05’有言実行!伊江島へ

行って来ました!伊江島。旅の会としてはついに悲願達成です!台風を討ち伏せて、「今年中に必ず伊江島へ!」を実現しました!!!

日記をもとに、伊江島報告をいたします。



伊江島報告(その1) 2005.09.06



旅の会では、8月29、30日と伊江島へ行ってきました。予定は29日~31日までだったのですが、わけあって急きょ変更になってしまいました。

それでも、がっちり行って来ましたので、がっちり報告したいと思います。



●聞いてないよー!



29日の朝は出発を前にしてちょっとウキウキしていました。というのは実は昨年も伊江島旅行を企画していましたが、あることが原因で中止になってしまったのです。今年は昨年の雪辱戦として伊江島旅行を企画したのです。「絶対行く」と日頃からさんざん言ってましたので、待ちに待ったその日がやってきてウキウキしていたのです。

 バイトから家に帰り着いて準備を終えて、ふと携帯を見ると、部長からのメール。このとき9:00。

「台風来てますよ」

なんじゃこりゃー、・・・・なんじゃこりゃー

「・・・・・・・・・・!!!!!!!聞いてないよー」

 実は昨年の中止の原因は「台風」です。「またかよ・・・」そう思って急いでネットで天気を調べると、「大丈夫じゃないかなぁ」と楽観しました(無理にでも)。でも念には念を入れないとと思って、本部―伊江島間の船会社に連絡とると「今日は通常通り。明日以降は何ともいえない」との返事。結局、私たちは行きの車の中で予定の変更などを話し合うことにしました。


●那覇→本部



 待ち合わせの10:00には参加者全員がそろいました。旅の会がウチナータイムに打ち勝ったのは凄いことで特筆すべきことです。
 那覇インターから高速に入り一路北部へ。その間車では、前日のヒョードル対ミルコ(28日には格闘技プライドの試合がさいたまアリーナで行なわれました)を長々と話すメンバーがいたり、それをだれも聞かなかったり。また、

「え?ここ高速?」
「北部に行くの?」
「伊江島ってどこにあるの?」
「那覇から10キロくらい?」

などその他もろもろ驚愕すべき世界感覚を披露するメンバーがいたり、車の中でもあいかわらず「旅の会」はバラバラでした。

みんなで台風談義をして、31日までの予定を30日昼頃までに変更しました。昨年台風で中止を味わってるメンバーはものすごく悔しい思いをしていました。

 名護で弁当を買って腹ごしらえ。その後、58号線から449号線に入って左手に穏やかな海、右手に採石場を見ながら12:30ごろ、本部のフェリー乗り場に到着しました。

以上。まだ伊江島報告と言ったわりには、伊江島着いてないなぁ。まぁまぁ話が長いのはいつものことということで。



伊江島報告(2) 2005.09.19



●待ちに待った伊江島に



13時半のフェリー出航までしばし待機。13時過ぎにいよいよ乗船が始まりました。フェリーは「伊江」と「城」というのがあって、私たちは「伊江」に乗船。本部港にサヨナラし、瀬底大橋の下をくぐり、伊江島に向かいます。天気がいいんですよ、台風が来るなんて思えないくらい。とにかく今は台風を忘れて、遠くに見える伊江島を見ながらワクワクしていました。

「明日には、あの伊江島タッチューの頂上に立つんだ!」
伊江島2

そう思っていやなことは忘れました。伊江島タッチューは遠くから見ると(たとえば読谷村の残波岬あたりから)頂上が鋭くとがった形で見えます。しかしこうして今、ゴツゴツした山肌が目の前に迫ってくると、お盆の上にボコッと岩が置かれてるような感じでした。

 出航する前に「酔った」とか、船内の売店の160円もハイチューに「ありえない!」と毒づいたり、「禁止」と書いてあるところに登ろうとしたり、やっぱり船内でも「旅の会」はバラバラでした。

 伊江島に近づいてくると、異様な形の建物が見えたり、海上には小さな漁船が見えたりしました。30分ほどで伊江港に到着。このとき、船がバックして着岸させていました。正確な船の運転にとても感心しました。

 さて、誰が「旅の会」で初めて伊江島に足を着けるのか?先輩はやさしいので、一年生に譲りました。まさかお互い相手を引っ張ったり妨害したりなんかしてません、よ。譲り合いの精神が大切ですから。


