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「水戸のご老公」こと、黄門様の徳川光圀がまさに隠居していた場所が、「西山御殿」(西山荘)です。西山荘は水戸城から北へ約20㎞行った常陸太田市にあり、人里離れたひっそりとした場所に建っていました。表門のような門構えですが、通用門だそうです。表門である「突上御門」は、逆に質素な造りになっていました。城郭でいうならば、ここが大手門です。徳川光圀の居宅も質素な造りで、とても徳川御三家の藩主の居宅とは思えないほどでした。徳川光圀の当時の住居は1817年に火災で焼失してしまい、現在の建物は1819年に水戸藩によって再建されたものです。徳川光圀の偉業の1つに「大日本史」の編纂がありますが、隠居後もこの西山荘で編纂作業を続け、ここで一応の完成となりました。やはり徳川光圀と言えば、「水戸黄門漫遊記」があまりにも有名かと思います。実際の黄門様は水戸城と水戸藩の江戸藩邸(小石川後楽園)を往復するくらいで、全国各地を巡ったわけではないようです。(藩の執務に忙殺されて、とてもそんな余裕はなかったかと思います)それでも「大日本史」の編纂にあたっては、家臣たちは史料を集めるため、各地を巡ったと言います。その家臣の中には、佐々介三郎宗淳(助さんのモデル)と、安積澹泊(覚兵衛、格さんのモデル)がいました。水戸城の三の丸、JR水戸駅前に建つ御一行の像「助さん」こと佐々木助三郎のモデルとなった佐々介三郎宗淳は、「ご老公」の隠居後も徳川光圀のすぐそばで暮らしていたようです。佐々宗淳(助さん)の居宅跡「水戸黄門」の名君ぶりはテレビドラマで全国区で有名ですが、実際の徳川光圀も常陸国(茨城県)では「義公」と呼ばれ、名君として称えられています。「徳川御三家」である水戸藩の藩主を退いて隠居の身となった徳川光圀は、一領民として水田を耕し、年貢米を納めていたそうです。徳川光圀の水田「ご前田」「水戸黄門漫遊記」が世に広まったのは幕末の時代で、ちょうど徳川斉昭が水戸藩主だった頃だと思います。徳川光圀が「義公」ならば、徳川斉昭は「烈公」として称えられ、常盤神社にはその義公と烈公が祀られています。(徳川斉昭も庶民的な藩主で、「偕(みな)と共に楽しむ」の「偕楽園」を造園し、身分を問わず一般開放した人でした)庶民派の徳川斉昭に、かつての庶民派である徳川光圀をオーバーラップさせて、「水戸黄門漫遊記」が生まれたのかも知れません。ところで、西山荘は紅葉スポットとしても知られており、実は紅葉がメインで訪れた場所でした。
2018/11/17
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茨城県下妻市にある下妻城は、現在では多賀谷城と呼ばれ、かつての本丸跡が「多賀谷城跡公園」として整備されています。多賀谷城跡公園市街地化された城跡公園によくある話で、普通に公園です。多賀谷城の別名にあるように、下妻城は7代147年にわたる多賀谷氏の本拠地でした。本丸には多賀谷氏の旧家臣の子孫たちによって建てられた城跡碑があります。城跡碑本丸は土塁のようになっていますが、あまりにきれいに整形されているので、おそらく後世になって造られたものだと思います。多賀谷氏の最盛期は20万石を領有しており、主筋である結城氏もはるかに上回る領地だったそうです。現地にはかつての縄張図があり、城郭も天然の沼を要害とした大規模なものだったと思います。下妻城の縄張図公園のところどころに少し高くなった場所があり、かつての土塁の跡のようにも見えますが、遺構かどうかはわかりませんでした。戦国時代の茨城県南部には、多賀谷氏に限らず独立心旺盛な武将が多くいました。これも平将門以来の流れを汲んでいるのかも知れませんが、セミの鳴き声が止まない緑地の中で、ふと遠い戦国時代に思いを馳せたりしていました。下妻城は多賀谷氏の初代多賀谷氏家によって築城されたとあり、15世紀の半ば頃だと思います。すでに関東では戦国時代に突入しつつあって、結城氏などの反室町幕府勢力による永享の乱や結城合戦が勃発した頃でした。結城氏の重臣であった多賀谷氏も、その結城合戦では結城氏と共に室町幕府軍と戦っていましたが、この時は反幕府軍の敗北に終わりました。ちなみに反幕府軍には里見氏初代の里見義実がおり、曲亭馬琴の「南総里見八犬伝」では里見義実が安房白浜に落ち延びるところから物語が始まります。本格的に戦国時代に突入すると、多賀谷氏も佐竹氏と共に、北条氏の関東制覇に抵抗してきました。1590年の豊臣秀吉による小田原征伐では、第7代多賀谷重経は佐竹義宣と行動を共にし、「のぼうの城」の忍城の攻撃に参加しています。この時の忍城攻めの総大将は石田三成で、この時の縁なのか佐竹義宣への義理なのかどうかはわかりませんが、関ヶ原の戦いでは徳川家康の誘いに乗らず、参戦もしませんでした。結局は石田三成の味方をしたとの理由で、多賀谷氏は下妻城から追放され、下妻城も廃城となっています。佐竹義宣秀吉が頼り、家康が怖れた北関東の義将【電子書籍】[ 近衛龍春 ]
2018/08/31
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幕末の水戸藩で、外国船の襲来に備えて築城されたのが、助川海防城です。城郭それぞれに築城の目的はありますが、海防を目的として築かれた城郭は珍しいかと思います。本丸表門と城跡碑石垣は後世に築かれたものかも知れません。普通の平山城と同じように山の斜面を平らに削って、幾重にも曲輪が築かれていました。本丸土塁跡だと思われますが、帯曲輪のような削平地が見られます。本丸には御殿の他、遠見番所なども建っていたようです。本丸跡本丸の遠見番所跡ここから太平洋沿岸を見張っていたのかと思います。本丸直下にある二の丸には、家臣の子弟の教育機関として、「養正館」があったようです。養正館跡水戸藩の藩校である弘道館よりも前に造られたぞうで、水戸藩の教育熱の高さがわかるような気がします。尊王攘夷の急先鋒である水戸藩主徳川斉昭は、率先して海防の重要性を説いており、外国船の来襲に備えて築いたのが助川海防城です。本丸に建つ尊王攘夷の碑天下に先駆けて築かれた助川海防城ですが、結局外国船の来襲を受けることはありませんでした。挙句の果てには、幕末の水戸藩の内乱により焼失してしまったそうです。
2018/07/07
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近代的な原子力関連施設が建ち並び、「村」の名称とのギャップを感じるのが茨城県東海村です。その海岸通りから少し内陸に入ると、中世的な石神城の城跡があります。石神城は遠見城(Ⅰ郭)、御城(Ⅱ郭)、Ⅲ郭から成る連郭式で、現在はⅡ郭とⅢ郭の遺構が残っていました。石神城Ⅲ郭の虎口空堀と土橋が残っています。Ⅲ郭の空堀跡深く掘られた空堀がはっきりと残っています。Ⅲ郭の曲輪跡雨上がりの木々の下を歩いたので、レンズに水滴がついてしまいました。Ⅲ郭とⅡ郭(御城)の間には喰い違い虎口があり、空堀に土橋が架けられていました。Ⅱ郭虎口Ⅱ郭の曲輪石神城の中で最大面積であり、実質的な本丸機能だったかも知れません。Ⅱ郭の空堀実戦を経験した城郭の中で、ここまで遺構が残っているのは素晴らしいと思います。石神城が歴史に登場するのは1432年の「石神合戦」で、小野崎越前三郎が石神城を攻略し、鎌倉公方足利持氏より感状を与えられたとの記録があるようです。その後石神城は小野崎氏の居城となり、小野崎氏は佐竹氏に従っていました。ところがこの小野崎氏も、石神小野崎氏と額田小野崎氏に分かれて互いに争い始めました。1535年には石神小野崎氏が佐竹氏に謀叛を起こし、額田小野崎氏が鎮圧するという騒ぎも起こっています。関東では北条氏、東北では伊達氏が勢力を拡大する中、「石神合戦」は何ともローカルな争いだと思います。石神小野崎氏と額田小野崎氏はその後も争いを続けていたのですが、結局石神小野崎氏が佐竹氏に従い、本領を安堵されたそうです。その後は佐竹氏が常陸水戸から出羽秋田へ移封されたのに伴い、小野崎氏も転封して石神城も廃城となっています。
2018/06/06
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新羅三郎義光の孫、源昌義(佐竹昌義)を初代とする佐竹氏。戦国時代には、「鬼義重」の第18代佐竹義重が伊達政宗や北条氏政と互角に戦い、第19代の佐竹義宣の時、ついに常陸を制した名門です。その常陸源氏の発祥の地とも言えるのが、常陸太田市(旧久慈郡佐竹村)にある馬坂城です。周囲を耕作地で囲まれた中に馬坂城跡があり、城跡碑と解説板だけが建っていました。城跡碑佐竹氏発祥の地としては、何だか寂しい気がします。現地にある縄張図「御城」と呼ばれる本丸跡本丸の周囲をめぐってみると、わずかに空堀跡が残っていました。本丸北側の空堀跡建物の敷地として利用されています。本丸南側の空堀跡こちらは耕作地になっていました。新羅三郎義光の孫である源昌義が、この地に永住して本拠地としたのが馬坂城でした。源昌義が祈願所としていたのが佐竹寺で、馬坂城から700mほど行った場所にあります。佐竹寺仁王門佐竹寺は当初観音寺と呼ばれていましたが、源昌義が境内に節が一つしかない竹を見つけ、これを瑞兆として以後は佐竹氏を名乗るようになりました。佐竹寺は1543年に戦火で焼失しますが、1546年に佐竹氏第17代の佐竹義昭によって、再建されました。佐竹寺本堂(国指定重要文化財)佐竹氏は第2代の佐竹隆義の時に本拠地を太田城に移したため、以後馬坂城には佐竹氏の一族の居城となっていました。関ヶ原の戦い後の1602年、佐竹氏が国替えによって水戸城から出羽久保田城に本拠地を移すと、馬坂城も廃城となっています。佐竹義宣秀吉が頼り、家康が怖れた北関東の義将【電子書籍】[ 近衛龍春 ]佐竹義重伊達も北条も怖れた常陸の戦国大名【電子書籍】[ 近衛龍春 ]
2018/06/05
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ゴールデンウィーク期間中の話ですが、つつじ祭りで有名な茨城県笠間市へ行ってきました。向かった先は、つつじ祭りの会場となっているつつじ公園のさらに先、笠間城です。笠間城大手門跡石垣と桝形の跡がわずかに残っています。大手門の先には石段があり、本丸の玄関門へと続いていました。本丸玄関門跡前回笠間城を訪れた時、この辺りで大の苦手なヘビに遭遇したので、やむなく撤退した経緯があります。したがって本丸から先に入るのは、今回が初めてです。本丸周囲には土塁の跡が残っており、現地にある絵地図を見ると、土塁上には土塀が巡らされていたようです。本丸南側の土塁上には、かつて八幡櫓が建っていました。八幡櫓の跡本丸のさらに先には天守曲輪があり、本丸との間には堀切が残っていました。堀切跡絵図を見ると、かつては木橋が架けられていたようです。笠間城の天守台は、東日本大震災の地震で石垣が崩落してしまったため、一部立ち入りが制限されています。天守台の石垣天守曲輪に鎮座する佐志能神社は、笠間城の築城前からここに祀られていた神社です。佐志能神社笠間城の築城は鎌倉時代の1219年に開始され、1235年に完成したと伝えられています。当時は三白寺と徳蔵寺の僧兵が争っており、これを制圧した宇都宮時朝(宇都宮頼綱の甥)によって築城されました。宇都宮時朝は笠間氏を名乗り、以後は1590年の豊臣秀吉による小田原攻めまで、代々笠間氏の本拠地となっていました。江戸時代に入ると笠間藩が置かれ、笠間城も近世城郭へと改築されました。また、現在の山麓公園に下屋敷が置かれ、政務の中心は笠間城から下屋敷に移っています。日本城郭協会「続日本100名城」
