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Leonardo(1452-1519)No.1


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【Leonardo da Vinci (1452-1519)】(No.1)
Leonardo自画像1514
自画像 】Leonardo 1513年
レオナルドの自画像は、ローマ滞在中、62歳のころに描いたものがたったひとつ残っている。しっかりした皺の多い顔、鋭いが悲しみをたたえた苦しげな目、落ちくぼんだ口、流れるような髭が、赤チョークで描いてある。レオナルドは体力の割りには早くふけたといわれているが、自画像はそれをよくあらわしている。その顔はまるで、古代の幻滅した預言者のようだ。
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 レオナルドの容貌を伝える赤チョークの粗描。レオナルドがイタリアで過ごした最後の年にみずから描いたもので、これまでしられているものとしては信頼がおける唯一のものである。
下のほうに「レオナルド・ダ・ヴィンチ年老いた自画像」とあるが、これは、あとでだれかが書き加えたものである。
 レオナルドが上の自画像を描いたのは、62歳のときであったと思われる。そのころ、彼の精神状態はこの素描のように実際の年齢よりふけこみ、幻滅と疲労にとらわれていたのであろう。レオナルドはあれほど多くの仕事をしながら、実際に完成したものはたいへん少なかった。家もなく、後ろだてもないままに、ほとんど忘れられた存在として、老いの旅路をさびしく歩み始めていた。そんなレオナルドの容貌をつたえるものは、わずかにこの素描が一枚あるだけである。しかも悲しいことに、この素描もあまり真実を伝えているとはいえないのである。【巨匠の世界「レオナルド」(1971.3.1)タイムライフ・ブック】
Leonardoモナ・リザ1503
モナ・リザ (ラ・ジョコンダ)】Leonardo 1503年
レオナルドの作品の中でも、『モナ・リザ』の背景ほど、大気の深さとかかすみのような状態を完璧に再現してみせたものはない。空気遠近法が素晴らしい効果をあげている。しかし、永遠に見る者の目をとらえ、他のどの作品よりも多く摸写されたのは、モナ・リザの顔である。ウオルター・ペイターは、次のように賞賛している。「あらゆる病を浄化した魂にあふれる美しさ!……ギリシアの獣欲主義、ローマの快楽主義、中世の秘密主義など、世界のあらゆる思想とできごとが、この作品の中に刻み込まれている。したがって異教徒の世界が再現され、ボルジア家の罪業も宿っている。モナ・リザは、彼女を取りまく岩よりも年を経た存在で、吸血鬼のように何度も墓に眠って死の世界を見てきた。彼女はまた、東方の商人たちと取引してふしぎな水かきを求め、深い海の底をながめた。モナ・リザは、レタと同様にトロイアのヘレノーの母親であり、聖アンナと同様にマリアの母親でもあった。このようなもろもろの性質が、あたかも七弦の琴やリュートの調べのように、彼女のまわりをそこはかとなく漂っているのである。」
『モナ・リザ』の顔の説明については、これ以上何も付け加えるものがないほどである。しかし、ベイターは紙数のために興味ある点をいくつか省略している。第一にレオナルドの描いた『モナ・リザ』は、現在のものとは違っていた。つまり、像のの両側には小円柱があったのだが、きりとられてしまったのである。モナ・リザはバルコニーにすわっていたのであり、今のように背景の空間に浮いていたのではない。顔の色は、ヴァサーリもいっているように深紅色をしていたのだが、黒ずんだワニスが色彩の全体の調和を変えてしまって、沈んだ、水の中で見たような感じになっている。
