ウラン鉱業が、一億の資本金で京都に本社を構え、ウランが国定鉱物に指定され、ウランの探査開発を国が義務化した時、すでに金・ウランの名目での鉱区権をめぼしいところには請願していた。
3大陸横断飛行、関東大震災の時、ロス上空をHELP JAPANの幕を掲げ飛び、800弗を日本へ届けた人物、第一次大戦では米軍航空隊で従軍、太平洋戦で敗戦日本でただ一人軍人恩給を米国からうけていたという傑物、東善作という男のなせる業だった。
昭和31年10月21日、小鴨鉱山でのウラン鉱山開所式には、科学技術長官正力松太郎氏のテープカットに東善作氏も同道していました。
ボーリング会社に就職先が決まってた時、教授から呼び出しがありました。
「君、これからウランの時代だぞ。ウランの会社にいかないか。ボーリングの方は、他の者に代えるが」
「行きます。」
間髪を入れず、返事してしまいました。
それがどこだか、どんな会社かも知りませんでした。ウランの言葉が新鮮で。
ウラン鉱業こそ、東善作氏の会社でしたが、その時、教授もなにも教えないし私も知りませんでした。
京都本社では、鳥取の現場に行きたくてたまらないのに、なんの仕事らしい仕事もなく、奥の役員室には、株主さんらしい人人が来ていました。接触は、一つもなく、ただ現場行きだけの気持ち高揚でした。
教授は、大阪の地質調所にいたころ、東さんが「関金」の消印で小鴨鉱山を探させた頃の関係がありました。山形の小国の地質を聞きに東さんが来て、就職を約束させたもののようでした。小国にウラン鉱業の鉱区請願地がありました。
二人の関係も、東さんの経歴も知ることなく1か月の京都本社から、松崎の方面鉱山にやってきました。東さんが専務さんだ位しか記憶がなく過ぎ去りました。

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