2018/05/25
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守谷城を訪れるのは2回目で、前回訪れたのは10年以上前のことです。TXの守谷駅周辺は随分と様変わりしており、発展している街の勢いを感じました。そんな中、守谷城址公園の周辺はあまり変わっておらず、自然が豊かな原風景を留めていました。守谷城遠景守谷城は鎌倉時代に造られた「守谷本城」と、戦国期に造られた「守谷城」に分かれており、守谷城址公園には中世の「守谷本城」の遺構が残っています。土塁と空堀の跡旧本丸の周囲に巡らされた土塁と空堀だと思われます。空堀の先には、曲輪の跡と思われる削平地がありました。かつての本丸跡だと思います。守谷本城は周囲を沼で囲まれており、水に浮かぶ島のような感じだったと思われます。現地にある縄張図現在は草が生い茂る湿地帯も、かつては沼の水面が広がっていたかも知れません。守谷本城の遺構の中でも、圧巻だったのは本丸と二の丸の間の空堀跡です。後世の北条氏時代に築かれたものだと思われますが、法面の傾斜も堀の深さも見ごたえ十分でした。一旦守谷城址公園を離れ、後世の「守谷城」のあった場所に行ってみると、守谷小学校の隣りの住宅地の中に、土塁が残っていました。土塁と城址碑とゼット守谷城の案内図には「平将門城址」となっていましたが、平将門が築城したという確証はないようです。鎌倉時代には、千葉城主千葉常胤の子、相馬師常が居城としており、約300年以上にわたって相馬氏の居城となっていました。戦国時代に入って北条氏の勢力が下総に及んでくると、相馬氏は城郭の拡張と改修を行って、北条氏の進出に備えていました。しかしながら小田原北条氏と和睦し、北条氏の同盟である古河公方足利義氏に城を明け渡しています。1590年に北条氏が豊臣秀吉に滅ぼされた後は、徳川家康の家臣である菅沼定政が入城しました。その後菅沼氏が出羽上山(山形)に移封になると、守谷城も廃城となっています。
2018/05/12
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霞ヶ浦沿いの国道125号線をドライブしていると、「予科練平和記念館」の看板が見えました。ふと思い当たることがあって、「もしかして」と足を止めてみることにしました。予科練平和記念館あまりにも感慨深くて、受付係の人に「ここは坂井三郎さんのいたところですか?」と尋ねると、ちょっと戸惑ったような表情でした。若い女性の方だったので、「坂井三郎さんを知らないのも無理はないかな」と思っていると、「あの~、坂井三郎さんは、ここにはいませんでした」とのこと。「えっ??」と戸惑ったのは逆に私の方だったのですが、聞けば「ここは予科練でして、坂井三郎さんがいたのは、ソウレン(操縦訓練)の方だったのです」とのことでした。当時の航空写真で説明してもらったところによると、ここにあったのは土浦航空隊で、坂井三郎さんが所属していた霞ヶ浦航空隊は少し離れた高台にあったようです。残念ながら霞ヶ浦航空隊の方はほとんど史跡が残っていないとのことでした。早とちりや早合点が多いのはいつものことながら、入館料も払ったことでもあり、せっかくなので入ってみることにしました。予科練記念館内は撮影禁止だったので展示物についてはご紹介できませんが、客観的かつ中立的に展示がされていたと思います。厳しい訓練と高等な学問を含めた課業の内容もさることながら、食べ盛り遊び盛りの予科練生達の日常生活まで紹介されており、そこからは国家や家族に対する純粋な思いが伝わってきました。ところで霞ヶ浦航空隊の方は、尊敬するエースパイロット坂井三郎さんが、訓練生の時に操縦訓練を行った場所で、「大空のサムライ」にもその時のことが書かれています。坂井三郎さんは世界的にも有名なパイロットですが、あの栄光の功績は技術だけでなく、たゆまない努力と不屈の精神力の賜物だったと思います。兵学校を出ているわけでもなく、そのスタートは海兵団の四等水兵、しかも戦艦に乗艦して砲術を担当していました。(そもそも旧帝国海軍に四等水兵があったことも「大空のサムライ」で知り、最も下からのスタートでした)一念発起して航空学生を目指し、配属された先が霞ヶ浦航空隊でしたが、後の栄光からは想像できないほどの苦労があったようです。「大空のサムライ」では、その高いプロ意識や精神力と共に、チームや同僚に対する熱い思いなどが綴られており、大いに感銘を受けました。(特に部下について言えば、数ある出撃の中で僚機を失ったことは一度もありません)一方で戦争に対しては懐疑的で、敵機を撃墜する重責を負ったエースパイロットの複雑な気持ちなども吐露されています。要人の搭乗するであろうダグラス輸送機に接近した時、窓から母娘が手を振っているのを見て、攻撃を止めて引き返し、「雲の中で敵機を見失った」と報告したことも書かれています。(戦時下では許されない行為でしたが、戦後になってその婦人と再会した時、そのパイロットがあの坂井三郎だと知って、その再会を喜んだそうです)その人間的な魅力あふれる坂井三郎さんの数々のエピソードについては、「大空のサムライ」を一読されることに譲りますが、教官に怒鳴られながら飛んでいた霞ヶ浦の空を、改めて眺めていました。大空のサムライ(上)~死闘の果てに悔いなし大空のサムライ(下)~還らざる零戦隊講談社+α文庫【1000円以上送料無料】大空のサムライ 上/坂井三郎【RCP】講談社+α文庫【1000円以上送料無料】大空のサムライ 下/坂井三郎【RCP】
2013/03/03
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太古より鎮座する神社には、いい“気”が流れているというか、何だか空気が違うと思うのは、それこそ気のせいでしょうか。鹿島神宮の創建は神武天皇即位の紀元前660年とされ、祭神は武甕槌大神(タケミカヅチノオオカミ)で古事記や日本書紀などの日本神話にも登場する神様です。その鹿島神宮は言わずもがなの常陸国一ノ宮、これまで訪れる機会がなくて、ようやくの思いで鹿島に来ました。鹿島の地は現在放映中の塚原卜伝ゆかりの地でもあり、現在放映中の塚原卜伝一色の参道を通って境内入口にやって来ました。境内まで来てみたところ、なんだか他の神社と違った違和感がありました。どうも変だと思っていたら、鳥居がありません。さきの大震災で大鳥居(二の鳥居)が壊れてしまったそうで、現在は再建中とのことでした。それでも由緒ある重要建造物の多くは無事に残されていました。楼門(国指定重要文化財)1634年に初代水戸藩主徳川頼房によって奉納されました。拝殿(国指定重要文化財)本殿と共に徳川秀忠によって奉納されたものです拝殿から先は、天然記念物「鹿島神宮の森」へと入っていきました。鹿島神宮の解説によると、森林では芳香性と殺菌力のあるフィトンチッドという物質が発散されており、癒しや安らぎにつながるとのことです。空気が違うと感じるのは気のせいではなく、科学的な根拠もあるようでした。その鹿島神宮の森の途中には、鹿園があって鹿が飼育されていました。神鹿と言えば奈良の春日大社が有名ですが、元々春日大社は鹿島神宮の武甕槌大神を分霊して創建されたものです。分霊にあたっては神鹿の背に乗せて一年がかりで奈良に運ばれ、現在も江戸川区の鹿骨(ししぼね)の地名などにその跡が残っています。鹿島も元々は香島と書かれており、鹿島となったのは奈良時代のことで、この神鹿に由来するとされています。また鹿島アントラーズのチーム名もアントラー(鹿の角)、神鹿に由来しています。鹿島神宮の森をさらに行くと奥宮があり、元々はここが本殿だったそうです。奥宮関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康が、本殿として奉納しました。奥宮からもさらに森林が続き、その先には「要石」がありました。要石鹿島の大神が降臨したとも、地震を起こす大鯰を鎮める石とも言われ、地中深くまで石が続いているようです。黄門様の徳川光圀はこの要石の周りを掘ってみたそうですが、掘っても穴が埋まってしまい、1週間後に諦めたとのことでした。それにしても鹿島の森を歩いているだけでリフレッシュしているように感じたのですが、やはり気のせいでしょうか。
2013/03/02
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学校が3校も入ってしまうほどの広い二ノ丸を抜け、広くて深い空堀を越えると、水戸城本丸へと続いていきました。本丸も学校が入ってしまうほどの広さがあり、こちらは水戸第一高校の敷地となっています。本丸空堀に架かる橋「県立水戸一高関係者および史跡見学者以外の方の通行はご遠慮下さい」とあります。自分自身はもちろん、親戚中を探しても「県立水戸一高関係者」には当たらないので、「史跡見学者」として通行することにしました。空堀に架かる橋を渡った先には土塁の虎口があり、枡形もはっきりと残っていました。本丸虎口で話し込んでいる人たちがおり、水戸一高の関係者なのか史跡見学者なのかはわかりませんが、少なくとも現役の高校生ではないようです。(それにしても高校の正門が水戸城本丸の虎口とは恐れ入ります)本丸(水戸一高)に入って見ると、本丸の土塁も残っていました。この土塁も佐竹氏時代からの遺構かも知れません。そして水戸一高の正門を入ってすぐのテニスコート脇には、唯一の現存建造物である薬医門が建っていました。元々の位置は諸説あるようですが、本丸の表門だったとされています。建造時期については様式から安土桃山時代と推定されており、佐竹氏の時代に建造されたものを、徳川氏が引き継いだようです。国指定重要文化財(重文)に値するものだと思いますが、水戸市指定建造物だそうです。元々の水戸城は常陸大掾職にあった大掾氏の本拠地であり、平安時代末期の築城とされています。 代々大掾氏(馬場氏)の拠点でありましたが、1416年の上杉禅秀の乱の後で江戸氏に敗北すると、代わって江戸通房が水戸城を奪取し、大掾氏は常陸府中城へと逃れました。 その後は代々江戸氏の本拠地となっていましたが、1590年の小田原の役の時に念願の常陸統一を果たした佐竹義宣が、江戸氏を追って太田城から水戸城に入城しました。 その佐竹氏も56万石を領有する有力大名でした。関ヶ原の戦いでは東軍・西軍いずれにもつかず中立の立場をとったことから、それを徳川家康に咎められ、久保田城(秋田)20万石へ減封されています。 江戸幕府が開かれてからは、徳川家康の子徳川頼房が初代藩主となり、以後は御三家の水戸徳川家の本拠地となりました。徳川家康は遺訓として、「水戸から将軍を出すな」と言っていたそうです。それから260年後、水戸から出た唯一の将軍徳川慶喜によって大政奉還がなされ、水戸藩や徳川幕府のみならず、日本の中世が終わることとなりました。関連の記事水戸城~三ノ丸→こちら水戸城~二ノ丸→こちら弘道館→こちら
2012/12/03
