幕府は大名の離反を防ぐため大名の配置に意を用いて、大名領と大名領との間には幕府の直轄地である天領が置かれ、郡代・代官を派遣して支配すると共に、大名領を監視しました。
幕府は大坂の戦い直後の元和元年(1615)諸大名に居城以外の城郭を破壊させる元和一国一城令を定め、続いて崇伝が起草され、13条からなる武家諸法度を制定しました。
それは大名が守るべき基本法で、犯した者は厳しく処罰され、たとえば関ヶ原の戦いの後、広島城主であった福島政則、小田原城主大久保忠隣、我が郷土を 守った館山城主里見忠義らが幕府に無断で城を修理し、武士を召しかかえ、或いは、 嫁ぎ先の事まで支配したとして厳しく取締まり改易されています。
大久保忠隣は佐渡の金山奉行大久保長安と親しくして、共に幕府の要職にありましたが、慶長18(1613)年4月、長安死亡後疑獄が起こり、一家は厳刑 に処せられ、忠隣も共に疑惑をうけ、その上両御所の詐可を受けずして養女を嫁がせたことを口実に慶長19年正月19日改易、小田原の領土は没収され、忠隣 は、彦根藩に預けられました。
忠義も忠隣と共に城郭を修築し、浪人たちを召し抱え、家臣の数が多すぎるとの理由で慶長19年9月9日改易、安房国を没収され、鹿島3万石の代地として 伯耆国を賜り倉吉に移されました。事実は配流と同じで、僅かに4000石の扶持であったといいます。忠義は正木時茂、堀江能登守、印藤采女等の重臣十余 人を随えて、倉吉に行って神坂に住みました。
こうして館山城は破却され、里見10代170年の業は滅亡したのです。その後忠義は倉吉も取上げられ、100 人扶持となりました。