ラッキィセブンティライフ

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伊木長門守忠貞公の最後


寛文12年閏6月28日卒
 伊木氏第3代忠貞の墓である。
邑久郡虫明 円通山にある。


 土地の人が、この山をセンリキサンと呼ぶのは忠貞が千人力であったからだという。

 慶長17年(1612)に姫路で忠貞は生まれた。幼名は三十郎であった。彼の五歳の時、父の長門守忠繁が卒したので、家督をついで、三木の城主となり、長門守と称した。元和2年(1616)のことである。
 翌年、池田家とともに因幡に移り、倉吉の城主となった。寛永9年将軍秀忠が卒し、「生まれながらの将軍」である徳川家光とその幕閣は、外様大名に大弾圧を加え始める。

 その年の6月、加藤忠弘は領地を没収され、池田光仲が因幡と伯耆の国主となり、池田光政は備前に、いわゆる、岡山・鳥取の御国替えである。
 忠貞も、光政に従って、岡山に移った。彼の21歳の時であった。
 寛永16年に忠貞は采邑を邑久郡に賜り、虫明に家臣をおくことになった。伊木氏と虫明の関係はこの寛永16年(1639)に始まるのである。以来慶応4年の藩籍奉還にいたる230年のあいだ、虫明は伊木氏の知行所の中心となるのである。
 寛永12年(1672)61歳で忠貞は卒した。

 忠貞は、武蔵川崎の宿で客死した。病死ではない。将軍家の毒殺によるものであった。
 忠貞が江戸に赴く時、箱根の関所は閉鎖されていて、西国大名の家臣の通行が禁止されていた。
 忠貞は、番所に向かって、自分は藩主を警護するために江戸に赴くもので、将軍家に二心を持つものでない。疑いの節があるなら、帰りまで、自分の腕を預かっておいて頂きたい、と言って腕をつかんでさしだした。
 番人は、恐怖のあまり、一言もなく忠貞の通行を承諾したという。
 千人力とよばれている忠貞の、すざましい形相が想像されるではないか。

 ところが、関止めにあって箱根にひしめいていた他国の侍たちが、その機に乗じて、伊木長門の家中の者といつわって、関を通りはじめた。しかも、昼となく夜となく、関所の掟を無視して通行するものが絶えなかったのである。

 忠貞は、江戸へ下って、将軍の拝謁も無事にすみ、池田家での任務も何事もなくはたして、帰国の途についた。
 そして、川崎の宿についたとき、将軍家から、お茶振舞いのお召しがあったのである。何のおとがめもなく、無事に江戸で任務をはたしたものが、帰国の途中で、お茶振舞いとはおかしいお達しであった。

 お茶振舞いとは、毒殺されることだと、忠貞にはわかっていた。だが、拝辞することはできない。忠貞は、江戸へひきかえした。
 家来の者達は、川崎の宿で、酒風呂をたてて、主君の帰りを待った。
 酒風呂に入れば、毒を消せるかも知れないとの、はかない望みであった。

 忠貞が骸となって川崎の宿にはこばれたのか、又は、生きのあるうちに川崎へ帰りつき、ここで死去したかは知るよしもないが、酒風呂が役にたたなかったことだけは事実である。
 「川崎駅において客死す」と誌されているが、こうした状況で、忠貞は死んだのである。そして、遺骸は、川崎に葬った。

 円通山の、此の忠貞の墓は、おそらく、川崎から遺骨を改葬したものであろう。

 さっそうと箱根の関を越えて江戸へ向かった忠貞であった。それが、何年もののちに、遺骨となって箱根の関を西に帰ってゆくとき、それに従った忠貞の家臣たちの胸は、にえたぎっていたであろう。
 その列をあらためる、関所役人の胸中もまた、複雑であったに違いはない。

 丘陵の頂で、臥龍のような松を従え、南面して立つ忠貞の墓は、今は、何も語ろうとはしない。
 海上はるかな南方に、観世音の浄土である普陀落山があるという。

呪いや毒薬によって、その身をそこなわれんとする人が観音の力を念ずるときは、かえって、それをしかけた者にかえるという普門品の語は、忠貞の場合、おろそかでない。

 毒殺された忠貞の墓が観音の浄土にむけて建てられたのは、偶然なのであろうか。墓の上にあけられた長方形の孔は、譜陀落山に捧げられた祈りの灯明をかかげるものではなかろうか。
 遥か海彼の譜陀落山に想いを馳せずとも、その墓の南にみえる小豆島と更にかなたの四国に、それぞれ八十八カ所の観世音の霊場があるではないか。

「虫明散歩道 伊木忠貞の逸話」より

*本文に寛永16年に虫明に来たとあるは、寛永9年のことで、岡山に国替えとなり、伊木忠貞は虫明に陣屋を設け、陣屋が整ってのが寛永16年のようである。


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