(池田光政略年譜より)
慶長18年(1613)池田輝政死去。利隆姫路城主となる。
慶長19年(1614)9月館山藩主里見忠義が倉吉へ国替えとなる。
10月大阪冬の陣
12月里見忠義が倉吉に入る。12月大阪冬の陣和議成立。
元和元年(1615)4月大阪夏の陣。5月8日大阪城落城。茶々・秀頼自害。
利隆の室鶴姫・二男恒元が人質として江戸に下る。(4月)
元和2年(1616)2月里見忠義が北条八幡宮の社殿を修復・
6月13日池田利隆死去。6月14日光政へ遺領相違なく下すの命伝えらる。
秀忠の娘千姫(元秀頼妻)、本多忠刻と再婚(9月)
元和3年(1617)光政因幡・伯耆32万石への国替え命じらる。(3月6日)
家臣播磨から因幡・伯耆に入る。(8月14日)
元和4年(1618)光政、江戸出発(2月20日)
加古川渡頭で池田出羽守が家臣神戸平兵衛に刺殺さる。(3月11日)
光政鳥取に初入国し御礼使として、土倉市正が江戸に赴く(3月14日)
元和8年(1622)里見忠義、伯耆 久米郡堀村で死去。(6月)
幕府、里見家の臣正木大膳を光政に預ける旨を命じる。(7月)
11月26日正木大膳、妻子共に鳥取に来る。
正木大膳は、忠義の父義康の弟で正木家に養子となり、倉吉には、同道してきたが、家康に召され駿府で蟄居していて忠義が死んだ時には倉吉にはいなかった。家康死後、江戸に呼び寄せられ蟄居させられてたが、忠義が死んでから、大膳に池田光政の臣になれといわれ、それを「子孫陪臣に成ん事を悲しみ御免を乞い」と断ると上意に背く咎により池田光政に預けの身にされた。家臣の上野仲国が酒井忠世か土井利勝かによってなされたと記している。
11月26日 正木大膳、妻子共に鳥取に至る。(池田光政略年記)
正木大膳は寛永7年(1630)6月20日因幡で病死。(里見家改易始末記より)
堀で忠義が死に、家臣が殉死し忠義に跡継なしとして里見家は断絶、終了したと思っていたら、正木大膳の鳥取池田預かりについてはまだあとがありそうだ。
寛永9年(1632)の池田岡山と池田鳥取の国替えがあり、正木大膳の家臣の上野仲国は安房へ許されてかえり、高梨半兵衛は岡山に行き池田家の家臣になった。