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この作品はある婦人の肖像がなのである。マドンナ・リザを縮めたモナ・リザと呼ばれているのは、フランチェスコ・デイ・バルトロメオ・デル・ジョコンドという名のフィレンチェの商人の3番目の妻であった。この作品を『ラ・ジョコンダ』と呼ぶのはそのためである。
レオナルドが彼女を描き始めたときは24歳ぐらいで、ルナサンス風な言い方をすれば、中年期にさしかかろうとするころだった、この作品は肖像画としてずばぬけてすぐれたもので、ヴァサーリによれば、「自然の正確な写し」である。しかしレオナルドは、肖像画法などは超越して、主題を1人の女ではなく普遍的な女性に変貌させた。レオナルドの手によって個人と象徴性がひとつになったのである、象徴的な「女性」に対する芸術家の見方は、ふつうの男の見方とはちがうものなのかもしれないが、レオナルドはおそろしいほど鋭くとぎすまされた感覚で女性をながめている。そのために『モナ・リザ』は肉感的で冷たく、美しいが、いささかよそよそしく見える。作品そのものは大きくないが、見る者に記念碑的な感銘を与えるのは、像と背景との絶妙な関連のためである。このため、『モナ・リザ』の魅力と冷たい美しさはいっそうきわだっており、人びとは『モナ・リザ』を喜びや当惑、時には怖れに近い感情でながめてきたのである。
この作品でレオナルドは「スフマート」を完璧に使いこなし、12回どころか、数十回、いや100回か、とにかく数えきれないほど何回も画板の上に上塗りをかけている。背景もレオナルドの作品のなかで最高のできであろう。背景の細部は的確であるが、尖塔のような岩や水、骨と血ともいうべき大地などは、天地創造の翌日のロマテイックな大地を想い起こさせる。この作品はよく模倣され、また偉大な影響を後世の芸術に与えてきたので、新鮮な目でながめるのはむずかしいが、、原色画を子細にばがめれば、どんな人でも新たな発見をするであろう。
【巨匠の世界「レオナルド」(1971.3.1)タイムライフ・ブック】
Leonardoモナ・リザ01
モナ・リザ01 】Leonardo?
最も大きな問題をなげかけている『モナ・リザ』で、アメリカのヴァーノン(George Washington's Mount Vernon)・コレクションの中にある。所有者は本物と主張し250万トドルと値をつけている。
【巨匠の世界「レオナルド」(1971.3.1)タイムライフ・ブック】
Leonardoモナ・リザ02
モナ・リザ02 】作者不詳の複製画
ボルチモアのウォルターズ・アート・ギャラリー(The Walters Art Gallery(Museum), Baltimore, Maryland, USA)所蔵の複製。ヴァーノンの絵と同様に、原画ではのちに切りとられてしまった側面柱が見える。
【巨匠の世界「レオナルド」(1971.3.1)タイムライフ・ブック】
Leonardoモナ・リザ03
モナ・リザ03 】複写(ベルナルディーノ・ルイーニ(Bernardino Luini ,1482年頃 - 1532年))
ローマの国民議会にかかっている摸写である。レオナルドの弟子の1人、ベルナルディーノ・ルイーニの作とされている。
【巨匠の世界「レオナルド」(1971.3.1)タイムライフ・ブック】
Leonardoモナリザ04
モナ・リザ04 】複製(フィリップ・ド・シャンペーニュ(Philippe de Champaigne ,1602-1674)作)
オスローのナショナル・ギャラリー所蔵の複製。「ベルナルデイーノ・ルイーニ1525年」と署名があるが、フィリップ・ド・シャンペーニュが描いたもの。
【巨匠の世界「レオナルド」(1971.3.1)タイムライフ・ブック】
Leonardoモナ・リザ05
モナ・リザ05 】無名画家の作
マドリッドのプラド美術館が所蔵している『モナ・リザ』(『Mona Lisa of the Prado』)。16世紀の無名画家の作だが、レオナルドの描いた背景を省略してしまっている。
【巨匠の世界「レオナルド」(1971.3.1)タイムライフ・ブック】

