだけれど。昨日書いた「手術前日にドタキャン」すら、する間が無かった。こんな状況下で入院している事を何も知らされていなかった父は、術後の痛みから開放された入院中は気が合う同室の患者さん達と結構楽しげに過ごしていました。母はこの時、すぐに涙目になってしまって父の顔をろくに見れませんでした。私は父に悟られないようにと、必死に笑顔で隠しているのに母は駄目で・・・母の様子でバレるのではないかと、ひやひやしていたものです。40日もいると、何時の間にか父は最古参になっていました。周りは入れ替わり、立ち代り色んな患者さんがやってきます。お一人だけ昼間からずっとカーテンを引いている患者さんもやって来ました。それでもいつも誰か一人や二人は気の合う患者さんがいてくれました。入院当初、出来るだけ長く入院していたい・・・なんて事も言っていました。定年退職して10年近くが経過していて、自宅にいてもこれと言ってやる事もなく、やりたい事もなく一人で過ごす事が多かった父は、寂しかったのだと思います。入院というちょっとした共同生活が気に入ったようでした。それでも、仲良くなった患者さんが次々と退院していくと焦りも出たのか、入院生活にも飽きてきたのか、退院を急くようになりました。父がこんな精神状態になると自分の事しか見えず、考えられなくなり家族を困らせる事も多々ありました。何も知らせていないのですから、父の中でも矛盾が生じ始めていました。私達夫婦はこの頃、水面下で主治医と壮絶なバトル、セカンドオピニオンに向けての調整、病気の勉強等、父に気付かれないようにこっそりやっておりました。母には調べた事を、別の医師の意見、全て伝えました。母を何度も泣かせる事になりましたが、私とてそれは同じ。一緒に戦っていかねばなりません。一番父の側にいなくてはならない存在ですから、母を泣かし傷付ける事になりましたが事実を告げました。全てを受け止めた上で、前を向かねばならないと思ったのです。
2006年09月14日
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前回、男性の癌患者さんの事をラジオから聞いたままの内容を書きました。なので、今日はその続きとして私自身の経験談を。そもそも、私の父・・・当然男性癌患者なわけですが、父は先日のあるがんセンターの医師が話されていた「多くの男性癌患者さん」には当てはまらない人でした。最初に入院した大学病院では6人部屋。がんセンターではなくても、病院側の配慮から同室の患者さんは皆さん、何らかの癌患者さんばかり。年代も年配の方ばかりでした。この6人の中で、実際は父が一番重い患者でした。スキルス、ステージ4、腹膜播種・・・となれば、やはり父が一番重いと私は思っていました。ところが、同室の他の患者さんが口を揃えて、私の父が一番元気で若々しいと言われます。なまじ、お世辞でもなさそうです。たまたま、皆さんと気があって新聞を回し読みしたり、いつもカーテンを開けて冗談を言い合っていました。そんな中で父の手術が行われました。開腹し、ただ閉じただけの手術でしたが・・・本人は知る由もなく、癌を全て切除したと思い込まされていました。開腹後は当然痛みが伴います。高熱も出ました。手術室からすぐに移されたのは暫定的にナースセンターの前の部屋。その部屋まで、同室の患者さんが心配そうに父の様子を見に来てくれた事が、父にはとても嬉しかったようです。痛みと高熱の中、力ない笑顔を返していました。でも、本物の笑顔だったと思います。その後、転院しましたがここでの検査を含めた40日間の入院生活は、父を明るく元気でいさせてくれました。主治医とは合わなかったけど、ここでの他の患者さん達との出会いが父を良い意味で開き直らせてくれたのだと思います。時に「なんでこんな病気になったのだろう・・・」とつぶやいていましたが、自ら病名を名乗り人付き合いをしてするようになりました。女性と違って、男性は良い出会いがあっても、積極的にそれを電話や出向いて会うとかして持続させないものですが、それを何らかの形で持続させられていたら、もしかしたらもう少し元気でいてくれたのかなぁ・・・なんて・・・・ね。
2006年09月11日
