伊江島のこと



伊江島の戦争(1)


2005年08月15日

まず沖縄戦のこと。

「沖縄戦は一般の戦史では類をみない一般住民を動員して日米両軍の戦闘が展開された点に大きな特徴がある。これは日本軍がうちだした『軍官民共生共死の一体化』の県民指導方針によって住民が戦闘に大きく巻き込まれていったためである。この指導法方針によって日本兵による住民虐殺や、敵に絶対に降伏を許さない日本軍の作戦によって住民の集団死が発生した。」

・・・こういった状況は、伊江島も例外ではなかったようです。むしろ伊江島は「『沖縄戦の縮図』と表現することができる」そうです。

十五年戦争の末期にひき起こされた沖縄戦を大々々ざっぱに見ておくと、

1945年3月26日、米軍が慶良間諸島上陸。4月1日本島中部に米軍が上陸。とくに南部では多数の住民をまきこんだうえで激しい戦闘が繰り返された。6月23日日本軍の司令官・牛島満中将が「最後の一兵まで戦え」と発して自決。日本軍の組織的戦闘が終了。しかしその後も戦闘は続き、最終的に現地日本軍(第32軍)が降伏文書に調印するのは9月7日。

こんなんでいいですかね?まずいかな。とにかくこれだけでだと、伊江島の伊の字も出てこない。マズイ。

今日は以上。そういえば8月15日ですね、今日は。あぁそれと引用はすべて『平和ガイドマップ』(財団法人 わびあいの里)によってます。


伊江島の戦争(2)


2005年08月16日

つづいて伊江島での戦争の実態を見てみましょう。

米軍は1945年3月25日から4月16日まで艦砲射撃を加えた。とくに最後の数日はすさまじいものだったらしい。そして16日についに上陸を果たす。

一方、当時伊江島には日本軍(伊江島地区隊。隊長・井川正)2700名、住民は4000人(7000人中3000人がすでに島外へ避難)。ただその一部は防衛隊として召集されてたので、一般住民は3000人以下だったらしい。軍と住民が混然とした状態だったようです。

日本軍は、タッチューを中心に、地下道でつながった陣地を構築していたらしい。

陣地は「敵洞窟の陣地は三階建てのビルほどの高さもあり、各陣地がコンクリートで固められ、中央部と下部には機関銃を据えつけるという非常に高度なとりでである。村落の全域、山の周辺などいたるところに敵機関銃や迫撃砲が構え、わが軍の砲撃にはビクともしない」というように堅いものだったらしい。

しかもあちこちに地雷が敷かれてあったり、日本軍の自爆攻撃もくり返された。「『米兵のなかには、爆薬箱で自爆を遂げた日本兵の片脚が飛んできて腕をへし折られたものもいた』」という。

4月21日に米軍はやっとこ伊江島確保宣言を出すが、最後の3日間はほんとに激しい戦闘だったらしい。ただ宣言後も米軍への攻撃は続いたという。

「米軍は、6日間の戦闘で4706名の日本軍を殺したはずだったが、死体を点検して始めて判明したことは戦死した多くが民間人だったことである。民間自が軍服を着せられ、日本軍の兵器を持っていた民間人はおよそ1500人と推定している。さらに、戦死した米兵から捕ったであろう米軍の軍服を着けたまま死んでいる民間人もいたという。」

たったの6日間(艦砲射撃まで入れると約1ヶ月)ですよ、6日間。「僕らの7日間戦争」より短い期間で島は徹底的に破壊された。

ちなみに占領された伊江島では、日本軍の造った飛行場を米軍が修復してその後の沖縄戦や日本本土攻撃に活用されたらしいです。

こうして伊江島での地上戦は終了することになりますが、住民の苦労はその後も現在に至るまで続きます。以上。


伊江島の戦争(3)


2005年08月19日

伊江島は戦後、廃墟の中から生活建て直しが始まった。が、戦争に続きまたも暴挙が伊江島を襲うことになる。

1953年7月、「米軍の測量班が真謝集落一帯の土地測量を行うために来島」。ここから基地の拡張が開始される。

立ち退き。生活基盤をようやく回復しつつある中での立ち退き。それはきついでしょうね。4軒の立ち退き。続いて、9月には計152軒の立ち退き命令。ちょっと、ちょっとということで、住民も琉球政府や立法院(現在の県議会)に問題解決を訴えた。村あげて米軍への陳情行動も行なった。

「しかしついに、米軍は1955年3月武装兵を派遣した。伊江島の砂浜に3隻の軍船が着き、武装兵らが真謝部落に向かって行進し、村役場に対して、伊江島の土地を軍事力で接収することを告げた。住民は坐りこみや政府へ訴えに行ったりしたが、効果はなかった。米軍からの土地取り上げは否応無しに始まり、銃剣とブルドーザーで人々の家は次々と破壊された。」

土地を奪われた住民は政府に生活補償を求めたが、住民が那覇などに出向いて伊江島の実情を訴えたりするので、補償は打ち切られた。「少しでも生活補償することは土地取り上げ反対運動を手助けすることになるから」というのが理由という。

