一日ひとつありがとう

一日ひとつありがとう

太宰治

『津軽』  太宰治


或る年の春、私は生まれてはじめて本州北端、津軽半島を凡そ三週間ほどかかって一周したのであるが、それは、私の三十幾年の生涯に於いて、かなり重要な事件であった。私は津軽に生まれ、そうして二十年間、津軽に於いて育ちながら、金木、五所川原、青森、弘前、浅虫、大鰐、それだけの町を見ただけで、その他の町村に就いては少しも知ることが無かったのである。

金木は、私の生まれた町である。津軽平野のほぼ中央に位し、人口五、六千の、これという特徴もないが、どうやら都会ふうにちょっと気取った町である。善く言えば、水のように淡白であり、悪く言えば、底の浅い見栄坊の町という事になっているようである。

『ふるさと』  まね芋


或る年の冬、私は結婚後はじめて、九州北端のふるさとに住んだ。
かつて十八年間も住んだその町の遊んだ神社、ついた寺の鐘、あぜ道。何もかもがおんなじで、なにもかもが違って見えた。
主人とうまくいかず
子供と共に帰ったのである。「信じなさい」と言い続けた年老いた父が今回ばかりは「帰っておいで」と許してくれた。空港で出迎えた父は疲れきった表情に笑顔を浮かべ、「よくきたね」とまるで里帰りでもしたかのように、三人を迎えてくれた。着けば兄姉勢ぞろいで、「励ます会」を催すと大宴会の準備を整え、すっかり痩せた私にたっぷりの「トンちゃん」と差し出した。それから2年と半年。世の中に出て働くことの大変さを思い出した私。
「おとうさん」と泣く下の子をなんとも切なく見守った父母。

一度は離縁しようと看護婦になるための勉強を始めた私。
子供ら二人を育てていくには立派な資格が欲しいと思った。あんなに憎いと思えた主人に会いたいと思う自分を打ち消すかのごと、仕事と農業、勉強に打ち込んだ。十八で家を出たときには思わなかった父母の小ささ。
大きさ。手伝いなんてまっぴら御免と逃げ回った農作業の大変さ。楽しさ。
子供たちにとって、私のとっての主人の重み。

主人は足を運ぶ。
父母は笑顔で迎え、また「トンちゃん」でもてなす。子供らはしがみつく。
送り出す駅。「わたしもがんばるからおとうさんもがんばってね」と手を握る娘。「じゃあね」となみだをこらえる息子。
わたしたち夫婦が犯した罪の大きさ。頭を丸めた主人が「もういちどについてきて欲しい」と話したあの日。年老いた親たちに、
すっかりなじんだ孫を手放す悲しさ、嬉しさ。そんな思いをさせたわたしたち。

十九で反対を押し切り、一緒になった。ままごとはしょせん、ままごとだった。たくさんのなみだを流し、たくさんの涙を見、わたしはついていくと返事をした。
息子は遅くまで勉強するわたしに、夜中おしっこに行くときに言った。
「ぼくはどんなとこでも、なにもなくても家族いっしょがいい」
愕然となり、オイオイと流れ出る涙が私を強くした。
看護学校の受験票はやぶいた。
母として、妻として。

みんな来た。
私たちの出発の日。どこまでも追いかけてくる息子の悪友。
もじもじと隠れて泣いている姪っ子。

春の日、私たちは旅立った。
どこまでも果てしなく続く高速道路に乗って。
九州道、中国道、琵琶湖で一夜を明かし、日本海に出た。
山形により、四人の出発点青森まで走った。
振り切るように。
噛み締めながら。
この二年と半年を。
たくさんのなみだと、愛をかみしめながら。

「あなたならきっとだいじょうぶ」姉は言う。
「今度はきっとしあわせだよ」と長姉が言う。
「じゃあな」と兄が言う。

父が「ばんざい」と声をかける。

みんなが万歳している。
子供の自転車が走ってくる。

すべてを振り切って。

すべてを糧にして。

今ここに、家族四人平凡な家庭がある。

九州からのナスが届く。トマトがぎっしり詰まってつぶれている。

父と母の背中を思う。


私はあなたたちの子供に生まれて

ほんとうに

ほんとうに

しあわせです

うんでくれてありがとう




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