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伯耆民談記 刀鍛冶の事 安綱


安綱
大原五郎大夫と号す、河村郡大原村に鍛冶屋とて今にあり、此所に居住せしとなり、平城天皇の御宇の鍛冶にて、源家累代の宝剣、鬼切丸の作者なりと言う。
安綱一心清浄の真を以て鍛え、時の将軍坂上田村丸に奉る。田村丸伊勢の鈴鹿山にて、鈴鹿の御前と剣を合わせし太刀なり。
其後田村丸、伊勢太神宮に参籠ありし時、瑞夢に感じて此剣を奉納あり。
 然るに、摂津守頼光、勅を受けて丹州大江山の賊徒を退治の為出発の時、神の御告げを蒙り、彼の剣を下し給わる。
それより酒呑童子(しゅてんどうじ)を斬り、又和州宇田の郡にて、悪鬼を退治あり、是より鬼切丸と名付け、代々源家相伝えの宝剣となれり。
新田左中将義貞越前の足羽に於いて、戦死の時、此太刀を帯せられしが、将軍尊氏へ伝わり、累代相伝う。
太平記には、会見郡の大原の加治工なりと述べあれど、会見郡に大原の地名なければ、河村郡の誤りなり。

真守
安綱が子にして、又大原に住せり、父に劣らぬ名工にして、平家重代の宝刀、抜丸木枯と言う太刀の作者なりと、真守子孫当国に住し、或いは他郡にも散在し、国家と言うは久米郡小鴨の郷に居住し、名工の聞こえ高し。其の余り名工数多くあれど今之を略す。

正綱
 天正年中の鍛冶工なり、久米郡弓削村に住し、新三郎と称す。
後には受領して播磨大縁藤原正綱と言う。
後には、倉吉に住せしが、又米子にも移る。
子孫今に播磨鍛冶というなり。
此の人尼子の臣、山中鹿之助の刀を打ちしこともありと言う。


廣吉
 天正年中倉吉に住し、三田五郎右衛門という。
其の子三人家業を続く、今は太刀を打たず、包丁、帯刀、其他農具の類を製す。
道祖尾七郎右衛門廣賀と号し、八橋郡津原の郷に住し、子孫今に至る。
是も今は刀工にあらず、農具類を鍛つなり。
広賀は正綱同時の鍛冶工にて皆相州伝なり。


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