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高知城は本丸の全建造物が完全に現存する唯一の城郭であり、天守と本丸御殿の両方が現存しています。懐徳館(本丸御殿)と天守(いずれも現存、国指定重要文化財)廊下門(国指定重要文化財)黒鉄門(国指定重要文化財)建造物が現存しているだけでなく、その中に入って見学できるのも高知城だけでしょうか。懐徳館内部納戸蔵(国指定重要文化財)東南土塀(国指定重要文化財)土塀には「物見窓」と呼ばれる横連子の武者窓が残っていました。物見窓天守と本丸御殿は内部で繋がっており、御殿から天守に上がることができます。天守から見た二の丸の方向本丸と二の丸との間の詰門や、本丸の東多聞・廊下門・西多聞が一望できます。三の丸の方向追手門の方向元々の高知城は大高坂城と呼ばれており、1598年に長宗我部元親が岡豊城から本拠地を移してきた場所です。その後長宗我部元親は浦戸城に居城を移しますが、関ヶ原の戦い後に入部した山内一豊によって、1601年から築城が開始されました。1727年の城下町の火災で追手門以外の建物を焼失しましたが、1729年より再建が開始され、1753年に再建が完了しました。現在残る天守は1746年に建てられたもので、「現存12天守」の1つです。日本城郭協会「日本100名城」
2017/09/17
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鉄門から二の丸に抜けて来ると、本丸の現存建造物群が目に入ってきました。西多聞(二の丸側より見たところ、国指定重要文化財)本丸と二の丸の間は堀切となっており、その間は先ほど下で見た詰門の渡櫓でつながれています。詰門の渡櫓(二の丸側より見たところ、国指定重要文化財)詰門の渡櫓(杉ノ段から見た正面側)二の丸からだと、画像の矢印の方向から見ている格好になります。二の丸からは詰門の渡櫓を通って、本丸へと入って行きます。詰門渡櫓の内部高知城に限らず、渡櫓が現存している城郭はいくつか見てきましたが、渡櫓の内部に入れるのは滅多にないかと思います。詰門の渡櫓を抜けると、いよいよ本丸です。西多聞(本丸より見たところ、国指定重要文化財)
2017/09/16
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数多くの建造物が現存する高知城にあって、まず最初に目にするのが追手門(大手門)です。追手門(現存、国指定重要文化財)渡櫓は何度も建て替えられたようですが、石垣は古い積み方なので、山内一豊の時代から現存するのかも知れません。追手門の桝形追手門を入った「杉ノ段」の曲輪には、板垣退助や「功名が辻」の千代夫人像が建っています。杉ノ段からは、山内一豊の築城時から残る三の丸の石垣を見ることがでます。古い野面積みの石積みになっていました。三の丸の虎口には「鉄門」の跡があり、現在は石垣が残っていました。鉄門跡悌郭式の縄張にあって、鉄門は最も重要な位置にあったのだと思われます。鉄門の門扉には鉄板が打ち付けられており、まさにこれが鉄門の由来だったそうです。ここの縄張は少しトリッキーになっており、鉄門からそのまま上がって行くと、詰門の渡櫓に行き着きます。詰門(現存、国指定重要文化財)現在は通り抜けが出来ませんが、喰い違い虎口になっているため、容易に通り抜けが出来ません。さらには本丸と二の丸の間の堀切になっているため、通り抜けたとしても搦手方向に追いやられて、本丸に入れないようになっています。鉄門から見た本丸天守山に登る時、「見えている山ほど遠い」とは言いますが、高知城本丸天守も同じ感じです。鉄門から別のルートを通ると、三の丸に来ることができました。三の丸の曲輪跡高知城では最も広い曲輪で、大勢の藩士が参集できる大書院が建てられていました。三の丸から見た本丸天守さらに遠くなった感じです。
2017/09/15
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「功名が辻」の初代山内一豊が江戸幕府開府の立役者ならば、「酔って候」の15代藩主山内容堂はその倒幕の立役者でしょうか。高知城大手門脇にある山内一豊像大手門からさらに城外にある「山内容堂生誕の地」碑「伊右衛門」の山内一豊像は大手門の外にあるのに対し、千代(見性院)の像は堂々と大手門の城内にありました。千代像司馬遼太郎さんの小説の中でも、この夫婦の物語「功名が辻」は明るく楽しくて大好きです。ところで来年2018年は明治維新150年にあたり、「平成の薩長土肥連合」の観光キャンペーンが行われています。高知龍馬空港では「平成の薩長土肥連合」の看板が建ち、薩摩・長門・土佐・肥前のそれぞれに人物写真が掲載されていました。(この2週間後には鹿児島を訪れたのですが、やはり鹿児島空港でも同じキャンペーンをやっていました)西郷隆盛(薩摩)、木戸孝允(桂小五郎)(長門)、坂本龍馬(土佐)、大隈重信(肥前)と並ぶ中で、一人だけ違和感を感じました。坂本龍馬に違和感があるのですが、坂本龍馬以外の3人は明治維新後も存命して、明治政府の要職に就いています。他の三人と並べるならば、土佐ではやはりこの人ではないでしょうか。板垣退助像(高知城内にて)ところで平成の薩長土肥連合で言うならば、明治維新の前も後も、薩摩では西郷隆盛が功労者だと思います。さらに明治維新前の功労者で言うならば、土佐ではやはり坂本龍馬だと思います。しかしながら、土佐が坂本龍馬ならば長州は高杉晋作であるべきですし、肥前は江藤新平でしょうか。もっとも観光キャンペーンなので、イメージ的にそれぞれの事情はあるのでしょう。(それにしても長州は木戸孝允ではなく、高杉晋作ではないでしょうか)全巻新装版です。☆【中古】功名が辻 (新装版) 文庫 全4巻 完結セット 司馬遼太郎 小説 歴史 日本十一番目の志士 上 新装版/文藝春秋/司馬遼太郎 / 司馬遼太郎 / 文春文庫【中古】afb
2017/09/14
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桂浜を見下ろす浦戸山の丘陵部に浦戸城があります。浦戸城跡碑現在の城跡は国民宿舎桂浜荘の敷地になっており、遺構はほとんど残っていませんでした。現地の案内板 桂浜荘浦戸城の遺構としては、桂浜荘の敷地脇に詰の段と天守台の石垣が残っています。詰の段の石垣天守台石垣天守台石垣の先にはさらに上に続く道があり、登ってみることにしました。これだけ幟が立つと、かえって恐縮です。登り切った先には削平地があり、大山祇八幡の祠が祀られていました。長宗我部元親の時代には、三層の天守が建っており、絵図にも描かれているそうです。浦戸城は16世紀の初めに、朝倉城の支城として本山氏によって築城されました。本山氏が長宗我部氏によって滅ぼされると、長宗我部元親は1591年に浦戸城を改修して、岡豊城から本拠地を移してきました。この時は大高坂城(高知城)に拠点を移す予定でしたが、治水が悪いために浦戸城に移した経緯があります。関ヶ原の戦い後の1601年には山内一豊が入城しますが、山内一豊は高知城に本拠地を移したため、浦戸城は廃城となりました。
2017/09/13
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香長平野を見下ろす岡豊山に岡豊城があり、戦国時代の四国の覇者である長宗我部氏が本拠地とした場所です。詰丸(本丸)の櫓から見た香長平野岡豊城は戦国の中世城郭で、山頂部の詰丸(本丸)を中心として、二ノ段・三ノ段・四ノ段の曲輪が連なる縄張となっています。土塁や曲輪などの遺構もよく残っており、堅固な縄張の様子がよくわかりました。四ノ段虎口跡四ノ段空堀跡四ノ段の曲輪跡三ノ段の曲輪跡三ノ段の礎石建物跡詰丸に近い場所にあって面積は125平米と広く、鉄鍋や石臼などの生活用品が出土したそうで、御殿のような役割だったかも知れません。二ノ段の堀切跡二ノ段の曲輪跡東側の斜面に配された二ノ段の曲輪から眺めると、土佐国分寺やかつての土佐国衙跡を望むことができました。二ノ段から見た東側の遠景二ノ段(二の丸)と詰丸(本丸)の間には、さらに「詰下段」の曲輪が配されており、何とも用心深いことです。詰下段の曲輪詰丸(本丸)では発掘調査の結果、建物の礎石跡が発見され、その位置や基礎から天守のような二階建て以上の建物があったとされています。現在は櫓が建てられていますが、何と平成31年2月末までの期間限定だそうです。期間限定の櫓というのも中々珍しいことです。櫓からの眺めはとても素晴らしく、遠く土佐湾の方には太平洋の水平線を望むことができました。高知龍馬空港も近いので、旋回しながらファイナルアプローチに入るボンバルディアDHC-Q400を見ることもできました。岡豊城から西側に続く稜線上には独立した曲輪があり。「伝厩跡曲輪」と名付けられていました。伝厩跡曲輪に続く堀切跡伝厩跡曲輪伝厩跡曲輪から見た西側の眺望岡豊城の築城は13世紀から14世紀とされ、後に土佐から四国の覇者となる長宗我部氏の本拠地でもあります。一時は岡豊城を失いましたが、長宗我部国親の時に岡豊城を奪還し、その子長宗我部元親の時には岡豊城を拠点に四国を統一しました。隣接の高知県立歴史民俗資料館にある長宗我部元親像豊臣秀吉に降伏した後は土佐一国となり、1591年に本拠地を浦戸城に移してからは、岡豊城も廃城となっています。日本城郭協会「続日本100名城」
2017/09/12
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聖武天皇から律令制の各国に「国分寺建立の詔」が発せられたのは、実に今から1300年近く前の741年のことです。当時の伽藍を残しているのは東大寺くらいかも知れませんが、宗派を変えながらも寺院そのものが残っている国分寺は数多くあります。土佐国分寺もそんな国分寺の1つで、真言宗の寺院として存続しており、四国八十八霊場の二十九番目札所となっています。仁王門土佐藩第二代の山内忠義によって寄進されたもので、1655年に建てられました。鐘楼さすがに巡礼者が多く、お遍路さんでない方が珍しいくらいでした。金堂(国指定重要文化財)1558年、長曾我部元親によって創建時の金堂跡に再建されたものです。開山堂創建年代は不明ですが、江戸時代の1849年に再建されたそうです。境内には、創建時の国分寺の塔心を配した庭園もありました。さすがは四国八十八霊場で、熱心な巡礼者が多い印象です。
2017/09/11
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律令制時代の土佐国では、政治の中心地は現在の南国市にありました。耕作地の広がる畦道に国衙跡の碑が建っています。国司として土佐に赴任したのが紀貫之で、国衙から北へ300mほどのところにある国司館跡は紀貫之邸跡とされています。国司館跡(紀貫之邸跡)紀貫之が撰者の一人として編纂した古今和歌集に因んで、隣にある庭園は「古今集の庭」と名付けられていました。国府の碑「土佐のまほろば ここに都ありき」と書かれています。土佐国衙の北側には「比江(ひえ)山」と呼ばれる小高い山があり、京都から赴任してきた国司が、故郷の比叡山に因んで名付けたとされます。日吉(ひえ)神社比叡山の日吉神社を勧進した神社です。拝殿の隣にある「内日吉」は、紀貫之が土佐に赴任した時に祀ったものです。紀貫之が土佐から京都に帰るとき、その祭祀を公文氏に託し、現在も公文氏の一族によって守られているそうです。紀貫之が京都に帰る道中のことを書いたのが「土佐日記」で、日本最古の日記文学にして、最古のブログでしょうか。ところで、ここを訪れるまで、ずっと勘違いをしていたことがありました。百人一首で紀貫之の詠んだ歌と言えば「ひさかたの 光のどけき春の日に しづ心なく 花の散るらむ」だと、これまでずっと思い込んでいました。これは紀貫之の従兄弟である紀友則の歌で、紀貫之は「人はいさ 心も知らず ふるさとは 花ぞ昔の 香ににほひける」でした。改めて読んでみると、紀貫之らしくアイロニーある歌だと思います。ここに来なければ、これからも勘違いしていたところでした。
2017/09/10
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「土佐の高知の はりまや橋で 坊さんかんざし買うを見た」 と、よさこい節の最初に出て来るのが「はりまや橋」です。とかく「三大何とか」はどの分野にもあるものですが、はりまや橋は札幌時計台・首里城守礼門と並んで、「日本三大がっかり」の1つに数えられています。(三番目は首里城守礼門ではなく、長崎のオランダ坂・京都タワー・名古屋テレビ塔とする説もあるようです)札幌時計台は行ったことがないのでわかりませんが、確かに首里城守礼の門や長崎のオランダ坂も、「あら?ここ?」みたいに、普通に周囲と馴染んでいる感がありました。(京都タワーや名古屋テレビ塔は見慣れていることもあって、個人的には特にがっかり感はありません)いずれにしても有名で期待が大きいだけに、「来てみれば さほどでもなし 富士の山」と言ったところでしょうか。はりまや橋の名前は「播磨屋」に由来しており、播磨屋と櫃屋の私設の橋だったそうです。現地の解説板(抜粋)ちょうど訪れた時、向かいのビルにあるからくり時計が、よさこい節と共に動き始めました。
2017/09/09
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松山城本丸への登城道はいくつかあり、今回紹介した三の丸からの黒門口の他に、東雲口・古町口・県庁裏の登城道があります。中でも便利なのは東雲口の登城道で、ロープウェーかリフトで直接本丸に登ることができます。帰り道はリフトに乗って、東雲口の大街道の方に降りて行きました。大街道のロープウェー街ロープウェー街と呼ばれる坂道の途中には、萬翠荘、坂の上の雲ミュージアムや秋山好古・真之の生家があります。萬翠荘(2011年12月)坂の上の雲ミュージアム(2011年12月)秋山兄弟の生家(2011年12月)伊予鉄道の大街道駅から松山市駅まで、せっかくなので路面電車ではなく、歩いてみることにしました。大街道商店街のアーケード入口大街道から松山市駅までは結構距離があり、やはり途中で心が折れました。結局こうなってしまいます。【愛媛の郷土料理】(株)程野商店 瀬戸内鯛めしの素〈お取り寄せ〉〈ギフト〉〈松山あげ使用〉【愛媛のお菓子】【人気のお土産】(株)母恵夢 母恵夢(ポエム) 9個入<お土産最適><プレゼントに>一六タルト「柚子」2本入【四国名菓】【和菓子 ギフト 内祝い 手土産 和スイーツ 御供え 仏事 愛媛】【珈琲・和菓子アワード2016 グランプリ】
2017/08/17
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戦国の中世城郭はもちろんのこと、近世城郭でも建造物が残っているのは稀なことで、門や櫓の一つでも残っていれば良い方でしょうか。ましてや天守が残っている城郭は全国に12城しかなく、伊予松山城の天守もそんな現存天守の一つです。本丸から見た松山城天守南北に長い松山城の本丸で、天守群のある北側は「本壇」と呼ばれています。天守もさることながら、松山城の本壇には21棟の建造物が現存しており、いずれも国の重要文化財に指定されています。本壇案内図紫竹門東塀(現存、国指定需要文化財)本壇の虎口、一ノ門の桝形背後にあるのが大天守です。一ノ門(現存、国指定重要文化財)二ノ門と東塀と南櫓(いずれも現存、国指定重要文化財)個人的には塗籠の「白いお城」より、板張の「黒いお城」の方が武骨でいいと思います。三ノ門(現存、国指定重要文化財)塗籠の「白いお城」がハイカラならば、板張の「黒いお城」はバンカラといったところでしょうか。筋金門(復元)筋金門東塀(現存、国指定重要文化財)ここはハイカラな塗籠の土塀になっています。筋金門から見た天守筋金門を抜けると、大きな桝形のような場所があり、「天守広場」となっていました。多聞櫓(復元)表玄関と内門(復元)内門から見た天守(現存、国指定重要文化財)内門の先はさらに桝形になっており、仕切門が続いています。仕切門(現存、国指定重要文化財)仕切門(外側から見たところ)現存建造物はもちろんですが、昭和になって焼失した建造物も外観復元されているため、当時の意匠をうかがい知ることができます。伊予松山城が築城されたのは1602年のことで、築城主は加藤清正や福島正則などと共に「賤ケ岳七本槍」で知られる名将、加藤嘉明です。松山城のマスコットキャラクター(?)、「よしあきくん」加藤嘉明が約26年の歳月をかけて築城した松山城でしたが、1627年の完成前に加藤嘉明は会津若松に移封となっています。伊予松山20万石から会津若松40万石と大幅な加増ではありましたが、新居の完成前に転勤する心境はいかがなものだったでしょうか。歴代伊予松山藩主歴代会津若松城主(2017年6月、会津若松城にて)加藤嘉明と入れ替わるようにして、会津若松から伊予松山に入封してきたのが蒲生忠知(蒲生氏郷の孫)で、その時は24万石です。そう言えば伊予松山を舞台にした夏目漱石の「坊ちゃん」で、坊ちゃんの盟友となる「山嵐」(数学の堀田)も会津の出身でした。何かと縁があるのでしょうか。JR松山駅前にある正岡子規の句碑「春や昔 十五万石の城下哉」15万石とは随分控えめと思いきや、松平定行の時は15万石だったようです。日本城郭協会「日本100名城」
2017/08/16
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松山城の本丸は勝山の山頂部にあり、南北に長い曲輪となっています。画像の上が北になります。登城道を直進して本丸南面に行くと、目の前に高石垣が現れました。見事な高石垣ですが、これに見とれていると本丸に入ることはできません。本丸の虎口は1ヵ所しかなく、「戸無門」が唯一の入口となります。戸無門(現存、国指定重要文化財)高麗門形式ながら、その名の通り扉がありません。なんとも物騒な本丸玄関だと思いきや、その先には「筒井門」の櫓門が待ち構えていました。実質の本丸大手門である「筒井門」現存建築物でしたが、昭和24年の放火により焼失してしまい、後に復元されたものです。大手口の櫓門にしては珍しく、筒井門の脇には埋門形式の「隠門」がありました。隠門(現存、国指定重要文化財)戸無門続櫓を城内から見たところ(現存、国指定重要文化財)筒井門の先はさらに石垣で一段高くなっており、太鼓門と太鼓櫓が復元されています。太鼓門(復元)太鼓櫓(復元)太鼓門を抜けると本丸広場があり、天守群の姿が目の前にありました。本丸広場から西側を眺めると、城下町の向こうに瀬戸内海が広がっています。画像の中央やや左に父方の実家があり、ずっとあの辺りからお城を眺めていたことになります。
2017/08/15
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前回松山城を訪れたのは10年前のことで、その時に比べると二の丸の風景が変わっているように思いました。何度か訪れているため、そもそも直近の記憶があいまいなのですが、その時は土塀がなかったように思います。二の丸の案内図三の丸から二の丸への登城口二の丸は「二之丸史跡庭園」となって、周囲に土塀が復元されています。二の丸奥御殿の土塀表御殿の土塀二の丸史跡庭園の全景前回は庭園の様子がよく見えたので、土塀は復元されていなかったように思います。二の丸の搦手口であり、本丸大手口に続く登城道入口には、松山城でも最大の「槻(けやき)門」が置かれていました。槻門跡槻門を抜けると、樹林帯の中を進む登城口が続き、ようやく本丸の石垣が見えてきました。黒門口登城道本丸石垣またも記憶があいまいなのですが、何年か前に放映されたNHKの大河ドラマ「坂の上の雲」のオープニングで使われていたのもこの辺りではなかったでしょうか。本丸太鼓櫓と筒井門
2017/08/14
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自分には馴染み深い城下町が2つあり、1つは長州萩でもう1つが伊予松山です。萩は母方の実家があり、松山には父方の実家があります。父方の実家は松山城の三の丸外堀から500メートルと離れていないため、城山の山頂にはいつも天守が見えていました。三の丸から見た城山子供の頃は現存天守の価値もわからないまま、ただ普通に見ていた本丸の光景です。三の丸の地図三の丸西側の外堀伊予鉄道の「西堀端」の電停があります。三の丸南側の外堀同じく「南堀端」の電停があります。三の丸東側の外堀松山城の三の丸虎口は2か所あり、東側に通用門の「東御門」がありました。。東御門の櫓台跡松山城の登城ルートとして、大街道の方からロープウェーやリフトを使うと直接本丸へ行けるのですが、今回は三の丸から二の丸、本丸と、歩いて登ることにしました。
2017/08/13
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琴電高松築港駅のすぐ隣りに玉藻公園があり、ここが高松城跡です。高松築港駅玉藻公園入口「玉藻よし」が讃岐の枕詞で、高松城も別名玉藻城と呼ばれていました。高松城の内堀は水門で瀬戸内海につながっており、ここでは鯛が飼われているそうです。「讃州さぬきは高松様の城が見えます波の上」の歌があるように、当時は高松城のすぐ向こう側に瀬戸内海が広がっていたようです。水手御門と月見櫓(現存)月見櫓(内側から見たところ)櫓台の石垣を見ると、所々に矢穴(石垣を加工する時のミシン目)も見られました。途中で櫓が増築されたのか、櫓台の石垣が継ぎ足されています。内堀の船着き場のところで、訪れた人から「ここは豊臣秀吉の水攻めの城だ」と聞こえたのですが、水攻めの城は備中高松城で、しかも岡山にあります。讃州高松城は日本三大水城に数えられるほどの水城で、豊臣秀吉でもこの城を水攻めにするのは不可能だったかと思います。むしろ城内から水軍が出てきて、返り討ちに遭うのが関の山でしょうか。讃岐高松城はその豊臣秀吉の命により、生駒親正によって築城されました。瀬戸内海の要衝の地にあって、縄張りを行ったのは黒田如水(官兵衛)とも藤堂高虎とも言われています。同じく三大水城に数えられる中津城や今治城と比べてみても、石垣は中津城(黒田官兵衛)のようでもあり、水堀は今治城(藤堂高虎)のようでもあり、どちらがどうとも言えません。藩主が生駒親正から松平頼常に代わると、三の丸には披雲閣と呼ばれる藩庁が建てられていました。現在は大正時代に松平氏によって建てられた披雲閣があります。披雲閣披雲閣の敷地内には、同じく大正時代に造園された枯山水の「内苑御庭」が広がっていました。披雲閣入口のある三の丸南側には桜御門の跡があり、その先には桜馬場の曲輪があります。桜御門跡戦前までは門があったようですが、空襲で焼失してしまいました。石垣にはその時の焦げ跡が残っています。桜馬場名前からすると大手口の馬出と思われますが、桜の名所だそうです。大手口に近い南東にも隅櫓が現存していますが、巽櫓(南東)ではなく艮櫓(北東)の名前がありました。艮櫓月見櫓と同じく江戸時代の1677年に建てられたものですが、元々北東の隅櫓であったものを、南東の隅櫓があった場所に移築したそうです。外側から見たところ桜馬場の南東側に旭橋御門と旭橋があり、こちらが高松城の大手門になります旭御門の枡形旭橋と旭橋御門の表門(外側から見たところ)明治時代まで高松城の本丸には天守が建っていたようですが、老朽化によって取り壊されたとのことです。天守台当時は三の丸から見ると、天守が海に浮かんでいるように見えたそうです。天守台のある本丸は、岬のように内堀に突き出しており、本丸との間には鞘橋が架けられていました。鞘橋天守台入口ここの石垣にも矢穴が残っており、現存する石垣だと思います。天守の礎石跡天守については古写真も残っているため、復元の動きがあるようです。史実に基づかない復興天守には否定的ですが、古写真や設計図を基にした復元天守はいいと思います。いつか天守から瀬戸内海を望むことができるでしょうか。(財)日本城郭協会「日本100名城」
2013/06/20
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丸亀城に来るのは2回目なのですが、前回はずっと以前だったので、「たしか丸亀城には行ったことがある」くらいの記憶しかありません。しかも前回は雨降りだったように思うのですが、今回は丸亀に着いた途端に天気が良くなりました。大手方向から見た丸亀城築城当時の大手は反対側の南側にあったようですが、京極氏の時に北側に移されたようです。大手虎口と大手濠大手濠には入隅と出隅の石垣だけでなく、土塀も見事に残っていました。大手一ノ門(現存)大手一ノ門(内部から見たところ)高麗門形式になっており、雁木や狭間も残っていました。大手門内部は枡形虎口になっており、枡形や櫓門も現存しています。枡形内部櫓門形式の大手二ノ門(現存)大手虎口を抜けると、左手には三の丸へ通じる「見返り坂」があり、右手には玄関先御門と番所がありました。玄関先御門(こちらも現存)玄関先御門に続く番所(現存)三の丸へ通じる見返り坂見返り坂を登ったところでは、目の前に二の丸の高石垣が現れました。打込み接ぎで積まれた高さ22mの高石垣これほどの高石垣を積める人は加藤清正と藤堂高虎の2人しか知らないのですが、隅石には扇の勾配があり清正流の石垣だと思います。(熊本城の記事→こちら)三の丸の曲輪跡三の丸からは、正面に飯野山(讃岐富士)を眺めることができました。丸亀城の縄張りは輪郭式になっており、本丸の周囲に曲輪と石垣が巡らされていました二の丸石垣二の丸虎口二の丸の曲輪そして本丸にあるのが現存12天守の1つ、江戸時代初期に建てられた三重天守です。天守の背後には瀬戸内海が広がり、瀬戸大橋が見渡せました天守が現存する城は全国に12城しかありませんが、丸亀城では天守だけでなく石垣や門なども現存し、さらには本丸から大手までの縄張りが本当によく残っていました。丸亀城は生駒親正によって1597年に築城が開始され、5年の歳月をかけて1602年に完成しました。生駒氏がお家騒動で転封になると、1641年に山崎家治が入城し、石垣の改修などを行っています。山崎家治が肥後(熊本)から入封したことを考えると、現在残る清正流の石垣も山崎氏の時代のものだと思われます。(財)日本城郭協会「日本100名城」
2013/06/19
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しまなみ海道に来て、素通りできないのが大三島でした。大三島はしまなみ海道が通る芸予諸島のほぼ中央部にあり、「国宝の島」と呼ばれたりもします。大三島が「国宝の島」と呼ばれる由縁は大山祇(おおやまづみ)神社にあり、国宝・重要文化財に指定された武具の約8割が大山祇神社に奉納されたものです。大山祇神社の鳥居出雲大社の時もそうでしたが、いざ鳥居の前では実感がないものです。総門2010年4月に688年ぶりに再建されたものです。神門1661年に松山藩主松平定長によって寄進されたものです。拝殿(国指定重要文化財)応永年間(1394年~1428年)に再建されたものとされ、昭和30年に当時の様式に復元されたものです。大山祇神社の祭神は大山積(おおやまづみ)大神で、大山積大神の子孫であり、神武天皇東征の時に先駆者として伊予の島を治めていた乎千命(おちのみこと)によって鎮座されたそうです。社殿もさることながら、大山祇神社の境内は日本最古の原始林社叢の楠に覆われており、大山祇神社の楠群として天然記念物にも指定されています。乎千命お手植えと伝えられる楠(樹齢約2,600年です)能因法師雨乞の楠樹齢3,000年で日本最古の楠だそうです。後冷泉天皇の時代、伊予の国守である藤原範国は、能因法師を雨乞の使者として遣わせました。能因法師は「天の川 苗代水に せきくだせ 天降ります 神ならば神」と祈願したところ、伊予の国には三日三晩雨が降ったそうです。大山祇神社は朝廷や武将から厚い信仰を受け、源平を始めとする多くの武将が武具を奉納してきました。宝物館にある国宝の武具国宝以外にも弁慶が奉納した薙刀など、ここだけでも一見の価値はあるかと思います。
2012/02/17
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大三島の多々羅しまなみ公園から海沿いを南へ向かうと集落があって、甘崎城跡の案内標識が見えてきました。さらに海側へ160mほど行ったところに城跡があるようですが、海岸線まではそんなに遠くないところです。案内標識通りに集落の中の細い道を曲がると、すぐに海岸線に行き当たり、防波堤の上に城跡の看板だけが建っていました。道路から城跡までは確かに160mなのでしょうが、甘崎城そのものは沖合いに浮かぶ水軍城でした。甘崎城遠景甘崎城は最古の水軍城とされ、671年に天智天皇の勅命により、唐軍の侵攻に備えて築城されたとされています。戦国時代には藤堂大学頭(藤堂高虎の弟?)がいたと言われています。長崎出島で勤務していたドイツ人エンゲルト・ケンペルは、1691年に甘崎城の沖を航行し、帰国後に著した日本誌(大英博物館収蔵)の中で、「海中よりそびゆる堡塁あり」と記しているそうです。潮が引くと歩いて渡れるようですが、海底には礎石となった巨石の列が今も残っているようです。
2012/02/16
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今治から来島海峡を隔てた大島の北東側、沖合いに浮かぶ能島を望む場所に村上水軍博物館があります。村上水軍博物館から見た能島周囲720mほどの小さな無人島ですが、この能島が能島村上氏本拠地であり、因島村上氏・来島村上氏・能島村上氏の村上水軍全軍の本拠地でもあります。能島の航空写真村上水軍全軍の本拠地としてはあまりに小さな島ですが、陸から攻めて来られることはまずないでしょうし、潮流の激しい瀬戸内海航路の要衝を抑えるこの場所が最適なのかも知れません。しまなみ海道の大島南ICを下りた時から感慨深いものがあったのですが、実は私のルーツを辿るとこの大島に行き着き、先祖は村上水軍として瀬戸内海の島を領有していたと聞きます。(もちろん村上水軍の本家ではありませんが)私の名字はさほど珍しくもないのですが、数でいうと全国では79番目に多い名字となり、愛媛県では39番目、今治市では17番目に多い名字となるようです。(今治市の特定の地域では村上氏の次ぐらいに多いそうですが、父方の実家である松山ではさほどでもないようです)村上水軍を辿ることは、自分のルーツを辿ることでもありました。村上水軍博物館の碑能島村上氏の当主、村上武吉像村上武吉の次男である村上景親像村上水軍博物館に入ってみると、村上水軍ゆかりの品々が展示されており、その歴史も知ることができました。おそらく村上水軍のことならばここが一番詳しいのではないでしょうか。当時の水軍で使われていた安宅船の模型村上水軍旗が掲げてある以外は、戦国時代にはありがちな安宅だったようです。小早船の模型こちらも普通の小早といった感じですが、この小早の操船技術が機動力の源泉だったのかも知れません。関船の模型関船の名前は初めて聞きましたが、海上の関を破る船舶の追撃用だそうです。村上氏の起源や能島・因島・来島の三島に分かれた経緯などは諸説あるようですが、すでに南北朝時代から海上警固や通行料の取立て、さらには略奪などの海賊行為を行っていたようです。戦国時代には三島の村上氏で芸予諸島を掌握し、各地に水軍城を築いて西瀬戸内海の制海権を握っていました。水軍城の所在図この中にご先祖様のお城があるのでしょうか。能島・因島・来島の村上氏の結び付きはさほど強くなかったようで、四国に近い来島村上氏は伊予の河野氏方につき、広島に近い因島村上氏は毛利氏に従っていたようです。その中で能島村上氏は独立した存在で、来島村上氏と対立して能島城を包囲されたこともありました。能島村上氏に伝わる虎蹲砲文禄・慶長の役で村上武吉の次男村上景親が朝鮮から持ち帰ったものを改造したものです。豊臣秀吉政権下では海賊禁止令によって力を弱められ、さらには関ケ原の戦い後に毛利氏が防長二カ国に移封になるに伴って、村上氏も周防へと移っていきました。江戸時代には周防三田尻(防府)で長州藩の船手組を勤めていたようです。関連の記事村上武吉墓所(山口・周防大島町)→こちら
2012/02/14
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しまなみ海道を今治北ICで下り、今治市内を南に向かった海岸近くに今治城があります。現在は本丸部分の高石垣が残っており、周囲には広い水堀が巡らされていました。当時は海水を引き入れた水堀だったようで、中津城(大分)・高松城(香川)と並んで日本三大水城の1つに数えられています。直線的な高石垣と幅のある水堀が、築城の名手である藤堂高虎流の築城法です。今治城の本丸は方形の曲輪なのですが、東西南北に向いておらず磁方位に対して45度傾いた格好になっていました。櫓門の鉄御門がある方を大手と見るのが妥当なのでしょうが、背後の海側しかも鬼門である北東側に大手があることになります。鉄御門までは土橋が架けられており、やはりこちらが大手のようです。さらには南東(巽)と並んで吉方位とされる北西(乾)側は、北東の鬼門の方角のように石垣の隅が欠けた縄張りとなっていました。北西側の入隅江戸城では鬼門の方角、ちょうど気象庁の前あたりがこんな感じです。今治城開城400年の記念事業として鉄御門の復元が開始され、平成19年に復元が完了しました。鉄御門を挟んで城内と城外に枡形が復元されており、枡形の石垣も復元されていました。櫓門形式の鉄御門鉄御門の枡形(城外)鉄御門の再建にあたっては、幕末期の古写真や文献を参考にしており、かなり忠実に再建されているそうです。枡形(城内)本丸内の建造物は明治の廃城令によって破却されており、現在は櫓が再建されていました。北側の武具櫓と多聞櫓(城外から見たところ)武具櫓(城内から見たところ)西側にある山里櫓(城外から見たところ)山里櫓(城内から見たところ)多聞櫓(城内から見たところ)本丸にある天守も再建されたもので、元々の今治城の天守は丹波亀山城に移築されたと伝えれています。今治城天守の資料は残っておらず、こちらは亀山城を基にして建てられた模擬天守です。城跡を見て回る中で、最も幻滅なのが史実に基づかない模擬天守だと思います。「お城」=「天守」となるのはわかる気もしますが、現存する建造物や縄張からこそ築城主の意匠を感じるのではないでしょうか。藤堂高虎の築城を感じるのは天守ではなく、このトリッキーな縄張と石垣の妙技だと思います。今治城は1602年に着工され、1604年に完成しました。たった2年でこれだけの城が出来上がるのも驚きですが、当時の城郭は現在の10倍の広さがあったそうです。関ヶ原の戦いの功績で、宇和島城から12万石加増の20万石で入封した藤堂高虎でしたが、他の築城に忙しかったようで、渡邊勘兵衛を築城奉行として今治城を築城しています。藤堂高虎像藤堂高虎は1608年に再び加増となって伊勢に移封となりますが、この時に今治城の天守が移築されたのは伊賀上野城ではなく、徳川家康の意を察して大阪の抑えとなる丹波亀山城だったそうです。藤堂高虎の人物像については語るまでもありませんが、同じ築城の名手と並び称される加藤清正とは正反対かも知れません。加藤清正の築城にも藤堂高虎の築城にも、戦闘拠点としての機能的な縄張りを感じますが、大きな違いがあるように思います。石垣だけでも加藤清正の曲線と藤堂高虎の直線の違いはあるのですが、加藤清正の築城には武骨な中に美しさがあり、藤堂高虎の築城には武骨な中にしたたかさを感じると言えば、やはり言いすぎでしょうか。(財)日本城郭協会「日本100名城」
2012/02/13
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日本100名城の選定にあたっては、各都道府県で最低1城を選定することが基準とされました。愛媛県では長野県と並んで1つの県で最多の5城が100名城に選定されており、愛媛県の中でも松山市からは2城が選ばれています。松山市から選ばれた100名城の1つはもちろん伊予松山城ですが、もう1つの選ばれた城郭が湯築城です。湯築城跡は道後温泉近くにあり、現在は道後公園として整備されています。伊予鉄道では終点の道後温泉駅の1つ手前に道後公園駅があり、道後温泉までは歩いて行ける距離にあります。湯築城は丘陵部に築かれた平山城で、周囲を二重の土塁と水堀で囲まれた縄張りとなっていました。外堀道後公園の正面入り口には土塁の切れた虎口跡がありましたが、実は搦め手の虎口跡だそうです。外堀と内堀の間には帯曲輪が広がっており、曲輪の跡から武家屋敷の礎石跡が出土したそうです。復元された武家屋敷土塁の間にある帯曲輪は戦闘拠点ではなく、居住空間として利用されていたようです。土塁や水堀が現存する城郭は特段珍しくもないのですが、城跡を見る限りでは、なぜ湯築城が日本100名城に選ばれたのかとても不思議に思いました。内堀跡土塁の内側の丘陵に上がって行くと、山頂付近に削平地があったのですが、これが曲輪の跡なのかどうかよくわかりませんでした。曲輪だと思って見てみると、横矢が掛かっているようにも思えますが、以前は道後動物園の敷地だったこともあり、人工的に造られた可能性もあります。丘陵の頂上部にも土塁と思われる跡が残っており、展望台広場となっていました。展望台からは、近世城郭である松山城の天守を間近に眺めることができました。同じ市内に100名城が2つあるのは、武田氏館・甲府城のある山梨県甲府市と松山だけですが、甲府・松山ともに代々の守護による中世城郭と江戸時代に入ってからの近世城郭の組み合わせです。湯築城の歴史は古く、南北朝時代の初めに伊予国守護であった河野通盛によって築城され、以後約250年の間、河野氏が本拠地としていました。豊臣秀吉の四国征伐に伴って、1585年に小早川隆景が伊予に侵攻、湯築城を攻囲しました。河野通直は籠城戦の末に降伏・開城し、ほどなくして湯築城も廃城となっています。伊予松山城の築城が開始されたのは加藤嘉明が伊予に入った1602年のことなので、伊予松山城は湯築城の廃城後に築城が開始されたことになり、この2つの城郭が両立することはありませんでした。こく
2011/12/03
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愛媛県のほぼ中央部、松山市と宇和島市の間に大洲市があり、江戸時代には大洲藩が置かれていました。現在残る大洲城の城郭は、江戸時代になってから築かれた近世城郭です。二の丸大手口門である櫓下門跡当時は水堀を渡った先に門があり、今は枡形がわずかに残っていました。二の丸跡二の丸には御殿があったようで、礎石の跡が残っていました。現在残る近世城郭は築城の名手である藤堂高虎によって築かれたものです。藤堂高虎らしく直線的な高石垣ですが、石垣の孕みが気になるところです。本丸には台所櫓と高欄櫓が現存しており、二つの櫓の間に建つ天守は復元ながらも、伝統的な木造建築で内部にわたって詳細に復元されたものです。平成16年に完成した復元天守ですが、天守の雛型と古写真が残っていたため、外観のみならず天守内部の復元も可能となりました。天守古写真外観写真が残っているだけでなく、雛型が残っていることは奇跡に近いかも知れません。天守雛型大洲は元々大津と呼ばれており、大洲城も鎌倉時代の1331年に伊予国守護である宇都宮豊房が大津城を築いたことに始まります。以後戦国時代の1568年に宇都宮氏が河野・毛利連合軍に降伏するまで、代々宇都宮氏の本拠地となっていました。河野氏の支配下となった後、豊臣秀吉の四国平定によって小早川隆景が伊予に入国し、大洲城も小早川隆景の支配下となりました。1595年には藤堂高虎が宇和島城に入って本拠地としましたが、後に宇和島城には城代を置いて、大洲城を居城としました。現在の近世城郭の縄張りも、藤堂高虎によるものです。江戸時代に入った1609年には脇坂安治が淡路島洲本城から入城し、天守を始めとする建造物を建築しました。脇坂氏の後に加藤貞泰(光泰の子)が大洲に移封となり、初代大洲藩の藩主となっています。以後は代々加藤氏が大洲藩主を務め、明治維新を迎えています。大洲城の天守は明治の廃城令では破却されなかったものの、老朽化を理由に1888年に解体されました。そして平成16年に大洲市制50周年の記念事業として、現在の天守が復元されています。(財)日本城郭協会「日本100名城」
2011/12/01
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松山市から山岳部を越えて南西に100kmほど行ったところに、愛媛県宇和島市があります。江戸時代の宇和島には宇和島藩が置かれ、南予地方の中核都市でもありました。宇和島市の中心部の城山に宇和島城があり、築城の名手藤堂高虎によって築かれた近世城郭です。大手口にある長屋門は藩老であった桑折(こおり)氏の長屋門を移築したもので、江戸時代に造られたものだとされています。長屋門をくぐると総石垣造りの城郭となっていました。井戸のあった井戸丸の曲輪へ通じる井戸丸門跡。枡形が残っていますが、櫓門があったのかも知れません。登城道を行くと目の前に高石垣が現れ、来るものを威圧するような圧迫感がありました。三之門跡から見た二之丸石垣これが藤堂高虎の築城術で、反りのない直線的な高石垣です。 宇和島城の縄張りは、本丸の周囲に帯曲輪のようにして二の丸が配され、その周囲に「藤兵衛丸」や「代右衛門丸」などの独立した曲輪があって、まるで戦国城郭のような縄張りでした。搦め手方向から見た鳥瞰図独立曲輪の一つである藤右衛門丸では、幕末の伊達宗城時代に造られた山里倉庫が移築されていました。1854年に建造されたもので、城下の練兵場の一角にあって武器庫として使われていたものです。解説板には「宇和島に現存する唯一の歴史的建造物である」と書かれていましたが、山里倉庫以上に貴重な建造物が宇和島城にはあります。登城道は何度もL字型に折れ曲がっており、本丸を目の前にしながらなかなか辿り着くことができませんでした。