住民からすれば、土地もない、生活補償もないで、どうやって生きていけばいいのかということに尽きるだろう。

ついに「乞食」になることを決意した。「『乞食することは恥ずかしい。しかし、われわれの土地を取り上げ、われわれに乞食させる米軍はもっと恥ずかしい』と書いたのぼり旗を先頭に。彼らは『乞食行進』を始めた。」

こうした闘いが、後に全沖縄に拡がる「島ぐるみ闘争」を準備した。

1961年「土地を守る会」が結成された。「戦争屋と戦うためには実践だけでなく理論も必要だ」と「若者を本土の中央労働学院や、京都の一燈園へ送った。」

ベトナム戦争の最中には、米軍は伊江島にミサイル基地を建設しようとした。そのためにホークミサイルを陸揚げしようとしたが、住民の闘いに阻止される。

ついに1970年、伊江島の米軍基地の41%開放が発表された。最初は島の63%あった軍用地は27.22%になった。住民パワーがついに一部軍用地を撤去に追い込んだ。すさまじいパワーだ。

その後も現在に至るまで、実践・学習などの平和運動は続いている。いまなお、基地が存在し、そのための被害があとをたたないからだ。

そんなこんなで今回は以上です。


伊江島の戦争(4)


2005年08月21日

伊江村の基地関連収入について。数字は2002年度のものということで。

「2002年度の歳入は68億3697万9千円である。この中に、基地に関係した税金収入の『国有提供施設所在村交付金』の6766万2千円、村有地の『年間地料』の7417万6728円、事業に対して交付される『伊江島補助飛行場周辺特別対策事業』の20億3264万8千円や『沖縄北部特別振興対策事業』の3億5919万3千円などがあり、基地関連収入の総額は、25億3367万9728円で、全収入の割合は37%である。」

金の計算はホトホト苦手なんですが、一応これを見ないと、基地にまつわる「なぜ?」の答えが見えないので、しっかり見ていきます。

まず「37%」というのが、大きい割合なのかどうかは知りませんが、中北部に位置する市町村の歳入をみれば、多かれ少なかれ基地関連収入があるわけで、伊江村だけを詳しく見ることがまったく無意味ではないと思います。

でも今日は疲れてるのでこれで終わり。


伊江島の戦争(5)


2005年08月23日

前回の続きです。

一、「国有提供施設所在村交付金」

基地のある市町村特有のもので固定資産税の代わりのものとなっているそうだ。「基地の施設・区域に関する固定資産税は、一般と比較すると低いので、それを補うためなどの理由」で設けられているらしい。県が交付を決定し、市町村が用途を決定できる。役場維持費用や助成金などに当てられている。

二、村有地の「年間地料」

軍用地料のこと。那覇防衛施設局から支払われる。

三、「沖縄北部振興対策事業」

普天間基地の名護移設にともなう北部侵攻振興事業の一環として補助金が交付される。「これは、基地がなくてもすべての北部市町村に適用されるものである」。伊江村では「伊江村特産品加工施設の建設」(農林水産省が90%補助)などのために使われている。

これは基地がなくてもいいから、「名護市に基地ができてウチの町が発展する。お得お得!しめしめ」みたいなところもでてきそう。名護市にはこんな周辺の圧力もかけられていたのね~。

四、「伊江島補助飛行場周辺特別対策事業」

施設局から補助金交付決定がされるもの。これはさらに「障害防止事業」「調整交付金事業」「民生安定施設整備事業」「SACO事業」「沖縄米軍基地所在市町村活性化事業」などに分かれる。

「障害~」は、「基地被害を受け破壊されたものなどに対する被害補償」のこと。2002年度は「唐小堀溜池建設事業」がある。

「調整~」は「公共のものに対する事業」とあるが、ようは公共版・基地被害補償というようなものだろうか。道路整備、上水道配水管敷設、公共施設整備などに使用されている。「補助率100%」(!!)

「民生~」これは「基地周辺住民の生活安定を目的としたもので、個人や組合(JA組合など)の事業に対するもの」。「障害~」との区別が分かりづらい。何をもって「被害補償」とし何をもって「生活安定の目的とするのか。」補助率は、3分の2。

「SACO~」について。SACO(「沖縄における施設及び区域に関する特別行動委員会」の略)は、一九九五年の「三米兵凶悪事件」→反基地の声がワァーッと高まったときに日米政府間で設置された。「米軍基地の過重負担を軽減するための協議機関」らしい。
基地を減らす、あるいはなくすのが一番の負担軽減では?と思うのですが。

いずれにせよ、「SACO~」の2002年度の事業は、多目的ホール整備事業。産業廃棄物最終処分場事業などがあるそうだ。

こんな金もらっちゃっていいのかな?という気がちらっとしました。

「沖縄米軍~」はいろいろ説明がありますが、ようは基地が集中してるだろ、だからやるよ。それ使って地域経済の自立の足しにしてくれ。雇用確保、生活向上の足しにしてくれ。そんなもんだろう。「財政依存が進むだけでは?」という疑問が出てくるのも無理はないと思う。

独り言。金は確かに必要だと思うけど、

もらっていい金ともらってはならない金ってのがあるんじゃないのかなぁ。



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