●島を歩く



 伊江港からすぐタクシーで宿へ向かっても良かったのですが、「せっかくだから少し歩こうよ」ということで一向は歩き始めました。船から見えた異様な建物は、国庫90%で建設されたものでした。この「国庫」が某サークル員の興味を引いたようです。

 港近くに集中する民宿、まだ作物を植えていない畑(たぶん落花生の畑だと思います、たぶん)、庭に生えたバナナの木などを見ながらズンズン歩きました。一部ヘトヘトなメンバーもいましたが。

途中ファミリーマートで買い物したり、庭先においてあった軍関係の車両(庭先に置いてあった、あれは一体なんだったのだろう?)に野次馬的に集まったり。
伊江島4

 しばらくすると、宿の方から電話が入り、送迎をしていただけると言うことなので、私たちは思いっきり好意に甘えることとしました。ほどなく2台の車がやってきました。すぐに乗り込んで発車。あっという間に、一晩お世話になる「土の宿」へ到着しました。送迎して頂いて、本当にありがとうございました。


●「土の宿」



 宿はのんびりした雰囲気のところでした。オーストラリアから最近来たばかりという女性や、「本土」の大学から来てしばらく滞在してるという学生など、あたたかく迎えてくれました。すぐに宿泊のために部屋を説明して頂いて、荷物を部屋へ。「やっと伊江島に来た」という感じでした。

 しかし、ここであんまりくつろいでしまうと予定がずれてしまうのでそそくさと次の行動へ移りました。ただでさえ、台風で予定が一日短くなっているのですから。

 「土の宿」はどんなところか?それを知るには、私がごちゃごちゃ書くよりもチラシにある言葉を引用したほうがいいと思いますので書いておきましょう。

「障害があろうがなかろうが
お金があろうがなかろうが
肌の色が何色だろうが
―そんな事はどうでも良いのです
ほんのわずかな時間でも
あなたがここで
疲れを癒し
そして何かを感じ
持ち帰ってくれたなら
それだけで素晴らしい
沖縄はあなたに
何かをしてくれるでしょう
peacefull」

以上。まだまだ続きがありますよ。


伊江島報告(3) 2005.09.19



●ヌチドゥタカラの家へ



○資料館見学

実は、「土の宿」のそばにあります。歩いて28秒くらい。いや、31秒ぐらいか。入り口にシーサー(やけにおっかない顔)があって、そこを入ると小さな建物があります。

「ごめんください」

はじめにヌチドゥタカラの家(反戦平和資料館)を見学させていただきました。
 資料館は、狭い空間に「これでもか」というほどの展示品が、見方によっては無造作においてあります。爆弾、写真、軍用品、服、軍事品の残骸で作った日用品、闘いの旗、そして阿波根昌鴻さんの言葉などがありました。
 私の感想としては「想像力が問われる場所」というところです。ばらばらであるので余計にそう感じました。

 見学時間はわずか30分だったので、ぱっと見てまわることしかできませんでしたが、メンバーからはさまざまな意見も出ていました。

「ゲンバクを落とした国より落とさせた国の罪は重い」という言葉の意味が分からない。」(アメリカより日本が悪いと言うことに納得のいかない様子)

「米軍機残骸のジュラルミンからどうやってアイロンを作ったんだろう?」

「爆弾の信管を抜き取る際に爆死した二人の青年を撮影した写真はショッキングだった」

 などなど。なお資料館内が暑くて途中で中にいられなくなったメンバーもいたようです。

○謝花さんのお話

 気がつくと、謝花さんが来ていました。謝花さんは今回わざわざ私たちのために時間を割いてくれました。本当にありがとうございました。

 ほとんど何も知らない私たちに、伊江島の歴史や阿波根さんのお話などをしてくれました。

ホントに何も知らない!

