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その他の【洋画】之部
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その他の 【洋 画】 之部
【Georges Pierre Sourat(1859~1891)】
ジョルズ・スーラ
【
オンフルールの港
】1886年
セーヌ川の河口、ル・アーブルに向かい合うオンフルールの港。「マリア号」が静かに碇泊し、港湾事務所の旗や船の煙突や柱など、みごとな直線が、画面の構図となる。わずかに、船体と波止場の繋留塔の丸味だけが、直線の構図に奥行きとふくらみをもたせている。
この港は、ル・アーブルとともに、クールベ、ブーダン、ヨンキント、そして少年時代のモネが画架を立てて以来、印象派のいわば思い出の土地として数多くの画家たちを魅き続けていた。だが、スーラにいたるまで、だれも、こうした整然とした秩序をこの騒がしい港の岸壁に見いだそうとしなかったのは事実である。
秩序ということはスーラにとっては何を意味したのだろうか。たとえば、印象派の画家ドガは若い世代の画家を愛し、時にはかなりしんらつに、時には親しくつきあったが、彼がスーラにつけたあだなは「公証人」だった。スーラが、アトリエでの仕事が終わると、正装して(あの名作『グランド・ジャット島の日曜日』登場する紳士達のように!)山高帽をかぶる、背筋をのばして家族との晩ご飯に出かけてゆくからだったという。几帳面で、理論好きで、どこか学者肌であったスーラが、性格的に、明快さを好んだことはいうまでもない。
だが、彼は、すでに1880年代という時点で、近代主義というものが必然的に示すことになる機械的な明快さを感じとっていたのである。彼は、建築中の、木組みにおおわれた建物を見て、出来上がった建物よりも、その木組みがはるかに美しいと感ずる最初の種であった。このころ、パリのあちこちに、鉄骨の構築物が出現しだしている。船も、印象時代初期に比べるなら、はるかに機能的で明快な造形をみせている。
とはいっても、スーラは、ただ静けさ秩序や機械的な造形を求めたのではない。夕方に正装するスーラは、朝はつばのせまいフェルト帽を首までかぶり、無造作な格好でクロッキーに出かける。現実的な生活のにぎやかさ、わいざつさ、騒然とした音のなかで、彼は描き、その感覚を決して捨てることなく、線と点描の秩序のなかに閉じ込めるのである。
スーラの作品をじっとみつめるなら、その封じ込められた現実の豊かさが、画面の静けさのなかから、もういちどたち現れてくるのを感ずることができるはずである。(中山公男 美術史家)
【
ポール・アン・ベッサン、引き潮外埠頭
】1888年
ポール・アン・ペッサンは、フランスのノルマンジー海岸、ベッサン地方の漁港である。例の1944年6月の連合軍のノルマンジー上陸作戦の主戦場のひとつといえば、わかっていただけるかもしれない。現在も、その記念碑がたっている。しかし、1888年という時点では、ただ満ち潮と引き潮、海や空や凪(な)ぐ日と荒れる日、そして大漁と不漁しか知らない片田舎の漁港でしかない。
スーラは、盟友のシニャックが情熱的なヨットマンだったこと、そして印象派の先輩たちが英仏海峡を好んだこと、おそらくその両方の理由で、毎年の夏、英仏海峡のあちこちで写生し、鉛筆デッサンと油彩の習作――スーラはそれをクロッキーという言葉とカルトン(厚紙)という言葉を合成してクロクトンと読んでいたのだが――をもち帰ってあらためてパリのアトリエで最終的な作品を完成させた。1888年の夏は、主としてペッサンで取材されたのである。
いわゆる点描法による、淡い中間色系統の配列、それでいて光りのあたる部分と影の部分とをはっきりと区別させる明晰(めいせき)な形。秩序の正しさと、そこから生まれる無限の静寂、それは、同じ英仏海峡を描いたクールベやモネとはまったくちがった世界である。クールベの描く大きな波には、自然の偉大さに対する畏怖感がこもっているし、モネの描く海は、たえず小さな波が白い波頭を立て、光りと風のなかで瞬時も休むことのない海への、心騒ぐ感動にみたされている。だが、ここでは、引き潮のために外埠頭の外まで砂州が露出し、夏の朝の光りが照りつけ、家々も、その明るさに耐えるかのように沈黙をまもっている。
このようなちがいを、個性の差とするのはたやすい。しかし同時に、それは、クールベたちの、自然に向かって画架を立てるということが、まだ何ほどかのロマンチックな挑戦であった時代、モネたちのずっと自由で生き生きとした感覚で自然をみつめ、その新鮮な情動のままに写しとることが可能になったばかりの時代、そして、もはや自然を外部のものと見ることはなく、都会そのものをみつめるような静かな観察を行い、そこに詩的な夢をあたえうるようになったスーラの世代、そうした時代の差も見てとれないだろうか。
