PR

プロフィール

磯トンボ

磯トンボ

サイド自由欄

=管理人からのお知らせ(お願い)=

コロナ五類化に伴いこれからは自己管理となります。大自然の中で楽しむ釣りは、自然は勿論のこと地元の方々の生活の何事も害してはいけません。房総半島への釣行の際は、ご当地ルール順守して 節度ある釣行にご協力のほど 宜しくお願いいたします。

尚、当HP内での「釣り場(詳細)」は、諸般の事情(NET功罪)を鑑みて公開は自粛しております。 m(__)m

カレンダー

2005年12月08日
XML
カテゴリ: 日々雑感
today diary


 年間に南房を訪れる回数は釣りだけで20数回になるであろうか…
それ以外を含めると30回は越える。中でもここ房総フラワーラインはよく使い、北や南に移動をしている。
房総フラワーラインが有料道路(第1フラワーラインと第2フラワーラインに分かれていた)の頃、
料金所(第2フラワーラインの)があった場所が平砂浦の起点となる布良である。

 天候も白浜方面は雨模様でも布良フラワーパークの大きなカーブを回りきると降ってないことが多い。
いつの日のことだったか定かでないが、その大きなカーブの下にある布良B下礒で釣りをしていた時のこと、
夕まず目まで竿を出し、帰り仕度も終えて背負い籠を担いで振り返ると。。。
真後ろに迫る崖の上空の布良側は晴れてるのに、白浜側は雲が”モクモク”と湧いていた…!?
昔みた「天地創造」の映画のように…(驚



白浜方面から南下し、この大きなカーブを右に回り終えると左手に布良の白い灯台が見える。
藪で覆われた海側には布良浜と呼ばれる小さな砂浜があり、その浜に下りる細い道路の途中にアーチ状のオブジェがある。
記念碑にはの文字が読み取れる。
※『青木 繁』についての詳細は欄外参照



晴れた日には正面には伊豆大島、左手には三宅島(?)が眺められる。
夜には星が白浜 野島崎(東)から昇り太平洋(西)に沈む。
比較的に地上の灯りも少なく星がよく見える所です。
特に流れ星が多く見れ釣りに来てるのだが、何故か釣りを終えた後は首が疲れる。
目線がケミホタル(ウキ)より遥か上空を見てるからなのでしょう(笑


黒の世界での星の描写は難しいだからなのか…。
恐らく、自分がまだ探し足りないのであろう。





もっと写真を見る場合はこちらをクリックしてください→ ※青木繁1882年(明15)~1911年(明44)

  明治15年(1882)、福岡県久留米市に旧有馬藩士青木廉吾の長男として生まれる。

 洋画家を志して上京。小山正太郎の不同舎に入門。翌33年東京美術学校西洋画科に入学。
 この頃から上野の図書館に通い、哲学、宗教、神話、文学書に親しむ。
 明治36年第八回白馬会展に神話画稿を出品、第一回白馬賞を受賞。
 37年 美校を卒業。同年夏、坂本、福田たねを房州布良に遊び、「海の幸」(写真左)を制作。
 この年の秋より、蒲原有明との交遊が始まる。

  40年「わだつみのいろこの宮」(写真右)を東京府勧業博覧会に出品するが、三等賞末席となり、
 審査の不信不満を新聞等に発表、中央画壇を痛烈に批判し、画壇と決別し以後不遇の時代を送ることとなる。
  同年夏、父危篤のため帰郷する。翌41年家族と衝突し家を出て放浪生活に入り、
 以後、貧困と病苦のなかで天草、佐賀地方を転々とする。
 42年7月、佐賀に旧師森三実を訪ねる。
 秋以降、佐賀にあって手記、歌集を残し翌年の元旦を佐賀市妙安寺小路の三根霞郷宅ですごす。
 こののち小城町、8月には唐津に遊ぶも、病状悪化のため小城、古湯での療養甲斐なく、福岡松浦病院に入院。
 明治44年(1911)3月25日、弱冠28歳9ヶ月の生涯を終え、夭折の画家の第一号となる。






thank you





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2005年12月09日 07時29分57秒
コメント(2) | コメントを書く


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X
Mobilize your Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: