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今日は虎屋さんの季節の生菓子です。虎屋さんの創業は室町時代で御所に菓子を納めてきた京都発祥の老舗です。写真の左が冬籠(ふゆごもり)と松襲(まつがさね)です。冬籠は冬の草木を紅色の羊羹で、雪をを山芋のそぼろであらわしているそうです。中はしろ餡です。松襲の緑は松葉の色、紫は木陰を表わしています。きんとん製で小倉餡です。日本で最も歴史のあるお店かも知れません(笑)
December 13, 2005
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縁起の良い絵馬が書かれたパッケージに入っています。白あんに卵黄、砂糖などを練り込み焼きあげた桃山で豆の形をした京菓子です。俵屋吉富さんは1755年(宝暦5)創業の京菓子の老舗です。本店は、室町通上立売を上ったところにあります。こちらのお店はは雲龍で知られています。雲龍は小倉餡と村雨餡を巻き上げた上品なお菓子です。書いていると、久しぶりに食べたくなってきました(笑)
December 8, 2005
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寶ぶくろ鶴屋吉信さんの新春のお菓子です。綺麗なパッケージが目に付きましたのでご紹介します。宝袋にあやかって一つ味わえば運が開け、二つ味わえば上々の首尾、三つ味わえば大願成就間違いなし だそうです(笑)中はこし餡とべに餡で、少し甘い目でした。日保ちはします。
December 6, 2005
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ご無沙汰しておりました。多くのお見舞いのコメントを頂きまして大変有難うございました。急に寒くなってきましたので、皆様もお身体にお気をつけ下さい。何とかブログを書けるまでに回復しました(笑)紅葉の最高の時期を逃してしまい残念ですが、身体と相談して散策してみたいと思っています。お店は寺町通今出川を少し上った所にあります。昔懐かしいお店です。鎌の形をした御鎌餅で知られています。とてもやわらかい餅の食感がたまりません。つるっと口に入ります。中はこし餡で黒砂糖の味がします。懐中しるこ形は烏帽子を表しているそうです。こくのある美味しいおしるこでした。冷え込んできましたので、いっそう美味しく頂きました(笑)
December 5, 2005
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風邪気味のため甘いものを何点か所望いたしました。甘いものはよくはいります。笹屋春信さんは西京区の千代原口の近くにあります。ここはよもぎ餅が美味しいのですが、文句は言っておれません(笑)外はご覧のように栗のかたちに、こんがり焼いてあります。中は白餡で栗が入って程好い甘さです。すべて頂きました(笑)
November 26, 2005
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袈裟形のおり蹲踞(つくばい)加藤清正が朝鮮王城羅生門の礎石を持ち帰り細川三斎に贈られたものです。細川三斎はこれを愛用し、参勤交代のときにも持ち歩いたそうです。
November 24, 2005
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苔庭が紅葉で覆われているのを想像して行きましたが、それには少し早すぎたようです。高桐院の簡単な説明はこちらをご覧下さいしかし西庭の紅葉は綺麗に色付いています。
November 23, 2005
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京都もいよいよ紅葉の季節になりました。デパートで可愛い紅葉のお菓子が有りましたのでご紹介します。千本今出川を少し上った所にある千本玉寿軒さんのもみぢ狩です。小さな栗が入った白餡を包んだ押し菓子で、玉露や濃い目のお茶で頂くと美味しいです。千本玉寿軒さんの西陣織の美しさをあらわしてつくられた西陣風味は有名ですが、まだ頂いたことがありません(笑)次の機会にまたご紹介します。
November 22, 2005
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本日は紅葉を中心にご覧下さい。
November 21, 2005
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今朝の光悦寺です。朝から綺麗なものを見せてもらいました。9時に着きましたが、もうかなりの人。今日は紅葉の光悦垣をご覧下さい。大虚庵
November 20, 2005