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今日は父の友人が4人で、お線香をあげに来てくれました。父が他界して4年・・・4年経ったけど、ちゃんと父を思い出して来てくれました。この友人の方々は、父の元同僚・・・父の後輩にあたる人たちだけれど、釣りや麻雀などよく一緒に遊んだ仲間でもある。3時間ほど、母と主人も交えて7人の楽しい一時だった。私の知らない父の様子も聞けて、本当に楽しかった。父の闘病中、この中の一人は自宅も割合と近い事もあり、父の病気を知ると入院中や自宅で過ごしている時に、本当によく父に会いに来てくれた。そんな事を何気に手帳に書き留めていると、ある事に気付いた。この方が来る日は決まって「大安」・・・・たまたま?単なる偶然?って思ったけど、あまりにもこの偶然が多い・・・それで本人に聞いてみると、大安の日を選んで来ているのだと言う。「ただのゲンかつぎだ」って笑って言った。何となく千羽鶴を折ってくれているような、お百度を踏んでくれているような・・・そんな気持ちが伝わってきた。こんな目に見えない気遣いが、とっても嬉しかった事を覚えている。だから、私もお見舞いはなるべく「大安」を選んでいる。相手側の都合もあるので、必ずしもそうはいかない事も多々あるけれど・・・「仏滅」だけは避けている。ただのゲンかつぎだけれど・・・わざわざ足を運んできてくれた父の友人方に、本当に暖かい思いをさせて頂きました。すごくありがたい・・・って思ってちょっぴり涙ぐんでしまいました。こんな友人を持てた父の人生は幸せだったのだな・・・と感じた今日でした。
2006年08月13日
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父の病気がわかってから私がした事 ・神奈川県から、当時Y先生が勤務していらした金沢までセカンドオピニオンを聞きに行った ・コネやツテを総動員して「医者」と名の付く職業の人に意見を聞きまくった ・自宅から車で約2時間かかったけど、ここだ!と思える病院に通院した ・余命1ヶ月と言われてからは、24時間体制で家族が父に付き添ったまぁ、こんなところです。「ここだ!と思える病院」と言うよりも、この医師だ!と思える病院と言った方が正しい。たまたま日本屈指の癌の病院だったけれど、病院の名前より医師の姿勢に感銘した。父の主治医は「患者さんが頑張るから、この病院の治療成績が良いのです」と、言われた。「私も頑張りますから一緒にがんばりましょう」と。こう、言って頂けた時点でこの先生にお任せしようと思いました。(ちなみに父の主治医はY先生ではありません・左の闘病記に記載)残念ながら、せっかく巡り合えたこの医師は5ヵ月後に転勤されてしまったので、この先生を追いかけるつもりでいた。転勤先がまだ開院前だったので、開院したら転院するつもりでいた。それなのに開院日に死ぬなよ、お父さん!!最初の病院からの転院には一波乱あったし、病院が遠くなると家族の負担は大きくなり、正直大変だった。もう疲れた、疲れた・・・でも、この疲れは心地よい疲れで、決して嫌な疲れではない。24時間体制の看病も無茶極まりない・・・何せ徹夜の連チャンだったし・・・入院がもっと長引けば続けられなかっただろう。あの期間だったから、出来ただけの無茶だ。こんな滅茶苦茶な事は、もちろん誰にも薦めない。だけど、これらの事をやって良かったと思っている。どれも後悔はない。人によって出来る事は違う。家庭環境や、経済問題、仕事等・・・色々と事情もちがう。父は老人医療が適用されたので、実際、医療費は安かったし・・・その分、交通費にかけられた・・っていうところもある。(病院に車で行くと1回1万円弱かかった)その人に出来る事、続けられる無理(この言葉はヒゲさんからの受け売りだ)をする事。これが家族に出来る事ではないか?と思います。そして、こんな無理はしたくてしているんだよって患者さんに感じさせる事。これが大事かな・・・ちなみに、サイトの仲間は皆無茶しまくりの人ばかり^^;私なんかよりスゴイ人の集まりで、頭が上がりません。
2006年07月28日
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