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Monet(1840-1926)

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モネ1870トルービルのロッシュ・ノワール・ホテ
トルービルのロッシュ・ノワール・ホテル 】1870年
セーヌ川がイギリス海峡にラッパ状の口を開けるあたりに、フランス第二の港、ル・アーブルがある。この絵の舞台となったトルービルという町は、セーヌを挟んでル・アーブルのほぼ対岸に位置している。人口約六千六百人。
 トルービルは、隣町のオンフルール、ドービルなどと並んでパリに近い海辺のリゾートタウンとして発展してきたそういえば、町の感じがわが国の湘南海岸にどこか似ている。夏のシーズンにはレジャー客で大へんなにぎわいになるが、私の訪れたのは秋たけなわのころで、町全体がひっそりとしていた。
 パリで生まれながら、5歳の時からル・アーブルで育ったモネ(1840-1926年)は、生涯を通じて北仏・ノルマンジーの海辺の風景を愛しつづけた。その足跡は、ル・アーブルの郊外のサン・タドレスはじめエトルタ、フェカン、ディエップなど各地にしるされ、数々の風景画の名作がある。
 モネがここに描いたのは、あるホテルの海水浴場に面したテラスの情景である。やや雲の多い空に海からの風にそよぐ旗が、生き生きとしタッチで描かれ、はためく音すら聞こえてきそうな気がする。テラスの上にも、ホテルのバルコニーや窓口にも、そこここに人の姿があって、ひとときを憩うバカンス客たちのさんざめきが波の音にまじって届いてくるようだ。そしてテラス上をくっきりと色分けしている光と影のコントラスト。
 そういえば、陽光の下に画架を持ち出し、最後まで屋外での制作に徹しようとしたその手法と姿勢は、印象派の画家たちの大きな"発明"だった。中でもモネは、一生を通して光を追い続けた最大の画家といっても過言ではないだろう。だからマネの弟子であった女流画家、ベルト・モリゾー(1841-1895)は「モネの絵を見ていると日傘をどちらに向ければよいかがわかる」といい、セザンヌは「モネは日だ。しかも、何という日だ!」という有名な言葉を残した。この快活で明朗な絵には十分にその本領がうかがえると思う。
 ところで、ここに描かれたホテル「ロッシュ・ノワール」は、今も同じ場所に残っていた。テラスやバルコニーにはかっての面影がいくらかうかがえたが、窓という窓はよろい戸がおろされ、絵にあった陽気な人々がのぞくはずもない。ホテルから今は、別荘風マンションに様変わりし、管理のおばさんが一人留守番をしていた。広々としたロビーの、両壁面一杯に、二枚の巨大な鏡が、場違いの感じで今もあって、あわれだった。(竹田博志 日経文化部次長)
モネ1872アルジャントゥーユのレガッタ
アルジャントゥーユのレガッタ 】1872年
「プリマ描き」という言葉がある。「アラ・プリマ」で描くというイタリア語を日本語仕立てにしたもので、フランス人でさえも「アラ・プリマ」とそっくりそのまま使っている。プリマは「最初の」という意味である。
 要するに画家が筆をおろしたなりに描きあげて、仕上げのために塗り加えたりしないで、いっぺんに絵を描いてしまうやりかたのことである。一発勝負といえば、そういえないこともない。
 モネはこの絵をセーヌ川に浮べたボートの上から描いているようだ。ゆれるボートの上で、すばやく描く。風をうけた帆が動き、川岸の草むらも風に吹かれてゆれ動く。空までが風をはらみ、ましてセーヌの川面は空や帆や木や草や家を映してさざめく。
 手ごろな幅の平筆で絵の具をすくって横に掃くように、そして跳ぶように、あっというまに水の反映が描き出されている。帆柱や杭がゆらゆらとゆらめき、白い帆の投影が切れ切れに川面にうつる。帆の影の中を風が吹きぬけたかのように、あるいは明るい音色のアルペジオ(分散和音)のように、光りがひらめいている。
 空には明るさのほか何もないが、その明るい空が地上にもたらしてくれる豊かな光彩を、下半分のセーヌの川面がにぎやかに放射している。木立の影が点々と沈む。別荘のシルエットがちりぢりに波間にひろがる。人の影が水の中でゆれる。
 なにもかも、鮮やかに光を放っていて、モネはその瞬間の輝きをとらえようとして、夢中になる。跳ぶような筆の勢いが、そのころの絵に共通してみえる「クロード・モネ」というサインの字体にまで及んでいるようだ。ためらうことのない運筆は、モネの個性そのものである。