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千本通丸太町の交差点近くにあります。朝堂院の正殿の大極殿がこの付近にありました。朝堂院は朝廷の儀式が行われる中心の場所で周囲を回廊でかこまれて、南は応天門、北に昭慶門がありました。また中に十二の建物が東西対称にならんでおりました。北中央に大極殿があり毎年の朝賀、斎会など大切な儀式が行われました。795年(延暦14)ごろ完成しましたが、876年(貞観18)、1058年(天喜6)に火災で焼失し、そのつど再建されますが、1177(安元3)に焼失してからは再建されていません。大極殿遺址平安神宮は朝堂院を復元したもので、拝殿は大極殿を模したそうです。
November 17, 2005
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中京区聚楽廻西町にあります。平安宮(大内裏)の中の朝堂院の西側に豊楽院が設けられ、豊楽殿は元日節会、新嘗祭、大嘗祭節会などの国家的饗宴が行われました。東西は約39m南北は16mで屋根には、緑釉瓦が葺かれていました。豊楽殿の鴟尾 しび(大棟両側の飾物)鳳凰が羽根を大きく広げた鴟尾です。高さは1.5mで豊楽殿の大きさが分かりますね。鴟尾は仏教とともに伝わってきた棟飾です。後に鯱や鬼瓦に変わっていきます。
November 16, 2005
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錦を歩いていると、好物を見つけましたので買ってきました。でも麩まんじゅうは久しぶり。しっとりとぬれた笹の葉でくるんであります。つるっとした感覚とやわらかいけれど、こしのある歯ごたえ。たまりません。青海苔をまぜた生麩で美山の小豆のこし餡を包んでいます。食べた後、磯の香が口にのこります。もう一つ頂きます(笑)こんなもんじゃ どんなもんじゃ?いつも人が並んでますが・・・
November 15, 2005
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羅城門から北を見た平安京京都アスニーで平安京復元模型を見てきました。とても詳細に再現してありタイムスリップした気分です。平安京址を歩いてみたいと思います。平安京は794年(延暦13)遷都されますが、京都盆地の北部に造られました。 四神を意識して造営されています。四神とは北に玄武、南=朱雀、東に蒼龍、西に白虎です。これは玄武は船岡山、朱雀は巨椋池、蒼龍は鴨川、白虎は桂川にあてはまります。大きさは南北に約5.2km、東西に約4.5kmです。中央北部に大内裏がおかれ、大内裏の朱雀門から南端の羅城門まで朱雀大路がのびます。朱雀大路は平安京のメインストリートで幅が約85mあったそうです。東西では二条大路が一番広く約51mです。平安京の道路は30mくらいの大路と12mくらいの少路で規則的に配置されていました。朱雀大路より東が左京で西が右京です。また左京と右京は条と呼ばれる九つの区域に分けられ、条は四つの坊に分けられます。そして坊は十六の町へと分けられます。1200年前の話ですが信じられません。(笑)次回は大内裏から歩きたいと思います。
November 14, 2005
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東大路通と今出川通の交差点辺りを百万遍といいます。法然上人は加茂宮司の懇請により加茂の河原屋で念仏仏法を広め、それが知恩寺の始まりです。加茂社の神宮寺として建立され、創設期は加茂河原屋、加茂の釈迦堂などと称しました。もとは相国寺の北あたりにあり1382年(永徳2)相国寺の造営にあたり一条小川あたりに移されます。その後応仁の乱、天文法華の乱などで焼失しますが、1662年(寛文2)にこの地に移りました。第8世善阿上人の時、都に疫病が流行し、上人は勅命により参内し、七日間籠り百万遍念仏を唱えたところ疫病が止みました。後醍醐天皇より百万遍の寺号を賜りました。釈迦堂釈迦牟尼如来像釈迦像を安置した釈迦堂は当初は京都三大釈迦堂の一つ今出川釈迦堂として信仰を集めました。知恩寺が神宮寺と呼ばれていた頃からの本尊です。御影堂
November 12, 2005
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円山公園の北にあります。紅葉の色付き具合をみに知恩院に行ってきましたが、まだまだでした。(笑)知恩院は浄土宗の宗祖法然上人が念仏の教えを説いた東山の吉水の草庵に始まります。徳川家の帰依が厚く、現在の大寺院になったのは江戸時代以降のことです。三門は日本三大門のひとつで、1621年(元和7)に建られた五間三戸の二重門です。高さ34mで東大寺南大門より大きく、寺院の三門としては日本最大のものと言われています。御影堂は徳川家光によって1639年(寛永16)に建てられました。間口約45m、奥行35mの大きな堂塔で法然上人の御影を安置します。御影堂正面の右の軒裏には当時の名工左甚五郎が魔除けのために置いていったという忘れ傘がみえます。知恩院七不思議のひとつです。男坂の上から見下ろした三門
November 10, 2005