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【2月2日 AFP】スペインのプラド美術館(Prado Museum)は1日、同館が所蔵するレオナルド・ダビンチ(Leonardo da Vinci)の『モナリザ(Mona Lisa)』の模写が、現存する最も初期のものであり、ダビンチ本人のアトリエで制作されたものであると発表した。模写作品のモナリザはより若く、魅力的に見えるという。

 首都マドリード(Madrid)にあるプラド美術館は同日、修復が完了したモナリザの模写『Mona Lisa of the Prado』を報道陣に公開した。この作品は18世紀に背景が黒く塗られたという。なぜ背景が黒く塗られたのかは分かっていない。

 修復作業により黒い絵の具の層が取り除かれた模写作品の背景には、丘や川など、現在フランス・パリ(Paris)のルーブル美術館(Louvre Museum)で展示されている本物のモナリザを思わせる風景が描かれていた。

 この模写作品についてはこれまで、より後の時期に制作されたものと考えられていた。しかし、プラド美術館のイタリア・ルネサンス絵画主任キュレーター、ミゲル・ファロミール(Miguel Falomir)氏は、「恐らく現存する中で最も古いモナリザの模写だろう」と述べ、模写はダビンチ本人のアトリエで本物とほぼ同じ時期に制作されたものだという専門家の分析にも触れた。その一方で、「ダビンチ本人は一切関わっていないだろう」とも語った。

 報道陣に公開された作品に描かれた女性は、本物のモナリザに比べより若く鮮やかな印象を受け、背景の描写もよりみずみずしい。これについて同美術館の副館長のガブリエル・フィナルディ(Gabriele Finaldi)氏は、本物のモナリザの絵は非常に汚れており、「絵画は汚れると描かれている人物が老けて見える傾向がある」とAFPに述べた。
【AFP BB News by Roland Lloyd Parry. 2012年2月2日】
Leonardoモナ・リザ06
モナ・リザ06 】サライ作
スイスのタルヴィルにある、カール・ミュラー博士のコレクションの一つ。レオナルドの下僕で無能な弟子であったサライが描いたものである。
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 ミラノでレオナルドは、スフォルツアの宮殿に住んだり、ミラノ市内をあちこち移り住んだりした。彼には弟子や召使もいて、時には少なくとも6人の弟子や召使を家に置いている。そのうちの一人、ジァン・ジァコモ・デ・カプロッティという10歳の少年は、レオナルドが38歳のときに絵の見習いとして住み込んだ。ヴァサーリは「みごとな巻き毛の、魅力的な美しい少年で、レオナルドは、その髪がたいへん気にいっていた。」と記していた。しかし、レオナルドは、「サライ」つまり小さな悪魔というあだ名をつけ、「こそ泥でうそつき、強情で貪欲な」少年であると述べている。レオナルドは貧乏な家に育ったサライに、着るものもつくってやった。「シャツ2枚と長ズボンと上着を1組仕立ててやり、それに払う金をとっておいたのに、少年に盗まれた。22ソルディの値打ちのある銀製の彫刻刀を盗んだのだ。」サライが来てから1年のあいだに、レオナルドは外套1枚とシャツ2枚、上着3枚に、24足も靴を買ってやっているが、サライは盗めるものはみな盗みつづけていた。レオナルドとサライの間は25年もつづいた。レオナルドは金を貸してやったりして、たえず面倒をみている。この若者はまったく才能がなく、ときどき作る作品も二流で、彼に甘いレオナルドはいつも手を加えてやるのだった。レオナルドが書きつづけた対になった横顔の連作をみると、老人の顔は次第にけわしくなっていき、美貌の青年の顔はだんだんサライに似てきている。
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1519年5月2日、レオナルドはついにこの世を去った。その1年前、死を予期してしたためた遺書には、素描と手記のいっさいをフランチェスコ・メルフィに、いくばくかの金銭は腹違いの兄弟に、そしてミラノ近郊にある果樹園はサライに与えるとかいてあった。
サライ ・Andrea Salai:Salai means "Little Devil"
    ・Gian Giacomo Caprotti (1480 – before 10 March 1524)
【巨匠の世界「レオナルド」(1971.3.1)タイムライフ・ブック】
Leonardoたくましい面影を残す老人と美しい少年
逞しい面影を残す老人と美しい少年
年老いてはいるが、かってのたくましい面影を残す老人と、若く美しい少年の顔を対比したこの素描には、レオナルドの性質の両極をなす、男性的なものと女性的なものとが、はっきりと現れている。この巻き毛の若者は、おそらく、レオナルドが1490年に自宅へつれてきた、悪賢い弟子のサライであろう。
【巨匠の世界「レオナルド」(1971.3.1)タイムライフ・ブック】
Leonardoモナ・リザ07
ラ・ベル・ガブリエールと称される裸像のモナ・リザ 07】
イギリス、ノーサンプトンのスペンサー伯爵の所蔵で、16世紀ごろの作とされる【巨匠の世界「レオナルド」(1971.3.1)タイムライフ・ブック】