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徳川御三家の水戸城ながら、総石垣造りの近世城郭ではなく、戦国時代の中世城郭の名残を色濃く留めています。佐竹義宣の時代に二ノ丸・三ノ丸が拡張され、徳川氏の時代になっても佐竹氏の城郭を踏襲していました。三ノ丸弘道館前に架かる大手橋佐竹義宣の時代に二ノ丸との間に架けられたものです。三ノ丸と二ノ丸の間の空堀かつての堀底を道路が通るほどの巨大な空堀で、ここも石垣ではなく土塁を掻き揚げたものでした。二ノ丸の大手橋の先には大手門があり、こちらも佐竹義宣によって造られたものです。石垣ではなく土塁で築かれたものですが、枡形の跡がはっきりと残っています。(道路もクランク状に折れ曲がっています)1601年に佐竹義宣によって大手門も築かれていたものの、明治になって取り壊されたそうです。大手門の古写真考えてみれば佐竹氏の本城としては、関ヶ原の戦い後に移封された秋田久保田城に城郭が残っているものの、常陸では太田城が見る影もなくなっています。わずかではありながら、常陸に残る佐竹氏本城の遺構として、貴重なものではないでしょうか。水戸城二ノ丸は小学校・中学校・高校の敷地となっており、水戸第二中学校の駐車場には土塁の跡が残っていました。三ノ丸で場所を尋ねられた水戸第二中学校は大手門を入ったすぐ右側にあり、しかも「大日本史」が編纂された「彰考館」の跡地でもありました。水戸第二中学校水戸第二中学校(彰考館跡)に建つ「大日本史編纂之地」の碑水戸藩第二代藩主徳川光圀が「大日本史」の編纂を始めたのは1657年のことで、その編纂の場所は「歴史をはっきりさせて、これから人の歩む道を考える」ことから、「彰考館」と名付けられました。当初は小石川の水戸藩邸にあったものを、1698年に水戸城に移しています。大日本史の編纂にあたっては、日本に亡命していた明の遺臣朱舜水や、常陸小田城で北畠親房が書いた「神皇正統記」の影響を受けており、幕末の「勤皇」の思想はすでにここに出来上がっていたのかも知れません。徳川光圀もさることながら、大日本史に編纂にあたって、尽力した人がこの人です。安積淡泊「水戸黄門諸国漫遊記」での渥美格之進、格さんのモデルとなった人です。(他にも佐々宗淳がいて、こちらは佐々介三郎、助さんのモデルとなった人です)大日本史の編纂にあたっては諸国の歴史を調べる必要があり、実際に各地を訪ね歩いていたのが安積淡泊(格さん)と佐々宗淳(助さん)などでした。「黄門様ご一行」も歩いた水戸城二ノ丸は、学校が3校も入ってしまうほどの広さがあります。学校のグランドを右や左に見ながら、本丸までずっと道が続いている感じで、現在では文教地区となった二ノ丸跡ではありますが、それでも随所にに当時の遺構が残っていました。二ノ丸御三階櫓跡樹齢約400年の椎の木戦国時代から自生しているとされ、佐竹氏だけでなく、その前の馬場氏の頃に誕生したものかも知れません。杉山門跡坂の向うには那珂川が見えており、当時は船着場があったのかも知れません。普通の城郭ではあり得ないほど広大な二ノ丸を抜けると、さらに空堀があって、その先はいよいよ本丸です。二ノ丸と本丸の間の空堀こちらは堀底に水郡線の線路が通っているほどです。
2012/12/02
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徳川本家の江戸はもちろん、徳川御三家の中でも尾張名古屋や紀伊和歌山に比べて低い家格とされてきたのが水戸徳川家です。それでも水戸徳川家と言えばこの御一行、現代の日本人で知らない人はまずいないかと思います。「助さん、格さん、懲らしめてやりなさい」と言うことで、全国各地で悪を懲らしめていた助さん(モデルは佐々宗淳)と格さん(モデルは安積澹泊)です。真ん中にいるご老公はというと、「格さん、助さん、もうよいでしょう」とか、「それでは格さん、助さん、参りましょうか」など、毎度毎度のことながら格さんと助さんが気の毒になってきます。それにしても不思議なのは、毎度毎度懲らしめられる悪代官や悪徳商人の中で、「はて?幕府に副将軍なんていたっけ??」と誰も思わなかったことでしょうか。その「水戸のご老公」徳川光圀や格さん・助さんの水戸城は、さすがに関東でも屈指の規模を誇る城郭だと思います。これだけの規模を誇るのは江戸時代の江戸城は別格としても、他には北条氏時代の小田原城くらいでしょうか。水戸駅前の交差点普通の道路のように見えますが、三ノ丸と二ノ丸の間の堀底を通っており、背後に見えているのは二ノ丸の土塁です。三ノ丸の西側に回ってみると、現在も空堀の跡が残っていました。三ノ丸の空堀三ノ丸の土塁徳川御三家とは言いながら、総石垣ではなく中世城郭そのままの掻き揚げです。水戸藩に石垣を積む財政的な余裕がなかったとはとても思えず、現に幕府からは「石垣を積みなさい」との命令が出ていたようです。そもそも石垣を積む必要がなかったのか、それとも幕府が命令するから反発して積まなかったのか、いずれにしてもこの辺りに水戸藩の気質を見るような気がします。水戸駅から弘道館へ続く道には、「三の丸歴史ロード」の名前があります。塗籠の土塀が続いていました。三の丸小学校。(入口は冠木門です)三の丸小学校の前を歩いていると車が停まり、「すみませ~ん、水戸二中はどこにあるのでしょうか~?」と、道を尋ねられました。水戸へは何度か訪れていて、「道を尋ねられるほど地元オーラが出るようになったか」とまんざらでもなかったのですが、ここは自信満々に「すみませ~ん、わかりません」と答えるしかありませんでした。後で水戸二中の前を通ってわかったのですが、水戸二中は水戸城の二ノ丸にありました。時代が時代なら、水戸城の三ノ丸で二ノ丸の場所を尋ねられて「それがしは存ぜぬ」などと答えたならば、これはかなりやばい話です。「曲者じゃ!出合え、出合え!」と、大手門の番所から大勢出てきて、弘道館の前あたりで大捕物になっていたかも知れません。その弘道館は三ノ丸の東の端、二ノ丸の大手門とは空堀を隔てた場所にあります。二ノ丸「大手橋」から見た弘道館二ノ丸へ続く「大手橋」ここからは水戸城の二ノ丸、あのお馴染みのオープニングテーマが聞こえてきそうでした。
2012/12/01
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水戸城の三ノ丸も、現在は学校や住宅が並んだ市街地となっていました。往時の堀跡も普通の道路になっています。それでも大手門前にある建物は江戸時代から現存するもので、異彩を放っています。水戸藩の藩校、弘道館です。弘道館が設立されたのは1841年、設立したのは第9代水戸藩主の徳川斉昭(烈公)です。弘道館正門水戸藩に限らず、藩校はほぼ全国各藩で設立されており、19世紀に入ってから設立された藩校が大半です。西洋医学も含めた「蘭学」も教えられながら、文武両道の精神であったことは水戸藩も変わりはありませんでした。水戸の弘道館が全国各藩と違っていたのは、何よりも「水戸学」が教えられていたことです。徳川斉昭が初代総裁に任命したのが会沢正志斎、「尊皇攘夷」思想の生みの親です。「尊皇攘夷」は薩摩・長州を始めとする雄藩の専売特許ではなく、その思想は水戸で生まれたものでした。藤田東湖によって体系化され、その思想は吉田松陰や西郷隆盛などを通じて、後の雄藩に影響を与えています。攘夷に関して言えば、実際に実力を行使したのが薩摩藩(生麦事件と薩英戦争)、長州藩(下関戦争)が有名ですが、水戸藩でも攘夷に対しての実力行使を行っています。勅許なしに条約を締結した大老井伊直弼の暗殺(桜田門外の変)を実行したのが水戸藩士で、徳川斉昭は国防のために助川海防城を築城しています。(もっとも助川海防城の方は外国船が攻めてこなかったので、造っただけで終わりました)弘道館正庁玄関弘道館の印象としてはとにかく広いということで、10万石クラスの大名御殿も凌ぐほどの広さがありました。どうしても松下村塾と比較してしまうのですが、松下村塾とは比較になりません。(もっとも松下村塾は吉田松陰の私塾ではありますが)手前の広場は武芸の稽古場です。文武に励むのが弘道館ならば、余暇を楽しむのが偕楽園でした。改めて弘道館を訪れてみて、幕末の水戸は長州と同じくらいにアツい場所だったことがよくわかりました。それでも水戸藩も幕末の雄藩と同じく、時代の変革期の派閥抗争を経験しています。改革派である天狗党(桜田門外の変の実行部隊)と保守派である諸生党の抗争でした。一度は諸生党(保守派)から追討された天狗党でしたが、戊辰戦争が新政府軍の勝利に終わると立場が逆転、今度は保守派の諸生党が追われることとなりました。諸国を経て諸生党が立ち籠った場所が弘道館で、現在も正庁の玄関には銃撃戦の銃痕が残っています。この辺りは高杉晋作のクーデターに始まる長州藩の幕末と重なるところがありました。
2012/11/22
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偕楽園の門は5つあり、水戸市内に最も近いのが東門で、「偕楽園駅」に近い南門などがポピュラーな入口です。それでも表門は水戸市内からも駅からも遠い北側にあり、ここから入る人はほとんどいないようです。表門をくぐるとさらに木戸があり、意外にも竹林が広がっていました。表門だけでなく、東門にしても南門にしても、同じ公園の入口とは思えないほど、門からの景色が違っています。東門南門偕楽園は都市公園としては日本一の規模があり、世界でもニューヨークのセントラルパークに次いで2番目の規模があるそうです。岡山の後楽園、金沢の兼六園と共に日本三名園の1つに数えられる偕楽園、他にも名園と呼ばれる庭園は数々ありますが、異なっている点が1つありました。偕楽園にあるいずれの門の脇にも料金所がなく、すなわち入園が無料だということです。この理由は偕楽園が造園された当初に遡る必要があるのですが、偕楽園が開園したのは江戸時代の1842年のことで、偕楽園を造園したのは水戸藩第9代藩主の水戸斉昭(烈公)です。「孟子」の一節にある「古の人は民と偕に楽しむ、故に能く楽しむなり」から、「偕(みな)と共に楽しむ」=「偕楽園」と名付けられました。庶民と共に楽しみたいと、身分を問わずに一般開放され、これが今の無料開放につながっています。徳川斉昭直筆による「偕楽園記」の碑偕楽園の名前の由来や創設の理由が記され、学問や武芸を学んだあと、余暇を利用して休息し、心身を養う目的とのことです。さらには徳川斉昭の宇宙観や人生観、そして偕楽園「利用の心得」も記されているようです。やはり偕楽園と言えば梅の木で、徳川斉昭の建てた好文亭も梅に由来しています。「学問に親しめば梅が開き、学問を廃すれば梅が開かなかった」との故事に因み、建築場所から設計まで徳川斉昭が行いました。偕楽園の梅について詠んだ、正岡子規の句碑もありました。「崖急に 梅ことごとく 斜めなり」偕楽園南側の斜面に句碑があります。その南側には梅以外にもさまざまな植林があって、色とりどりに紅葉していました。それでも季節を間違えると、とんだことになっていました。これだけの枯れ木を見たのは初めてです。あと何ヶ月かすれば、梅の花で埋め尽くされることでしょう。
2012/11/21