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下鴨神社の近くにあります。無病息災を願って神前に捧げられたのがみたらし団子のはじまりです。後醍醐天皇が糺の森で休まれたときに、この串団子が献上され、また豊臣秀吉が北野大茶会を行ったときにも献上されたといいます。帰ってもまだ温かく頂けました。焙った香ばしさと無添加の自然な甘みが美味しいです。糺の森御手洗池の湧き出だす水玉をかたどっているそうです。たれは写真では少ないですが、たっぷりと入っていました(笑)
November 8, 2005
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楼門豊かな自然が残る糺ノ森の北側にあります。上賀茂神社の祭神 別雷神 の母 玉依媛命と祖父 賀茂建角身命を祀ります。別雷神の母と祖父にあたり賀茂御祖神社といわれます。玉依媛命が鴨川で禊をされているときに、上流より流れ来た丹塗の矢を持ち帰り寝所におかれたところ、懐妊し男の子が生まれたと神話に伝えられていますので、古くから縁結、子育ての神さまとして信仰されています。賀茂建角身命は神武東征を道案内した八咫烏ともいわれ、導びきの神として方除、厄除け、入学、就職の試験などの合格、交通、旅行などに信仰されています。長い参道を進み大きな鳥居をくぐると、回廊を巡らせた丹塗りの楼門が目にはいり、境内には舞殿、橋殿、細殿などが並びます。中門をくぐり奥には国宝の東西両本殿が建ちます。舞殿橋殿糺ノ森は賀茂川と高野川の合流点付近の静かな森です。糺の語源には諸説あるますが、只洲からといわれています。御手洗川と泉川(瀬見の小川)が静かに流れます。石川やせみの小河の清ければ 月も流れを尋ねてぞすむ (鴨長明)方丈記の鴨長明は下鳴神社の神官の家に生まれています。媛小松ちはやぶる 鴨の社のひめこ松 よろずよふとも 色はかわらじ (藤原敏行)
November 7, 2005
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公開では二つの素敵なお庭を拝見することが出来ました。御池庭池を中心にした回遊式庭園です。前に船着きの飛石を置いて、右手に欅橋が架かっていています。優雅に舟遊びもいいでしょうね。(笑)御内庭小川を通し土橋や石橋を渡した趣のあるお庭です。
November 5, 2005
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京都御所は1331年にこの地に定まり、1869年まで皇居とされました。火災により大半が焼失しますが、1855年(安政2)に再建され、150年をむかえます。諸大夫の間虎の間諸大夫の間正式に参内した者控えの間。身分の高い順雲に虎の間(岸岱筆)、鶴の間(狩野永岳筆)、桜の間(原在照筆)などがあります。新御車寄1915年(大正4年)の大正天皇の即位礼に際し、建てられたもので、大正以後の天皇皇后両陛下の玄関です。紫宸殿即位礼などの重要な儀式を執り行う最も格式の高い正殿です。大正天皇・昭和天皇の即位礼もここで行われました。清涼殿天皇が日常の生活の場として使用されました。
November 4, 2005
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京都大学の東にあります。むかし八百万の神が集まって神楽を奏したという吉田神楽岡に鎮座します。859年(貞観元年)中納言藤原山陰が奈良の春日の四神を勧請し、平安京の鎮守神として創建したのがはじまりです。応仁の乱のころ、すたれますが、吉田兼倶が吉田神道(唯一神道)を創設し復興します。2月2,3,4日の節分祭は盛大に行われます。このときに奉納される追儺式は鬼やらいと呼ばれ有名です。徒然草の吉田兼好はこの社家の出身です。今宮社
November 3, 2005
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先日整理をしていて明治時代の資料が出てきましたので、ご紹介します。明治30年頃でしょうか。まだ町並みは江戸時代の雰囲気が残っているようです。八坂神社の狛犬には尖った竹でさくがしてあり、石段下には人力車が止まり客待ちをしています。石段の幅はかなり狭いですが、西楼門の形はほとんど変わっていません。八坂神社西楼門から見る四条通は当然舗装はされておらず、二階建ての店がきれいに並んでいました。そして左手には弥栄校の望楼だけが高く目立ちます。この頃には電柱も立っていました。京都では明治4年に人力車が初めて開業され、そして電柱は京阪神間に電信が開通して市内に見られるようになりました。のちに京都電灯会社が明治21年に創立されましたが、当初は先斗町や四条・五条通の灯火用でありました。京都での電灯の普及は明治25年の琵琶湖疏水利用の水力電気の供給後となります。110年ほどでよく進歩したものです(笑)
November 1, 2005