移ろいゆき自然の光彩をとらえるのに、鋭いまなざしも必要だが、モネのこの絵にみるような「プリマ描き」の果敢さも見逃せない。筆触(トゥーシュ)のことをフランス語で「クー・ド・パンソー」ともいう。「クー」というのは「一打」といった意味なのだが、強壮なモネの筆は「一筆」といったほうがいい。その筆と筆との間に輝きがある。
 光りと風が画面に満ちあふれる。実体にことよせて絵を描きながら、モネが描き上げたのは、手ではつかめない光りと風であった。モネが描きだしたものが「印象」であることは、間違いのない事実であった。やがて「印象にすぎない」と批判される新しい芸術が、もう生まれていたのである。(黒江光彦 美術史家)
モネ1873昼食
昼食 】1873年
若いうちは、なかなか暮らし方が定まらないから転居が多いものである。モネの場合はそれに1870年の普仏戦争を逃れてロンドンやオランダに出向いていたという事情も加わった。そのモネがようやく見つけた定住の地がアルジャントゥーユであった。1871年の暮れに、セーヌ河畔のこの小さな町に借りた家に妻のカミーユと息子のジャンを連れてやってきてから、1878年1月まで住み着いた。
 ここでモネ一家はしあわせな日々を送ることができた。最後は家賃をためて、セーヌのもっと下流のヴェトゥーユに移ることになったとはいえ、三十歳代前半のモネは意欲にあふれて、印象主義の黄金の日々を築き上げるのである。
 この町について当時のジャーナリストは「花、大きな樹々、そして微風。それはあらゆるものを忘れさせるに十分ではないか。」と書いている。やがて印象派展に対して投げられる嘲笑や悪口も、花に囲まれた生活のお陰で、耐えることができたのであろう。アルジャントゥーユの光彩は、モネの生活と芸術の源泉であった。
 この「昼食」にも、豊かな暮らしぶりが色濃く描き出されている。田園生活の惠がそこにある。無心に遊ぶ子供、小ぎれいに装うご婦人たち、果物とパンとお茶、白いテーブルクロス、パラソルとリボンで飾られた帽子。それらが花壇のなかに点在する。
 静けさと明るさと暖かさに満ちあふれた庭の情景。食べ終えて人の立ち去った食卓を前にしてさえも、モネは心をはずませて絵に描いたのである。枝をひろげた木の葉をもれる光のさざめく前景と、奥の日陰になった家との間に、昼の日をいっぱいに浴びた小径と花園が輝いている。濃い短い影が、鮮やかな色彩の下に点ぜられると、真昼の日の高さが即座にわかってしまう。
 誰もテーブルについていない「昼食」の情景でさえもが、楽しげな絵になっている。モネにとっては、太陽の位置を示すために必要な「昼」という言葉であったのかもしれない。テーブルに人がいないことの方が画家にとっては重要であったともいえる。背景としての庭ではなくて、主役が庭で、人物の方が添景のほうにまわっている。もっと正確にいえば、主役は光りと光彩なのである。
 影のなかにも色彩があり、白い布の上にも諧調がゆらめいている。(黒江光彦 美術評論家)
モネ1873けし畑
けし畑 】1873年
モネ1877サン・ラザール駅
サン・ラザール駅 】1877年
パリ市内にある鉄道の駅はすべて「終着駅」である。つまり、それらの駅はフランス国内の他の地域やヨーロッパの都市とパリを結ぶ鉄道の路線の終着地点であり、同時に出発地点でもある。だから駅舎の構造も、事務所やチケット売り場や待合室やレストランなどのある建物と、汽車が発着し乗降客が乗り降りするプラットフォームとに分かれている。
 パリとアルヒャントゥイユのあいだに最初に鉄道が敷設されたのは、ルイ・フィリップ時代の1837年のことである。サン・ラザール駅はその終着駅として建設された。ナポレオン三世時代になると鉄道網はさらに拡張され、駅舎もより大規模になる。ナポレオン三世は都市としてのパリの近代化にも力をいれたので、駅は近代都市パリを象徴するモニュマンの一つになった。
 近代都市風俗のなかで特権的な位置をしめることになった駅は、ゾラやデュランティなどの自然主義文学者たちばかりでなく、彼らが擁護した印象派の画家たちの大いなる興味の対象になった。マネは1873年にサン・ラザール駅を背景にした人物像を制作し、翌74年のサロン(官展)に応募して入選している。
 1870年代のモネは財政的な理由もあってパリ市内には住めなかった。おもにアルジャントゥイユに滞在しながら、鉄道でパリにでかけていた。