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天下の水戸城のお膝元に、なんともローカルな城があったものです。住宅の脇にひっそりと城跡碑がありました。さらに奥を探してみると、舗装道ながら細い一本道が続き、傍らには土塁の跡が残っていました。南側を桜川が流れ、現在は緑地公園となっていました。この先は水戸城外堀の役割もあった千波湖、偕楽園へとつながっています。桜川から見た見川城遠景樹林の生い茂る丘陵へは、城址橋と名付けられた橋が架かっていました。城址橋を渡って樹林の中に入ってみたものの、木々に隠れて城郭の遺構は見つけられませんでした。12世紀終わりに水戸城を築いた馬場(大掾)資朝の子である馬場長幹が、この地に住み箕川氏を称したのが見川城の始まりです。後に水戸城を治めた江戸氏の家臣、春秋石見守幹光の居城であったと伝えられています。戦国時代には水戸城の支城として重要な役割を担ったのでしょうが、徳川時代の始まりと共にその役目を終えたのかも知れません。
2012/11/20
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探せば見つからず、あきらめると見つかるのは世の常ですが、河和田城はまさにそんな城跡でした。水戸市の河和田に城郭があったことは知っていたのですが、戦国時代の中世城郭でもあって、丘陵部にある山城をイメージしていました。周辺にはそれらしい丘陵はあるものの、いずれも城跡ではなく、あきらめて帰ろうとしたところ、交通量の多い幹線道路沿いに高い土塁が見えました。どうやら寺院の境内のようですが、寺院にしては堅固な土塁で囲まれている印象です。正面に回ってみると山門の横に河和田城の城跡碑があり、ここが河和田城でした。土塁の外側には堀が巡らされていたようで、その堀跡も残っていました。どうやら平城だったようです。土塁を内側から見た所寺院の土塁にしてはあまりに高く、いかにも城郭らしい雰囲気があります。境内脇の駐車場にも土塁の跡が残っていました。ところで河和田城跡は報佛寺の境内となっています。報佛寺の本堂普通に寺院の境内といったところですが、墓地には空堀の跡がはっきりと残っていました。(場所が場所だけに撮影はしていません)水戸と言えば徳川御三家の水戸藩があまりにも有名ですが、元々水戸を含めて常陸の南部には、平国香の流れを汲む大掾(だいじょう)氏が平安時代から君臨していました。河和田城もその大掾氏の家臣である川和田入道貞国によって築城されています。そんな大掾氏ですが、関東の戦国時代の幕開けとも言える1416年の上杉禅秀の乱で、負け組みの上杉禅秀についたため、常陸南部の領地を没収されることとなりました。代わりに水戸に入ったのが、上杉禅秀の乱で勝ち組の足利持氏についた江戸通房で、水戸城とともに河和田城も江戸氏の配下となりました。(この江戸通房は、まさに現在の東京都心部、武蔵国江戸に土着した江戸太郎の流れを汲んでいます)永らく江戸氏の支配下であったのですが、1590年に豊臣秀吉による小田原の役の時、江戸氏は北条氏についていたため、常陸は秀吉についていた佐竹義宣に与えられることとなりました。この時に江戸氏は佐竹氏に抵抗しましたが、水戸城も落城したために河和田城も廃城となっています。その後の話ではありますが、その佐竹氏も関ヶ原の戦いで石田三成についたため、常陸から出羽秋田に移封となっています。運悪く負け組みについてしまったのが、河和田城の歴史でしょうか。
2012/11/19
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街歩きでは新しい発見があったり、さらに謎が深まったりと、なかなか興味深いものです。水戸のご老公(徳川光圀)を中心に助さん(佐々宗淳)と格さん(安積澹泊)ということで、今回は黄門様ご一行のお膝元、茨城県水戸市を訪れました。三ノ丸歴史ロードを通って弘道館から水戸城、そして常盤神社・偕楽園、さらには佐竹氏以前の馬場氏(大掾氏)の城跡など、あれやこれやと思い巡らせながら探索してみました。水戸へは何度か訪れているのですが、水戸のみならず常陸国(茨城県)はまだまだワンダーランドで、私にとっては何かと謎と不思議の多い場所でもあります。不思議と言えばこちら常盤神社の義烈館で購入してはみたものの、そもそも何に使うものかわからずに持て余してしまいました。試しに人に見せてみると、お約束ではなく条件反射で頭を下げてくれました。何かことが起これば、「えーい、鎮まれ、鎮まれ」と、人に見せるためにあるようです。ところで黄門様の「諸国漫遊記」はフィクションではありますが、実際に徳川光圀が「大日本史」を編纂するにあたって、佐々宗淳(助さん)と安積澹泊(格さん)は各地を訪ね歩いたそうです。それならば「その間ご老公は何をしていたの?」となるのですが、藩政で忙しくてそんな余裕はなかったようです。それでも水戸にずっといたわけでなく、紀行図を見るとそれなりにあちこち行っていたようです。江戸の水戸藩邸(現在の小石川後楽園)、権現様(徳川家康)の日光東照宮、本当に「隠居」していた常陸太田市の西山荘、さらには房総の銚子と、その「諸国」は武蔵・上野・下総の3ヶ国に及んでいます。小石川や日光は出張で行ったのでしょうが、それにしても銚子には何をしに行ったのでしょうか。さらには常陸太田市を隠居地に選んだ理由も謎で、同じ常陸であっても北部は元々佐竹氏の本拠地です。現在でも茨城県は北部と南部では気質が違う気がするのですが、当時はもっと別国のような感じだったことでしょう。「義公」と呼ばれる水戸藩第2代藩主の徳川光圀ですが、いわゆる私生児だったため、その出生も危ぶまれたほどでした。徳川光圀生誕地に建つ祠背後に見えるのは水戸城本丸の土塁で、徳川光圀生誕地が水戸城内でないことを物語っています。(家臣の三木仁兵衛之次の屋敷で生誕しています)それでも武道のみならず文化芸術にも造詣が深く、何よりも庶民的な感覚を持っていたようです。日本で初めてラーメンを食べたのもご老公で、偕楽園では「光圀ラーメン」として復元されています。光圀ラーメン(2008年7月)一度食べれば十分なので、二度目はありません。徳川光圀は「義公」と称され、偕楽園の隣には義公を祀る常盤神社があります。義公鑽仰碑漢文の文字は判読できませんでしたが、解説板に意訳がありました。「世称す。聖人誤って干戈の世に生まれ、剣を堤げて英雄と為る。楠公(楠木正成)是なりと。又云う英雄の資を治平の世に生まれ、百年の師と為り天下の法と為る、義公(徳川光圀)是なりと・・・」いきなり出だしから感銘を受けたのですが、それに続く文を読み進むにあたって、感動しきりでした。(湊川神社にある徳川光圀の顕彰碑の意味が、今になってようやくわかりました)義公(徳川光圀)と並んで称されるのが「烈公」、水戸藩第9代藩主の徳川斉昭です。水戸城三ノ丸の徳川斉昭像実は黄門様の本当のモデルはこの人で、歴史や世間を騒がせながらも「庶民の味方」の代表もこの人です。黄門様の諸国漫遊記が流行ったのは幕末から明治にかけてで、徳川斉昭の失脚後に脚光を浴びてきました。助さん・格さんと共に悪を懲らしめる水戸のご老公こそ、烈公の徳川斉昭だったかもしれません。ところで現在も使われる「御三家」とは尾張・紀伊・水戸の三藩で、ここだけは徳川姓を名乗る別格中の別格でした。将軍の補佐役として、何かあれば尾張か紀伊から将軍を出すことになっており、「暴れん坊将軍」の第8代徳川吉宗以降、第14代までは紀伊の流れを汲む将軍が輩出されました。高校の日本史では江戸幕府将軍の名前を初代から15代まで覚えましたが、世に名前を残したのは徳川家光(第3代)、徳川綱吉(第5代)、徳川吉宗(第8代)、そして徳川慶喜(第15代)くらいでしょうか。徳川家康の遺言として「水戸からは将軍を出すな」と言われたとも、水戸徳川では「もし幕府と朝廷との間に戦が起きたならば躊躇することなく朝廷につけ」との家訓があったとも言われていますが、奇しくも初の水戸藩出身の第15代将軍徳川慶喜が最後の将軍となってしまいました。ちなみに常陸最後の戦国武将は佐竹義宣、字は違っても同じ「よしのぶ」です。(これは偶然でしょうが、あれやこれやと思いが巡るところです)何かと逸材(または奇人)を輩出していた水戸の徳川家にあって、その徳川慶喜の父である徳川斉昭「裂公」も例外ではなかったようです。「義公」徳川光圀と「烈公」徳川斉昭を祭る常盤神社。常盤神社境内にある義烈館実は「尊皇攘夷」は長州藩の専売特許や商標ではなく、元をたどると水戸藩に行き当たります。実際に攘夷を実行したのは長州藩、関門海峡を通過する四国艦隊砲撃がありますが、よくよく考えてみれば、それ以前に桜田門外の変を決行していたのは水戸藩士でした。水戸城下の旧三ノ丸には、「吉田松陰留学の地」もありました。「所変われば…」とはよく言ったもので、長州(山口県)では吉田松陰が「遊学」していたのが水戸であり、水戸に来ると吉田松陰が「留学」していたようです。遊学にしても留学にしても、松陰先生が教えを受けたのが藤田東湖です。常盤神社の横にある藤田東湖の「東湖神社」松陰先生が「留学」していた時の師、藤田東湖を祀る神社です。さらに常陸の歴史を振り返った時、平将門が朝廷に反旗を翻した地であり、南朝の北畠親房が拠って「神皇正統記」を著した場所でもあり、その歴史は長く深いようにも思います。ところで水戸と言えば納豆で、これが大の苦手であり、水戸に対する苦手意識でもあります。(水戸の人に言わせれば、それほど納豆を食べないとのこです)「出された食べ物は残さず食べる」が私の流儀で、クサヤ・ドリアン・臭豆腐にしても、食べられないものはありません。「嫌いなものはあるの?」と聞かれるほど何でも食べる私ですが、納豆に関しては生涯で3粒(1粒×3回)しか食べたことがありません。東日本の旅行先などでは朝食に納豆が出るので、どこで納豆を食べているかわかるほど、納豆には敏感です。3回チャレンジしてもダメだったので、一生無理だと思っています。
2012/11/18
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律令時代の常陸国の政治の中心は、水戸ではなく石岡にありました。現在も石岡市には常陸国府に由来する府中の地名が残り、現在の石岡小学校の敷地が常陸国衙の跡と比定されています。校庭にある常陸国府跡の碑小学校のプール建設工事による発掘調査で掘立式建物や遺跡の跡が出土し、その後の調査でここが国衙跡であることがわかったと言いますから、国府の場所が特定されたのはつい最近のようです。それでもかつて戦国時代には国衙跡に大掾氏や佐竹氏の城郭である常陸府中城があり、江戸時代になると水戸藩の支藩として府中陣屋が置かれていました。いずれも「府中」の名前があるので、この辺りに国府があったことは認識されていたのでしょうが、国府の建物は平将門によって破壊されていました。江戸時代の縄張図石岡小学校の正門脇には土塁が残っていますが、おそらく江戸時代の陣屋のものだと思われます。校庭の片隅には常陸府中藩の陣屋時代の門が移築現存していました。かつての常陸国府と府中城の跡も小学校のグランドに変わっています。それでも小学校の裏手に回ってみると、隣接する常陸国総社宮の間に土塁のようなものがありました。常陸国総社宮総社があることからも常陸国府の存在がうかがえます。律令時代の国司は、任地国の一宮から三宮を始め、国内の全ての神社を参詣する必要がありました。しかしながらそれだけでもかなりの時間と労力を要するので、平安時代になって国内の神社を全て合祀した総社が建立されました。境内にある随神門戦国時代の府中城が佐竹義宣に攻められて落城した際、隋神門は戦火を避けるために移築されていましたが、江戸時代になって本来の地に移築再建されたものです。常陸国総社宮拝殿七五三の準備でしょうか、椅子が並んでいました。常陸の総社なので、ここに参詣すると鹿島神宮を初めとする常陸の神社を全て参詣したことになります。常陸風土記の丘で見た獅子頭も、この総社宮の例大祭です。常陸府中城は南北朝時代に平詮国によって築城され、戦国時代には大掾氏(馬場氏)が居館を置いて本拠地としていました。大掾氏は「常陸大掾」の官職名に由来するもので、戦国時代の武将にあって土着した地名ではなく、官職名を名乗る珍しいケースです。佐竹義宣の常陸統一にあたって府中城も落城し、関ヶ原の戦い後に佐竹義宣が出羽秋田へ移封となるにあたって、府中城も廃城となりました。18世紀になって水戸藩の支藩として府中藩が置かれ、明治に到るまで松平氏の府中藩の陣屋が置かれていました。関連の記事常陸国分寺→こちら