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家内がデパートで可愛いお菓子を買ってきました。桂華堂のお菓子です。以前買っていて、よく知っているお店でした。(笑)京乃ぴょんうさぎの形に焼いた可愛いお饅頭です。中には栗と小豆が入っています。日本茶だけでなく、紅茶にもあいそうです。うさぎ好き方へのお土産におすすめです。しあわせショコラやわらかいお餅の中に生クリームたっぷりのチョコレートが入っています。これは私には甘すぎました。(笑)
October 29, 2005
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お饅頭のように見えますが、お餅です。しっとり、もっちりとした餅生地と丹波大納言の粒餡がよくあいます。阿闍梨餅は比叡山の阿闍梨が厳しい修業中に、餅を食べて飢えをしのいだことに因んでいるそうです。このかたちは阿闍梨がかぶる網代笠を模っています。半生で袋に入って、日持ちしますので、お遣い物に最適です。でも出来たての阿闍梨餅も最高です。これも二つはいけます。(笑)最近何を思ったのか熱帯魚を飼い始めました。(笑)こちらのブログを書いていない時は、熱帯魚のブログを書いている思いますので、宜しかったら、お立寄り下さい。
October 26, 2005
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妙満寺にあります。 雪の庭は、松永貞徳の造営です。貞徳は清水・北野にも同時に庭園を造ったとされています。清水寺に「月の庭」、北野に「花の庭」、妙満寺に「雪の庭」を作りました。それぞれが成就院という坊にあったことから成就院 雪月花の三名園と呼ばれていました。真白に覆われた雪景色を想像してください。現在は「月の庭」と「雪の庭」しかありません。松永貞徳は江戸時代初期の京都生まれの俳人で和歌を細川幽斎に、連歌を里村紹巴に学びます。連歌から俳諧を文芸として独立させ、松尾芭蕉にも大きな影響を与えました。1629年(寛永6)俳諧大興行 雪の会 が行われ始めて俳諧が公式の場に登場しました。
October 24, 2005
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深泥池の北にあります。日什上人が1389年(康応元年)に六条坊門室町に妙塔山妙満寺を建立したのがはじまりです。応仁の乱など幾度の兵火で移り1583年(天正11)秀吉により寺町の二条に、そして昭和43年に現在地に移りました。こちらには娘道成寺の「鐘に恨みは数々ござる」で知られる安珍・清姫の鐘があります。紀州道成寺の霊話が歌舞伎などの芸能に取り入れられました。熊野詣での修験者の安珍が一晩の宿に泊まった庄屋の娘清姫と恋におちます。再会を約束して旅立った安珍は、清姫を裏切って逃ます。清姫は燃える恋の情から蛇になり、紀州道成寺まで安珍を追い、鐘の中に隠れた安珍を見つけた清姫は、炎を吐いて安珍を殺すと、自らも日高川に身を投じました。後に1359年(正平14)道成寺では安珍・清姫の伝説以来失われていた鐘を再鋳し、鐘供養を営みました。白拍子が舞いが終わると呪力で鐘を落とし、蛇に変わり日高川へと姿を消しました。その後近郊では災難が続いたため、清姫のたたりと恐れ、竹林に鐘を埋めましたが、秀吉の根来攻めのとき、掘り起こされ京の妙満寺に納められたといわれます。こちらに来た目的のひとつの仏舎利大塔は改修のため白いテントに覆われていました。残念でした。インドの聖地 ブッダガヤの大塔を模した仏舎利大塔です。釈迦牟尼仏の精神に帰れ という妙満寺の教えを象徴しているそうです。一階の内部には釈迦牟尼仏坐像が安置して有ります。
October 22, 2005
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上賀茂神社の境外摂社で、約500m東にあり、静かな林の中に建っています。祭神には天鈿女命を祀ります。参道の東側の 大田の沢 には平安時代より野生のカキツバタが群生し国の天然記念物に指定されています。神山や大田の沢のかきつばたふかきたのみは 色にみゆらむ (藤原俊成)と詠われています。5月ころになりますと約1500平方メートルの沼に、濃紫の花が咲き乱れます。ふだんは静かで小さな神社です。
October 20, 2005
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上賀茂神社の門前にあり人気のやき餅のお店です。葵祭にちなんで葵餅とも呼ばれています。つぶ餡をつき立ての餅で包みほんのりと焼き色をつけた、やき餅です。滋賀県産の餅米と岡山産の小豆を使ってるそうです。手作りですので形が整っていません。香ばしく、甘すぎず、美味しいです。ふたつはいけます。(笑)
October 19, 2005