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【2017年9月29日 AFP】巨匠レオナルド・ダビンチ(Leonardo da Vinci)の代表作「モナリザ(Mona Lisa)」に酷似した裸婦画を仏パリ(Paris)のルーブル美術館(Louvre Museum)が調査した結果、ダビンチ自身の手で描かれた可能性があることが分かった。調査に関わる専門家らが28日、AFPに明らかにした。
 この裸婦画は、ダビンチのアトリエで制作されたとされる大判の木炭画「モナバンナ(Monna Vanna)」。1862年からパリ近郊シャンティイ(Chantilly)にあるコンデ美術館(Conde Museum)のルネサンス芸術コレクションの一部として所蔵されている。

【AFP/Fiachra GIBBONS.
2017年9月29日 6:49 発信地:パリ/フランス [ ヨーロッパ, フランス ] 】
Leonardoモナ・リザ08
裸像のモナ・リザ 08】
ベルガモのカルラーラ美術館所蔵になる、17世紀の裸像のモナ・リザ。彫刻の複製が作られたり、しばしば戯画の対象にもなった。
【巨匠の世界「レオナルド」(1971.3.1)タイムライフ・ブック】
Leonardoリボンを織りまぜた胴着を着た人1513Leonardo棒を持ち足かせをはめられた男1511
リボンを織りまぜた胴着を着た人 】 【 棒を持ち足かせをはめられた男
1513年ごろ             1511年ごろ

 レオナルドは、宮廷芸術としては、野外劇や仮装会、寓意劇などの設計と制作を行った。これらの素描は、こうした行事用の衣裳を研究するために描いたものである。しかし、どんなときに、どんなふうに使われたものなのかはわかっていない。この2枚は黒いチョークで描いてあり、また、別の素描では、オートミール色の紙に黒いチョークや水彩やインクなど、色々使って描いてあるものもある。こうした素描の材料や衣裳の様式から推察すると、レオナルドがこれを制作したのは、スフォルツァの没落よりずっとあとの1512年かそれ以後であろう。そのころレオナルドはフランスに仕えており、かっての保護者を征服したフランス人に提供するために、むかし「イル・モーロ(Il Moro)(ロドヴィコ・スフォルツァ(Ludovico Maria Sforza 1452.7.27-1502.5.28)のあだ名)」を喜ばせたデザインをふたたび描いたのいかもしれない。