2012/10/15
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「風土記の丘」と呼ばれる公園は各地にありますが、各国の風土記のうち現存しているものは出雲国・常陸国・播磨国・肥前国・豊後国の4ヶ国のみで、完全に現存するのは出雲国風土記のみだそうです。その常陸国の国府があった石岡市にあるのが「常陸風土記の丘」です。入口は長屋門となっており、いきなり時代を錯誤しているような印象でした。移築されたもので、中は売店になっていました。こちらも江戸時代後期の建造物を移築されたもので、蕎麦屋になっています。旧家を抜けて公園内に入ると、今度は貝塚の跡がありました。地蔵窪貝塚跡今度は石器時代に戻ってしまいました。丘陵部の方に目をやると、こちらも古民家風の建物が並んでいるようです。どうも「やってしまった感」が漂っていたのですが、実は中に入ってみてようやく分かりました。風土記の丘では縄文時代から近世に至るまでの各時代の住居が復元されているようです。住居群の入口になっている江戸時代後期の建物入場料が必要なので受付と書かれた場所でお金を払おうとすると、コスプレ大会の受付のようでした。なんとも紛らわしいというか、「なにもここでやらなくても」と思いつつ、中に入っていくと順路は縄文時代から始まっていました。順路の最初は縄文時代、竪穴式住居でした。弥生時代元々は鹿の子遺跡と呼ばれる8世紀末から10世紀にかけての遺跡があったようで、メインは鹿の子遺跡の復元住居となっています。竪穴住居も連房式になりました。柱も建つようになりました。風土記の時代としては、この辺りが近いのかも知れません。遺跡を抜けると再び復元住居群の順路となり、奈良~平安時代の建物から始まっています。鎌倉時代建物内部も当時のままに復元されていました。「まんが日本昔話」に出てきそうな雰囲気です。室町時代になると、現在にも見られる住居に近くなってきました。各時代の住居群が一箇所に並んでいるのは珍しく、これはこれで興味深い比較ができました。さらに先へ進むと、公園広場の先に面妖なものがありました。高さ10メートルの獅子頭で、口の中は人が立って歩けるほどの大きさがあります。関東三大まつりの1つとされる常陸国総社宮大祭の獅子頭を形どったもので、もちろん日本一の大きさだそうです。これより大きな獅子頭が登場すると衝撃ですが、この獅子頭も「日本で二番目」になってしまうので、そうなると獅子頭の目にも涙かも知れません。
2012/10/14
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律令制の下での常陸国は上総国・上野国と並ぶ大国に列せられ、その国府は現在の石岡市にありました。(親王の直轄領であったため、他の大国同様に「常陸守」ではなく、「常陸介」が置かれています)741年の聖武天皇の詔によって全国に建造された国分寺も石岡市にあり、現在は真言宗の寺院として引き継がれています。伽藍配置も変わって、普通の寺院のような感じですが、中門のあった場所には礎石の跡が残っていました。発掘調査によって伽藍の規模も判明し、他の国分寺同様に七重塔を備えた大伽藍だったようです。金堂跡発掘で出土した瓦には平城京羅生門と同じ紋様があり、国分寺建立にあたっては当時の空王政府から瓦工が派遣されて技術指導にあたっていたと推測されています。近世には千手院が置かれ、国分寺のあった石岡市府中の寺院の大半は千手院の末寺でもありました。後に国分寺と合併して廃寺となりましたが、現在も国分寺境内に千手院の山門を残すのみとなっています。
2012/10/13
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「困った時の神頼み」とは言いますが、佐竹氏にとっては困った時の金砂山城だったでしょうか。金砂山城は太田城の詰城のような存在ではあるものの、太田城からは北に約15Kmも行った西金砂山の山頂にあります。この西金砂山のそのものが天然の要害のような感じです。林道のような細い道を登っていくと、山頂付近に「杜の湯」と西金砂神社があり、杜の湯の隣に曲輪の跡がありました。西金砂神社曲輪跡杜の湯側土塁跡のようにも見えますが、遺構かどうかはわかりませんでした。1180年に伊豆蛭ヶ島に流されていた源頼朝が挙兵した時、第3代当主の佐竹秀義は、源頼朝に参陣しませんでした。源頼朝は佐竹氏討伐のために常陸へと攻め込み、佐竹氏も太田城から金砂山城に籠城して応戦、激しい攻防戦が展開されたものの、最後は内応によって落城しています。源頼朝もはるばるここまで追討してくるとは、恐ろしい執念です。時代は下って鎌倉幕府滅亡後の南北朝時代、佐竹氏は足利尊氏の北朝方についたため、南朝方の北畠親房や瓜連城の楠木正家との間で戦いとなりました。この時も太田城から金砂山城に移って籠城し、南朝方を打ち破っています。そして1490年、佐竹義舜が一族の山入との内紛によって太田城を追われ、この時も金砂山城に立て籠もって抗戦しました。籠城戦の末に形成は佐竹氏に有利となり、後には本拠地である太田城を奪還しています。三度の危機を金砂山城の籠城戦で有利に戦い抜いたことから、以後金砂山は佐竹氏開運の山として西金砂神社と共に崇敬されてきました。
2012/10/12
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常陸太田の市内に入ってくると、中心部には「鯨ヶ丘」と呼ばれる小高い台地が広がっています。鯨ヶ丘に続く「大田七坂」の1つ板谷(ばんや)坂番屋があったことの由来しているそうです。鯨ヶ丘公園丘陵上にありながら江戸時代には宿場町として栄え、現在も一方通行の細い道や旧家が残っていて、旧街道筋の面影を残していました。鯨ヶ丘には板谷(番屋)だけでなく、内堀町や中城町など、城郭にゆかりのある地名が残っています。鯨ヶ丘の北側、現在の中城町にあったのが、平安時代から19代続く佐竹氏の本拠地太田城でした。実は太田城を訪れるのは2回目で、城跡がどうなっているかはわかってはいるものの、やはりここを訪れないわけにはいきませんでした。太田城の跡にある太田小学校小学校の周囲に残る土塁が、かろうじて北関東の雄者の本拠地を物語っていました。太田小学校の校庭にある舞鶴城(太田城)の碑小学校では「わが町の歴史」みたいな話を学びますが、太田小学校にいたっては平安時代から戦国時代の末期にいたるまで、「まさにここがその場所でした」となるのかも知れません。太田城は1110年に藤原秀郷の子孫である藤原通延が築いたと言われています。ちなみに藤原秀郷(俵藤太)は、同じ常陸の英雄である平将門を討伐して名を上げた人物です。新羅三郎義光の流れを汲む佐竹氏の初代佐竹昌義の時代に、藤原通延の孫である藤原道盛を服属させたことから、佐竹氏も本拠地を馬坂城から太田城に移しました。以後450年間にわたって太田城は佐竹氏の本拠地となっています。19代にわたる佐竹氏の歴史の中で、その名を馳せたのはやはり18代佐竹義重でしょうか。南に北条氏政、北に伊達正宗がいながら、太田城と常陸北部を守りぬいた人物です。念願の常陸統一はその子である19代佐竹義宣の時でしたが、佐竹氏の本拠地が水戸に移った後も、佐竹義重は太田城から動くことはありませんでした。豊臣秀吉の時代に晴れて常陸54万石の当主となった佐竹氏でしたが、徳川家康の時代になって形勢は逆転しました。関ヶ原の戦いにおいて、石田三成と親交のあった佐竹義宣は、東軍・西軍のどちらにもつきませんでした。一方で佐竹義重は徳川家康につくことを主張し、真田氏と同様に父子で東西が分かれる結果となっています。関ヶ原の戦い後、佐竹義宣の父である佐竹義重が徳川家康に嘆願したことにより、名門佐竹氏の断絶は免れたものの、常陸54万石から出羽秋田20万石へと改易になっています。太田城で悠々自適の隠居生活を送っていた佐竹義重も秋田に移ったのですが、さすがは伊達政宗や北条氏政との戦国を生き抜いてきた「鬼義重」、新天地の秋田で一揆が起こると、自ら馬を駆って鎮圧にも出て行ったこともありました。それでも新天地では源氏の名門を捨てて、何とか信頼を勝ち得ようとしていたのも「鬼義重」でありました。秋田を訪れた時、タクシーの運転手さんから普通に「佐竹のお殿様」との言葉を聞いたことがあって、その時は佐竹父子の人柄が偲ばれるような気がして、嬉しく思ったことがありました。関ヶ原の戦い後に佐竹義重・義宣が断絶とならず改易となったことについて、徳川家康が名門を重んじることも理由に挙げられるとは思いますが、何よりも佐竹義重・義宣の律儀な人柄が評価されたことだと思います。佐竹氏が常陸から出羽秋田に移るにあたり、常陸の美人を全員秋田に連れていったのが秋田美人の由来とされ、関ヶ原の腹いせにそうでない人は徳川頼宣の水戸に送りつけたとする説がありますが、佐竹義重・義宣の人柄から考えると後世の創作だと思います。ちなみに以前盛岡を訪れた時、「きれいな人が多いな~」と驚いたこともあり、これは秋田に限ったことではないとも思います。
2012/10/11
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常陸の「新皇」平将門の本拠地である坂東市から、常陸の覇者佐竹氏の本拠地である常陸太田市を目指していると、途中の道路沿いに立派な山門がありました。通りすがりに目を向けると山門脇の石碑には常福寺とあり、気のせいか反対側には「瓜連城跡」の石碑があったように思いました。瓜連城の名前は聞いたことがなく、ましてや城跡が寺院の境内となっているならば遺構も残っていないだろうと、そのままパスすることにしました。そのまま道路は常福寺の境内を迂回するように続き、丘陵の斜面を下るような格好になったのですが、周囲に腰曲輪や切岸状の斜面が目に入ったため、大慌てで引き返してきました。常福寺山門右側に常福寺の石碑があり、左側に瓜連城跡の石碑があります。山門をくぐって中に入ると、常福寺の境内が広がっているだけで、城跡の遺構は目に入りませんでした。普段なら「またもや外した」ということで、あっさり引き返すところですが、一応境内を探索してみることにしました。不届きにも本堂の裏手を探してみると、方形の曲輪の跡が広がっていました。曲輪の周囲には土塁の跡もはっきりと残っています。北側の搦め手には土塁が切れた場所があり、虎口の跡かも知れません。曲輪の土塁上から外側を見ると、堀切の向こう側にも曲輪の跡があるようでした。北西側の土塁と堀切境内に併設の保育園横の土塁ここだけ土塁が突出しており、櫓台があったのでしょうか。瓜連(うりづれ)城の歴史は古く、南北朝動乱の1336年に遡ります。南朝方の楠木正家が瓜連城を拠点とし、北朝方の佐竹氏と戦っていました。楠木正家は楠木正成の弟とも甥とも言われる人物で、さすがは大楠公の一族と言いますか、この瓜連城で1年にもおよぶ籠城戦を展開していました。それでも佐竹義篤の包囲の前に落城し、瓜連城も廃城となっています。すでにこの時楠木正成は湊川の戦いで足利尊氏の前に討死していましたが、その一族が常陸で1年にも及ぶ籠城戦を戦っていたとは、なんとも感慨深いものがありました。皇居外苑の楠木正成像それでも大楠公亡き後、千早城や赤坂城のようにはいかなかったのが残念です。