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上賀茂神社の境内を出た、なら小川の水の流れは明神川と名を変えます。藤ノ木通りに沿って白く高い土塀の家が続きます。ここが社家の道です。社家とは上賀茂神社の神官の屋敷です。明神川をまたぐ小橋がかけられ、水をそれぞれ屋敷内に取り込み、庭を巡らせて、また川へ戻す仕組みになっていました。江戸時代には275軒もの社家が建ち並んでいたそうです。なり田社家の道の東側の一軒で1804年(文化元年)創業のすぐきで有名なお漬物やさんです。すぐきは上賀茂特産のすぐき菜を岩塩だけで自然に乳酸発酵させた京漬物です。ほどよい酸味と、ほのかな甘い香りで美味しいです。日本酒によく合います。すぐきは寒くならないと美味しくなりませんので、待ち遠しいです。
October 18, 2005
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上賀茂神社は正式には「賀茂別雷神社」といい、下鴨神社の祭神・玉依姫命の子、賀茂別雷神が祀られております。京都でも最も古い神社の一つです。この賀茂の地は、古くから豪族賀茂氏の勢力のつよいところでした。賀茂氏の氏神を祀ったのが起こりで、7世紀後半の天武天皇の時代に社殿の基が造営されました。朝延から重んじられ、5月15日の葵祭りには天皇の勅使がおもむきます。一ノ鳥居から参道の両側には芝生が植えられ広々としてます。二ノ鳥居を入ると細殿の前には祭神の降臨地と伝わる神山をかたどった円錐形の立砂が目につきます。厳かな雰囲気が漂う境内には朱塗りの楼門、高倉殿、本殿、権殿、などの社殿が建ちます。広い境内の社殿や木々の間を流れる「ならの小川」は、風そよぐ ならの小川の 夕暮れは みそぎぞ夏の しるしなりける(藤原家隆)と詠まれています。
October 17, 2005
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仙太郎の代表的な菓子です。面白いネーミングですね。2枚の皮の間にこぼれんばかりの餡を挟んだ最中です。ボリュームたっぷりの上に、控えめな甘さのため美味しく頂けます。最中は江戸時代半ば頃に生まれたわが国特有のお菓子で,自社で栽培した丹波大納言を氷室の純水で炊いているそうです。最近は甘党に変わりつつあります(笑)
October 14, 2005
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智恵光院通今出川上ルにあります。奥州の黄金商人金売吉次の屋敷であったといわれ、この地で義経ははじめて音次と会いました。1174年(承安4)鞍馬山から屋敷近くの内野八幡宮に参詣し旅の安全と武勇の上達を願い、金売吉次に伴われ奥州平泉の藤原秀衡のもとへ旅立ったといわれています。首途 とは出発の意味から、首途八幡宮と呼ばれるようになりました。寿永年間(1185年)の頃、源九郎義経が平家追討の折に首途に際して九州宇佐八幡宮よりを勧請して祈願したと伝わります。誉田別尊(応神天皇)・比賣大神・息長帯姫命(神功皇后)を祀ります。社伝によりますと、この地は古く平安京御所の北東の隅に位置し、当時より皇城鎮護の社として重んぜられ、皇后方の尊崇も厚く、桃薗親王の旧跡としても知られていました。
October 13, 2005
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庫裡この地は大徳寺家の別荘だったのを1450年(宝徳2)細川勝元が譲り受け、妙心寺の義天玄承を開山として龍安寺としました。応仁の乱で焼失後、勝元の子・政元が再興しましたが、1797年(寛政9)再び焼失しました。現在の方丈は西源院の方丈を移築したものです。山門をくぐるとキンモクセイのいい香で迎えてくれました。鏡容池まず山門を入ると鏡容池が広がります。かってはオシドリの姿が多く、おしどり池の愛称もあります。石庭三方を油土塀で囲まれ、白砂を敷きつめたなかに大小15個の石が配されています。石の配置から「虎の子渡しの庭」とも呼ばれ、禅の思想の影響を端的にあらわした名園として有名です。つくばい徳川光圀が寄進したと伝わる有名な銭形つくばいが方丈の北側にあります。中心の口を共用すれば吾、唯、足、知、(ワレタダタルヲシル)となり禅の格言が刻まれています。これは複製です。方丈横の苔庭
October 11, 2005
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先日雨で行けなかった龍安寺にいき、石庭を拝見してきました。、時間をわすれ禅の心を堪能して、ゆったりとした気分になり、お土産は秋の和菓子にしました。仙太郎のきんとん、栗巾着、芋かわ です。きんとんたぶん、ゆずが入っていて好き嫌いが分かれるところです。芋かわは表現が難しいですが、やわらかく、みずみずしい芋羊羹のようです。芋かわと栗の小さな粒がアクセントに入っています。少し甘みが強いですが、美味しく頂けました。栗巾着栗の小さな粒がはいって抹茶にあいそうな味でした。今日は久しぶりに、落ち着いた気分にさせてもらいました。
October 10, 2005