伊江島で戦争があったこと、
阿波根昌鴻さんがどのような方なのか、
土地強奪の実態がどんなものだったのか、

旅の会のメンバーはホントに何も知らずに、謝花さんに対面することとなったのでした。

 話は2時間くらいにわたって聞くことができました。メンバーからも質問や意見が出て、どんな質問に対しても丁寧にお答えしていただいたのが印象的でした。ここでは私のメモから印象に残っている話を書いておきます。


「本当の平和とは恐怖のない社会」



「平和」について普段考えることはあまりないのですが、「平和とは何か?」という疑問にとても平易な言葉で返されたのが印象的でした。


「(大学という)最高学問をしたあなた方の役割考えたことありますか?」



「最高学問」だなんていわれると、ふだんの勉強事情を考えるとちょっと恥ずかしくなってしまいましたが、実はまわりからはそういわれる立場にいるのかもしれないと思いました。謝花さんはその後もくり返し「学問の重要性」を語ってくれました。実は話の最後にこの突きつけに対する謝花さんの回答を聞かせてもらうことができました。



「無知のこわさ」



「日本は神の国」「戦争に負けたことがない」「鬼畜に殺されるのは恥。殺される前に自分で死になさい」・・・戦時中はこんなウソの教育を信じ込んでしまっていたそうです。「平和の武器は学習である」という言葉の重みを感じました。


「平和運動とは間違っていることを正すこと」
「国はこのことを喜ばない」



くり返し言われました。阿波根昌鴻さんは「戦争屋の喜ぶことをやってはいけない」と言われたそうです。「戦争屋の喜ぶこと」それは、「愚民になることだ」と言われました。なお反戦資料館を「戦争屋のいやがる資料館」と言われたのは、思わずナルホドと感心してしまいました。



「『悪法』とは何ですか?」



ヤマトの平和学習で有名な大学が来たとき、話し終わった後に法学部4年生が「話の中で出てきた『悪法』とは何ですか?」と質問してきたのだそうです。謝花さんは回答したのに、学生は何の反論もせずただ一言

「ふーん」

と返したそうです。「法学部で何を勉強してきたのか」と憤慨して語られました。



「知識の時代じゃない」



「知識はとても大切だ」と言っていましたが「地位や名誉のための知識であってはならない。知識は、それを自覚し、行動にまでつなげていくことが大切だ」と強く言っておられました。



☆「5本の指の話」



この話が印象に残ったというメンバーは少なくありませんでした。詳しくは「米軍と農民」読もうぜ!!!

・阿波根昌鴻さんの活動について
「平和をつくるためには一人が一人のことをやっていては間に合わない」と言っていた阿波根さんは、生協運動や福祉活動にも取り組んだそうです。ヌチドゥタカラの家の近くには「やすらぎの里」という場所もあります。そして「生協も福祉も平和あってのこと」「不幸の根源は戦争」「戦争のできない人間を作らなければならない」と語ったそうです。

 阿波根昌鴻さんの活動は膨大でとても紹介し切れません。詳しくは「『米軍と農民』(岩波新書)を参考に」と教えていただきました。
 なお、阿波根昌鴻さんは2001年に亡くなられて、その後膨大に残った資料の整理活動がはじまっているそうです。資料整理に際して「ちりはない」といわれるくらい、新聞のすみっこや割り箸の袋の裏などにも、重要なメモが残されているそうです。これを聞くだけでも最後の最後まで学習し続けた人なんだなぁと思いました。



「幸せとは人に必要とされること」



「人に必要とされないことほどかなしいものはない」と語られました。簡単な言葉のようで、意外や見落としそうなことと思います。ついつい自分さえ良ければ・・・となりがちですから。



「税金が何に使われているか知らなければ」


「赤ん坊から年寄りまでが税金を払っている。だからその使われ方を知らないといけない」と言われました。例えば村の溜池を例に出して「生産者はもう充分と言っているのにどんどん作った。今は地下ダム建設もはじまっている。一体誰のためのものなのか」。そんな例はいくらでもあげられる、そんな感じでした。

 他にもいろいろ阿波根さんの言葉などを通しながらお話をしていただきました。何も知らなかったメンバーにはいくぶん難しかったところや理解できないところ、反発をもったこともあったみたいです。しかしそれも含めていろんな意見を交換しあいながら話ができたというのはとても貴重な体験でした。謝花さんには本当に感謝しています。ありがとうございました。



●それから・・・



宿に戻ったら、さっそくレンタカーで出発。まず「湧出」(ワジー)に向かいました。まず展望台へ。「望遠鏡もないのに展望台っ?」みたいな、にべもないことを言うメンバーは車のトランクに押し込んでおきました。ちょうど、日没にぶつかって、とてもきれいな空の色が印象的でした。

