上生的幻想

上生的幻想

僕的格付け

 僕的格付け 


なんていうとえらそうだけど・・・単に、好みの問題に過ぎなかったりして。
僕にとっていいワイン、っていうのは、「詩的なワイン」。「詩的なワイン」とは何かといえば、フィネスやエレガンスなどを含めた「詩的な部分」が豊かで質の高いワイン。
じゃあ、「詩的な部分」とは何か。
一言で言えば、「味わいの言葉」で表せない部分。「味わいの言葉」とは、いわゆる、「カラント」とか「トリュフ」とか「バランスがいい」とか・・・要するに、ワインのテイスティング・コメントでよく眼にするあれらの言葉。つまり、「詩的なワイン」とは、僕にしてみたら、とうてい、その程度で言い表せたとは思えないようなワイン。
「味わいの言葉」が、それほど全能であるとは、僕には思えない。それらの言葉を並べるだけで、言い表せてしまうようなワインは、それだけのワインなのだろうし、あるいは、少なくとも、その人にとっては、それだけのワインなのだろう、って。
あるワインを飲んで感じること・・・・それは、ただ、そんな「味わいの言葉」だけで表しきれるものではないんじゃないか。ワインとは、むしろ、その「味わいの言葉」では表せないところを味わい、戯れるものだと、僕は思っているし、そういうワインは確かに存在するし、また、あるワインを飲んで経験したことを一体言葉でどうあらわしたらいいのか、何年かたった今でもしっくりくる言葉が見つからないものもある・・・・

 「飲み物」だから、だから、それをあらわすのは、「味わいの言葉」で十分・・・・はたして、そうなのか。「味わいの言葉」は、基本ではあるかもしれないが、それで十分というわけでもないだろう。あるいは、音楽や絵画、映画、小説・・・・そういうものも、「ワインはただの飲み物である」式に言ってしまえば、ただの音や声の連続だし、色彩と形の組み合わせだし、映像と音声の連続だし、単なる言葉の関係や組み合わせに過ぎない。が、人はそれらのものを受容するとき、単なる音や声の連続というのではないなにか、色彩と形の組み合わせ以上の印象、映像と音声の連続だと言うだけではすまされないあるもの、単なる言葉の関係や組み合わせでは割り切れない思いや感情などを感じる・・・・ワインを愉しむとき、ただ「味わいの言葉」だけで表せるものだけに固執し、そうであってはいけない理由などどこにもない。

 なんていうと、また、ワインをもったいぶった「芸術」なんてものの仲間入りさせてしまいそうなのでいやだし、そういうつもりもない。それらが、「芸術」であるかないかよりも、僕にとっては「面白いか面白くないか」、「美しいか、美しくないか」などなどが問題なのと同様、ワインもそういうものの対象のひとつとしてみているだけだ。
だから、「味わいの言葉」だけで表せてしまうワインは、僕には物足りない。それが、ただの「飲み物」に過ぎないわけだから。そんなものに、高い金を払うつもりもないし、そんなものでは、それほど楽しめもしないだろう。