2012/10/10
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「日本三悪人」の1人に数えられて永らく朝敵とされる一方で、武家社会からは英雄視をされたりと、毀誉褒貶の激しいのが平将門です。(日本三悪人と朝敵では、足利尊氏も同じような評価をされています)939年に下野・上野の国府を襲撃し、関東8ヶ国を支配して自らを「新皇」と称した出来事が「平将門の乱」で、その平将門が本拠地としていた場所が茨城県坂東市(旧岩井市)です。旧岩井市にある平将門像平将門ゆかりの地については、伝説も含めて全国各所にあり、悪名と共に信望の高さもうかがえるところです。それでも坂東市が最もゆかりが深く、ほんの少しでも将門の人物像に触れてみたいと思い、旧岩井市を散策してみました。まずは国王神社茅葺の社殿に歴史を感じますが、祭神は他ならぬ平将門です。将門の終焉の地に建てられたとも言われ、将門の三女である如蔵尼が刻んだ平将門木像が秘蔵されています。拝殿の内部には数多くの供え物があり、それだけ地元の信望の厚さを感じるものの、その信仰も憚られる時代が長かったことと思います。国王神社からほど近く、現在は住宅地となった中に石碑があり、ここが平将門が本拠地とした岩井営所の跡です。この辺りは「島広山」と呼ばれ、やや小高くなった丘陵地にあります。島広山遠景歴史に「もしも」は禁物とは思いながら、もしも平将門があと200年後に生まれていたら、ここが武家政権の最高権力である征夷大将軍の本拠地、すなわち幕府になっていたことでしょうか。島広山の岩井営所のすぐ東には延命寺があり、平将門が岩井営所の鬼門除けにしたとされています。延命時周囲は方形の一重の水堀で囲まれており、居館の跡であったかも知れません。それにしても、約700年後に江戸に幕府が開かれ、自らが神田明神に祀られて鬼門除けになるとは、思ってもみなかったことでしょう。島広山のすぐ近くには「石井の井戸」の跡があり、平将門が王城の地を探している時に老翁が現れ、その老翁が大石を持ち上げて地面に投げつけると、そこから水が湧いたとされる場所です。岩井の地名の由来ともされる石井の井戸跡昭和の初め頃まで水が湧いていたそうです。その老翁を祀って平将門が守護神としたのが一言神社で、石井の井戸のすぐ近くに建てられていました。まだ基盤を持たない武士の地位確立を求めて棟梁に担ぎ出されたのか、それとも東国武士の独立政権を作ろうとしたのか、平将門の真意はわかりませんが、源頼朝が武家政権を確立する200年以上も前に、1,000人規模の武士を統率していたことだけは間違いないようです。それでも武士団を率いるにあたっては、人望と主従関係、そして功に報いる恩賞の地が必要かと思います。平将門が求めた地は都ではなく、肥沃な坂東の地だったのかも知れません。
2012/10/09
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旧国境と都県境がなかなか一致しないのが下総国です。現在は利根川と江戸川を都県境として茨城県・埼玉県・千葉県・東京都に分かれていますが、旧下総国はその4都県にまたがる国でした。下総の中心地は千葉県市川市にあり、現在も地名が残る国府台に国府がありました。(ちなみに武蔵国との国境は隅田川で、武蔵と下総の両国に架かる橋が両国橋です)その下総国と常陸国の国境付近、利根川を渡った茨城県坂東市に逆井城があります。二ノ丸南の虎口にある二重櫓戦国末期の時代背景を基にして復元されたものですが、このような二重櫓が実際に建っていたかどうかは不明です。史実に基づかない模擬天守などには批判的な態度をとってきましたが、この二重櫓に関しては微妙な判定です。「疑わしきは巨人に有利」とは言いますが、「疑わしきは北条氏に有利」ということでギリギリセーフでしょうか。総見板張りは「さもありなん」といった感じですが、入母屋破風と望楼を備えた櫓が二ノ丸の虎口にあるのは奇特な気がします。この二重櫓に続く土塁上には、板塀と物見櫓も復元されていますが、関東の戦国城郭はむしろこちらの方が近いのかも知れません。二ノ丸の空堀と土塁の跡空堀の土塁を掻き上げた姿こそ、関東の戦国城郭だったと思います。二ノ丸には戦国期の建物が移築・復元されており、さながら戦国城郭の博物館のような感じでした。移築・復元された関宿城(千葉県野田市)の城門戦国時代には北条氏・上杉氏・佐竹氏が争奪戦を繰り広げた城の遺構が、明治の廃藩後に巡り巡ってなぜかここにありました。主殿跡こちらは茨城県潮来市にあった大台城跡を発掘調査して、出土した遺構を参考にして復元されたものです。大台城は逆井城と同時期の戦国城郭であり、この主殿も当時のものに限りなく近いと思われますが、本丸ではなく二ノ丸に復元されているのが惜しいところです。建造物もさることながら、二ノ丸の周囲には土塁と空堀の跡がはっきりと残っており、当時の縄張りまでもがわかるほどでした。二ノ丸西側の空堀跡底の方は埋まってしまっていますが、薬研堀だったでしょうか。角張った空堀に北条流の縄張りを感じます。二ノ丸は本丸の三方を囲むように、凹型の広がっており、その周囲に土塁と空堀の跡が残っていました。二ノ丸の土塁二ノ丸西側の曲輪平坦で広い曲輪が広がっており、佐竹氏の拠る常陸攻略のための陣備えの場所だったかもしれません。随所に北条流の築城術を見る逆井城ですが、中でもお見事だったのがこちらです。本丸の馬出しまさに北条氏特有の角馬出しです。北条氏の城郭は数々見てきましたが、これほどまでに見事に残っているのは数えるほどでしょうか。本丸の馬出に続く空堀には、「鐘掘池」という池がありました。1536年に逆井城主であった逆井常繁が、北条方の大道寺駿河守(政繁)の城攻めによって討死した時、大道寺駿河守の奥方は先祖代々に伝わる釣鐘をかぶってこの池に飛び込み、最期を遂げたと言われています。後にその鐘を探そうと、何人もの人が池を掘ったため、「鐘掘池」の名前が付けられました。城跡にはこの手の話はつきものですが、由来がリアルすぎて薄気味悪く、蛙が飛び込んだだけで、後ずさりするほどでした。本丸の空堀は二ノ丸の空堀よりも幅が広く、堀底も作られていたようです。鉄砲戦を意識した箱堀だったでしょうか。堀底には北条氏特有の畝堀や障子堀だったのかも知れません。本丸と二ノ丸の空堀に復元された橋と櫓本丸土塁逆井氏の時代は本丸までが城郭だったようですが、北条氏の時代に大幅に拡張されたものだと思われます。それにしても戦国城郭の遺構がよく残っており、日本100名城に選ばれてもおかしくないと思います。(というよりも「なぜ選ばれなかったのか」といった印象です)逆井城の歴史は、1450年頃に小山義政の五男である常宗が、逆井の地を領有して逆井氏を名乗ったことに始まります。ところで逆井城の復元建造物を見ただけでも歴史背景に忠実だと思いますが、解説看板にある逆井城の年表にも「北条五代記」・「上杉家文書」に始まり、「大久保文書」「芦名文書」など、意固地かと思うほどに出自が明らかにされていました。本丸の「鐘掘池」の由来にあるように、1536年には逆井常繁が、北条氏康の家臣である大道寺駿河守(政繁)と筑波合戦で討死し、逆井城も北条氏の支配下となりました。(逆井城にある年表では、「筑波合戦は歴史的、史料的にもあり得ない」ときっぱりです)それでも現存する遺構はまさに北条氏によるもので、常陸との国境に近い最前線でもありました。1577年には佐竹氏・宇都宮氏・結城氏・那須氏・山川氏などの反北条連合軍と北条軍が激突し、逆井城が北条軍の本陣となりました。(二ノ丸が集結地だったでしょうか)この時に有名な風魔小太郎率いる「風魔党」が、逆井城から常陸へと潜入していきました。(「風魔党」とは北条氏のラッパ集団、すなわち諜報活動と攪乱を行う、現代のモサドのような存在です)同時に北条氏の軍制集団である玉縄衆の中から、鋸引き職人が玉縄城より派遣され、逆井城も現在に残る北条流の城郭へと拡張・改修されました。多くの関東の戦国城郭と同じく、1590年をもって逆井城も終焉となるのですが、豊臣秀吉による小田原の役の時、逆井城も降伏・開城しています。
2012/09/06
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筑波方面から取手方面へと国道294号線を南下していると、水田地帯の広がる平野の前方に面妖な建築物が見えてきました。「近寄ってはいけない」と思いつつも、自然と近寄ってくるので如何ともしがたく、ついに目の前まで来てしまいました。ご丁寧に土塁で囲まれた「本丸」には、付櫓を備えた塗籠の五層の天守があり、最上階には望楼まであります。千鳥破風や唐破風の意匠を施しながらも、狭間や石落としまで備えてあり、本当に「立派な」天守でした。何とかも休み休みとは言いますが、まさに厚顔無恥とはこのことでしょうか。これだけのものを建てるのには億単位の建設費が必要かと思いますが、教育委員会の見識を疑わざるを得ません。気の毒なのはこの天守を見て育った常総市の子供たちで、全国にある名城と呼ばれる城郭の数々を後に目にすることがあっても、「このクラスならばうちの地元にも豊田城があるよ」などと、物笑いの種となってしまうのが心配です。ここまで酷評するのには理由があるのですが、自分が育った奈良県での歴史や史跡に対する考え方と、まったくかけ離れています。いくら奈良であっても、史跡を全て保存していたならば、人の住む場所がなくなってしまうのですが、苦渋の末に消え去る歴史はあったとしても、後世になって捏造されることは考えられません。「温故知新」とは言いますが、歴史を知ることで得るものもあります。もちろん真実は1つしかなく、当時の当事者でしか知りえないことではありますが、正しく残された歴史によって正しく解釈することが、正しく伝える第一歩だとも思っています。その豊田城(石下町地域交流センター)は、桓武平氏の一族である豊田氏の居城で、平将門ともゆかりの深い城だとされています。残念なことに豊田城の遺構は全く残っいませんが、常総市(旧石下町)には豊田城以外にも平将門のゆかりの地があるようです。現在の豊田城について言えば、もはや建ててしまったものは仕方ありませんが、べらぼうな入館料400円の一部を使ってでも、これらの史跡を見直すことがよほど意義のあることではないでしょうか。
2012/09/03