二之門跡から見た本丸石垣二の丸から見た本丸石垣ようやく本丸にたどり着くと、虎口はさらに折れ曲がっていました。本丸虎口の一ノ門跡そして本丸にあるのが現存天守です。宇和島城の天守は1666年に創建されたもので、宇和島城の他の建造物が空襲で焼失する中、天守が残ったのは奇跡でしょうか。全国には現存天守が12しかなく、宇和島城天守がその現存天守の1つです。ちなみに宇和島城の他、(伊予)松山城・高知城・丸亀城と、現存12天守のうち4つが四国にあります。宇和島城は宇和海に面した城郭だったのですが、現在は埋め立ても進み、海岸線は離れたところにりました。本丸から見た宇和海本丸を後にして搦め手方向へ降りていくと、さらに厳重に石垣で囲まれていました。原生林が生い茂る中にも石垣が積まれていました。搦め手には「上り立ち門」が現存していました。創建年代は明らかではありませんが、城郭の改修が行われた伊達氏の時代、寛文年間(1661~1671年)だと推定されています。宇和島城が最初に記録に現れるのは戦国時代の1564年で、家藤監物が板島丸串城に入ったのが始まりとされています。その後1575年には西園寺宣久の居城となり、1585年には小早川隆景が伊予に入って城代が置かれていました。1595年に入ってきたのが藤堂高虎で、大規模な築城工事によって現在の近世城郭が造られました。江戸時代に入った1608年に藤堂高虎は今治城に移封となり、1614年に伊達政宗の子である伊達秀宗が城主となりました。伊達氏の時代に大修築が行われ、現在の天守が再建されると共に、宇和島城と改名されています。伊達政宗の後は何かと御家騒動の多い伊達氏でしたが、最後の藩主伊達宗城に至るまで、代々伊達氏が宇和島藩の藩主を務めていました。
2011/11/29
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縄文時代からあったとされ、日本最古の湯とされる道後温泉です。道後温泉本館明治27年の建築で、夏目漱石の「坊ちゃん」もここに入りました。松山で唯一「坊ちゃん」が褒め称えたのが道後温泉ではなかったでしょうか。伊予鉄道道後温泉駅これまで松山と言えば「坊ちゃん団子」や「坊ちゃん列車」など、とにかく夏目漱石の「坊ちゃん」でした。それでも江戸っ子の「坊ちゃん」から見た松山は、全く違う文明のような書き方で、松山の人としても今1つ煮え切らない部分があったかも知れません。坊ちゃんでは複雑な松山ですが、ここ最近では一挙に盛り返しているのではないでしょうか。松山城の天守を背景にしたこのショットがなかなかいいと思うのですが、松山市内はどこも「『坂の上の雲』まつり」みたいな感じでした。松山城の登城口に加藤嘉明の騎馬像があるのですが、「賤ヶ岳七本槍」の1人で現在の松山城の縄張りの設計者も隅に追いやられたようです。坂の上の雲と並んでよく目にしたのが台湾です。新北投温泉と交流協定を結んだようで、坂の上の雲と台湾の幟が交互にならんでいました。思えば去年の今頃は台湾にいて、今年の今頃に瀬戸内海を渡って隣の道後温泉に気軽に来るとは思ってもいませんでした。
2011/11/27
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徳島市内には、四国三郎の吉野川を初めとして、何本かの川が集まってきています。そのうちの新町川と助任川は、分流して再び合流するため、大きな中州を形成しています。その中州に標高61mの城山があり、城山の山麓に徳島城は築城されました。縄張り図天然の要害と言えばこれ以上の場所はないと思われますが、川の内側にはさらに水堀が巡らされ、堅固な造りになっていました。大手付近の水堀何とも念の入った造りです。大手には「鷲の門」が復元されていました。鷲の門元々は薬医門だったのですが、太平洋戦争の空襲により焼失、平成元年に個人の寄贈によって復元されました。鷲の門をくぐって水堀に架かる橋を渡ると、石垣の枡形虎口なっていました。枡形虎口を抜けたすぐ先には、とにかく広い曲輪が広がっていましたが、ここにいきなり表御殿が建っていたようです。表御殿跡一面に桜が植えられており、花見の場所取りが行われていました。表御殿の先にも曲輪がずっと広がっていましたが、奥御殿が建っていたそうです。奥御殿あった場所枡形虎口のすぐ先に表御殿があるのは、何とも不思議な縄張りですが、そのあたりは築城主の考え方の違いなのかも知れません。ここまではいかにも近世の平城と言った風情でしたが、奥御殿の裏側にある城山に来ると、こちらは戦国城郭のような雰囲気がありました。城山の山腹にある東二の丸眼下に徳島市街地を見下ろす場所にあり、二の丸の名前からも物見曲輪の跡だと思っていたのですが、実はここに天守があったようです。東二の丸からさらに上に上がると、本丸の石垣が見えてきました。野面積みではありますが、何とも荒っぽい積み方です。そして山頂部に着くと、本丸の広大な曲輪が広がっていました。古城図を見ると、本丸には櫓がいくつか建っていたようです。北東側の櫓には埋門があったようで、現在はわずかにその跡が残っていました。非常時の脱出用の虎口で、すぐ下に助任川が流れています。標高61mとは言え、本丸からの眺めは良く、徳島市内をよく見渡すことができました。眉山築城するならあの山頂ではなく、やはりこちらでしょうか。「四国三郎」の吉野川方面徳島城は元々渭津城と呼ばれ、1385年に細川頼之が現在の城山に築城したのが始まりとも言われています。戦国時代になると、1582年に長宗我部元親が四国を平定するまでの間、しばしば城主が入れ替わっていました。1585年に豊臣秀吉が四国を平定すると、四国征伐で功績のあった蜂須賀家政(蜂須賀正勝の子)が阿波に入り、現在の城郭を築城しました。城内の蜂須賀家政像蜂須賀氏の徳島藩は明治維新まで続きましたが、明治になると徳島城は廃城となり、太平洋戦争の空襲により、唯一現存していた鷲の門を焼失しています。(財)日本城郭協会「日本100名城」
2010/04/05
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