モネが1877年1月にサン・ラザール駅構内での制作の許可を得たのは、自分とパリとのきずなを確かめようとしたためかもしれない。四月までの間に七点ほどの作品を描き、その年に開催した三回目の印象派展に出品した。そのうちの六点は二点ずつの対作品として構想されたらしい。
 オルセー美術館に展示されているこの作品は、ハーバード大学のフォッグ美術館所蔵の作品と対をなしている。両作品はほぼ同じ視点から描かれているが、技法と構図の点で違いもみられる。フォッグ美術館の作品が暗い色調で素早いタッチで描かれているのに対し、オルセー美術館の作品は明るい色調で綿密に描かれている。
 前者は、到着したばかりの機関車が吐き出す煙が画面に動きを生み出している。後者の画面は明るい陽光に満たされて古典的な落ち着きをみせている。こうした対比は後年のモネの連作を予想させる。
 しかし他方でモネは、サロンの基準にかなう完成した技法の作品も印象派風の軽快な筆触による作品も、同時に制作できるということを示したかったのではないだろうか。(島田紀夫 実践女子大学教授)
モントロケイユ街1878年6月30日の祭
モントロケイユ街1878年6月30日の祭 】1878年
各階に飾られた三色旗が風にはためき、街路は人並みに埋まっている。色彩のあざやかさ、風と光りが、絵を見る人の心までざわめかせる。1878年発行の有名な美術雑誌『ガゼット・デ・ボザール』で、ある評論家がモネを「とりわけて印象主義者」と評しているが、文字通り、ある祝日の印象がここにあり、しかもその印象が不朽のものとなっている。
 1878年6月30日、この日の前夜からパリは沸き立っていた。6月30日にパリ万国博が開会し、時の大統領マクオンはこの日は国家祭日とし、当局は、各戸に旗を掲げ夜は光を灯すことを求めた。普仏戦争やその後の政治的、経済的な不安定のため、パリは1869年以来、十年近く祝日をもたなかったのだから、人々が久しぶりに楽しんだのも当然である。
翌年には大統領も替わり、共和制も安定してゆき、7月14日が国家祭日とされ、いわゆる「パリ祭」が発足するのだが、6月30日の祝日は、いわば、「パリ祭」の先取りだったのである。
この日、モネは、朝の新聞のすすめに従ってパリの町を画材一式を携えて歩いた。新聞は、レアル地区近くの古い街区の散歩をすすめたのである。街路のいくつかは、この日ばかりは馬車の通行を禁止されていたし、このあたりの古い町には織物業者たちが密集していたため、旗飾りも見事なものになるはずだったからである。
モネは町を歩き、ある家のバルコニーに目をとめてその場所を貸してもらうよう交渉し、そこでこの作品を描いた。もう一点、同じような旗のある街を、モネはサン・ドニ街で描いているが、二点とも完全な仕上げまでにはいかなかったにしろ、六月三十日中には大半は描かれたに違いない。モネは描き終わったあと、「そっと、自分の名は告げずにバルコニーから降りた」と、後に、ある収集家に語っている。しかし、当時の一般の人たちが、仮にモネが名乗っていたところで知っているはずはなかった。
ところで、モネの感性は、ここで、色と光の動きにひたすら向かっているが、しかし、その視覚が同時におそらくは無意識に、やはり重要なこともとらえていることを指摘しなければならない。群集が描かれている事、そして、成長する市民社会にすべての希望があった十九世紀には、群集こそその象徴だったということである。そして、共和制の旗印である三色旗のはためく旗日もまた、市民社会の象徴であった。モネがその市民社会に裏切られるかのように孤独な画境に向かうのは、その後間もなくである。(中山公男 美術史家)
モネ1880ぶどうとりんごとなしのある静物
ぶどうとりんごとなしのある静物 】1880年
人にはしばしばポーズというものがある。クロード・モネ(1840~1926年)の場合には、もっぱら戸外で描く画家という評判を気にして、そう立ちふるまう。「近代生活」誌のインタビュアーのアトリエを見せてくれという申し出に対して、モネは「僕のアトリエだって? ぼくはアトリエなんてもっていませんよ、部屋に閉じこもるなんて、ぼくには理解できません。」と、答え、そしてセーヌ川やベトゥーユの丘や村を大きな身振りで指し示しながら、「ほら、ぼくのアトリエですよ」といったという。
 このアトリエ紹介をキザとみるか粋(いき)とみるかは、人それぞれの意見に分かれるところであろうが、少なくともモネが世間に知られた”レッテル”や”神話”に気を配ってやったサービスとして、心にとめてよかろう。これは”大きな真実”が”小さなウソ”をのみ込んでしまって、モネの芸術の本質をクローズアップしてくれるエピソードでもある。