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霞ヶ浦から約1km、土浦市の中心近くに土浦城があります。城跡は亀城公園の公園広場となっており、一見すると殺風景な印象がありますが、ここに土浦市の史跡に対する真摯さを見ることができ、大いに評価したいところです。公園入口にある霞門ここが城跡だと知らなかったら、いきなり公園の入口に薬医門があるので違和感を感じるかも知れません。霞門は本丸の搦め手口にあり、門の前には枡形も跡を見ることができました。土浦城は霞ヶ浦の水利を使った水城のような縄張りで、幾重にも水堀が廻らされていたようです。霞門のある本丸南側の内堀跡本丸跡周囲には土塁の跡が残っていました。1884(明治17)年の火災によって、本丸の建物は大半が焼失し、本丸の建造物では霞門・西櫓・太鼓門だけが火災を免れたそうです。西櫓この西櫓も1949(昭和24)年のキティ台風によって損壊したのですが、復元を前提に解体された後に市民の寄付によって復元されたものです。本丸と二ノ丸の間にある太鼓門(現存)市街地の城跡でありながら、残るべきものがきっちりと残っている印象ですが、余計なものが建っていないことが何よりです。(城跡というだけで、石垣を積んでみたり天守を上げてみたりするのが常かも知れません)本丸には西櫓の他に東櫓が建っていますが、こちらも史実に基づいて建てられたものです。東櫓現在は土浦市立博物館の別館となっています。ところで土浦市立博物館の本館は土浦城二ノ丸の北東側にあって、本館と別館の入場券は共通となっています。気になるのは入館料ですが、共通で105円と破格の入館料ながら、展示はかなり充実していました。特に本館では、土浦城を含めた土浦の歴史が詳細に紹介されているだけでなく、室町時代の本物の日本刀や各種の書状が展示してあるくらいです。(それにしても歴史博物館の入場料を5円単位で払ったのは初めてで、公共施設で消費税を課税されることもよくわかりませんでした)東櫓の二階に登ると、当時の眺めが手書きで解説してありました。「○戦国時代まで、桜川は堀や道路(駅前通り)のところを流れていました」「○タクシー会社のあたりには、江戸時代、藩の倉庫が建っていました。その向うには武家屋敷がありました」「○江戸時代には、ここから霞ヶ浦を望むことができました」「○裁判所(水戸地方裁判所土浦支部)の敷地は、江戸時代には外丸御殿といい、藩主の家族のすまいでした」「○関東銀行のところには、以前、土浦市役所が置かれていました」ちなみに解説の漢字にはふりがなが振ってあり、小学生向けだと思われますが、折りしも夏休み最後の週末にも拘らず、他に訪れる人はいませんでした。夏休みの自由研究で追い込みをするならば、「土浦城に見る、史跡の保存と復元に関する考察」なんていかがでしょうか。その東櫓から続く本丸の土塁上には、土塀が復元されていました。江戸時代の絵図によって土塀の存在が確認されているようですが、さらに発掘調査と文献調査によって、土塀の高さは東櫓側が七尺半でその他は七尺とし、史実に基づいて鉄砲狭間と石落しが復元されています。おそらく本丸の周囲は全て土塀で囲まれていたと思われるのですが、復元されているのは史実にあるこの本丸の片隅だけでした。ところで、土浦城にはもう1つ現存する門がありました。二ノ丸虎口にある前川口門元々はこの位置にあったものではなく、昭和56年に移築されたものだと記されていました。おまけですが、土浦市立博物館脇の外堀沿いには、数々の道標が建っていました。いずれも道路工事の際に移築・保存されてきたものです。水戸街道と筑波街道の分岐点にあって道標で、享保17(1732)年の銘があります。世に「名城」と呼ばれる城郭がありますが、土浦城は名城ではないにしても、「名城跡」に入るかも知れません。「名城は築城主によって造られ、名城跡は後世の人によって造られる」と言えば言いすぎでしょうか。一説には土浦城は平将門によって築城されたと伝わっているそうですが、さすがにそれはないと思います。戦国時代には小田城の小田氏の支配下にあったようで、こちらはもっともだと思います。小田氏治が佐竹氏によって小田城を追われた時、逃げ込んだ先がこの土浦城だったことを思うと、土浦城は小田城の支城のような存在だったかも知れません。1590年に豊臣秀吉によって小田原北条が滅ぼされると、徳川家康が関東に移封となり、土浦城は結城城の結城秀康の支配下となりました。ところでこの結城秀康ですが、その名前にもあるように、徳川家康の次男でありながら、豊臣秀吉の養子でもあり、天下を継ぐに資格十分な人物でした。(徳川家康の長男である松平信康は織田信長の命により切腹しており、結城秀康が実質的な長男であり、秀忠の兄にあたります。さらに豊臣秀吉の養子となった時、秀頼はまだ生まれていませんでした)別に器量が劣っていたわけではなく、武勇と人望では徳川秀忠を上回っていると思うのですが、なぜ徳川将軍の第2代とならなかったか、いまだに不思議なところです。江戸時代に入ると、城主が松平氏・西尾氏・朽木氏と変わり、代々土屋氏が藩主となってから明治維新を迎えています。ところでこの土屋氏ですが、「もしかして土屋昌次と関係があるのかな」と思って調べてみると、その土屋昌次の末裔でした。その土屋昌次ですが、時代はずっと遡って1575年、織田信長・徳川家康の連合軍と武田勝頼軍が設楽ヶ原で戦った「長篠の戦い」で、武田勝頼軍で参戦していたのが土屋昌次です。長篠の戦いでは、織田・徳川連合軍の鉄砲射撃の前に、最強と言われた武田軍がなすすべなく倒れたといった印象ですが、実は武田軍の中にも馬防柵まで取り付いた一隊があり、それを率いていたのが土屋昌次でした。設楽原の土屋昌次墓所(2008年1月)土屋昌次が長篠で討死して武田氏が滅亡した後、土屋氏は途絶えることなく続いて、徳川家康に仕えた後に大名家となり、土浦城主として明治維新を迎えています。
2012/08/27
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戦国時代の関東にあって、どの武将のサイドから見てもヒールのような存在になってしまうのが、小田氏治(天庵)と小田城でしょうか。小田原北条氏が着実に関東での覇権を確立していく中、「北条氏康と戦うか、それとも屈するか」が、小田氏を含めた関東諸将の命題であったかも知れません。小田城の小田氏もそんな関東武将の1人でしたが、やっかいなことに常陸には佐竹氏がいて、同じく北条氏の関東制覇をアンチテーゼとしながらも、佐竹氏が着実に常陸統一を目指していました。その混沌とした関東に新たな秩序をもたらすべく、「反北条」を掲げて登場したのが、上杉氏から関東管領の職を継いだ越後の長尾景虎(のちの上杉謙信)です。上杉・佐竹連合と北条氏の間で、時には上杉謙信に泣きを入れたり、時には北条氏康に助けを求めたりして、小田城を奪われては奪還していたのが、戦国時代の小田氏でした。戦国時代の関東にあって、独立の気概を持ちながらも強かに生き延びる小大名の悲哀を感じますが、そもそも「小田氏なんて聞いたこともないし、ましてや小田城なんて…」というのが率直なところかも知れません。小田氏は、源頼朝が守護・地頭を置いた時の常陸国守護である八田知家を祖とし、室町時代には「関東八屋形」の1つに数えられていました。(ちなみに関東八屋形には、後に小田氏の宿敵となる佐竹氏や結城氏を始め、宇都宮氏・小山氏・千葉氏・那須氏など、北関東の雄者が名を連ねています)時代は戻って南北朝時代には、小田城が関東での南朝の拠点となっていました。小田氏に身を寄せていた北畠親房が、かの「神皇正統記」や「職原抄」を執筆したのが小田城で、実は隠れた名城でもあります。前置きは長くなりましたが、小田城を訪れるのは2回目で、ログを見ると前回は2007年8月と、ちょうど5年前でした。その時は空堀跡に青いビニールシートが掛けられ、歴史学者か学芸員らしき人も何人かいたりして、聞けば2014年に歴史公園として整備するために発掘調査中とのことでした。あれから5年、小田城がどのように変わったかを見るべく訪れてみたのですが、驚いたことに全くと言っていいほど何も変わっていませんでした。変わったことと言えば、本丸を貫いていた筑波鉄道の廃線跡が「つくばりんりんロード」の自転車道に変わり、さらには本丸のアプローチがわかりにくくなったことでしょうか。名峰筑波山を間近に見る平野には水田が広がっていて、早くも稲刈りが行われていました。この用水路もかつての堀跡だと思われます。小田城本丸から見た筑波山本丸跡に近づいてみると、今もビニールシートが掛けられており、立入禁止となっていました。本丸土塁本丸を囲む堀跡は自然の池だったのですが、よく見るとコンクリートで護岸されて、水もなくなっていました。復元事業が難航しているのか、それとも頓挫してしまったのかはわかりませんが、復元のベクトルが変な方向に向かないことを願うばかりです。小田城の築城については、先に述べた八田知家が築城し、本拠地を置いたのが始まりとされています。戦国時代には、佐竹義重や上杉謙信、北条氏康などに何度も包囲されては落城した小田城でしたが、小田氏治が籠城戦で戦うにあたっては、領民たちも籠城戦に参戦して小田城を守ったと言われています。それでも最後は1569年の手這坂の戦いで佐竹義重の軍門に下り、佐竹氏の城代である梶原政景が入城し、小田城の城郭も梶原政景によって大幅に改修されました。実は佐竹氏の縄張り図を見るのは初めてですが、平野が広がる平城にあって、なかなかの築城技術だと思います。盛者必衰と言えばそれまでですが、佐竹義宣の時代に小田城を含めて常陸を統一した佐竹氏でしたが、関ヶ原の戦い後に水戸から秋田へ移封となり、小田城も廃城となりました。それでも北畠親房と小田城に始まる勤皇の志は、徳川光圀を経て幕末の桜田門の水戸藩士に到るまで、連綿と受け継がれていたのかも知れません。 佐竹義重・義宣 伊達政宗と覇を競った関東の名族 (学研M文庫) (文庫) / 志木沢郁人物文庫 な1-3北条氏康/永岡慶之助
2012/08/26
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戦国時代関東の戦乱の中心地であった茨城県古河市、その戦乱の中心人物であった古河公方足利成氏は古河公方館を本拠地としていましたが、後に同じ渡良瀬川の河畔に城郭を築き、こちらに拠点を移しています。以後は100年以上に渡って古河公方の本拠地であり、関東の政治の中心地でもありました。戦国時代が終わって江戸時代に入ると古河藩が置かれ、近世城郭として拡張・整備されました。日光街道に面した御茶屋口徳川将軍が日光にお参りする時、古河城を宿場とするのが慣わしで、御茶屋口からは「御成道」の登城道が続いていました。御成道跡現在は普通の道路になっていますが、御成道の間には「百間堀」の水堀があって土橋が架かっていたようです。御成道の先にある御成門には、「獅子ヶ崎」と呼ばれる出丸があったようで、わずかに土塁が残っていました。土塁の前には長屋門があり、江戸時代から現存するものと思われますが、由来は不明でした。現在は普通の民家になっているようです。御成道の途中には「諏訪曲輪」と呼ばれる独立した曲輪があったようで、現在は「古河歴史博物館」の敷地になっています。歴史博物館から見ると、わずかに曲輪の跡が残っていました。北方に対する要衝にあった古河城ですが、残念なことに遺構としては獅子ヶ崎の土塁と諏訪曲輪の跡だけでした。歴史博物館にある縄張り図東西に500m、南北に1,500mの大城郭だったようです。歴史博物館にある復元模型図渡良瀬川の河畔にあって、水城のように曲輪が浮かんでいたようです。明治時代の廃城令によって城郭は取り壊され、その後の渡良瀬川の河川工事によって、城郭は河川敷に水没していまいました。本丸のあった付近古河城の起源は平安時代や鎌倉時代に遡るとも、有力豪族であった下河辺氏が築城したとも言われますが、確証はないようです。それでも足利成氏が鎌倉府を再興し、本拠地を鎌倉から古河に移したことから、戦国時代では古河城が政治の中心地となっていました。(後に古河公方足利氏も北条氏の配下となり、古河城も北条氏の支城としての位置づけでした)江戸時代になると、日光街道古河宿と一体となった近世城郭に改修され、再び古河が重要拠点として位置づけられるようになりました。歴代城主には土井利勝・堀田正俊などの大老経験者がおり、その他にも老中を数々輩出していることからも、江戸幕府も古河を重視していたことが窺えます。