 そして展望台から石像の形をした岩が見えるらしいです。みんなであぁだこぅだ言いながら探しました。心のにごったメンバーはなかなか探しきれませんでしたが、当然私はすぐ見つけることができましたとさ。

 次に、坂を下って「湧出」へ。昔からの大事な水源地だったらしく、今でも飲料水として使用されています。しかし荒れた海を目の前にして、ますますお先真っ暗になる旅の会メンバーでした。

 7時過ぎには、某食堂で晩飯。「おいしかったのか?」。

 スーパーで酒を買い込み、宿へ。後はもういつもの通り飲み会が始まりました。意外とみんな飲まないね?でも今回は、「旅の会のマスコ○○」、いや、現「旅の会」の最長老の一人であるメンバーが酒を口にしました。ふだんの飲み会では、事情あって飲めなかったので、今回は良かったと思います。また飲もうね!

 〇時過ぎ、寝静まった宿をソロリソロリ抜け出して、青少年旅行村へ。真っ暗な中、海へザブン。風も結構強かったので寒くないのかなぁと思っておりました。3時前には宿へ戻り、みんな寝たと思われます。

フー、キー打ち疲れてきた。ではまた




伊江島報告(4)2005.09.19



まだ続くのかよ~長いよ、もういいよ、そんな声が聞こえてきそうです。

いやいや、記憶よりも記録、ですよ。



●早朝のタッチュー



5時半前だったかな?ノソノソ起きました。そのときの状況。

「寝れんよ、いびきがうるさいよー」

誰とは言いませんが、確かに凄いことになってました。部屋に置いてあった人形も耳ふさいでましたからね。

 結局全員が起きることはできず、精鋭隊で一路タッチューへ。

 タッチューは伊江島で最も高い山で、というか他に山らしい山はないのですが、地元では「グスィク」(城)とかいうらしいです。172.2メートル。すでに「8月30日の日の出時刻6:08」と調べがついていたので、間に合うように登頂しました。中腹のお土産屋のところから十五分くらいかな。

頂上に立つと、それはそれは、ホントに眺めがいい!伊江島が一望できます。
伊江島1

「あそこに学校見える」、「畑が多いね」「宿見えるかな?」。

溜池もいくつか見えます。これについて謝花さんから聞きました。伊江島には川がありません。戦前から水不足には悩まされたそうです。現在は本島の福地ダムの水を海底を通して島に送っているそうです。溜池も生産者から「もういらない」と声が上がっているそうです。でも今さらに「地下ダム」建設もはじまっています。「いらないのに無理矢理に作っている」のが現状で、その金の出所は、実は基地関連なんだそうです。

 そうこうしていくうちに、次第に東の空が明るくなってきました。この日、雲がかかっていったため、日の出時刻ちょうどに太陽は出てきませんでしたが、6:21雲の上から!「おぉ」精鋭隊は一瞬言葉を失いました。だってすごくきれいなんだもん。

 少しして、子供づれの家族が登ってきました。お父さんは以前も登ったことがあるらしく、そのときは「這って登る」感じだったらしいです。今は階段があって整備されています。「良かったねぇ」ととあるメンバーを見ると、ムフフと笑ってました。最後尾を(ハァハァでなくて)ヒィヒィ言いながら登ってきたメンバーです。

 なお頂上には、「タンナーパの足跡」と「沖縄の太陽 黒田操子来島記念」の碑というのがあります。「沖縄の太陽」は見つけるのに苦労しました。



●伊江島をグルリ(1回目)



その後、宿のメンバーを眠らしたまま、精鋭隊はそのまま島の西側へ。7:20頃、「伊江島演習場」到着。ゲートがありましたが、いかにも「沖縄に普通にある風景」という感じで嫌になりました。

「どんな演習をしているんだろう?」そんな疑問があがりました。

次に7:30過ぎ、「団結道場」に到着。ここは“銃剣とブルドーザー”で土地強奪された島民が、1961年に「伊江島土地を守る会」を結成したときに建設したもので、多くの青年を教育してきたところだそうです。建物のあちこちに「平和」にまつわる言葉が書いてありました。
 「この言葉いいなぁ」と目が止まったのは、トイレの壁に書いてあったものです。