 1879年9月5日、モネは妻カミーユを亡くした。死の床の妻を描いた絵はいまパリの印象派美術館の壁に飾られている。その死の悲しみを耐えるためであるかのように、その年の秋には静物画が盛んに描かれている。もちろん死の床があったと同じベトゥーユに借りた家の一室をアトリエにして・・・。千々に乱れる心を鎮めるために、目と手の人モネは描くしかなかったといえるのだろうか。こうして静物画は、モネのたしかなレパートリーとなってくる。
 ひときわ厳しい冬に「解氷」のシリーズを描きあげたのちにめぐってきた1880年の春には、モネは”解脱”をみせている。明るさがよみがえり、「近代生活」誌社主催の展覧会にも成功する。同誌の記者へのキザなポーズもとれるまでに気力は充実してきた。
 カミーユとの間にできた二人の息子の肖像画を描いてやる心のゆとりもできた。ベトゥーユの村やセーヌの中洲の上に輝く陽光をとらえる筆触も、活気を取り戻してきている。真夏のひまわりが卓上にならべられ、秋草が河畔の草原から摘みとられ、初秋の味覚が白いテーブル掛けを華やがせる。川の面を吹きわたす風が、木や草をそよがせ、開け放った窓からテーブルの上にも流れる。風が光を運び込んできたかとみまごうばかりの、華やかな筆勢である。部屋の内も外もない、光に敏感な画家が思う存分に描き上げた世界である。(黒江光彦 美術史家)
モネ1881ひまわり
ひまわり 】1881年
一瞬の光りの相を求め、光りによる色の輝き、ひびきあいを求める印象派――特にモネにとって、風景こそ生涯のモチーフであり、その政制作の大部分を屋外にテーマを求めている。もちろん、人物も静物も描かなかったのではない。特に初期においては、室内の人物にしても、例の有名な、カミュー夫人に日本の打ち掛けを着せた「ラ・ジャポネーズ」(ボストン美術館)をはじめ、何点か数えられる。
 しかし、彼は風景画家である。自然の風景を描くモネにとって、花もまた無縁ではない・・・・・・どころか、花に熱中もする。咲きほこる花園の風景、野に咲く季節の花、花畑等々は、彼の絵画の大事なモチーフである。だが、それらの多くは風景としての花である。屋外の花である。静物としての花、室内での花は、それほど多くない。それも、ある時期に――1870年ころから80年代のはじめに比較的集中している。
 既に、意を同じくする同志たちとともに印象派展を開始(1874年から)しているとは言え、1870年代の後半は、モネにとっても貧乏のどん底であった、そのさなか、1879年に妻のカミーユの死である。
 この前後、なぜか、花や果実の静物画が目につく。手元の画集を開いてみても、1878年の「菊」をはじめ、妻の死の翌年1880年には、果実を描いた静物三点、花の静物に点、キジを描いた静物一点、そして81年には花の静物三点・・・・・・。メトロポリタン美術館の「ひまわり」は、その81年作の一点である。しかも、上記作品中のもっと出色の一作と言えよう。
 この年、モネ41歳。ようやく成熟した印象派的タッチによる豊かな表情と、装飾的効果を十分に意識した色彩のハーモニーも美しい。ひまわりという花が、妻を失い、貧乏の中にいるモネの目と心に、どのように共鳴したか・・・。私の知る限り、前年の80年にも、このメトロポリタンの作品に似た一作を描いている。
 さて、ひまわり、となると、だれしもゴッホの「ひまわり」を連想すれであろう。太陽を求め、明るさを渇望するゴッホは、既にその意識以前から、ひまわりを描く。ひまわりは、まさにゴッホの花であり、その花に託した自画像とも言える。そのゴッホのアルル時代の作品と、モネのこの「ひまわり」を比較するき(二人にスタイルの相違を超えて)ひたすらに自己に没入するゴッホに対し、色彩の科学のなかに詩情を求めるモネの知性を思うのである。どちらがいいというのではない、ともに見事な自己発現である。(嘉門安雄 美術評論家)
モネ1899睡蓮の池,緑のハーモニー
睡蓮の池、緑のハーモニー 】1899年
ジヴェルニーに住み着いたモネが、庭をつくり花を育てたことは、よくしられている。
 アトリエを増築してもなお余りある広大な庭ではあるが、それにあき足らずに、当時庭の南側を通っていた鉄道線路の向こう側にも、小さな池のある土地を買い入れて自分の庭にした。
 池を広げて睡蓮(すいれん)を植え、岸には柳やバラを植えた。
 睡蓮は、そのころ、フランスでようやく品種改良されて普及しはじめていたのだが、ジヴェルニーの周辺ではまだ珍しく、土地の人々は、引き水から流れ出る水を飲む牧草地の牛や、畑の作物に悪い影響があるのではないかと不安がり、モネや庭師は、その対応に頭を痛めたりもした。