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足利尊氏生誕七百年を記念して特別宝物展が開かれています。尊氏、義詮、義満ら歴代将軍の直筆の所蔵品を展示しています。尊氏が新田義貞との決戦直前に決意をつづった直筆の請文が天竜寺から特別出品されていますが、達筆すぎて分かりません(笑)足利尊氏が夢窓国師を招いて開いた北等持寺がはじまりで、尊氏の死後その墓所となりのちに足利家の菩提寺になりました。霊光殿尊氏の念持仏だった地蔵菩薩と達磨大師、夢窓国師像、尊氏から15代義昭までの歴代将軍と徳川家康の木像が、安置されています。(5代義量、14代義栄を除く)庭園夢窓国師作として伝えられる庭園です。方丈の北庭には苑池、心字池西庭は古い木立で区切られ、背景には衣笠山がのぞめます。茶室清漣亭は村田珠光や相阿弥らと茶道を興した義政好みと言われています。書院から見た池、方丈池と清漣亭尊氏の墓
October 8, 2005
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1221年(承久3)義空上人がこの地に小堂を建て一仏十弟子像を安置したのがおこりです。当初は倶舎、天台、真言の三宗の霊場として壮麗を極めましたが、応仁の乱などで焼失しました。現在残る本堂は鎌倉初期に建てられた京都最古の建物です。堂内には行快作の本尊釈迦如来坐像を安置します。千本釈迦堂を建てる時、大工の棟梁が誤って柱を短く切り、困り果てているとき、妻のおかめが「短い一本に合せれば」と助言をしました。その後、夫の失敗を人に知られまいと、本堂の完成を待たずに自殺してしまいました。人々は憐れみ、おかめの供養塔を本堂の前に立てました。北野経王堂山名氏清が足利義満に兵を上げた明徳の乱で倒れた敵味方の兵士が供養され、江戸時代になって解体された遺溝の木材で復元されました。毎年2月にはおかめ福節分会、7月には陶器供養、8月には六道参り、12月には大根焚きなどの行事が行われます。
October 7, 2005
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上京区上立売通智恵光院西入にあります。北向山と号する古義真言宗の寺院です。小さなお寺ですが、境内をお堂がかこみ、木々が生い茂り、独特な雰囲気をかもしだしています。嵯峨天皇の病を弘法大師が祈頑で退散させたことから、弘法大師が同地をもらい受けて821年(弘仁12)に建立したと伝わります。弘法大師が大聖歓喜天像を安置した大聖歓喜寺が始まりです。境内は千本五辻まであったとされています。「時雨の松」と呼ばれる赤松があります。久邇宮親王が参詣のおりに、わか雨を樹の下で凌がれたといわれています。境内では御室の桜と同種の八重桜の「歓喜桜」や珍しい黄緑色の花をつける「御衣光」という品種の桜があります。桜の季節にはまた来てみたいお寺です。「染殿井」糸がよく染まるといわれ、明治時代まで染め物業者が水を汲みに来ていたという井戸です。
October 5, 2005
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光悦寺の近くにあります。本阿弥光悦が寄進した土地に子光瑳の発願により、1627年(寛永4)日乾上人が壇林(学問所)として創建された日蓮宗のお寺です。二代目吉野太夫のゆかりのお寺でもあります。吉野太夫は7歳から六条三筋町の林家に入り、14歳で太夫となり吉野と称しました。その美貌と教養で天下随一希代の名妓と言われ、和歌、連歌、俳諧、琴、琵琶、、書、茶湯、花、、囲碁、に至るまで諸芸はすべに秀でていました。井原西鶴が「なき跡まで名を残せし太夫、前代未聞の遊女也」と絶賛しました。参道にある朱塗りの山門は吉野太夫の寄進の吉野門です。本堂の裏手には太夫と夫の灰屋紹益の墓があります。太夫を偲んで植えられた吉野桜が満開のころの4月の第三日曜には吉野太夫花供養が催され光悦寺から太夫の墓前まで太夫道中が行われ、境内には野点茶席が設けられます。
October 4, 2005
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北区鷹峯光悦町にあります。本阿弥光悦は江戸時代の文化人、芸術家で、徳川家康から鷹峰の地を拝領しました。法華宗を強く信奉した光悦は草庵のそばに芸術家、工芸職人を呼び芸術村にしました。養子の光瑳、孫の光甫、弟の宗和ら一族をはじめ、茶屋四郎次郎や尾形宗柏、また文化人の筆屋妙喜、紙師宗二など芸術・職人衆と工芸集落を営みました。当初は55軒あったといわれています。草庵は光悦の没後本法寺12世日慈を開山として寺に改め光悦寺とし、1656年(明暦2)には本堂が建立されました。境内には大虚庵、三巴亭、了寂軒など七つの茶室があります。お寺というよりも風雅な山荘の雰囲気があります。大虚庵前の竹を斜めに組んだ光悦垣が有名です。紅葉が色づくころにもう一度きたいと思っています。鷹ヶ峯三山鷹ヶ峰 鷲ヶ峰 天ヶ峰光悦墓
October 3, 2005
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大将軍八神社は北野天満宮の南、一条通りにあります。平安遷都のおり桓武天皇の勅願により方位守護の神として内裏の北西角に造営されたのが初まりで、当初は大将軍堂と言われていましたが、江戸時代初期になって大将軍社と改められ、さらに大将軍八神社となって現在に至っています。大将軍とは陰陽道でいう方位の吉凶を司る八神の一つで、東西南北の四方を三年ごとに移り、その宿る方位を犯すと災いがおこるといわれ、古来より畏れ、また信仰されてきました。平安時代末期から鎌倉時代にかけて奉納されたと思われる百体以上の将軍像(神像)が所蔵されています。現在でも建築、引越し、旅行など方位の災厄から守ってくれる神様として、親しまれています。
October 1, 2005
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熊野神社は東大路丸太町交差点の西北角にあります。伊弉冉尊を主神とし、相殿に伊弉諾尊、天照大神、速玉男尊、事解男尊を祀ります。811年(弘仁2)紀州熊野大神を勧請したのに始まると伝えられています。嘉承年間、増譽僧正は聖護院を建立しこの社を鎮守神としました。後白河法皇が勧請した熊野若王子神社、 新熊野神社とともに京都の熊野三山として、崇敬を集めてきました。応仁の乱により焼けましたが1666年(寛文6)聖護院宮道寛法親王の命により再興されました。 拝殿京都を代表するお菓子の一つ 八ツ橋の発祥の地でもあります。以前の寺域は広大で鴨川までありました。熊野神社より聖護院に行く道に茶店があり茶菓子を出していました。ここで出した菓子が八ツ橋だそうです。
September 29, 2005
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家内が京都駅の伊勢丹に行くと言うので、秋らしい和菓子を頼みました。やはり秋の味覚を代表する栗が中心になっていました。鶴屋吉信栗きんとん 月兎 しののめ菊仙太郎栗ふともち(栗大福)視覚では、しののめ菊で楽しみ、味覚では、意外と仙太郎の栗大福が美味しく頂けました。これに栗羊羹でもあれば良かったのですが(笑)
September 28, 2005
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山門安楽寺の近くにあります。 浄土宗の開祖・法然上人が弟子の住蓮、安楽とともに毎日六度、阿弥陀仏をたたえた経を読む「六時礼讃」をつとめたと伝える旧跡です。建永の法難で荒廃しますが、1680年(延宝8)知恩院第38代門主の萬無上人と弟子の忍澂が念仏道場として再興しました。白砂壇趣のある数奇屋風の茅葺の山門をくぐると、両側には白い盛り砂の白砂壇があり、水を表す砂壇の間を通る事は、心身を清めて浄域に入ることを意味しているそうです。講堂参道自然に恵まれ緑深く静寂に包まれたお寺です。 作家の谷崎潤一郎、日本画家の福田平八郎、経済学者・河上肇などの著名人のお墓があります。
September 27, 2005
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平安神宮の北側にあります。素戔嗚尊 奇稲田姫命 などを祀ります。桓武天皇が794年(延暦13)に平安京遷都のおり、王城守護のため平安京の四方に建立された社の一つで、都の東にあたる事から東天王社と呼ばれていました。江戸時代頃から岡崎神社と呼ばれるようになりました。1178年(治承2)中宮の御産の奉幣を賜ったことから安産の神として信仰されています。境内の末社は雨神社と呼ばれ、雨乞い祈願の信仰が厚いことでも知られています。本殿境内には黒御影石のうさぎ像が立っています。そのうさぎ像に水をかけて願うと子供が授かるといわれています。
September 26, 2005
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伏見区御香宮門前町にあります。神功皇后を主祭神として初めは 御諸神社と称しましたが、香りの良い水「御香水」が湧き出したため、時の清和天皇から「御香宮」の名を賜ったといいます。御香宮神社が安産の社として信仰をもっているのは、神功皇后が新羅から筑紫へ凱旋のとき応神天皇を無事出産したことに由来しています。今も安産子育ての祈願に多くの人が訪れます。応仁の乱で一時荒廃しましたが豊臣秀吉が、朝鮮出兵の戦勝祈願に同神社を訪れ、太刀を奉納し社領三百石を与えました。秀吉の死後は徳川家康らが伏見城の建造物を神社の本殿や表門として移築し、豪壮華麗な桃山文化の名残をとどめている。表門1622年(元和8)徳川頼房が伏見城の大手門を寄進しました。本殿御香水伏見の七名水の一つで徳川頼宣、頼房、義直はこの水を産湯として使われました。昭和六十年環境庁より名水百選に認定されています。拝殿1625年(寛永2)徳川頼宣が寄進しました。本瓦葺の割拝殿。左右に区切られている彫刻の右は鯉の瀧のぼりで龍神伝説の光景を彫刻し、左は琴高仙人が鯉に乗って瀧を昇っています。
September 25, 2005
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伏見の濠川沿いに月桂冠の資料館があります。1638年創業で350年以上の歴史をもつ月桂冠。昔の酒蔵をそのまま記念館にしています。濠川に柳並木と白壁土蔵の酒蔵、とても趣があります。伏見の酒造りの酒造用具類を保存し、日本酒の歴史を紹介しています。展示場の前に酒蔵で使用されている井戸があり、飲むことが出来ます 。今もこんこんと湧き出る「さかみづ」は、清らかに澄んでまろやかなお酒をつくる命の水です。展示物は明治時代に使われていた酒造りの道具や古い酒瓶、ラベルなどの資料が並びます。見学の後のお楽しみは吟醸酒、大吟醸生貯蔵酒、プラムワインの三種類をきき酒をさせてもらえます。少し辛口ですっきりとした味わいの大吟醸生貯蔵酒の玉の泉をお土産に買ってきました。入場料は300円ですが、ワンカップの純米酒がお土産に付きます。
September 23, 2005
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少し遅れましたが梨木神社の萩を撮って来ました。9月18、19日に萩まつり が行われ、萩には俳句の書かれた短冊が下げられています。梨木神社についてはこちらをご覧下さい。参道白萩
September 22, 2005
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伏見区南浜町にあります。京都伏見の寺田屋は大阪との通船「三十位し船」の京側の発着地の一つ南浜に「寺田屋浜」という船付場を持つ大きな船宿でありました。京へ向う船着場であった伏見京橋界隈は維新当時大変な賑わいで、寺田屋も薩摩藩の定宿と指定されており大変な繁盛であったと伝えられています。この寺田屋ではご存知の2つの大きな事件がありました。1862年(文久2)4月23日、寺田屋騒動夜明けを期して討幕の挙兵を決行しようと計画する薩摩藩急進派と他藩志士達が寺田屋に集合しました。これを知った薩摩藩主の島津久光は計画を中止させるために鎮撫使を派遣しましたが義挙を断念させる事ができず、上意討ちの許可が出ていたため、斬合いとなり、その場で有馬新七や6名が死亡、2名の切腹、また1名が自刃して9名が犠牲になりました。1866年(慶応2)1月23日坂本籠馬は薩摩藩の紹介で寺田屋を定宿にしていました。宿泊していた龍馬と長州藩士らを捕らえようと、多くの伏見奉行配下の捕方が寺田屋を急襲しました。湯に入っていた籠馬の愛人お龍が捕方に気付き、裸のまま駆け上って龍馬に知らせ、龍馬は所持したピストルで応戦し、手傷を負いながらも屋根を伝わり、飛び降りて裏の家の中を通り抜けて逃れたといいます。屋内には龍馬の部屋もそのまま残っており、柱の刀傷も保存されています。2階の梅ノ間以外の5部屋は素泊りですが、宿泊できるそうです。薩摩九烈士碑龍馬愛用の梅ノ間お龍が裸のまま駆け上った階段刀傷
September 21, 2005
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伏見区下油掛町にあります。油懸地蔵尊が祀られる油懸山地蔵院西岸寺といいます。油懸地蔵尊は石仏で、高さ1.7m花崗岩の表面に、像高1.2mの地蔵立像を厚肉彫りしたもので右手に錫杖、左手に宝珠をさげる地蔵です。昔より油を注いで祈願したため、つもりつもって、2cmの油の層が出来たそうです。その昔、山崎の油商人がこの地蔵専の門前で転び、油桶を落として油を流してしまいました。大切な油を失って落胆しましたが、残った油を地蔵尊にかけ供養して行商したところ、商運大いに栄え、大金持ちになったといいいます。以来、油をかけて祈願すれば願望成就すると庶民の信仰を集め、油懸地蔵専と称するようになりました。建物は鳥羽伏見の戦いで焼失しましたが、1978年(昭和53)地蔵堂は再建されました。境内には芭蕉塚があります。自然石の碑文に我衣にふしみの桃の雫せよと刻まれています。1685年(貞享2)三月上旬、三世住職任ロ上人の高徳をしたってたずねた芭焦が、出合の喜びを当時、伏見の名物であった桃にことよせて詠じたものです。
September 20, 2005
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伏見区鷹匠町にあります。市の天然記念物に指定されている樹齢千年を超えるクロガネモチが境内を覆っています。社伝によりますと750年(天平勝宝2)孝謙天皇が流れ星の出現に憂慮していたとき、伏見の久米の里に翁がいて、白菊を植えているという奇妙な話を聞きました。里人が翁に名を開いたところ「われは太玉命」と名乗り、「干天で稲が枯れたなら白菊の露を注がん」といいながら白菊をうち振ると、たちまち清水が湧き出ました。それが白菊井です。この話に孝謙天皇は喜び、さっそく里人に社殿を造営するよう命じたといいます。金札宮という名は、清和天皇が金札に白菊明神の名を書き奉納したことからつけられました。昔は御香宮神社に匹敵する規模の社だったそうです。
September 19, 2005
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