「貧乏やぬ庭ん 金持ぬ庭ん えらばずに咲ちる 花ぬ美事」



その他にも短い時間で写せた言葉を書き出しておきます。


「殺し合いではなく助け合う人間、奪い合いではなく譲り合う人間、瞞(だま)し合いではなく教え合う人間、そういう人間が平和をつくる」

「戦争は誰を守るために誰が命令して誰が殺し合いをさせられるのか歴史に学ぼう」

「みんなの宝は土地から生まれる」



 「団結道場」離れて車で移動。「軽トラ多いねぇ」。確かに。
 7:50頃、伊江島補助飛行場に到着。戦中日本軍が住民を動員して造ったが、米軍上陸前に破壊。その後、伊江島に米軍が上陸し占領した後に修復して本土爆撃に使用した。「東洋一の飛行場」だったとか。そこは広島、長崎の原爆を投下した飛行機も給油で立ち寄ったらしいです。

 やっぱりここは、長さを調べないと、ということで端から端まで走って距離を測ってみました。でこぼこの道をかっ飛ばしました。約2.2キロ。幅は30メートルくらいかなぁ。運転手は「やってみたかった」とか言いながら、バック走行しました。

 東側にタッチューを見ながら・・・メンバーが突然、


「あっ、ゴリラの横顔だ」



!!!ホントだ、タッチューがゴリラの横顔に見える!

一番それらしいところを探してパシャ、良いのが撮れてればいいけどなぁ。そのころ、雨がポツポツ降り始めました。台風の奴がぁと内心思いながら次に移動しました。

8:15頃、たまたま基地らしい施設の横を走りました。どうやらここは「米軍通信施設」。写真撮ろうとゲート前に行くと、さっそく警備員がこちらに注目、「撮っちゃダメ?」と聞くと、どうやら警備員は頷いてます。

 しょうがないなぁと思い、窓を閉じた状態でパシャ、パシャっと二枚撮ってやりました。帰り際に、警備員にご丁寧に手を振っておいたので、きっと問題ないでしょう。

 その後、モクマオウの並木道(島のあちこちにこの木が防風林として使用されている)を通って、リリーフィールド公園をまわって9時前に宿に戻りました。


●チェックアウト、再び島一周



 轟音=超ド級のいびきを立てて寝入っていたメンバーがやけにさわやかそうな顔で「おはよう」なんていうので、「コノヤロー!」と内心思いつつ、

「おはよう」

 宿のお姉さんたちは、すでに部屋の掃除を始めていました。「旅の会」は、あたふたと帰る準備をして9:30前にチェックアウト、「ありがとうございましたぁ」。「帰りたくないよぉ」と半べそかいてるメンバーもいました。

 宿のみなさん、夜遅くまでお騒がせして申し訳ありませんでした。本当にお世話になりました!

 まずホットスパーで朝飯を買い込み、船の出航時間(14:30には島を離れねばならない)を調べた後、いざ、伊江島一周へ。って2回目なんですけど。眠ってたメンバーもいたわけなので・・。

 今回は逆回り、東からまわりました。最初に「アハシャガマ」。謝花さんのオジさんもここで亡くなったそうです。「教えを守って死んだ」のだそうです。ところが・・・目印となるはずの農民道場はしっかりあるのですが、肝心のガマの入り口が見つからない。「道のそばにあるよ」と言われたのですが。結局、行ったり来たり見つからずじまい。仕方なく、次のリリーフィールド展望台&公園へ。

 あるメンバーは伊江島に来て、数字に夢中。というのは、国庫の割合に興味深々。施設によっては、国庫:村負担が9:1とか場合によっては、国庫全額負担とか。どんな施設見ても、国庫の影があるのです。基地関連でいろんな金が落ちてることがハッキリ分かります。

 ゆりが咲くのは、4月頃。なので、今は花どころか、何もない場所。荒れた海を眺めて帰りました。ここがだいたい10:00前。

 団結道場にももちろん行きました。なのに、眠ってたメンバーはすでに二度寝や「興味なし」の如し。せっかく来たのにもったいない、もたいない。

 続いて、ガイドの地図にあった真謝地区にある「第502特設警備工兵隊出撃の地」に目がとまったので行ってみることにしました。しかし地図は大雑把、標識もない。これじゃ探しようにも探せないと思い、さっそく道を尋ねてみることにしました。

