ラッキィセブンティライフ

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なぜ里見忠義は房総を追われたのか


 安房の里見氏は、清和源氏新田義貞の子義俊が、上野国碓井郡里見郷の所領から名字をとったのがはじまり。その後義実が室町足利幕府と結城氏ら関東諸豪族との戦い結城合戦に参戦、敗走し安房の豪族・安藤景春に身をよせたのが、房総里見のはじまりといわれています。

 文安2年(1445)義実が神余氏、丸氏を手勢に引き入れ、安西、東条を下し、安房四郡の平定をなし、房総の里見の基礎をつくりました。

 9代義康のとき、天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原城北条征伐で、参戦がおくれ、怒りをかい上総、下総の領地を没収され、義康の支配地は安房一国(九万2千石)となりました。

 江戸配属になった徳川家康は、家臣の諸将を関東各地に配置し見張りの役をさせました。なかでも里見氏を警戒していたようで、徳川四天王の一人本多忠勝を上総大多喜城に入城させています。

 慶長5年(1600)関ヶ原の戦いに義康は東軍参加で功をみとめられ、家康から常陸鹿嶋郡内に3万石加領をうけ、あわせて12万5千石となりました。

 義康31歳の時、慶長8年(1603)他界し、子の10歳の梅鶴丸(忠義)が後を継ぎ、慶長11年(1606)には将軍秀忠の前で元服、一字を賜り忠義としました。

 慶長16年(1611)相模小田原城主、大久保忠隣(ただちか)の孫むすめと縁組し、外様である里見家を徳川譜代重臣である大久保氏とつながりを持ち、徳川家に認められようとしました。

 ところが、権力闘争がどの世界でもあるものです。幕閣で、武断派、文治派があり、武断派大久保忠隣が横領事件のかかわりとして失脚、居城であった小田原城も破却され、里見家も忠隣の孫娘が関係してると連座でほかの大久保派もすべて改易させられました。

 里見忠義は慶長19年(1614)10月10日過ぎて江戸を立ち、駿府に立ち寄り、23日に駿府を立ち、12月に伯耆の国倉吉へやってきました。

 でも一番おおきな要因は、着々と大阪の合戦を控え、房総が江戸の守りに海路の入り口にあり邪魔で、留守の守りが不安であったことです。この年の7月下野国春日丘3万9千石佐野信吉も改易されました。

 慶長19年9月9日重陽のお祝いに里見忠義江戸城出仕日に国替え通達され、江戸に留め置かれ、館山城は上総国佐貫城主内藤政長、大多喜城主本多忠朝等9月18日大挙して国替え荷物運びだしを鹿島へむけて挙行し、そして今度は鹿島から伯耆倉吉に国替えを命じました。

 10月1日には東海道筋大名には大阪出陣命令をだし、11日には家康自身が、駿府から出陣しています。






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