スーラはまだ29歳、やがて三年後は、そのすばらしい才能と詩想を抱いたまま世を去るのだが、ここには、自然のどんな変化をも人間理性と詩によってふるいわけてしまう強靭な若さがあるといえばよいだろうか。(中山公男 医術史家)
【
カフェ・コンセール
】1887年
【
グランキャンのオック岬
】1887年
1851年にロンドンで初めて開催された万国博覧会から16年後の1867年、パリで開催された万国博覧会に、徳川幕府や薩摩藩・佐賀藩が初めて参加して、日本の工芸品や美術品が西洋文化に大きな衝撃をもたらした。ゴッホだけでなく、スーラも浮世絵の魅力にとりつかれた一人であったらしい。北斎の【神奈川沖浪裏】など、如何でしょうか?
【
サーカス
】1890-91年
はじめに、この作品の色刷りが“不調”であったり“手抜き”であったりしている訳ではないと、お断りしておかなければなるまい。
この作品は、1891年3月20日からはじまった第七回アンデパンダン展に未完成のまま出品された。それが色彩の密度や書き込みの不足の原因となっていることは否めないのである。
原色版印刷と同じように、原色の小さな点によって白いカンバスを塗りつぶしていく、いわゆる「色彩の分割」による画法は、自在な絵筆の動きをもって描く画家たちの描法に比べれば、気の遠くなるような遅々とした制作の歩みにならざるを得なかった。
前の年から制作を開始したのだが、巨大な画面を色斑で埋めるのに手間取ったのは、この画法に憑(つ)かれてしまったスーラにとってはいつものことであったのだけれども、この度の作品では、新たに動きのある馬や曲馬師の姿を取り込んだだけに余計に、時間をくってしまったのであろう。スーラは未完成のまま会場に運んだのであったが、それは、色点を打つために、身体を固定し腕をこわばらせ、眼をこらし息をつめ、あるいは奥歯をかみしめるという、思いのほか過酷(かこく)な制作で肉体と神経をすりへらしてきたスーラの窮余の一策であったろう。あるいはまた、人よりもはるかに多くの時間を失いながら生命を縮めていくしかなかった者の予感というものであったかもしれない。火の気のない会場で陳列に立ち会って風邪をこじらせ、咽頭炎を悪化させて、まだ会期が終わらない三月二十九日に三十一歳の若さで世を去ったのであった。
この作品では、これまでの垂直線と水平線を組み合わせた構図法に、さらに曲線的な要素を加えて、今までになかった動きの要素を取り込もうとしている。新しいエネルギーが彼を突き動かしているのである。しかし未完の画面は、あるいは“影のうすい”ものに映るかもしれない。
サーカス・メドラノに通いつめて写し出した、軽やかに宙返りする男と妖精(ようせい)のように白い馬の背に乗る女や、有翼の天馬のように跳ぶ馬のせっかくの動静は、色彩がまだ満ち足りていないために、生命のないイメージに変わってしまっていはしないだろうか。場内の興奮と緊張と動きを活性化するには、分割した筆触の一つ一つの色彩がもっと励起し融和しなければならなかったのだが、スーラにはもうそのチャンスは永久に与えられなかった。新しい美の世界が開けようとしていたのに・・・。
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【Edvard Munch, (1863-1944)】
エドヴァルド・ムンク
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海辺の夏の夜
】1902年
北欧の夏についてイプセンは「生と死が、昼と夜とが、手をたずさえて歩む」と記している。たしかに、昼でもなく夜でもないあの透明なうすあかりのなかに目覚めていると、われわれの生命がなぜか、時空にくまなく偏在している永劫(えいごう)の死の気配のうちへと吸い込まれてしまうような感覚にとらわれるものだ。
しかし、白夜のなかでもっと恐ろしいのは、岩だつフィヨルドのもとに冷々として満ちている北の海である。それは冷然としているばかりではない。あくまでも清澄に、無垢(むく)に、底のない深さをもって静まりかえっているのである。生命とはたしか、泥と水の混在する濁った世界から生じて来るものではなかったか。われわれの知っている創生神話が語っているのは、そのような混沌(こんとん)とした原初世界なのである。
だがフィヨルドの海は、白夜のなかに深々とあおざめていて、生命の原理から超絶した怖さを見せているのであった。
あのような静謐(せいひつ)な海が、ムンクの心にはいったいどのように映っていたのであろう。
