ラッキィセブンティライフ

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倉吉の里見ものがたり



 房総からはるばる山陰伯耆倉吉の地に来られた里見忠義公の事で、慶長19年(1614年)丁度今を去る400年前の事がらです。

 解釈する人の言の葉で、歴史事情はかわります。
 事に、戦記は、敵、味方の命運がかかっており、残った勝者がとりつくらい史記にします。
 史実とされながら、因果は全く別なものである場合もあります。

 あまりにも、滝沢馬琴の里見八犬伝が有名なため、モデルとされたといいながら猟奇的なものが先行して忠義公もこれに埋没してしまっていました。

 倉吉の記録も里見忠義は、下田中に左遷され、のちに山守堀に移され、病にて亡くなり、大岳院に葬られた位で、ほとんどありません。

 今度の公演では、倉吉の地に溶け込み、地元の人の為に尽くす里見主従を描き、異郷の人も温かく包みこむ伯耆の人情を描いてくれました。
 若いロマンスもからめ、心温かくさしていただきました。

 8人の家来が殉死したのに、6人分しかない6人塚の解明も見事にしてあります。
 播州赤穂の時、会津の白虎隊の時も状況説明する人が残っています。
 残った2人も後始末をして、後を追い8人全員が主君を追いました。


 この中でただ一つ気になることがあります。
 小鴨の野武士退治が、演幕にあり、勇壮な若武者里見忠義像がありました。
 そして、すさんだ地に北野天満宮を建設されました。

 このことは、安藤氏が書に、天神野の野党刈りに出陣する忠義を、倉吉の人々が「りりしい若武者だ」と褒め称えたと残していますが、判官びいきで倉吉の人間は里見忠義をいとおしいと思っているのです。

 その演幕で、野党の頭首が捉えられ、「よそ者がなにを!」と毒つき、「以前は武士でここを統治した岡田の云々」と反抗し、挙句、里見の家来に切って捨てられました。

 小鴨城の出城で岡田城が、天神野の側の西倉吉にありました。
 天正10年(1582)の小鴨岩倉城が吉川元治に滅ぼされた時にともにほろびました。

 もしこの時の岡田の城主の子孫の設定ではないと思いますが、混同してはいけないので、別の名前の設定にしてほしいものです。

 名乗らず、子孫と信じて家系を守ってる人々がいます。
 歴史の地には、必ず、黙して語らずの歴史の家があります。
 それを傷つけることになってはいけません。


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