〔スフォルツアはレオナルドの才能を宮廷の余興の面で大いに利用した。これは天才の浪費のようでわびしく思われるが、舞台の背景作りは17世紀の終わりまでは、れっきとした画家の活動領域の一部であった。それは、レオナルドにとって楽しい仕事だった。1490年に、ロドヴィコがナポリ王の孫娘「アラゴンのイザベルラ」と20歳のジァン・ガレアッツォを結婚させたとき、レオナルドは奇想天外の飾り付けを用意した。城の広間に、割れ目を幕でおおった山を組み立てて、幕が空くと、十二宮と擬人化した惑星の描いてある天空の眺めが現れ、音楽につれて三姉妹神と七主徳が姿を現して花嫁をたたえるのである。
 ロドヴィコ・スフォルツァは、教皇は予の司祭であり、神聖ローマ帝国皇帝は予の将軍、フランス王は予の走り使いであるといったことがある。途方もなく大きな城は、ミラノの生活の中心であった。城壁の中は、まるでどっしりとした金庫のなかのように、心と目を楽しませる財宝で輝いていた、美しい婦人や奇妙な小人、ダイヤモンドや星占い師、画家、詩人、そしてエメラルド。こうしたものに満ちみちているスフォルツァの宮廷は、イタリアばかりか、全ヨーロッパで最もはなやかな宮廷の一つにかぞえられていた。
 ロドヴィコ自身は気がつかなかったのだが、宮廷で一番大切な宝は、レオナルド・ダ・ヴィンチであった。レオナルドは催し物も絵画も音楽も機械も、欲しい物ならな何でも呼び出す力を持った魔術師だった。しかし、レオナルドはたいへん自尊心の強い、風変わりな魔術師だった。騎馬隊の彫刻を依頼しても、レオナルドは音楽家の肖像画を制作し、聞いたこともない武器の考案をしている。どんな保護者も、レオナルドを思いのままにすることは出来なかった。フォルツァもほかの保護者と同様、レオナルドを使いこなすことはできなかった。
 フォルツァは別名を「イル・モーロ」と呼ばれていた。ある学者は浅黒いいろをしていたためといい、ほかの学者は紋章野の一つがモーロ、すなわち桑の木だったためといっているが、とにかく彼は闘いよりも陰謀を好む、ひねくれた用心深い支配者だった。進歩的な人間、とりわけミラノ人でない人たちに対しては疑い深く、けちだった。しかし頭のいい男で、相手から返答を迫られると、わけがわからないといった、困り切った様子をしてみせるのだった。〕
【巨匠の世界「レオナルド」(1971.3.1)タイムライフ・ブック】
Leonardo絞首刑にあったパロンチェルリ
絞首刑にあったパロンチェルリ 08】1479年作品
このレオナルドの素描は、メディチ家にたいして反乱をくわだてた共謀者の1人、ベルナルド・ディ・バンディーノ・バロンチェルリを描いたものである。バロンチェルリは行政長官の館で絞首刑になった。バッツィ家の人びとが計画した陰謀は、われわれ現代人からみても非道徳的で乱暴なものであった。暗殺者たちは豪華王ロレンツォと弟のジュリアーノが大聖堂で礼拝しているところを襲った。しかも、礼拝の最も厳粛な儀式である聖体を捧げる瞬間を、短剣で襲うきっかけの合図にしていた。ジュリアーノはその場で殺されたが、めざす相手のロレンツォはかすり傷を負っただけで逃げた。
その後、メディチ家の支持者たちは暗殺に加担した疑いのあるフィレンツェ市民を何十人も捕え、惨殺し、絞首刑にした。
今日、この事件を眺める場合、レオナルドや彼の仲間達が活躍したルネサンス時代のモラルによって判断するのが一番正しい方法といえよう。抜け目がなく、ユーモラスで、残忍なトスカナ地方の人びとは、残虐な犯罪や、巧妙なやり方の悪業を考えだし、やってのけた反面、偽善を憎み、愚かさをけいべつする気風をもっていた。
フィレンツェ市民の多くは、悪鬼のような陰謀の方法にあきれ、また多くの市民は、計画が失敗したのでけいべつさえしていた。トスカナ人の気風からすれば、すくなくとも陰謀を企てたからには、たくみに仕込んで成功させなければ意味がないのである。そうした態度なり事件なりが、レオナルドの生きた時代をいろどっていた。こうした時代の背景を考えあわせると、レオナルドのおだやかな性格、人生にたいするまじめな態度、いつわりを憎む心は、きわだってくる。
【巨匠の世界「レオナルド」(1971.3.1)タイムライフ・ブック】
Leonardo聖ヒエロニムス
聖ヒエロニムス 】1481年ごろの作品
未完の作品『聖ヒエロニムス』は、レオナルドがくりかえし描いたテーマのひとつ、人間と動物のあいだにかよいあう感情を表現している。よく注意してみると、右上の岩の割れ目に、幻のような建物が描かれていることに気づく。これは、聖ヒエロニムスが捨ててきた物質的な現世を暗示しているものである。