2012/08/10
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渡良瀬川の河畔にある古河総合公園、公園内には「御所沼」の中に半島状に突き出した「公方様の森」と呼ばれる場所があり、ここに古河公方足利氏の居館がありました。公方様の森古河公方館址の碑居館跡ははっきりと残っていませんが、中世武士の居館らしく方形の堀で囲まれていたと思われます。堀切跡土塁の跡でしょうか。この風流な場所に公方様が住んでいて、それは優雅な暮らしでした、と言いたいところですが、そうもいかないのが関東の戦国時代です。それどころか関東戦乱の発端となったなかりでなく、さらに関東中を引っ掻き回した「お騒がせ男」がここに住んでいました。応仁の乱に先立つ1440年、永享の乱で自刃した鎌倉公方足利持氏の遺児を擁して、結城氏朝・持朝が京都の室町幕府に反旗を翻し、室町幕府足利将軍・関東管領上杉氏の連合軍と戦ったのが結城合戦でした。1年近くにおよぶ籠城戦の末に結城城は落城、足利持氏の遺児である春王丸・安王丸は室町幕府将軍の足利義教に殺害され、ここに鎌倉公方足利氏は滅亡したかに思われました。しかしながら足利持氏にはもう1人遺児がおり、たまたま信濃に逃れていた永寿丸がその人です。当然ながら室町幕府は永寿丸の捜索に力を挙げますが、そうこうしているうちに室町幕府の将軍である足利義教が赤松満祐によって暗殺されるという嘉吉の乱が勃発しました。鎌倉公方足利持氏の遺児である永寿丸の捜索はここでうやむやになったばかりか、関東諸将の後押しによって鎌倉府が再興され、この永寿丸改め足利成氏が鎌倉公方として再び関東の表舞台に立つこととなりました。この足利成氏ですが、「蛙の子は蛙」なのか血は争えないのか、亡父である足利持氏同様に関東管領上杉氏や室町幕府との対立はやめようとせず、1454年には足利持氏が補佐役である関東管領上杉憲忠を殺害する享徳の乱を引き起こしています。享徳の乱は鎌倉公方足利氏VS関東管領上杉氏の争いで収まらず、足利成氏のお陰で関東を二分する戦いとなりました。足利成氏方には、結城氏・宇都宮氏・那須氏・小山氏・千葉氏・佐竹氏など、その名前が現代にも通じる東関東勢がつき、対する関東管領・室町幕府方には山内上杉氏・扇谷上杉氏・駿河の今川氏などの西関東勢がついています。(ちなみに扇谷上杉氏の家宰として各地を転戦していたのが、大田道灌でした)足利成氏は駿河の今川範忠によって鎌倉を追われ、本拠地を下総の古河に移したことで、ここに古河公方足利成氏が誕生しています。その後の関東では、関東管領山内上杉氏は扇谷上杉氏と対立するようになり、古河公方の方も小弓公方を名乗る足利義明が現れたりして、めちゃくちゃもいいところでした。そんな中で漁夫の利を得て勢力を伸ばしていたのが、北条早雲を祖とする小田原北条氏です。共通の敵が出来ると同盟を結ぶのが歴史の常ではありますが、すでに古河公方も第4代となった足利晴氏の時代に、山内上杉氏・扇谷上杉氏の同盟が成立しました。実に結城合戦から100年以上も経っていましたが、古河公方足利氏・山内上杉氏・扇谷上杉氏の連合軍は、北条氏康との河越夜戦でまさかの敗北を喫しました。これが要因で扇谷上杉氏は滅亡、山内上杉氏は関東管領の家督を越後の長尾景虎(後の上杉謙信)に譲ったほどで、古河公方の方も第5代足利義氏が北条氏康の養子となることで、完全に北条氏の支配下となっています。足利持氏に始まる古河公方のお陰で、関東の戦国史がここまで複雑となり、迷惑を被った関東諸将も少なくはないことでしょう。そんなこんなを含めて改めて歴史を振り返ったのが、優雅な御所沼と公方様の森でした。
2012/08/09
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戦国時代の始まりはいつかと言うと、「人の世むなし応仁の乱」の1467年だと覚えてきました。その応仁の乱より以前、すでに関東では北関東を中心に戦国時代に突入していたと思っているのですが、その幕開けとなったのが結城城を舞台にした1440年の結城合戦かも知れません。ところで応仁の乱は細川勝元と山名持豊(宗全)の守護大名同士の戦いではありますが、その背景には室町幕府将軍足利義政の後継争いに加えて、三管領のうちの畠山氏と斯波氏の相続争いが絡み、全国の守護大名を2分して10年以上続いた戦いでした。(高校時代の日本史でも、この応仁の乱の相関図を理解するのは一苦労でした)関東の結城合戦の方も複雑極まりないのですが、この相関図を紐解いていかないと、その後の関東の戦国の歴史もなかなか見えてきません。室町時代の関東では、将軍足利氏が京都にいる一方で、鎌倉府に関東公方として同族の足利氏がおり、その関東公方を補佐する関東管領に上杉氏がいました。普通にこの秩序が保たれているならば何も問題はないのですが、坂東武士の気性なのかはわかりませんが、鎌倉公方足利氏と関東管領上杉氏が度々対立するようしていたのが、戦国初期の関東の構図です。身近な例で言うと、京都本社に足利社長がおり、関東支社の支社長も同族の足利支社長で、その関東支社長が上杉副支社長と言ったところです。ところがこの時の関東支社長である足利支社長(関東公方)は京都本社(室町幕府)の言うことを聞かず、度々上杉副社長(関東管領)を悩ませて対立していた、と言うのが当時の関東の構図でしょうか。前置きは長くなりますが、結城合戦は関東管領上杉氏憲(禅秀)が関東公方足利持氏に対して反乱した1418年の「上杉禅秀の乱」に端を発しています。この時は関東管領上杉氏憲(禅秀)が関東公方足利持氏と室町幕府によって鎮圧されますが、その後は上杉禅秀の後に関東管領を継いだ上杉憲実と関東公方足利持氏の対立が決定的となりました。上杉憲実に救援を求められた室町幕府は足利持氏の討伐軍を派遣し、関東諸将も討伐に加わった戦いが1438年の永享の乱です。足利持氏は討伐軍の前に敗北して自刃し、ここに関東公方は消滅しました。その2年後の1440年、関東公方再興をのため、永享の乱で自刃した足利持氏の遺児を擁して、室町幕府に反旗を翻したのが結城城の結城氏朝と結城持朝の父子でした。上杉禅秀の乱から永享の乱を経て結城合戦へと長い前置きですが、この結城合戦には歴史を変える「幕末」を感じます。歴史上「幕府」は鎌倉幕府・室町幕府・江戸幕府の3つしかないので、「幕末」や幕府軍との戦いも3回しかなかったことになります。ところで「幕末」と言えば江戸幕府の倒幕が代名詞でしょうか。その幕末の四境戦争(別名が聞いてあきれる「長州征伐」)では、高杉晋作や山縣有朋そして大村益次郎によって、本拠地である萩城どころか江戸幕府軍に防長の地を踏ませることなく敗退させています。一方の鎌倉幕府や室町幕府への「反幕」においては、楠木正成が鎌倉幕府軍に対して上赤坂城や千早城の籠城戦で応じたのと同じく、結城氏朝・持朝父子も室町幕府軍に対して結城城の籠城戦で応じました。その結城合戦は1年近くにおよぶ籠城戦だったのですが、「城跡公園」となった結城城跡を見る限り、その籠城戦に耐え抜いた堅固な印象はありませんでした。結城城西館跡解説板にある縄張りを見る限りでは、とても1年の籠城戦に耐えられるようなものではなく、むしろ普通に一重の堀に囲まれた中世の居館跡といった感じです。内堀跡関東の歴史を左右した結城合戦の舞台にしてはあまりに寂しく、城跡公園の近くにわずかに空堀が残っていました。城跡公園のある西館跡からさらに城郭の西側に回ってみると、城跡を偲ばせる土塁の跡も残っています。結城合戦では、室町幕府軍10万に包囲され、籠城戦を戦ったそうです。この一帯を幕府軍が包囲していたのでしょうか。室町幕府のみならず関東諸将を巻き込んだ結城合戦でしたが、籠城戦の末に結城氏朝は討死し、結城氏朝が擁立した足利持氏の遺児春王丸と安王丸も室町幕府将軍足利義教の命によって殺害され、1年近くにおよぶ結城合戦も幕を閉じました。それでも結城合戦を振り返ると、戦国時代を予感させることがらもあります。何よりも源頼朝の挙兵以来の名門結城氏が室町幕府に反旗を翻したことで、ここに武家政権の最高権威である幕府の権力がすでに失墜していたと思われます。さらには関東の諸将を巻き込んだ戦いであったことで、戦いに勝利することでの領土的野心も窺えます。また、参戦した関東諸将の中には、同族でありながら幕府方についたり足利持氏・結城氏朝方についたりと、従来の武家的秩序が失われて家中が分裂していました。そんな中、この結城合戦から始まる江戸時代の小説がありました。曲亭馬琴(滝沢馬琴)の「南総里見八犬伝」で、足利持氏・結城氏朝方として参戦した里見家基(小説では里見季基)が、最期を前にして息子の里見義実を落ち延びさせる場面から始まっています。(その後は白浜城からの里見氏の再興や八犬士の誕生、さらには八犬士の活躍による「関東大合戦」での大勝利と、史実と異なってはいますが) そんな関東の戦国時代を告げる結城合戦も遠い過去になってしまったと思いきや、西館の本丸跡にはこんな碑が建っていました。結城合戦タイムカプセル1981年に埋められたもので、結城合戦終結からちょうど600年後の2041年に再び披露されるそうです。(それにしても何が埋まっているのでしょうか)結城合戦では敗れはしたものの、小山朝光が結城氏を名乗って以来、鎌倉時代から江戸時代まで続いた結城氏の本拠地が結城城です。ところが城跡にある結城市教育委員会の解説板には、「結城城は治承年間(1177年~1180年)に結城朝光が築いたとされるが確証はない。むしろ南北朝動乱期に築城されたと見るべきであろう」と。教育委員会にここまで断言されては二の句が次げませんが、その根拠を知りたいところでもあります。
2012/08/08
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戦国時代の常陸と言えば佐竹氏、本拠地の太田城があった茨城県太田市に、佐竹寺があります。仁王門。萱葺屋根の本堂に歴史を感じます。銀杏の葉が落ちて一面黄色に染まり、本堂と美しい好対照を成していました。佐竹寺は985年に元密上人が開山したと伝えられる古刹です。本尊は「十一面観世音菩薩」、この本尊に深く帰依したのが、源昌義(義光の孫)でした。源昌義は、この佐竹寺で節が1つしかない竹を見つけ、これを吉兆として以後「佐竹氏」を名乗るようになりました。佐竹氏の初代となった佐竹昌義は、この佐竹寺を本拠地太田城の鬼門除けとしています。以後代々にわたって佐竹氏の祈願寺となりました。1543年には戦火によって焼失したものの、15代佐竹義昭(義重の父、義宣の祖父)によって、この地に再建されています。
2008/12/02
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