睡蓮はオリエントの感性を持っている。印象派の画家達に共通する日本趣味に加えて、世紀末から二十世紀前葉を生きた晩年のモネは、世間の美的趣味を敏感に受けとめていたといえる。
 柳も水面に垂れて幽玄であり、池の端に架けた日本風の太鼓橋は、モネの東洋趣味をこれ以上に明確に示すものはないといっても過言ではない。
こうしたモチーフや"舞台装置"によって、モネは印象派の最後の仕事を展開した。「水の庭」の光と色彩の変容を描き続けていくのである。
 蓮の花や太鼓橋や、柳の枝や藤づるの風になびく姿を描きながら――たしかに最初は、そのような対象の姿形を追い求めることに関心を示してはいるものの――、絵筆ですくいとっていたのは、光の反映であり色彩の変幻であった。
 この作品の題名は、「睡蓮の池」であるが、それと同時に、「緑のハーモニー」である。「バラ色のハーモニー」という作品もあって、ほとんど前者と同じ構図を、別の色彩設計で描いている。副題は、さりげなく、単純にそれらを区別するだけのために添えられたにすぎないのかも知れない。けれども「緑」といい、「バラ色」といい、その区別そのものが、印象派の画法の命題だということは言うまでもない。
 太鼓橋や睡蓮の水を描きながら、それらの表層に漂う光の戯れに、モネはひかれている。季節や時刻や天候の与える光の様態をモネはまるで音楽の調性のように、色や"モード"として画面に定着させるのである。(黒江光彦 美術史家)
モネ1908ヴェネツィア・パラッツォ・ムーラ
ヴェネツィア・パラッツォ・ムーラ 】1908年
パリの西北、六十キロ余りのセーヌ川近くの小村ジヴェルニーに居を構えたモネが睡蓮とその水辺の風景の連作を開始したのは1900年前後のことである。彼はそこで、八十六歳の生涯を終えるまで、おびただしい数の「睡蓮」の制作を重ねることで自らの晩年を埋めつくしたのであった。したがって、モネを「睡蓮の画家」と呼ぶことに誰も異論はあるまい。
 しかし、その生涯を通して見れば、モネほど様々な主題による連作を繰り返してきた画家も珍しいのではないだろうか。
 「ポプラ」「積藁(つみわら)」「ルーアン聖堂」等はおのおの同一主題が役二十点余り繰り返され、「ロンドン」風景に至っては百点近くになると思われる。この「ヴェネツィア」風景も二十九点が数えられるという。
 光りの画家は、同一のモチーフに向かい合って、千変万化する光りの移ろいを納得いくまで楽しんだに違いない。同時に、それは、心からひかれる主題に出会ったモネのあくことのない自己確認の作業であり、驚嘆すべき集中力の堆積でもあったのである。
 一方、モネの「連作」は、一点一点を突きぬけて連続的に展開する創作的行為そのものこそが大切だという。私たち制作者に対するメッセージでもある。
 モネが、二度目の妻を伴って初めてヴェネツィアを訪れたのは六十八歳のときである。友人への手紙で「もっと若くて思い切った事ができる時に、ここへ来なかったのは誠に残念だ。」と書いている。
 こうしてヴェネツィアでの連作は始められた。光にゆらめく水面と、ゴシック風な窓に飾られた宮殿の壁との対比構成は、遠景があり、さらに遠く空があるという伝統的な風景画構成ではない。1890年代を境に、それまで、距離を保って自然と対峙してきたモネは、次第にその距離をせばめ、晩年の睡蓮に至って、東洋への接近を思わせるほど、ほとんど対象のなかに浸りきってしまったかのように見える。この作品はその中間の位置を占める作品である。
 平面と立面の、水平と垂直の、水と固体との対比は、優しく繊細な青紫色の光と大気に包まれている。溶融せんばかりの世界は、中央の船着き場の入り口とゴンドラの暗色によって、かろうじて引き止められているが、暖色と寒色が織りなす色彩のハーモニーの美しさに私は言葉を失うばかりである。
 しかし、私たちは、美しい色を語るとき、美しい色を美しく見せている建物の暗部や波間に透けて見える渋く、地味な色の、かくし味のような役割も見落とすわけにはいかない。(入江観 洋画家)
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引用文献:巨匠の世界「ファン・ゴッホ」タイムライフブックス
     日本経済新聞「美の美」(別刷り)



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