『礼拝』と同じころ制作したのが『聖ヒエロニムス』で、これも未完である。1485年以前には、この絵がたどった足どりから考えてみて、たいして評価されていなかったにちがいないが、この年以降はヴァティカノ美術館の中で名誉ある場所におさまっている。ある人が木製の画板をふたつに切り離して、ひとつをテーブルの上板にして使っていた。このふたつを、ナポレオンの叔父であるジョセフ・カーディナル・フェッシュが1820年ごろローマで別別に発見し、つなぎあわせたのである。『礼拝』と同様『聖ヒエロニムス』も明暗法で巧みに立体感を出している。もとは石板色と白で描いたものであろうが、19世紀に塗ったワニスのため、しぶい黄金色とオリーブ色に変っている。
 レオナルドは、この聖人が改悛(カイシュン)の情にかられて石で胸をたたいている姿を描いた。頭は禿げ、髭もない老人が、足元に1頭のライオンを従えて砂漠の岩のあいだにすわっている姿には、荘厳さは感じとれない。うめき声をあげているライオンは、ヒエロニムスの苦しみをわかちあっているようだ。ヒエロニムスはギリシアのアンドログレスのように、修道院のそばの田舎をあらしていたライオンの足からイバラを抜き取ってやり、友達になったと信じられている人物である。この聖人のやせおとろえたからだは、見るものが息をのむような複雑な動きをあらわしている。手足はそれぞれちがう方向を向いている。傾けた顔から下にのびる線、左手から水平に向かう線が、石をたたきつけている胸に集まっている。
 レオナルドは、聖ヒエロニムスにひどく惹かれていたようである。1482年頃の作品リストには『聖ヒエロニムスのいくつかの像』とあり、ほかにもまだ5,6点の作品があったことがわかる。聖ヒエロニムスについてすこし述べておこう。西暦340年から420年ごろまで生きたヒエロニムスは、人を怒らせるほどずけずけと物を言う口論好きな人間であったが、そのために改悛したのではない。レオナルドと同様、広い関心を持った知識人であるかれは、福音書の古いラテン語を改定し、旧約聖書をヘブライ語からラテン語に翻訳して、ヴルガタ聖書をつくった。しかし同時に、ギリシアやローマの異教文学にもくわしかったので、心のせまい初期のキリスト教徒から、ものを知りすぎている、禁じられている事柄に興味を持ちすぎる、と非難を受けた。ヒエロニムス自身も、夢の中にキリストが現れて、キケロに関心を持っていることを叱られたと書いている。レオナルドがそうであるように、ヒエロニムスも知識をひろめることに夢中だった。このレオナルドの描いたヒエロニムスは、自分の魂にくいこんでいる知識欲をたたきだそうとしているかのように見える。肉体と学問をともに尊重したレオナルドにはこの聖者の苦悩がよくわかり、同情したのかもしれない。
【巨匠の世界「レオナルド」(1971.3.1)タイムライフ・ブック】
Verrocchioキリストの洗礼
キリストの洗礼 】ヴェロッキオ(Verrocchio)1472年ごろの作品
ヴェロッキオは弟子のレオナルドに初期の作品のあまり重要でない部分を手伝わせていたが、はじめて人物全体を描かせたのは"【キリストの洗礼】においてであった。青い衣裳をまとった天使は、いちばん左側に配置。この天使は、レオナルドがひとりの偉大なる天才として成長しつつあることをフィレンツェの画壇にしらせた。ヴァサーリによれば、師のヴェロッキオもこの出来ばえには驚いたと伝えられる。
この作品には、レオナルドの未来が芽生えているからだ。天使だけではなく、背景の一部もレオナルドが描いたものだが、霧がかかったような幻想的な奥行きのなかに、レオナルドがのちに『モナ・リザ』と『聖アンナと聖⑦母子』なかで完成した、さまざまな驚くべき独創の萌芽がみとめられる。

 レオナルドの作品の鑑定のむづかしさは、芸術家としての彼の発展のしかたに原因がある。つまり、盛期レネサンスの作品が、あまりにも傑出しているので、初期に描かれた作品が同じ人間の手になったものとは思えないのである。またレオナルドは、作品を通してだけでなく、考え方のうえでも後世の画家に大きな影響をあたえた結果、数世紀にわたって膨大な数の模倣作品がつくられている。このことも、レオナルドの作品の鑑定をむずかしくしている。さらにもうひとつの問題は、当時何人かが共同して作品をつくる習慣があったことである。師匠ヴェロッキオの絵の一部をレオナルドが描いたこともあるし、のちに弟子を持てるようになると、弟子たちがレオナルドの制作に参加することもあった。そういう協同制作の作品の中からレオナルドの筆致を見分けるのは容易なことではない。

こういうむずかしい条件の中にあって、ひとつだけ疑う余地もなくレオナルドの作品だといえる初期の作品がある。その作品についてヴァサーリはこう書いている。「レオナルドは父のピエロによって、アンドレア・デル・ヴェロッキオにあずけられた。ヴェロッキオがたまたま、聖ヨハネがキリストを洗礼する絵を描いたとき、レオナルドもその絵の制作を手伝った。まだ幼かったレオナルドが描いたのは、衣服を持つ天使の部分だったが、ヴェロッキオの描いた部分よりもはるかにりっぱだった。ヴェロッキオはそれ以後、絵を描くのをすっかりやめてしまった。まだほんの子どもにすぎないレオナルドが、自分より多くのことを知っていたということが、無念だったにちがいない。」弟子に追いこされ、師匠ががっくり気落ちして芸術を放棄してしまうというのは、芸術史のなかによくある話だ。しかし、ヴァサーリの伝えているこの逸話は、真実の一部を伝えているにすぎない。・・・ヴェロッキオは、金の細工と彫刻を自由に作る時間がふえたのを喜んで、満足して画筆をとるのをやめたとも考えられる。
レオナルドがこの『キリストの洗礼』の天使を描いたのは、「子ども」のころだったということも実はありえないことで、現在フィレンツェのウフィツィ美術館にあるヴェロッキオ作『キリストの洗礼』の制作は1472年からはじまっており、この年にレオナルドは20歳になっているはずである。それにしても、若いころの作品には、あとで展開するレオナルドのさまざまな可能性がすでにはっきり現れている。

青い服を着た天使のポーズは自由で、しなやかであり、からだと顔の向けかた、膝と腕の曲げかたで、天使がたったいまこの姿勢をとり、次の姿勢にうつろうとしながら、いま行われている宗教的秘蹟にいっさいの注意を集中しているのがわかる。ところが、すぐ隣のヴェロッキオの描いた天使は、だらだらした説教の終わるのを待っている退屈しきった聖歌隊の少年のように、ぼんやり空間をみつめている。レオナルドの天使の顔には、彼の理想とした人間の美しさがほのかに感じられる。造形力はまだ完璧とはいえず、いくぶん女性的だが、衣服におおわれた輪郭と、レオナルド独特の微笑がすでにあらわれている。さざなみのような髪は、レオナルドが生涯魅力を感じていた、らせん状の運動に似ている。天使の膝のそばの草をみても、自然にたいするレオナルドの鋭い観察力が感じられる。
 この天使は、見る者をうっとりさせる。ウオルター・ベイターが言ったように「丹念に描き上げた、全体に冷たい感じのする古い絵のなかに、陽だまりのような空間」をつくっている。「しかも、それはまだ若い勉強中の画家の作品なのだ。」見習工のころのレオナルドは「よく粘土で人物像をつくり、柔らかい亜麻布を粘土にひたして人物像にまきつけてから描いた。」当時のフィレンツェの工房では、見習工たちがこうした粘土像を見ながら、衣服のひだを描く練習をしたものである。天使の蒼い衣服がいくぶん固い静的な感じがするのはこのためである。

 『キリストの洗礼』でレオナルドは天使のほかに風景のかなりの部分も描いている。水たまりと霧、陽光と影のつけ方はヴェロッキオの画風とは異なり、『モナ・リザ』の神秘的・幻想的な風景を予想させる。風景のこの部分と天使は油で描かれている。油絵具は当時、ようやく北方からイタリアに入ってきた新しい画材であった。一方、ヴェロッキオは伝統的なエッグ・テンペラで描いている。エッグ・テンペラは明るく、エナメルのような表面をつくれるが、色と色のあいだにきびしい区分がひつようだった。師匠は旧式な方法をつづけているのに、若いレオナルドが新しい油絵具を使っているのは、いかにも進歩的・実験的な画家らしい。
 油絵具のよい点は、複雑な色調を出せることにある。レオナルドは『キリストの洗礼』の背景を描きながら、この色調の効果を探究している。ここでレオナルドが使っている空気遠近法は、ブルネレスキの数学的な遠近法とは違うもので、辞書によると、色彩と輪郭の遠近法、つまり、色の濃淡や輪郭の濃いうすいで絵に奥行きをあたえることとあるが、レオナルドはもっと深い意味を考えていた。レオナルドは空気というものを、目と物のあいだに浮いている、手でさわれるぐらいの粒子のかたまり、と考えたのである。この空気とは、いろいろなものを浮かべ、しかもひとつにつなぎとめている透明な海のようなものだったのである。光と湿気、靄(もや)と影に満ちた空気は、主題と背景を結び付け、ひとつにする。レオナルドは大気を研究し、絵画の中で大気の幻影を創造する方法を見つけるために、長い歳月を費やした。レオナルドは、空気遠近法を生むために油彩の上塗りを使ったが、『キリストの洗礼』では絵具を塗りすぎ、背景もワニスでくもって十分な効果をあげていない。しかし画家としての出発において、すでに油彩の上塗りに関心を持っていたことは注目に値いする。
【巨匠の世界「レオナルド」(1971.3.1)タイムライフ・ブック】
Leonardo受胎告知Left(1472頃)Leonardo受胎告知Right(1472頃)
受胎告知(左部) 】                   【 受胎告知(右部) 】1472年ごろの作品
 レオナルドの初期の作品の中で最初に描いたものは、現在フィレンツェのウフィツィ美術館にある『お告げ』である。制作の年代は、聖母マリアが手を置いている朗読台からかなり正確にわかる。この朗読台は、1472年ごろヴェロッキオの工房でつくったもので、現在フィレンツェのサン・ロレンツォ聖堂にあるメディチ家の石棺によく似ている。レオナルドはたぶんこれを見ながら描いたのであろう。この絵は、芸術的にはすぐれたものとはいえないし、その後他の画家が手を加えているが、そのためにいっそうまずいものになってしまった。お告げの天使の翼は、もとは鳥の翼をモデルにした、優雅で天使にふさわしいものだったが、今のはグロテスクなほど大きくなっている。しかし、動きの一瞬をとらえた2人の人物の相互関係や、生き生きとしたエナルギーのあふれる植物や、明るくリアルな中にも何か不思議なものをただよわせたあたりに、レオナルドの好みがよく現れている。
   ※     ※     ※
レオナルドがはじめて全体を描いた作品が『受胎告知』で、1472年ごろの作品とされている。多くの批評家が、この作品をレオナルドのもとするのをためらうほど、構図はぎこちなく、遠近法も不自然である。しかし、20歳か21歳の画家が、はじめて描いた絵が傑作だったら、それは奇跡というべきであろう。この作品には、たとえばグロテスクな天使の翼のように、明らかに他人の手が加えられたとみられる部分もあるが、まぎれもなくレオナルドの手になると証明できる要素が多くふくまれている。着衣は、レオナルドがヴェロッキオの『キリストの洗礼』で描いたものによく似ており、レオナルドの素描のなかにも、この作品の天使の袖のために描いたと思われる習作が1枚残っている。とりわけ、花と樹木のあつかいは単なる装飾の域をでて、しだいにたちこめる夕闇とともに、神の奇跡がおこりつつある感じを描きだす、すばらしい効果をあげている。サー・ケネス・クラークも「灰色の夕空を背にシルエットで描かれた黒い木立は、わたしたちが幼い日に、はじめて身近に感じた自然の美しい詩情を感じさせる」とのべている。前景の花も、ただ適当に空間を埋めているというわけではない。現実にあるままのこういう花を描くのは、当時のイタリアでレオナルドだけであった。いきいきとした生命にあふれる花なのである。
【巨匠の世界「レオナルド」(1971.3.1)タイムライフ・ブック】
Leonardoジネヴラ・デ・ベンチ(1474頃)
ジネヴラ・デ・ベンチ 】1474年ごろの作品
当時、若い婦人は結婚の時に肖像画を描いてもらう習慣があり、ジネヴラは1474年1月に結婚していることから、『ジネヴラ・デ・ベンチ』の肖像画は、1473年から1474年にかけて描かれたものと思われる。この絵は下のほうが切り取られてしまっているが、そこにはおそらく約30年後の『モナ・リザ』と同じ形の両手があったものと思われる。
ジネヴラが冷たい性質の女性だったのか、何かの理由で気の進まない結婚をしいられたのかもしれないが、この絵は陰うつな感じで、さびしい色調があふれている。どうもレオナルドはこの女性を好きではなかったようにも思われる。
ジネヴラの顔の蒼白さは、うしろの植物の暗さと強い対照を示している。この植物は杜松だが、イタリアの方言で「ジネヴラ」と呼ぶところもある。背景は、油彩の上塗りを重ねた薄い霧に覆われており、輪郭が柔らかく形がやさしくなっている。
この効果は「スフマート」つまり「霧煙にぼかされた」と呼ばれるもので、レオナルドの独創ではないが、レオナルドの技術が最も。すぐれている。画面にかかったこの霧を通して見ると、自然や人間の奥底にひそんでいる性格がはっきり現れ、夢幻的なふんいきをかもし出すのである。
 『ジネヴラ』のあと、レオナルドは幼児キリストと聖母マリアの画題に専念する。24歳から28歳、1476年から1480年の間と思われる。レオナルドはこの時期に一連の習作を描いており、一部破損しているが完成している作品や、スケッチのままのものが今も残っている。
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