一人目、家から顔を出したオバァ。「分からないねぇ」。
二人目、畑を耕していたオジィ。「分からない、若い人に聞いたらいいよ」
三人目、道に立っていたオバァ。「さぁねぇ」。撃沈。誰も知らない。

若い人、いない。とにかく真謝地区をぐるっと一回りしたということで、仕方なく次へ行くことにしました。

 補助飛行場にも後部座席のメンバーは「ここどこ?」「早く先行こうよ~」とさっぱり。まぁいいかと思って、「ゴリラの横顔」をもう一度見ながら、ニィヤティヤ洞へ向かいました。

 途中、馬を発見して写真に撮ってみました。うまく撮れてるかな?ガマの標識がないんだよね。「もっと分かりやすく標識出しておけばいいのに」とぶつくさ言いつつ10:40頃到着。ガマはすぐ海のそばでした。階段を下りていくと、がらんとしたガマに入りました。

「ここに千人も入るのかな?」
「ぎゅうぎゅうだったんじゃないの?」

 ニィヤティヤ洞は別名「千人洞」ともいい、戦争中は千人ぐらいここに避難していたそうです。アハシャガマは「教えを守って」多くの住民が「集団自決」しましたが、ここは奇跡的に一人も死者はでなかったようです。たぶん、どっちの住民も「ウソの教育」をうけてはいたと思います。しかしそれでも、ちょっとした条件の違いで、その「教育」のまま死を選んでしまったか、生き残ることができたかという決定的な違いになるんだなとつくづく思いました。

 なおここは聖域でもあります。中に「ヒジル石」という石が置いてあって、これをもって重いと感じたら男の子、軽いと感じたら女の子を授かるとかいう言い伝えがあるそうです。ところで、全員男である「旅の会」メンバーがやって意味あるんでしょうか?一応、みんな一人ひとり持ち上げてみました。結果は・・・?

 ガマを出て次に「ゴヘス洞穴遺跡」へ。伊江島空港沿いの通りから畑の中の小道を抜けた山の中にあるんですが、途中めっちゃバッタの大群に襲われました。バッタをばったばった避けて洞穴へ到着。ここは大昔から人が住んでたらしいです。鹿の骨でつくった道具も発見されたそうです。洞穴の中をのぞいて見ましたが、ゴミを投げ捨ててるのを見てちょっとがっかりしました。

 そろそろ、後部座席からは「腹へった~」とか「今何時?」とかの声が聞こえてきたので、港近くの大衆食堂へレッツ・ゴー。途中、アーニーパイルの碑を見学して、昼食をとることにしました。

 ウダウダしながらメシを食べ、食後には、朝までぐっすりお眠りになったメンバーに「まだタッチューに登ってないでしょ」、「登ったらすごいのがあるよ!」と、なかば無理やり、再びタッチューへ向かいました。

 すでに登ったメンバーはお土産買ったり、ぼんやりしたり。あるメンバーは「お土産屋のおばさんに負けてしまいました」と言いながら、お土産を買い込んでいました。

 登った二人はあっという間に降りてきました。「早いなぁ」往復20分くらい?もっと短かったかもしれません。「ここ登ったことある」とも言ってたので、伊江島には来たことがあるみたいですね。本人もこのときまで気づかなかったらしいですが。

 13:00過ぎに、おばさんたちに手を振って港へ帰りました。「まだ寝るか」っていう感じで寝てるメンバーもいましたが、出航までの間、近くの資料館見たり、おみやげ見たりして過ごしました。

 そして14:30。「あぁもう帰らないとならないんだなぁ、クソッ台風の奴」と思いながら島を離れました。私も港について急に疲れがどっと出て船に乗ったら出航したのも分からないくらいぐっすり眠ってしまいました。「けっこう船ゆれたよ」ということのようです。

以上。どうでしょう、少しは伊江島の気分に浸れましたか?

実は、予定していたいくつかのことが忘却や計画の未熟さでできませんでした。

「また行きたい!」そんなメンバーがいたら、今度はしっかり予定を組んで、でも余裕をもってまわれたらいいかなぁと思います。

最後まで読んでくれた方、お疲れ様!!!




© Rakuten Group, Inc.
X
Mobilize your Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: