里見忠義公が慶長19年(1614)房総より、伯耆倉吉3万石に就任されてから400年め、南総里見八犬伝が滝沢馬琴によって文化11年(1814)に最初の5冊を出版してから、丁度200年めが今年2014年です。
毎年9月に、里見忠義公の菩提寺大岳院から、忠義公終焉の地、関金堀まで、武者行列をしています。勿論遠路なので、主要部だけの行列で途中は近代兵器バスでの移動です。
範囲が広範のため、終焉の地で関係者が、廟前慰霊祭を行い、しかる後に菩提寺大岳院で法要後、八犬士?が住職より玉を授受して武者行列が出立します。
里見忠義と南総里見八犬伝とは、史実において関係なく、里見の拠点と歴史を題材にした曲亭馬琴の伝奇創作小説で、全106冊が出版しおえたのが天保13年(1842)、実に28年間の長期にわたって人々を魅了しました。
里見家をモデルにしたのではないかといわれることが、菩提寺大岳院墓所に書き記されています。
「元和8年(1622)29歳にして関金町堀の地において逝去され、近臣八人が殉死を遂げた。遺言により当院において葬送し殉死八臣の遺骨をうずめ、御位牌とともにお祭りしている。
この時当院で授けた忠義公の法名を 「雲晴院殿心雙賢涼大居士」といい殉死した八人の法名にもすべて「賢」の字をつけたところから、彼らは「八賢士」とよばれていました。
のちにこれが、滝沢馬琴作南総里見八犬伝のモデルになったのではないかといわれています。」
倉吉での里見忠義公の記録は、ほとんどなく、居住地が、神坂、下田中、堀と知られるだけで関東武者の心意気のみが肌にかんじられるだけです。
そこで、倉吉里見祭の武者行列は、菩提寺大岳院住職から、八玉を授けられる時から、八犬伝にすり替わり、八賢士が八犬士になります。義実公に代わって実在の忠義公のみが登場です。
いわば、里見忠義、八犬伝混交物語行列です。
八犬伝は、
安房の国で、里見義実が、乱世を平定した時、前領主側室、玉梓(たまずさ)を捉え、一時は助けようとしましたが、家来の進言で処刑してしまいました。この玉梓の「武士の言葉に2言なし!」の怨念が発端で物語は進展します。
伏姫は義実の子供で、小さい頃から口が聞けませんでした。
これも玉梓の呪いでした。
役の行者(三徳山の投入堂縁者)が与えた108の珠の数珠で口が聞けるようになりました。
隣国から攻められ、戦況ただならぬ時、大将義実が、「敵将の首を取ったものに伏姫を娶らせる」と宣言。飼い犬の八房が敵将の首を取ってきた事でさあ大変。
伏姫は、武士の2言なしで、犬八房に連れられ富山の洞窟に行きます。これも玉梓の妖術のしわざ。
伏姫の許嫁の金碗大輔(かなまりだいすけ)が姫を取り返しにいき、八房を弓で射殺しました。その矢が、伏姫にもあたります。
姫は八房の気を感じて懐妊していました。
身の潔白を証明するとして、姫は義実と大輔の前で自害してしまいます。
この時、役の行者から授かった護身の数珠がバラバラに飛び散り、中の仁、義、礼、智、忠、信、考、悌の八つの玉が八方へ飛び散ります。
後にこの霊玉を持った因縁の八犬士が、集まり里見家の復興にあたるという物語が南総里見八犬伝です。
それぞれの八犬士の生い立ち因縁を絡み、霊玉の行方をを探して金碗大輔が出家して丶大(ちゅうだい)法師と名のり旅します。
20数年ぶりに八犬士を伴った丶大法師は里見義実の元へ帰ってきます。
そして八犬士は里見家の危難を救うお話です。
犬ずくしの話で、伏姫は、人と犬がよりそっている伏。丶大法師は、大に丶で犬。
八犬伝の主題が、勧善懲悪・因果応報にありますので、今の時代に忘れた日本人の心に問いかけるセレモニイとしてもおおいに意義がありましょう。
忠義公も苦笑して武者行列を参観してることでしょう。
今年は平井知事が里見忠義公、奥さんが伏姫、石田市長が堀江能登守(実在歴)が行列に参加されます。