北欧ノルウエーに生まれ、十九世紀末から新世紀にかけての激しい時代をボヘミアン(放浪者)として生きてきたこの画家は、故国での白夜の夏を、避暑地オースゴールストランのフィヨルドで過ごしたのである。画家であるまえに、愛に苦悩し、おそらくもっと根深い本能の渇望に苦しむ一人の人間であったムンクは、揺れ動く生命として、沈着な海とは対極の存在だったのである。
その彼のイメージのなかで海は、遠方の静かな薄桃色から紫へ、紫から透明な青へと変化し、さらに磯のあたりでは深い紺色を帯びつつ次第にうねりを高めて、たゆうがごとく、もだえるがごとく揺れ動いている。白い砂浜もまたこのうねりを受けて肌色をおび、あの原初の生きものに固有の、どろりと柔らかなかたちを呈して横たわっている。色と形とのこの不可思議な変転は、浜辺の丘に至るや目を見張らせる若草色へと進んで、生々しく息づいている。死のごとき白黄色の月も、水面に映えるところでは魂の光りを蘇生(そせい)させているのだ。
海は生きたものとなった。それは、画家の痛切な叫びによってなのだが、奥底から発せられたこの人間の声に、冷気のなかに、静寂のかなたに、冷徹な水の底に隠されていた自然の声が呼応したのだ。ムンクの叫びは人と自然とをひとつにつなぐのである。(水島俊介 美術評論家)
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【Jean ?mile Auguste Bernard, (1843-1902)】
ジャン・エミール・オギュスト・ベルナール
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画家の祖母の肖像
】1887年
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【Jacob Camille Pissarro,(1830-1903)】
ジャコブ・カミーユ・ピサロ
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シャポンヴァルの風景
】1880年
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【Pierre-Auguste Renoir(1841-1919)】
ピエール=オーギュスト・ルノワール
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水浴する女たち
】1884~1887年
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【Paul Victor Jules Signac(1863-1935)】
ポール・シニャック
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食堂(朝食)
】1886~1887年
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【Pual Cёzanne(1839-1906)】
ポール・セザンヌ
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ボントワーズ付近の粉ひき所
】1881年頃
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自画像
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【Vecellio Tiziano1477(1476~1576)】
チチアーノ
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ニンフと牧童 (1570年頃)
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百歳の長寿を全うしたといわれるティツィアーノの晩年の未完成の作品。90数歳の頃の作品ですね。あやかりたいですね~。
【ダナエ (1545-46年頃)作品】
ダナエは父アクリシウスに閉じ込められた青銅の牢の中で、黄金の雨となって降り注いだゼウスと交わって、英雄ペルセウスを産んだ。
この絵がゼウスが、キューピッドに案内されて、天窓から黄金の雨になって降り注いでいるところです。
菜翁が旨さんは、思わず星空の星座を仰いでみました。
引用文献:巨匠の世界「ファン・ゴッホ」タイムライフブックス
日本経済新聞「美の美」(別刷り)
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