 「味わいの言葉」では表せない部分。だが、そういっても、その部分が味覚や嗅覚や触覚と別のところにあるわけではない。なぜなら、ほとんどの場合ワインは舌や鼻や口で味わうものだから(目でも見るけど)。だから、「味わいの言葉」で表せない部分が大きなワイン、というのは、風味の豊かな、いろいろな風味の要素を持ったワインだといえる。もう少し別の言い方をすれば、言葉とは、不可知なものに対して、それを区切り、名づけることによって、意識化するためのものでだ。あるワインを「カラントの風味」ということは、ワインの中にあるさまざまな風味の要素を「カラント」として区切り、ひとつのまとまり(カラント)として認識することだ。ワインの中に、もともと「カラント」が入っているわけではないのだから(かつ、たとえ、カラントの果汁が入っていたとしてもその他の風味の成分・要素と混ざってしまえば、カラントを感じられるとは限らない)。たしかに、「味わいの言葉」が豊富に発見できるワインは、品質が高いともいえる。しかし、その「味わいの言葉」によって表されたある風味と他の風味との関係はどのようなものか(たとえば、カラントとコーヒーの味がしたとして、その二つの味わいの間にはどんな関係があるのか、とか)、あるいは、質はどうか(「フランボワーズ」と一言で言っても、それがまだ熟していないのか、完熟しているのか、あるいは、煮たようなのか・・・などと一言で形容できるものはまだいいが、どうもそんな形容詞では言い表せない「困った」フランボワーズがワインの中には見つかることがある)、あるいは「バランスがいい」といったところで、それはどういった種類のバランスのよさなのか(風味の要素間の調和なのか、風味間の質の調和なのか、熟成の年月と力強さとの調和なのか・・・などなど)・・・とにかく、まともに、ワインを描こうとすれば、「味わいの言葉」はたちまち底抜けになって悲鳴を上げる。あるいは、無限に「味わいの言葉」を羅列していったところで、それはそれまでのことだ。
 「味わいの言葉」には、限界がある。もともと視覚系の言語が優位であり、豊かでもある人において、「味わいの言葉」自体が、貧困なのだ。たとえ、何千という花の匂いや食べ物の味を列挙したところで、語彙の数は増えたとしても、視覚系の言語の表現力の豊かさには及ばないだろう。つまり、言葉が認識の道具であるとするなら、「味わいの言葉」で認識できる領域は、あまり広くない、ということだ。「味わいの言葉」によって認識できない風味の豊かさがワインにあるとしても、だから、何の不思議でもない(むろん、この「風味の豊かさ」とは、何千、何万の種類の花の香りがする、何かの味がする、といった量的な豊かさだけではない。質的な豊かさ、関係性の豊かさ・・・・などなどを含めたあらゆる豊かさのことだ)。そして、そのような「味わいの言葉」で掴みきれないない何か、を掴み認識しようとするとき、人は別のイメージを使って、喩によってそれを捉えるしかない。「詩的なワイン」が、風味豊かな品質の高いワインであるとは、そういうことだ。

 むろん、世の中には、どんなワインに触れようが、「味わいの言葉」以上のものを感じない人もいるだろう。それは、「言葉」からワインに入っていった人たちだ。はじめに言葉ありき。その言葉に従って、ワインを飲んできた人たち。その言葉によって、その人たちの感性は作られ、磨かれる。その言葉以外のものは感じないし、感じられない。というよりむしろ、それらの言葉にワインを当てはめることで、ワインを飲んでいるのだ。あるいは、当てはめるために、飲んでいる。・・・・ちょっと、退屈じゃない?

話がずいぶんそれちゃったけど、要するに、格付けというのが品質によるのなら、「詩的な部分」が大きいワインほど、格付けが高い、というのが僕の考え方。つまり、僕は、「味わいの言葉」で表せない部分の大小、質の高低によって格付けしてる、ってこと。
 具体的に言えば、メドック5級というのは、僕の中で、「詩的な部分」:「味わいの言葉の部分」が、5:5のもの。
 4級は、6:4。ブルジョワ級なら、4:6。
 じゃ、4級は「味わいの部分」が4で、ブルジョワ級は6だから、その部分はブルジョワ級に劣るかというと、そういうわけではなくて、これはあくまでも、そのワインの中での比率。当然、「味わいの部分」においても、4級はブルジョワ級に勝るか、勝らなくても、すくなくとも同等くらいではあるはず(4級に限らず、ブルジョワ級より上ならば)。もっとも、これは「量的」な比率だけど、実際は、「詩的な部分」の質にもよる。同じ「エレガンス」といっても、やっぱり、より上質なものもあれば、まあそれほどでもないものもある。その辺のことをなんとなく勘案して、何級・・・って感じで。
このHPのなかで、時々出てくる僕的格付けは、すべてそういうものであって、それ以上のものでも、以外のものでもないっていうこと。間違っても、「味わいの言葉」で表せる部分についての格付けではない、っていうこと。
そして、やっぱり、いきつくところは、好み。「エレガンス」にしても、どっちの「エレガンス」がより上質だと感じるかは、やっぱり、僕の好み、だとしか言いようがない。むろん、「エレガンス」を感じる感じないについても同じだけど。(2005/01/10)



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